わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

絶望に対するプリキュアという処方

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いやぁ、めっちゃ良かった・・・

街並みもすっかり冬支度を始め、道行く人もつられるように徐々に装いを厚くするそんな晩秋。プリキュアシリーズ15周年記念の秋映画『HUGっと!プリキュアふたりはプリキュア オールスターメモリーズ』を見に行くことが出来た。

 

僕自身、一応ある程度の過去シリーズには目を通したプリキュアファンのつもりだ。だが所詮は女児向け映画。ストーリーはそこそこ、過去シリーズ勢に思い出補正でもかけながら楽しめればいいなと思っていた。そう、思っていた。

 

そして上映終わり、金曜夜の新宿バルト9から新宿の街へ出る。少し冷たい夜風のせいなのか、涙が止まらない。僕はずぶ濡れの眼鏡をはずし、ぼやけた視界で頭上にそびえる摩天楼を仰ぐ。虚空に向かい「プリキュア・・・やっぱ尊いやん・・・」とだけ呟き、無駄にファンシーなパンフレットを小脇に抱えながら、こんな文章を考えていた。

 

・75分に詰めこまれた15年

プリキュアの映画は年2回ある。秋口は現行放送中シリーズがメインに扱われ、そして改変期の春口は過去作からのプリキュアが一挙登場するようなオールスターモノが例年の流れだ。今年は15周年記念という事で、秋口映画にも関わらず、異例の初代と現行プリキュアのコラボ、そして更に先輩プリキュア達も物語に追加、という豪華な仕様となった。

 

ファンからは「現行作だけの映画も見たかった」という声も上がるなど、賛否あったのは確かだ。しかしながら、鑑賞した後だから言う。15周年、本気だわこれ。

 

早速、本筋のネタバレになってしまうが、今回のボス敵は宮野真守演じるフィルムカメラの霊「ミデン」だ。彼は、フィルムカメラとして生まれたものの、一度もフィルムを入れられる事もなく怨霊化した存在で、その自分の役割の空虚を埋めるためプリキュア達の記憶を奪おうとする。物語序盤、すでに初代とHUG勢以外のプリキュアは記憶を奪われている。

 

更に記憶を奪ったことで技も使えるというカービィ的設定のミデン。端的に言えば歴代プリキュア技を絶叫するマモに対し、為すすべなくピンチを迎える初代+HUG勢。そこまでも見所沢山なのだけど、やはり劇場版プリキュアと言えば「ミラクルライト応援」であろう。プリキュアが作中最大のピンチになると、大抵、妖精キャラが観客に呼びかけ、小さなお友達限定に配られるミラクルライトを振ってプリキュアを応援しよう!という演出だ。いわゆる一つの「がんばえ、ぷいきゅあー!」である。

 

往々にして過去、劇場でこのシーンを見ると「あぁ、おっさんですみません」「非ミラクルライト勢」「子供欲しい」とかなんとも痛々しい気持ちになっていた。今回も案の定ハリーが「みんな!プリキュアを応援してや!」と言う。はいはい、と思って聞いていたら、なんだか演出が違う。

 

「誰でもいい、自分が好きな、今までTVの前で応援していたプリキュアを思い出して、応援するんや!」と。そして、過去の15年に及ぶ放映映像のキャプチャーを使いながら流しだしたのだ。え、ちょっと待って。ごめん、あぁ、これ俺、完全に泣いてる。まさかのミラクルライト演出によって泣いた。しかも、本当にツラかった時期、キュアトゥインクルを本気で応援し、そして生きる希望を貰った事を思い出してしまった。

 

プリキュアと社会人生活

多少映画から離れる。僕がプリキュアシリーズをちゃんとマメに捕捉しだしたのは、社会人になった7年前である。はっきり言えば後発組だ。当時シリーズは『スイート』から『スマイル』への移行時期で、社会人になったことで、比較的生活習慣も定まり、日曜の朝も早い時間に目が覚めるようになった。すると、自然にプリキュアを欠かさず視聴するルーチンが出来上がったという具合である。

 

最初は「プリキュアなんて見てる俺どうなの」と思っているうちに『スマイル』で不意を突かれ『ドキプリ』にドキドキし『ハピチャ』で神に憤り・・・そうこうしていたら、TSUTAYAで過去作も捕捉。伝説の無印8話から、絶望ドリームや、せつなやいつきに恋しかけたり、ラバースーツ小学生に興奮したりと。まぁ、4字で言えば「ハマった」のである。

 

そんな中でも、どうしても忘れられない作品が『GO!プリンセスプリキュア』である。『マリみて』的雰囲気を讃えていた本作は、女性として凛として生きる事を軸にしながら、他作以上に自分の夢との対峙に重点を置いていた印象が強い。

 

先に挙げたキュアトゥインクルこと天ノ川きららは中学生ながらモデルの仕事もこなす「兼業プリキュア」の一人で、天真爛漫な彼女はすでにその地位を確立していた。しかしながら、仕事とプリキュアを並行して行う中で折り合いがつかなくなり、徐々に双方が中途半端になっている自分の気持ちに気づく。終盤には2話をかけ、プリキュアとして周囲を救うことと、自分の夢である仕事を天秤にかけ葛藤をする。

 

そんなストーリーを追いかけつつ。僕自身、当時営業職として嫌々ながらも関東を駆けずり回り、残業代のなさに嫌気が差し仕事の合間に転職活動を始めるもうまくいかず。更にはその影響からまた自分本来のやりたいはずの同人活動も思うようにならない。完全に空回り、疲弊しきっていた時期だった。寝ても疲れが取れない日曜朝。何も選び取りたくなくなっていた僕は多分、すがる先が欲しかっただけかもしれない。天ノ川きららはどうするのだろう。心の中でぼんやりと応援しながら、彼女の選択を眺めていた。

 

そして、忘れもしない43話。一度、夢を諦めプリキュアに専念した彼女を、はるかたちがファッションショーを企画、仲間たちの助けもあり、再度夢を持つことを決意。そしていよいよ強大化してきた敵を目の前に彼女が放った一言「なんでもいいよ。絶対負けないから」僕は、その彼女の圧倒的な信念の強さに、自分の弱さを見透かされたようでボロボロ泣いた。

 

このセリフは未だに僕を支えている。簡素な一言だけれども、一分の隙もない覚悟がそこにはあった。なんでもいいのだ。負けなければ。確かに、具体的な指南ではない。ただ、それだけあれば十分戦える言葉だと思う。夢とか、将来に対するニヒリズムを抱えながら。最後は負けなければいい。その教訓を女児アニメから得て、そして今回映画で思い出してしまった。

 

・「無敵の人」さえ救おうとするプリキュアという「記憶」

 冒頭でも書いたが、この劇場版の敵、ミデンは「何も記録されることのなかったカメラ」といういわゆる「虚無が意思を持って暴走した」という設定だ。これは昨今話題の「無敵の人」を想起させる。家族や友人、仕事など社会的に守るものもがなければ、犯罪すら容易に犯せてしまう。そうした「記憶のないカメラ」という無価値的なモチーフを使い、現代社会におけるひとつの「絶望」として、ミデンを描いているように思えた。

 

