わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

『あたし、おかあさんだから』議論から見る「公」と「個」のバランス

なんだか東京も延々氷点下という気温が続き、立春だというのに寒い冬まっさかり。何かあたたかな話題を、とネット上を徘徊していれば案の定炎上案件に当たる。

 

気にかかったのは、タイトルにも上げた絵本作家・のぶみさんが作詞した『あたし、おかあさんだから』という曲だ。母親に、子育てで自己犠牲を強いる歌だとして炎上しているようだ。元ネタとしてはhuluにおけるオリジナル番組『だい!だい!だいすけおにいさん!!』で2/1に発表された。元「うたのおにいさん」のだいすけおにいさんが主演の子供向け番組とのこと。

 

今更ここで説明する必要もないかもしれないが、まぁ、歌詞を見ればその救いのなさに何かもっさりとした感情を得るのはしょうがない気がする。

matomame.jp

 

「自己犠牲を強いる歌」「母性に対する呪いのよう」と散々な言われようだが、確かに母親としての「子供に出会えた喜び」以上に「子供の為にいろいろな事をあきらめる」という側面の方がフューチャーされているようで、一見して暗い歌詞だという印象には頷かざるを得ない。

 

この歌詞に対して、ツイッター上ではタイトルの「おかあさんだから」に反駁する形で「おかあさんだけど」というハッシュタグが作られている。母親であろうと自分のライフスタイルや無理をしないという姿勢を貫くことを反発する形で主張する発言も、かなりの数が見られる状況となっている。

 

・「歌」と「ドキュメント」の差はどこに

僕がぼんやりこの騒動に対して「興味深いな」と思ったことを挙げる。この歌詞を一見したときにまず僕が思ったのは、ネガティブというよりは「こういうシングルマザーのツラさってあるよなぁ」という客観的な感情だった。何故そう思ったのかといえば、例えば、フジテレビ系列でお昼からやってる『ザ・ノンフィクション』あるいはNHKおはよう日本』『あさイチ』でもそうかもしれない。うん、そこで見たことある。ということだ。

 

暴論だけども、VTRの冒頭に女性ナレーションの優しい声で「東京都足立区」というアナウンスから放映が始まれば「そういう特集なのだな」と何となく想像がついたりしてしまう。詰まるところ普段からテレビ番組など見ていれば、いくらでもこうしたシングルマザーや母親としての苦悩を問題にした特集やドキュメント番組が目に入ったりする。

 

要は歌詞のような「お母さん」像は実在しているということだ。こうした苦悩や葛藤を持つ母親が現実にもいるということは、恐らく『あたし、おかあさんだから』を非難している人でも分かっていることだろう。しかしながら、なぜそうした「ドキュメンタリー」は炎上を避けられ、今回の「歌」が炎上状態となったのか。その差異はどこにあるのだろうか。そんなことをふと考えてしまったのである。

 

「#おかあさんだけど」というハッシュタグを使って反駁を試みる人を見れば、母親という立場であっても自らの趣向を曲げないという意思の強さをアピールしようとしている。時にズボラな性格であったり、あるいは趣味を貫いたり。そう反論する「裏」には「おかあさん」という言葉で私たちを一括りにするな、という強い反発的意志が見て取れるような気がして仕方ない。あくまでも先に掲げたドキュメンタリーでの母親の葛藤というのは「個」の問題であり「公」としての母親像にされるのには抵抗がある。という事だ。

 

ただ、そういう目線から見ると「おかあさんだけど」というハッシュタグはある意味で残酷に映る。歌詞のような母親としての苦悩という「個」の問題に対して、夫の収入があり、生活基盤が安定しており、自分の趣味を捨てる必要もなく生活ができる「余裕」が私にはある。「おかあさんだけど」というハッシュタグからは、そうした自分は違う「個」である、というアピールでしかないのでは。そんな疑念すら抱こうと思えば可能だ。

 

ただ、逆に言えばそこが「歌」という存在の面白く、怖いところだろう。歌というのは良くも悪くも普遍性が宿ってしまう。雑な例えで恐縮だが、ZARDの『負けないで』に多くの人が感動するのは、そこに「普遍性」があるからだ。つまり「歌詞」はすべてを語っていない。「個」に落とし込むには情報が少なすぎる。むしろ少ない文字情報下だからこそ、多くの人がそこに共感を感じる事が出来る。だからこそ様々なライフスタイル、生活状況において「負けないで」というメッセージ性がとかく強調され、その人の心を打つのである。

 

逆説的に言えば、今回の『あたし、おかあさんだから』という「歌」が、情報の少ない歌詞を使った結果「共感を強いた」ように聞こえたからこそ、炎上をしたと言えるのかもしれない。タイトルの「あたし、おかあさんだから」を見てしまうと、すなわち「母親ってこういうもの」つまり、貴方もこういう事なんでしょ。という押し付けにも捉えられてしまう。ドキュメンタリー番組では「個」の事情を扱っているから問題ないが「歌」という形で、図らずも「公」という側面を持ってしまったが故に人は反発を感じたと言えるように思えた。