ではその「絶望」に対する処方箋はいかなるものか。本作のラストではミデンを倒すのではなく、キュアエールが最後にミデンと邂逅し、その虚無から生じる苦痛を取り除く描写がある。誰かから奪った記憶でなく、自分自身が作っていく記憶によって幸せを掴んでいこうと説得。一緒にプリキュアたちと思い出を新たに作っていく。そんな提示がなされている。

 

しかし、大きな目線に立てば、本作、いやプリキュアシリーズはこれまでに溜まった15年という「記憶」を使って、この「絶望」への処方箋としているように思えた。僕自身が上記の通り『Go!プリ』に救われたように。この累積したプリキュアのシリーズは、既に「虚無」に対抗できるだけの「記憶」を、「思い出」を、そして「希望」を紡いでいる。

 

物語が世の中に対して希望を提示し続けるには、累積したものをキッチリと歴史にする他ない。今回のようにある種記念作品ということでオールスター扱いにし、15周年にわたる歴史をアーカイブとして示すことは、一面的に見れば単なる古参ファンへのサービスとも捉えられるだろう。

 

ただ、現行シリーズの『HUGっと!プリキュア』を見ていればわかる通り、ジェンダー論に始まり、育児疲れ、労働問題など、かなり社会派ともいえるテーマ性に踏み込んでいるのは確かだ。今回の敵をミデンに設定したことは「無敵の人」に対して、このプリキュアという世界観が答えを出そうとしている、いわば使命感のようなものを感じてしまった。そしてこれまで15年という期間にわたり、プリキュア達が乗り越えてきた葛藤は、誰かの虚無を打ち壊すだけの力がある。この映画そのものが、そんな宣言のようにも思えた。

 

 

 

ということで、いやぁ。こんだけ女児アニメ語ってますが、来週三十路なんですけどね。正直、過去作補正はあれど今年一番良かった映画にしてしまいそうで怖い。細かいセリフ使いでも全然涙腺に来ますので、ぜひ、プリキュアファンは見に行くべき映画だと思いました。いやほんと。見てよかった。

 

台北を女装して歩いて感じたこと~初めての台湾旅行記~

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案内してくれたウェンさんと僕

更新が1か月空いてしまった。いや、ちゃんと書こうと思っていたことはあるのだけれども。その中でも台湾旅行については書こうと思っていて。アジア最大級と謳われるLGBTのイベント「台湾同士遊行(台湾レインボーフェスティバル)」をぜひ一度生で見てみたく。そんなちょっと普通とは違った目的のもと、20代のうちに台湾へ旅立ってきました。

 

台北行ってきました

10/26~10/28の2泊3日。短い期間ではあったが、実は自身初めての海外旅行だったりした。台湾に行く、と知人らに伝えると「台湾なんて近いから国内旅行と一緒だよ」と多くの人から言われ、それらに対しては「あぁ、らしいね」「あぁ、みたいだね」とかちょっと知った感じで応じていた。だが、流石に海外である。英語で言うならアブロードだ。舐めていいはずがない。

 

イミグレなんかで「お前なんでこの国に来たんだ」とか英語で詰められてどもったり、変なものもっていけば税関で止められたりして警察犬に脅されたり、あのトムハンクスなんか空港に幽閉されて大変な目にあっていたのを映画で見たことがある。

 

知人とは現地台北で待ち合わせだったので、なんと飛行機から宿の予約まですべて一人でこなす。そこは流石の三十路である。LCCはバニラエアを選択したら、漢字で書くと「香草空港」と知る。なんだか昨今話題のカナダに行きそうな感も否めないが、そこは金を払ったので台湾行きを信頼することに。そして心配していたイミグレは、Webで事前に入力が可能。実際、何もしゃべることなく指紋採取だけで通されてしまった。超便利である。

https://oa1.immigration.gov.tw/nia_acard/acardAddAction.action

台湾オンライン入国カード

 

しかしまだまだ試練は続く。両替だ。ウェブでどうやら現地空港のカードキャッシングのレートが一番いいという記事を読み「それなら僕も」と意気揚々とATMへ。中文から英語へ切り替え、解説通りに画面を操作し、最後のキャッシング画面を華麗にプッシュ・・・するとどうだろう。レシートだけで現金出てこない・・・え、なに書いてあんの?あ、後ろめっちゃ並んでるからとりあえず退けよう・・・恥はかきたくない的日本人気質が仇となり、呆然とする僕。とりあえず落ち着くことを最優先させる。これは・・・やられた・・・?

 

少しずつ自分を落ち着かせると、そもそもカードキャッシングを可能にする手続きをしていないことに気づく。つまり、日本国内でもキャッシングできる状態にはない。なぜそんな状況で突如海外でキャッシングなどしようと思ったのか。海外旅行の恐ろしさを実感する。仕方なく現金をいそいそと窓口にもっていく。動揺そのまま「ジャパニーズ¥、to タイワンドル OK?」と、レベルの低いコミュニケーションを投げかけると「あぁ、日本円ね」と返され、心がさらに折れる。

 

桃園空港から何とか高速鉄道MRTの乗り換えにも成功し台北駅へ。チェックインしたホテルでは英語しか通じなかったのでとりあえず「アーハン」を連発しているうちに、鍵が貰えた。この時点でメンタルヘルスに対するダメージは無視できるものではなかったが、人間何とかなるものである。

 

・台湾レインボーフェスティバルの凄み

到着したら、先に到着していた秋葉原の飲み屋A-buttonのマスター、しんいちさん夫妻と案内をしてくださったウェンさんと合流。西門(渋谷みたいなとこ)でご飯を頂いた。海鮮居酒屋のようなところで、出るもの出るもの全て旨い・・・中華でもない、南国テイストな味の付け方はやはり日本人には合うように思えた。

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なんかわからんが、だいたい旨いというのが凄い。

そして、お腹も膨れ、酔った足取りの一行をウェンさんはそのままゲイカルチャーで有名な広場・西門紅楼に連れて行ってくれた。なんていうか、圧巻の一言。もう圧倒的オスみ。広場一面見渡す限りがほとんどマイノリティ。いや、そもそもマイノリティ?マジョリティ?・・・そんな多数とか少数とかそんな定義すら意味がないようにも思えてしまう。

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マイノリティって言葉が本当に無意味に感じる瞬間が凄い。

 そもそも台湾の同性愛事情は、他国と比較しても進んでいる。台湾ではすでに2003年には同性愛に関する法制度の試みがなされるなど、その活動も積極的であり、法整備も目前とされる。詳しくはこの記事参照ということで。

https://www.taipeirainbowfestival.com/jp-abouttprf

 

翌日27日土曜日が本番の台湾同士遊行(レインボーフェスティバル)こともあり、街中が一種異様な盛り上がりを見せていた。そんな自由な気風なら、僕だって女装してもいいんじゃないかと思いあがってみたという具合だ。

 

はっきり言えば、性的嗜好において僕はバイセクシャル寄りではあるものの、社会的に見れば当事者とは言えないだろう。A面だけで生活を強いられているほどTSでもなく、女装癖も必須ではない。そんなことしていると享楽的女装者と叩かれることもある。それでも、そんな「悲劇的当事者による区分」すら無意味に思えるほどの個の強さと自由さを、この台湾のカルチャーには見ることが出来た。