 

こうした「公」と「個」の認識の差異というのは、ある意味で今、過渡期を迎えているような気がする。他者の苦悩である「個」を思慮しながらも、自分の「個」を守る。この距離感というのはシビアな場面に差し掛かっているのかもしれない。

 

・若者が「労働者としての権利」を求めながら「保守化」している図式

これに関連して、もうひとつ似たような話をしてみたい。政党の支持についての話だ。昨今、ネット上に限らず「若者は保守層」「自民支持」などという印象がある程度一般的になってきたように思う。それに対するカウンターも当然に存在するが、新聞などの報道でもこうした見方は強まっており、昨今における選挙選でも結果として表れている。

 

しかしながら、その反面。ツイッターにおいて所謂「バズりやすいツイート」の種類のひとつとして、労働問題が挙げられる。ブラック企業批判、あるいは低所得についての文句、パワハラや昭和的価値観を持ち続ける企業に対する反発。こうした「企業」「資産家」へのカウンターの在り方というのは、これまで共産党を始め野党の主戦場だったはずである。そして、毎度の選挙の公約や演説を聴けば確かにいまだに「労働環境の改善」や「内部留保の過剰」批判を展開しているのはそうした野党が主だ。

 

 

そもそも、前民主党政権以降。そうした野党の政策実行性に疑問視が残っているというのも、勿論正しい指摘ではあるのだけれども。それ以上に労働環境の是正がむしろこれまでの社会的な「公」としての意味合いでなく「個」としての価値判断に委ねられてきているというのが昨今のトレンドではないだろうか。例えば、今の職場が気に食わなければ転職をする。あるいは副業を行うことを考えればいい。終身雇用という概念も最早意味をなさなくなって久しい今。流動性を重視し各個人の選択肢の増加によって労働市場の健全化が担保されるというイメージが徐々に定着しつつあるように思える。

 

労働人口減少が甚だしいこの国において、今の労働状況というのはいずれ崩壊に瀕するというのも若者にとっては具体的な不安として覆いかぶさっている。これまで野党が掲げてきた「資本主義」へのアンチテーゼ的な所謂「労働者の権利を。」という政策提言自体が、あまり若年層労働者にとって実感を伴わなくなってきているというのもとして起こっていることではないだろうか。むしろ「個」としての権利を保障する。つまり、流動性を担保し、そして経済全般の向上をより促進させる与党にこそ、支持が集まるというのも理解できる話である。

 

 

上段の『あたし、おかあさんだから』炎上の例示と下段での労働に纏わる支持政党についての認識。まるで違う話に思えるかもしれない。ただ、他人と自分の差異が明確な状態である「個」の事情と、社会全般の価値という「公」における事情、それは全く別のロジックながら、複雑に絡み合ってそれぞれの人間の中で感情として動いている。そして、何が恐ろしいのかと言えば、それは往々にして無自覚的なのである。

 

「公」のような物言いを無自覚にすれば「個」から思わぬ反撃を食らう。しかし、その「個」としての反撃は、また異なる「個」を攻撃しだす。そうした「個」と「公」のバランスというものは、時代の推移や感覚によって大きく左右されるものである。

 

今回僕自身、ふと思った「なんでこの曲がこんなに炎上しているのか」という疑問を抱いた。いや。だって、普通にこういうお母さんいるじゃん。と。ただ、それを歌という形で「お母さん像」として広くイメージを与えてしまったが故に、多くの人が反発を抱いた。

 

僕らがそろそろ考えるべきは「なぜ炎上したのか」「なぜモヤっとしたのか」「なぜその政策に魅力がないのか」「なぜこうした主張に反発を抱くのか」炎上をさせる前に抱く「違和感」や「憤り」に理由をつけることではないのだろうか。そして、そのヒントとして「公」「個」その差異に対して敏感である必要性は間違いなくあるのではないか。ちょっと水曜日から飲みすぎた。酔っ払いながら、そんなことを一人。夜長に考えてしまった次第である。

 

 

EVOを観戦していたら、格ゲーが嫌いになった日を思い出した。

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EVO Japan 公式ツイッター画像より  ときど選手「画面までのメジャー測り」ルーチン

EVO Japan (@EVOJapanNews) | Twitter

 

今、格ゲーが熱い。うん、個人的に。

 

evo-japan.net

 

e-Sports」と称されるようになって久しい対戦格闘ゲーム。いわゆる「格ゲー」。その国際大会として最大規模を誇る「EVO」が先週末、初めて日本で開催された。2002年の日韓W杯さながら、起きている時間に大会をリアタイで見られる幸せったらないねほんと。「EVO Japan 2018」として3日間・7タイトルに渡るゲームで熱戦が繰り広げられた。やはり大きく盛り上がりを見せたのは秋葉原UDXを舞台に移した最終日。『GUILTY GEAR Xrd REV2』『ストリートファイターⅤ Arcade Edition』の決勝ラウンドだろう。

 