 

・朝っぱらから女装で台北散歩

翌朝。どうも最近、長く眠れない。旅行先ならなおさらである。日々起きている6時過ぎには目が覚めてしまう。たまに言われる「ジジイかよ」という揶揄も笑えないほど。そして、本番のフェスティバルは14:00から。もてあますどころの話ではない。

 

そんな早起きと貧乏性がたたり「旅先で時間を無為に過ごすのは勿体ないのでは」とさらにソワソワするジジイ。テレビを付けても、中文の報道のテンションの高さに煽られ疲れだす。もういっそ待ち合わせ時間よりも数時間早く身支度をし、台北の街並みを歩いてみることにした。

 

昼のパレードも女装で歩く予定だったので、当然朝から女装である。軽く書いているが、正直僕からすればめちゃくちゃ大英断である。日本では女装で通常外出などまずしない。過去数回やってみたことがあるが、なんとも言えない周囲からの目線などで心が持たない。特に都会はダメだ。昔、デパートメントHへ出向いた際、深夜の山手線に女装して乗車したときは罰ゲームにしか思えなかった。

 

そんな記憶を頭の片隅に、ホテルからドキドキで出発。やはりコンパクトに纏まった市街地、午前中から人通りは多い。周囲を気にしていない風を装いながらも、何とか気を張って街中を歩き続ける。当然、女装勢でよく言われる「パス(見た目から女装と気づかれないこと)」などは望むべくもない外観。化粧はしているが、一見して女装しているとバレる見た目なのは否定するつもりもない。(冒頭の写真参照)

 

だが、なんだろうか。日本に感じられる目線の感覚はそこになかった。「旅の恥はかき捨て」とはよく言うが、そんなプラシーボ的安心では決してない、確かに「あんま気にしてない」という感覚がそこにあった。勿論、その後パレードが始まってしまえば、そんな人たちが大量に練り歩くので周囲の目線など気になるはずもない。しかし、あえて一人で。パレードとしてでなく淡々とひとりそんな姿で街を歩けたからこそ、あぁ、これがこの国で同性愛カルチャーが根付く空気なのか、と心から感じることが出来た。

 

ちなみに台北の街並みは、僕みたいな「ちょっとレトロな建造物・路地裏ファン」には堪らない風情で、いちいちビルの外壁に取り付けられた数多くの室外機を見つけては興奮しながらシャッターを下ろしていた。むしろ、女装なんかよりもそっちのほうが怪しまれていたのではないかと思う。

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わかる人にはわかるこの壁の魅力。

 

・南国という空気、自立した雰囲気に考えること

その後の台湾同士遊行も、ものすごいエネルギーだった。圧倒的な参加人数、そして見渡す限りのゲイカップルやレズビアン。先にも書いた通り、マジョリティ・マイノリティという区分に意味が見いだせなくなるほどだ。

 

このフェスティバルに参加したことで、このイベントが台湾における同性愛カルチャーの一つの大きな波であることは十分に理解できた。しかしそれ以上に、その前後に街を歩いたことで、そんな大波が起こる海の性質、つまり台湾という国の気質を理解できたことは非常に面白かった。

 

例えばコンビニでの買い物ひとつとっても空気が違う。イートインコーナーがほぼ必ずあり、店員と客が適当に会話しながらほかの客を接客したり、あるいは品出しをしたり。店舗も日本と同じセブンイレブンファミリーマートなのが、余計に国の間のコントラストを強調させる。

 

更に街を見ていて目につくのが道を走る圧倒的なバイクの数である。台北周辺は、日本でいえば京都・名古屋ほどの鉄道網が広がっている。通勤や移動に関して、想像レベルでは鉄道を使えばそこまでの不便はなさそうだが、信号待ちをしているバイクを見ているとまず圧倒される。またこれに関連するのは、街並みの個人商店の多さだ。台北の街の面白さはこの個人商店に支えられていると言っても過言ではないだろう。古いビルに入った個人商店の多くは日本における「あの頃の商店街」を思わせる、街の強さを見せてくれる。

 

詰まるところ、大資本や公共交通機関に頼るよりも、まだまだ個で動くという気概の強さを感じた。個という意識が強いからこそ、他を気にしない。ここまで同性愛文化が根付く寛容さとは、人を気遣う以上に自己の確立を優先させる空気なのだとふと学ばされた思いである。

 

ただ、ここで台湾の歴史について細かく論じることは避けるが、おそらくこの国も過渡期なのかもしれない。MRTに乗り桃園空港へ向かう間には、郊外に行くに従い高層マンションやショッピングモールが確認できた。中間富裕層の住宅エリアが鉄道に沿って広がり、そこに大手資本の商店が構えだしている。また今回は台北のみをうろついただけだった為、他のエリアを覗けば違う側面が見えるだろう。

 

 

ということで、何はともあれ2泊3日の初海外・初滞在旅行者が何を語っても片腹痛いというものだろう。いやぁ・・・メシもうまいし、空気はいいし。もっとゆっくりしたかった・・・一緒に回ったしんいちさんご夫妻、案内してくださったウェンさん、そして突発ながらも、こんなわけわからんおっさん相手に夜市を一緒に回ってくださったセズ奈さん、ほむらさん、本当にありがとうございました。

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夜市で臭豆腐デビュー。普通に旨いけど、匂いはやっぱすごい。

 

いやぁ。いいとこですよ。台湾。また行きたいです。

 

 

ギルティ始めて昇竜コマンドから人生を考えだすオタク

格ゲーにハマっている。自分でも多少驚くくらいハマっている。しばらくこのブログの更新頻度も下がっているが、確実のその一つの原因がこれだ。

 

先日、というか今年も最初の頃にこんな記事を書いた。家庭用格ゲーの世界大会「EVO」が日本で開催されたことを受け、あ、なんだか格ゲーやりたい。という熱量を文字にした内容だった。

www.wagahaji.com

 

もともと家に据え置きゲーム機などなく、そんな人間が突如PS4と周辺機器なんか一式揃えるには、多少ハードルが高かったわけで。取り急ぎ、中古のPS3アケコンを1万ほどで買い揃え「ま、すぐ飽きるっしょ」くらいのノリで『GUILTY GEAR Xrd REV2』にチャレンジ。型落ち機でもゲーセン稼働の最新タイトルが遊べるじゃん、くらいの動機だった気がする。

 

また持ちキャラ選択に関しても、性能など二の次。もともと「アルよ系中国っ子」フェチなのと、積極的なパンチラエフェクト。あと「そんなバンドが昔いたな」ってのを理由に、蔵土縁紗夢(くらうどべりじゃむ)を選んだわけである。

蔵土縁紗夢 - Google 検索

いや、確かに今見てもかわいいけどね。

 

・人の素性がさらされる格闘ゲームという罠

先の記事でも書いてはいるが、格闘ゲームは好きな方である。『スト2』は家庭用で初期からやっているし、アーケードでも様々なタイトルをプレイした。思えば、最後に多少のめりこんだのは『MELTY BLOOD』だろうか。原作『月姫』に人生を狂わされたこともあって、とりあえず手を付けてみたが。CPU対戦はそりゃクリアしたけども、結局コンボゲーのスピード感に付いていけずゲーセンでボコされ離れていった。

 

約10年ほどのブランクからの「出戻り」である。コマンドなんか覚えているものか、と思ったが、やはり一時期やりこんだ手の記憶は残っているもので。格ゲーにおいて基礎的な「波動・昇竜・竜巻」あたりのコマンドはそつなくこなせる。更に購入した『GUILTY GEAR Xrd REV2』では初心者向けのコンボ練習など手厚いカバーがなされており、なかなかに良心的だと感心していた。

 

というわけで、こんな感じで僕はPS3を買った際も一定の距離を保ちながら「あぁ、今の格ゲーってこういう感じなのね」と触れる程度のはずだった。仕事も、資格勉強も、同人誌作成もあるし、ハマったらマズい。絶対によくない。半ば決意を抱えながら遊んでいたわけだ。

 

しかしながら。案の定というか。淡々とこなすべきはずのコンボ練習がうまいこと決まらないとすげー悔しい。なんなら、CPUに負けるのすら憤怒している。あ、マズい。直感は危機を伝えていたけど、やはりそこはゲーム好きのいちオタク。気づけば、買ったその日に午前2時までプレイ。クソみたいに眠たい翌日、ため息交じりに出勤した。翌日の出勤すら後回しになるこの感覚を久々に味わってしまい、半年たった今でも後悔半分である。

 

・自分の「限界」を格ゲーから学ぶ

こうなってしまったら仕方ない。とりあえず自分の満足いくところまでは行こうと、最初僕に『GUILTY GEAR Xrd REV2』を勧めてくれた友人を倒す事を目標に練習を始めた。

 

実際に本作のプレイヤーは分かるかと思うが、非常にコンボの見た目が派手で爽快感があり、半面ゲームとしてのギミックも細かい。それぞれ特性を理解すればした分だけ、出来る事が増えるという仕様だ。僕がノリだけで選んだ紗夢に関しても、飛び道具はないが、派手な演出、そして高速で展開される連続技など、鍛えた分隙がなくなるという直球ながらテクニカルなキャラである。

 

そして彼女を代表する技に「竜刃(↓↘→+K)」「逆鱗(↓↙←+K)」「劔楼閣(→↓↘+K)」という三種の必殺技がある。この動画参照ね。

www.youtube.com

 

格ゲーファンなら言うまでもないが、まさに僕が上段で触れた「波動・竜巻・昇竜」コマンドの3つそのままである(キックだけど)そして、紗夢のこれら技は、3回までそれぞれ連続して放つ事が可能で、大きなダメージに繋がる重要な連携技だ。確かに連続して出すタイミングは結構シビアだが、コマンド自体は基礎中の基礎。逆を返すと、これくらいこなせないと「え?紗夢を使ってる意味ある?ww」みたいな妄想煽りを受けている気持ちになる。

 

そして、何が言いたいのかっていうと、昔から1P側(画面向かって左にいる状態)から出す「昇竜コマンド」(→↓↘+P)が苦手で仕方なかった事を思い出した。

 

これは「格ゲーにハマるか否か」の分水量的なポイントであり、ギターで言えば「Fコードが弾けるか」みたいな感覚だろうか。初心者が通る最初のヤマ、格ゲーにおいてはそれが「昇竜コマンド」と言える。これまで多少格ゲーを齧った身としては「ある程度の精度」そして「家のコントローラー」なら余裕で出せていた。

 

しかし、今回はアーケードコントローラーかつ確実な精度、それら条件下において、基礎が固まっていない自分の力量と技量に、今更十何年越しに本格的な悔しさを覚えたわけだ。

 

・人生と昇竜拳

ちょっと話は飛ぶし、嫌らしいのだけど。自分自身どちらかと言えば器用なほうだと自認している。スポーツゲーや格ゲーやら音ゲーなど、例えば全く触れたことのない同士で対戦すればある程度の確立で勝つ自信がある。また、その他スポーツや楽器も苦手意識はあまりない。

 

ただ却って、こういう性格というか変な自信と器用貧乏さが災いし、一定以上のレベルから先、深く突き詰める事がとことん苦手だとも感じる。まぁいいよね。趣味だし。他の時間がもったいないし。

 

確かに今年で齢30にもなる身としては、会社勤めも日々あって。資格の取得を目指し、ほかにやることもあるので、ひとつの事にのめり込むことをなるだけ抑え、手広く触れた方が賢いというものだ。正直そういう選択が間違っているとも思わない。

 

しかしながら。

 

ああ、劔楼閣(昇竜)が出ない。クソほど出ないのだ。リバでも、連携でも、エリアルでも。ここで欲しいところで出ない。関節の動かし方すら考える。第一関節だけ使って・・・いや、手のひらで押して、下に中指だけで引いた方が・・・というかこんな思考、対人や動く対CPU戦で出来るはずがない。そう考えているうちに、他の安全なコンボすら迷いが生じてくる・・・

 

今やYoutubeで様々な情報が確認できる時代である。こういうコンボがあるのか、なるほどなるほどと思う一方で、淡々と→↓↘+Kを繰り返す。あ、出た。出ない。出た。出ない。花占いか。この作業を深夜まで続けていると、ふと自分の人生の行き詰まりに似たようなものに感じられてくる。

 

やはり格ゲーだけでなく基礎をおろそかにして手癖だけでなんでもこなしていると、恋愛や人間関係や取引先との関係すら上手くいかないのではないか。劔楼閣が出ない紗夢と自分のうだつの上がらなさがダブって感じられて、切ない気持ちになる。このコマンドが綺麗に入力できれば、きっと人生も・・・そう考えだしたのが昨日の深夜3時。

 

結論、あまりゲームにハマり過ぎるのも考え物というもの。何を言いたいのかわからなくなってきたけど、今日の文章の意図としては久々に頭を使い、修練を経て、格闘ゲームを楽しめているよ。という事が言いたかっただけだった気がする。いやほんと楽しいです。はい。

 

そろそろCPUにボコされ続けるのもアレなので、PS4にグレードアップさせて、オンライン通信で対人からボコされたくなってきたなと感じた台風直撃の夜でした。

 

ネット上「叩き」の危うさの本質はどこに

風邪っぽい。頭痛がする。鼻水が黄色い。既に確定フラグな感じもするけど、せっかくバカみたいに暑い季節を乗り越えて、これからまた美味しいお酒飲むぜ!という時期になって、そんなことで足枷つけられたくない。自由気ままに生きていたい。ネットで周囲の目なんて気にせず発言したい。今日はそんなお話。

 

・なんで叩くの

インターネットと「叩き」、つまり何かを批判する言動というのは、古今東西切っても切れない縁にある。過去には掲示板、そして今ではSNSで。気軽に自分の意見を社会や世界に発信できる仕組みを使って、人は色んな感情を吐露するようになった。昨今ではその匿名性は薄くなってきたものの、やはり愚痴や不満、批判というのはその発言におけるメインテーマの一つである。

 

日々ツイッターのTLを見ていて。やはり毎日のようにいろいろな「叩き」が流れてくるわけで。やれ、国会議員の不可解発言だったり、はたまた自分のクソ上司の失態だとか、町で見かけたヤバイ倫理基準のおっさんとか。あるいはフェミニンな女性論客の暴走などなど。挙げればキリがないわけだけども、こうした種々の対象を「叩く」発言。そこにはどんな意思があるんだろうなとぼんやり考えてみた。

 

「叩く」、人を批判するという行為。ネット上でなくても人を非難するときには、そこには二次的に「自分が持っている正しさ」が内包されている。どうでもいい話題には、特段言うこともないだろう。「今朝の朝食はサンドウィッチでした!」という発言にブチ切れてる人がいたら、それは確実に何かヤッてるに違いない。つまりどうでもいい事に批判は起きない。

 

自分が持っている正しい価値観や正常な感性を脅かされた際、それを守る方法として「叩き」は発生する。例えば「黒人は差別すべきだ」この発言に多くの人が反応するのは、倫理的価値観として「人種によって人は差別されるべきではない」という通念があるのと同時に、日本人なら黄色人種として「自分たちも差別される恐れがある」という当事者意識が働く。自分を守る為、そして自分が生きている社会の通念を守る為、「ヤバイだろこの発想」という対象に批判をするというのが通常の仕組みだろう。

 

・ロマンはそこにあるのだろうか

しかし「叩き」の本質として、もうひとつの効能がある。非難することは前半で、自分の正しさを守るというのが基本的な動機にあると書いた。ただ、逆流的に「正しさ」や「意味」を自分の中に形成するために「叩く」という、手段と目的が反転したパターンも確実に存在する。要は「仮想敵国」「倒すべき政権」「唾棄すべき思想」を作ることで、自分の人生にロマンだとかストーリーを付与させる事が出来るという具合だ。

 

考えても見てほしい。過去に見た多くの小説や映画を振り返っても、その半数以上は「倒すべき敵」がいるか「乗り越えるべき障壁」がある。要は、人間を満足させるロマンを得るには、そうした物語的凹凸が必要になる。ふと自分の日常を振り返れば、仕事と生活、ちょっとした娯楽の繰り返し。あまりにも凪いでいて、それでいて大きな快楽もない。対して「敵」の存在というのはある種の蠱惑さをもって、我々を手招いている。

 

ここでは「敵」と書いてしまったので、大きな話になっているかもしれないが、何もそんなおおそれたものではない。陰険な上司、嫌な同僚、規則だらけの学校、頭の固い教員、ヤラセばかりのマスコミ、ハラスメントが横行する体育会部活などなど。日々、ムカつくレベルだったり、違和感を感じるレベルの事に対して、文字化をして発信してみると、SNSではなんと共感がついてくる。

 

この「共感」、往々にして人に「意味」を与えるもので、そんな正直チラウラレベルの「愚痴」にも、共同戦線が生まれ、「正しさ」が生じ、そして結局その人は怒りや不満にロマンを得る。そんな会社はつぶれるべき!上司は左遷されるべき!あんな番組は終わるべき!日常において沸々と溜まっていた感情に「物語」が与えられた結果、叩きが逆流的にその人の正しさを形成していく事になる。

 

嫌味たらしく書いてみたが、はっきり言えばこういうことってよくあるし、なんなら「怒り」から「共感」を生み、大事業を成し遂げた偉人だって沢山いる。各国の革命はこういう圧制に対する日常の怒りが盛り上がって爆発しているだろうし、こと周囲に目を移せば市民活動によって仲間や生きがいを得たおっさんが健康寿命伸ばして、働き続けられるというのも美談の一つだろう。

 

・本質を見失う「叩き」の本質

じゃあ、何が言いたいのかという結論に入っていく。怒りと違和感を元手に共感を集め、正しさや意味に昇華させるこの「叩き」の逆流プロセス。何がヤバイか。2点あって、ひとつは「理屈が要らない」こと。そしてもうひとつは「癖になる」ことだ。

 

例えば、書店で売っているラノベ表紙でも見て。理屈でもなんでもない「表紙が気持ち悪い」という感情から、それは「敵」認定される。画像をアップすれば、普段からなんとなく思っていた人や、画像を見ただけの人が「共感」をし、倒すべき敵と意味が生じる。一大ムーブメントになれば、そこには聖少女的ロマンが発生する。結局、その戦いが不発に終わっても、戦いの起こし方は覚えている。

 

このようにちょっとした怒りや違和感からでも、簡単に人生における醍醐味が得られてしまうという中毒性と怖さが「叩き」にはある。そして、それは人の思考力すら曖昧にしていく。

 

最近ネットで感じるところがあったので具体的に書いてみよう。以前、モチベーション・アップ㈱という会社が作ったポスターがネットで炎上した。具体的にはググってみてほしいのだけど、見た感じ昨今の「働き方改革」よろしくな風潮には合わない啓発ポスターである。

 

「今ある得意先は創業時にはなかったもの、すべてに感謝しよう」「頑張るのは当たり前!そこから結果をどう出すかだよ」とか、なんていうか「会社でそれ上司に言われたら絶対イラっとするよなぁ」という言葉のオンパレード。「そもそもの発想が気持ち悪い」とか「そういう旧態依然な発想が重宝されるから平成以後日本の生産性は下がったとか」散々な炎上をしていた。

 

確かに僕自身が見ていても「うへぇ」って思うし、このワークライフバランスの重要性が叫ばれて10年以上経つ時代にそれはねえんでないの?とどれも感じさせるハイクオリティ。またイラストやデザインも相まって不快感を覚える人が続出したという事案である。

 

それと対照的に、こんな記事が話題になった。ゲーム業界、デザイナーとして働く女性の自問自答を描いた漫画が共感を呼んでいるということだ。

nlab.itmedia.co.jp

読んでみると分かるんだけど、短いだけに至ってシンプル。仕事の意味を見いだせずにダウナーになる女性主人公。それとは反面、結果を出せるのになぜそこに邁進しないの?と純粋に聞く同僚。そして、頑張った結果得られた「周囲の評価」からまた自分の仕事の意味を再発見していく・・・という感じ。うん、いい話だし仕事頑張ろうって思える。

 

ただこれ、モチベーション・アップさんとこのポスターの趣旨をストーリー化させて、読んだ人が共感しやすいように、ゲーム業界・デザイナー・女性・漫画という要素にはめ込んだ形にも思えてしまった。僕だけの穿った見方だという可能性も多分にあるんだけど、逆にだ。

 

問題になったモチベーション・アップ㈱が漫画事業に手を出して、ポスター的思想をもとに、いい感じのサクセスストーリービジネス漫画を出版したら。多分、共感は得られるんじゃないかと思う。モチベアップ云々の発想がかみ砕かれて、きっちりとデザインされ、キャッチコピーがハマったら。

 

頷く人は絶対に増えるだろう。要は見え方、見せ方次第だけで「叩き」のベクトルは一気に変わる。「共感」は罠に近い。ネットで簡単に集まったそれに「叩き」の本質である守るべき「自分の正しさ」はない。その軸がないまま「共感」を求めて何かを「叩きだす」と確実にその先に待っているものは、理不尽な差別的観点だ。

 

最後に話は飛ぶが大戦時、ナチスドイツが民意を集める上で政党として優れていた点はファッションやデザインだったと言われる。なんかの番組でオリラジの中田さんなんかもプレゼンしてた気がするけど、当時の若者に共感を与える見栄え、そしてそこから得られる先進的なイメージ。

 

こうした点から言っても、人は所詮本質における観念の正邪よりも、印象から与えられる感受性によって動いてしまう。そして、印象が言葉となり共感があつまると、それは次第に大きな意義に振り替えられていく。その結果は言うまでもない話である。

 

 

 

今、ネット上を流れていく数々の「叩き」を見て。自分自身も簡単に流される危うさを感じるし、そしてまずは自分自身がどういう軸を持つか。その重要性を感じたという話でした。ツイート見て5秒で得られる自分の感情というものは、やはり疑ってかかった方がいいと僕は思います。秋なので気候の変化と体調には気を付けましょうね。

 

『カメラを止めるな!』感想を超うだうだ書くので見てない人は読まないでね その②

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今話題の『カメラを止めるな!』を観てきた。昨日に引き続き2回。普段映画を全く繰り返し観ない質の自分が能動的に2回行ってしまった。由々しき事態である。そんな感情も観た人なら理解できるかもしれない。繰り返し検証してみても、やはり面白い。カップルで見なくたって面白い。なんならカップル溢れる中、おっさん独りだって面白い。

 

 

 

ということで、①に引き続き、以下は本当に完璧なネタバレ全開なので、見てない人は絶対見ないでね。

 

 

 

 

 

見ないでね。

 

 

 

 ※こちらは正式な『カメラを止めるな!』の感想となります

 

・突飛な王道ホームコメディ

ここから早速、すべてネタバレ含め漏らしだす。「漏らす」って、もうそれすらネタバレになるのが恐ろしい。正直な話、見た直後は「おー、何か言うのも野暮なほど痛快な作品!」と思った。ネタバレしない!とかではなく、王道で素敵な作品で何も言う必要がないと思ったのだ。ハッキリ言えば結構ベタなアイデアだと思うし、何ならアンジャッシュのコントみたいな劇中劇コメディである。

 

ただ、ここまで明確に前後の作品を分けたのは、もう「潔い」としか言えない。見ている側が本作の本当の構成を理解・納得している間に、前半の謎がことごとく後半で解かれていく過程というのはまさに「快感」だった。なんなら、そこに家族愛要素やら、文化祭サクセスストーリー感、そして観客と同じ目線の胡散臭いプロデューサーを置くことで、すげえバランスのとれた1時間半を産み出している。

 

なんなら、尺をもう少し設けて、本作後半の制作パートをもっと人間関係まで緻密に作れば、客は最後のドラマの完成で感涙したりするだろう。正直、そこまでせずともきっちり笑えるし、ほっこり出来た。前半ドラマパートでの様々な「不安定さ」が後半の安定感を余計に促進させており、観終わった後、後腐れのないスッキリとした感情を抱かせてくれる。

 

・メタ作品に没入するということ

さて、ここからが本題である。上記の通り、スッキリ見れたし何も言わなくてもいい、ゾンビ映画に何を言っても野暮というもの。というのが僕の第一印象である。ただ、オタクはやっぱし面倒な生き物だ。あえて「オタク」と主語を大きくしたが、きっとこれは個人的な問題じゃない、たぶんオタクなら、共感してくれる・・・よね。

 

というのも、鑑賞から時間が経つごとに様々なイフを考えたくなってしまったのだ。そして本作に心から「やられた!」と思ったのはここから話す内容についてである。

 

『ONE CUT OF THE DEAD』とは、前半のゾンビドラマパートの30分であるが、例えば僕らがこの作中世界にいたとして、これをリアルタイム放映で見たとしよう。その時にどんな感情を抱くのか、ということが気になってしまった。後半のネタバレのない純粋なB級ゾンビ映画として、生中継、そしてワンカット撮り。その予備知識があったなら。どう、本作を解釈するのだろうか。そんな好奇心もあって、今回実験的に感想文を2つに分けてみた。

 

www.wagahaji.com

 

①はあえて『カメラを止めるな!』の後半、本当の裏側を無視したイフの文章だ。ただのゾンビ映画・オカルト好きが本当に『ONE CUT OF THE DEAD』本放送を観たら。そして、好意的な解釈のもと本作を評価したら。という仮定で書いた批評記事である。ちょっと長く書きすぎた感が強いが単純に僕の趣味なのでそっとしておいてほしい。

 

こういう二重に世界観があるメタ作品の面白いところは、自分の視点も一緒にメタ化できるところだろう。ゾンビ映画を離れた劇中の現実は、我々の現実感とほぼ一緒だ。つまり、前半の『ONE CUT OF THE DEAD』をあくまで一視聴者として見た時の感情を、検討できるのである。そして、本作の優れた点はまさにここ。「本当に一度放映しちゃった」という点に尽きる。

 

我々は、ちょっと出来の悪いゾンビドラマを本当に30分見させられた。そこに対しては「退屈だった」「正直席を立とうかと思った」という声も周囲からは聴かれた。それでも、案外僕は、あの話の謎が気になってしまった。そして無理やりながらも解釈を付けたら、楽しくなってしまったのである。なんか本筋の楽しみ方からはズレてる気がしないでもないのだが、後半の「ネタバレ」を踏まえると「全てハズレと分かってて行う答え合わせ」も面白いものである。

 

・ 本作の凄い所はやはりミスリード可能な前半

そう、この映画はそうした「面倒なオカルトオタクの幻想をすべてぶち破る」という意味も孕んでいる。多分、そんな見方をしている面倒な人間もまずいないことだろう。何が言いたいかっていえば、あの頃の有象無象のエヴァ現象議論に根底から「バーカ」と言い放っているような痛快さを、本作からは見出してしまったのである。

 

僕は、そんな「実はこうなってました!」という笑い溢れる後半に対して、あえて本当に無意味な解釈・批評を書きたくなった。それは『ONE CUT OF THE DEAD』が、トラブルやネタも含めた形で、ここまで緻密に作られている事に対して純粋に感動したからである。人間は裏さえ見えなければ、音響や、動き、カメラアングルでここまで騙されるもんなんだな、と笑いと共に普通に驚いてしまったのだ。冒頭に少し触れたが、さながらアンジャッシュの勘違いコントのように、一方がトラブっていても、受け手側は思いのほか「見られてしまう」。

 

いや、正直前半単体が面白いかと言われれば、よっぽどなB級映画ファンでもなければ、そうでもないと言うだろう。それでも、我々は後半、同じルーティンながら種明かしを観ながら『ONE CUT OF THE DEAD』に「面白さ」を見出した。僕が今回のようなまどろっこしい手法を使って感想を書いたのも、確かに怪しい点はいくつもあれど、こんなミスリードもあり得るよね。という事をちゃんと文章にしてみたくなった。そして、そんな前半に対して我々がミスリード可能だからこそ、この『カメラを止めるな!』はベタながら、根を張った面白さを放っているし、再度咀嚼して見てみたくなるんだと思う。

 

 

以上考えすぎオタクが本作を観て抱いた感想をツラツラと書いてみたのだけど、まぁ、完全に考えすぎである。純粋に前半のホラー調から「え、これコメディだったんだ!」という驚きや新鮮さを受け取ることができれば、本作を楽しむ上でそれ以上の事はないと思う。なんなら、今日鑑賞し終わった際、隣のカップルが「楽しかったね!ヨロシクでーす!」「うん、面白かったぁ!ポン!って思わず笑っちゃった」って楽しそうに談笑してるの聞いて、書くのやめたくなったよね。これ。マジで。

 

多分夏コミ終わってから、延々脳内に溜まっていた何かがようやく漏れ出したものと思われる。そのきっかけになってくれた本作には改めて感謝を表しつつ、また9月である。頑張って働いていきたい(適当)

『カメラを止めるな!』感想を超うだうだ書くので見てない人は読まないでね その①

今話題の『カメラを止めるな!』を観てきた。

 

本当なら本作を視聴した友人らとリアルにワイワイキャッキャ感想投げ合いすればいいんだろうけど、いかんせん僕のメインコミュニティは脳内会議である。映画をひとりで見た昨日も布団の中でセルフ会議が盛り上がってしまい2時くらいまで寝付けなかった。夜中「ふふふ」とか「えへへ」とか妄想が高まってしまい突如笑い出すなど入院手前な様相だった気がするが、たぶんそれは夢である。そんな高まった気持ちを鎮める為、共感できる友人を探すより、ここにとりあえず吐き出すのが早いだろう。

 

ちなみに、友人はいるんだよ。

 

ということで、以下ネタバレなので、見てない人は絶対見ないでね。

 

 

 

 

 

見ないでね。

 

 

 

 

 

 

 ・『ONE CUT OF THE DEAD』という奇作

僕がネットで本作の放映を知った時に抱いたのは完全に無茶な企画だろうという印象だ。夏も終わりに近づいた8月下旬。ゾンビチャンネルというまたニッチなケーブルチャンネルができると思ったら、開局記念にこんな企画を行うという。

 

「生放送」「ワンカット」そして「ゾンビモノドラマ」。

 

聞いているこっちが身震いするような発想で、本作は本当に放映された。なぜか昼の13時という時間帯から30分だけ。その狙いすら今一つ掴みかねるが、実際見てみたところ、本作は非常にチープかつ不安定でありながら、目を放すことが出来ない作品になっていた。

 

作品全般の雰囲気としては、手持ちビデオホラー映画の流れを汲んでおり『ブレアウィッチプロジェクト』あるいは『パラノーマルアクティビティ』の系譜と言ってもいいだろう。物語の筋は二重劇であり、ゾンビモノ映画を撮ろうとしていたら、本物のゾンビが出てきたというベタなものである。

 

ただ、本作自体を撮影するカメラ、そして作中劇を撮影している監督のカメラという二重のメタ表現が視聴者の現実感を揺さぶりにかける。ただ、ゾンビ映画としては再三いう通りチープであり、見るに堪えない空気感も確かにあった。しかし、先ほど書いた通り、本作はすべてワンカット、そして生放送という前提。更に様々な伏線や不可解なモチーフ、謎の表現が散りばめられており、それを考察しながら見ると、なかなかB級ゾンビ映画ファンにとっては深い作品のように思える。

 

ネタバレとなるので、見ていない人はここからは読まないほうがいい。以下『ONE CUT OF THE DEAD』を観たという前提で話を進めていく。本作における主な疑問点は下記の通りだ。

 

・序盤、趣味の話題で繋ぐあの会話の間はなんなんだ?

・ドアの横に佇む音声さんの意味は?

・メイクさんはゾンビ化していた?それとも精神破綻なのか?

・監督の神出鬼没さは何かのオマージュなのか?

・女優が小屋で傷のシールを剥がすのはなぜ?そして、そこで見たモノはなんだったのか?

・小屋と屋上の血の紋章のつながりは?

・斧で頭を割られたメイクさんが再び立ち上がって見たモノはなんなのか?

 

わずか30分でこれだけの不可解さを残すストーリー展開である。狙って行うのは容易ではない。監督、日暮氏の狂気が伺える。それでは、以上の疑問点から『ONE CUT OF THE DEAD』の解釈を始めてみよう。

 

 ・ゾンビと霊という二重構造が生み出す不可解さ

まず、本作のストーリーを考える上で肝となるシーンを仮定するなら、上記疑問リストの中でも終盤「女優が脚の傷のシールを剥がす」という場面が挙げられる。傷を偽装する、彼女には最初から誰かを騙す目的があったということだ。つまり、ゾンビが発生する状況を知っていた、ということに繋がる。そう考えると、彼女の「劇中劇」への参加目的はどこにあるのか。男女関係を探ってみよう。

 

冒頭のシーン、監督からひどくイビられ、凹む女優。周囲が「気が狂っている」と監督を批判する中、彼女だけが演技に真摯に取り組もうとする。その後、相手役の男優は、カメラが回っていないところで「今日この後、どう?」と撮影後、彼女を慰めながらホテルにでも誘う空気を見せる。ここだけみれば、女優と男優は付き合っているように見える。

 

となると、対立軸としては監督と男優である。女優は男優よりも、自身の今後も含めこの監督に見初められたい、監督としては完璧な映画を作りたいという意思がある。女優はそこに付込み、結果不必要になった男優との関係を処分する前提のもと、今回の作品に臨み、この本物が混ざるというトラブルに乗じて命を狙ったという考え方が出来なくはない。序盤の会話における不自然な間は、男女関係が上手くいっていない事の現れなのだろう。更に傷の偽装も「彼女がゾンビ化することで、男優と自分に一線を引く」という効果を生む。

 

しかし、その彼女のシナリオも的を外れていくことになる。浄水場の噂を思い出してほしい。「死者を蘇らせる」という話は当然ながら「ゾンビ」の存在を想起させることだろう。しかし、この浄水場が蘇らせるのは、ゾンビだけではない。この作品のメインテーゼの二つ目「霊」という発想が隠されている。

 

ここで、延々ドアの陰に佇む音声さんの謎が解ける。Jホラーお得意の「驚かせるだけでなく、そこに佇むだけ」という表現はこうした単純なゾンビモノにおいて、逆にその不可解さから恐怖を際立たせる。『呪怨』や『仄暗い水の底から』といった名作にも多分に用いられた方法である。

 

そう、彼はすでに憑りつかれていたのだ。当時日本軍が実験をしていた頃の研究員の意識が彼に乗り移り、あの恐ろしい実験が行われた場内から脱出させた。そして、屋外で実体のあるゾンビに襲われるという二重における恐怖表現がなされていたと考えられる。この建物の「逃げ場のなさ」を視聴者により鮮明に伝える為の表現方法だったのだろう。そして、霊体はメイクさんにも乗り移っていたと考えれば、彼女の発狂、そして女優を襲う前に「落ち着いている」と話すあの鬼気迫る表情にも納得がいく。

 

つまりは本作はゾンビと霊体、ふたつの意味での「よみがえり」があの悲劇の幕引きを招いたといえる。 終盤、例の傷を剥がす小屋のシーン。女優は小屋の中で「何か」と出会う。入り口に血の紋章が描かれたいわば「ホットスポット」的なエリアである。

 

襲われることこそなかったものの、恐らくそこで、彼女はなんらかの霊、恐らくこの事態を招いている本体と一体化してしまったと考えられる。女優はその後、比較的冷静に小屋前の斧を拾い「ついている」などと場にそぐわない言葉を吐いて、かつて愛し合っていた男優を追いかける。最後のシーン。ゾンビ化してしまった男優を前に彼女の意識と霊の意識が交錯、最後に女優は狂気に堕ちる。

 

気がかりなのは、この重要な場面。死んだはずのメイクさんが突如立ち上がり「何あれ」と口にするシーンがある。正直今の私の考察でも理解が追い付かない。ここは、完全にこの物語から浮いており、生中継という事を考えれば、実際に演技上何かのトラブル(霊が実体化するなど)が生じていたのではないか。予定通りとは思えない、まさに手持ちカメラホラー作品を体現するかのような、非常に気味の悪いシーンである。

 

そして、完全なクライマックス。見初められたいと思っていた監督にすら手を下し、血まみれになる女優。スプラッタ的表現と彼女の不完成な演技が相まって、なかなか見ごたえのあるラストになっている。屋上には呪いのきっかけとなった血の紋章が描かれており、女優が不敵に空を見上げて本作はエンドロールが流れる。

 

本作では至る所から狂気を孕んだ監督が現れ、時にゾンビを男優と女優にあてがいながら危機を煽って撮影を続ける。考えるとその登場はいつも場所の因果に合わず、神出鬼没だ。そして最後、本作に登場する人物は女優以外皆死んでいるが、唯一自らの死体を晒していない。そこまで考えると、中盤以降果たして彼は現世に存在していたのだろうか、という疑問も沸いてくる。

 

もしかしたら「カメラは絶対に止めない!」と何故かカメラ目線で吐き捨て、屋外に出て以降、監督は既に帰らぬ人になっていたのではないだろうか。その後の監督は女優の妄想における姿であり、女優として自分の妄執を諦めきれない感情が招いた残像というイメージだったのではないだろうか。

 

ゾンビ映画の魅力が詰まった30分

本作は、様々な要素を孕んだチャレンジングな企画である。その結果、初見で見た際には完成度の低さが目につき、はっきり言って駄作という感を受けた。しかし、見れば見るほど、作りこまれている事に気づかされる。あえて明かされないテーマ性、また後半におけるカメラワークの大胆さ(カメラをあえて地面に落とし続け図郭を確保するというメタな手法にも驚かされた)、そして斧を使ったチープな残虐性。こうしたゾンビ映画ならではという一つ一つの要素が詰まっており、我々のようなB級ホラー映画ファンにとっては悪くないスルメ作品と言えるだろう。

 

今後、こうした作品が生まれることはまずないだろう。30分という短い時間ながら、久々に解釈と考察をフルで巡らせてしまった。恐怖のみならず、生放送というタイムリーな手法において緊張感を産み出し、見ているこちらを不安定な気持ちにさせる。手放しに褒める事はしないが、こうした攻めた作品が今後も世に出てくることを祈って、引き続きゾンビチャンネルに期待したい。

 

神保町とブートレッグの思い出

神保町の老舗CDショップ/レンタルショップ「ジャニス」がこの11月をもって閉店するとのこと。人が亡くなったり、店が閉店すると急に寄ってたかって語りだすこういう記事。ネットで見ていて辟易するのであまり好きではないのだけれども。それでも、このお店から受けたモノを考えると書かざるを得ない。

 

t.co

 

お店のHPはこちら。キャンペーンやるみたい。

http://www.janis-cd.com/news/campaign/

 

正直な話。いつかはくるんだろうなと思っていた。それでも実際、正式な形で打ち出されるとなんとも言えない気持ちになる。音楽配信が一般化してからもう久しいわけだが、ここにきてこのお店の閉店の報を聞き、CDという媒体が本当に死んだんだなと痛感する。

 

「ジャニス」の存在は中学生のころ父親から教わった。廃盤やブート盤がどうしても聴きたい、欲しいと思うほど音楽を聴くようになったらここにくればいい。と。人としてはあまり見上げる事のない親父だが、ことこういう件に関しては間違った事を言わない。

 

案の定その後、学生の時分は勿論、今も神保町近くに勤務しているためしょっちゅう足を運んだりした。その品ぞろえは圧巻で、廃盤など希少価値の高いものはレンタルする際、自分の名前や連絡先など保証書を書くという仕来りもここならではだろう。

 

個人的に思い出深いアイテムは、くるりのインディーズデビュー盤『もしもし』だ。おそらく3度は借りた。カセットに録音するため、MDに録音するため、PCに取り込むため。中学、高校、大学それぞれで同じ盤を借りるなんて、普通なら考えられない話ではある。ただ、ここでしか入手(レンタルだけど)できない代物があまりにも多くあった。

 

そして、何よりもブートレッグ盤探しはこの店の大きな思い出だった。なんていうか、今「海賊版」と聞けば「コピーをネットで流す」的な某漫画村的イメージが先に沸く。ただ、ビートルズやらビーチボーイズだったり。洋楽にバカみたいにハマっていたあの頃、ブートレッグ盤というのは、どうしたって聞くことの出来ない「あるはずのない音源」で、ある種の夢を叶えてくれた盤だった。

 

音源化されていないはずのライブ音源や、リハーサルを兼ねたアウトテイク音源、あるいは違う言語バージョンなど、面白い音源がそこには溢れていた。ビートルズ関連のブートなどは特に後世にも残っており「ウルトラレアトラックス」シリーズに代表される通り、アウトテイクを世にもたらす価値を再発見させたとも言える。最終的には「アンソロジー」の発売にも寄与したと言われるほどだ。

 

僕個人として思い入れがあるのは、1991年、ジョージハリソン来日の横浜公演の音源だ。『Live in Japan』として公式に音源化されたのは東京ドーム公演なのだが、横浜アリーナでしか演奏していない『Love Comes to Everyone』その1曲が当時聴きたくて仕方なかった。そんなニッチな理由、自分の足を使って血眼になって流通すら定かでない1枚のCDを探す。

 

ネットが普及した今になってしまえばバカらしい話なのかもしれない。そして回顧的に「あの頃がよかった」なんて事をいうのも無粋だと分かっている。それでも存在すら定かじゃないモノが在ると知り、現に入手し、そしてCDプレイヤーにかけた、あの時の感情はどうしようもないものがある。

 

今回、閉店するジャニスには、そんな思い出が詰まっている。どうしても欲しかった音源。聞きたかった音源。きっと、あるんじゃないかと疑いながら彷徨ったのである。当時ネットもなく、情報もない。僕らはCDショップで探すしかなかった。そんな中、都内最強と言われた品ぞろえを誇るジャニスで延々宝探しをしたワクワク感は、多分他の感情で代替できそうにない。

 

感傷にしかならない文字を垂れ流しながら行う一方的な思い出語り。本当に何になるわけでもない文章なのだけれども、単純にそういう時代があって、そういうお店があったという話だ。ただ書かないと自分すら忘れていきそうで。秋葉原レコファンや中野レコミンツやら神保町ジャニスなどなど。馴染みのCDショップが次々に閉店していく中、そういうワクワクするような宝探しを経験させてくれたことに、ただただ感謝を表したい。