僕も独りで見るのはなんなので、秋葉原のGame bar A-buttonで観戦。 海外客と一緒になって配信中継に見入っていた。『ギルティ』決勝では、トリッキーにファウストを操るナゲ選手と、王道の強さを誇るジョニー使い前年王者・おみと選手との接戦に興奮。『ストⅤ』では日本人初プロゲーマー梅原選手と昨年本家EVOでの覇者ときど選手のマッチアップや、決勝では本家EVOでもお馴染み韓国のInfiltration選手がジョン竹内選手との再戦を破り優勝するなど、見どころも多かった。

 

そんなことしているうちに、格ゲーをもう一度やりたいなぁなんて。そんな分かりやすい影響を受けつつ。ふと小さい頃を思い出したのだ。小学生ながらに対戦台がトラウマになったあの日のこと。この再び高ぶってきた格ゲーについての熱量についても、せっかくなので思い出半分語りたくなってしまった。

 

・最初に買ったゲームは『スパスト2』漫画は『スト2アンソロ』

そもそも自分自身、今ではすっかり格ゲーから遠ざかってしまっているが、もともとオタクに染まったのは確実に格ゲー発である。そもそも今年で30歳。おそらく、世代的に僕から10歳くらい上の世代までは『スト2』以降引き継がれてきた、対戦格闘ゲームの歴史をそのまま身体で感じながら育ってきた世代と言っても過言ではないだろう。

 

やはり僕もやけに格ゲーには小さな頃からハマり倒し、幼稚園の卒園アルバムにはリュウの絵が描いてあり、その他実家に残っていた当時のお絵描きを見れば大抵スト2のゲーム画面。ちゃんとHPゲージが描かれた平面画にキャラ選択画面と、何に憑りつかれたのだろうと自分の事ながら心配になるレベルでハマっていたようである。

 

そして最初に自分の意志で買ったゲームはSFC版『スーパーストリートファイター2』、また初めて買った漫画は『スト2』の同人アンソロシリーズ。当時、オタクコンテンツは「子供っぽい」と全否定していた割に、格ゲーには股がガバガバもいいところ。春麗はもちろん、さくらにナコルルからフェリシア、アテナに不知火舞と完全に女性キャラにも「堕ちて」いた。もう当時から今いる路が定まっていた感も否めない。

 

 てか、そんなガキがコマンドなんか使えるのかと、ふと当時を思い起こせば小学1年の時には『餓狼伝説SPECIAL』でどうしてもキム・カッファンの「鳳凰脚」が出したかったようで、延々と練習を繰り返し、ほぼ習得した喜びは忘れていない。(この前久々にSFCミニで遊んでみたけど、やっぱしあの判定は未だにエグイ気がする)

 

駄菓子屋に置いてあったSNK筐体に噛り付いたり、小学生時代から金持ちの上級生の家に遊びに行っては『ストゼロ』やら『KOF'96』『バーチャ2』などなど。周囲に挑戦を続けていたのも懐かしい思い出である。

 

秋葉原ロケット。対戦台で。

そんな謎の情熱と手も器用な方だったので、小学生中学年の頃には同級生友人と家でコンシューマー版格ゲーをやるのは正直つまらなくなっていた。そうすると目指すはやはり、アーケード筐体だ。コントローラーばかりの身にはアケコンひとつとっても憧れであり、また新鮮だった。ただ、いかんせん地元は柄の悪い下町という土地柄ということもあり、小学校からゲーセンへの出入りは禁止。しょうがなく、父親にせがんで毎週のように秋葉原へでかけ、筐体に触れた。

 

アケコンも慣れていない小3のガキに突然メッカ・アキバのゲーセンというのは流石に厳しく、とりあえず当時ロケットのゲーム館(現・ラムーラン。レジャラン向かいのガード下店舗)2Fにゲーセンと呼ぶには少し小さいゲームコーナーがあった。そこで色々な新作格ゲーを触った。その中でもまさに時期にマッチしたのが『ストゼロ2』である。

 

今になれば所詮100円であるが、当時でいえば「すべての遊びがそこから始まる」と言っても過言ではない貴重な硬貨。やはりアーケードにはその100円を賭けるスリルがあった。たとえ対COM戦であっても、ROUNDを取り合って迎える最終戦は手汗をかくし、そこで得られる勝利というものは、家で味わうそれとは違うものだ。

 

そして。小学生当時、憧れでありながら手を出せない山があった。それこそが「対戦台」である。各ゲーセンの注目の的であり、強さがそこに集まる場所。そんなロケットのゲームコーナーにも対戦台があって、その日僕は意を決して、誰もプレイしていないところを見計らい対戦台でCOM戦を始めた。プレイを初めて数分。画面に「Here come the new challenger」の文字が浮かぶ。過去にも地元で乱入されたことはあったが、アキバでは初めて。急にアウェー戦に感じ心臓が一気に高鳴る。

 

今では小学生相手にそこまでするかな。と笑い交じりに思い出すものの、僕は泣くのを必死で我慢しながら店を出た事を記憶している。確か中学か高校生くらいだろうか。ケンを必死に動かすも、そいつの操る豪鬼にほとんど何も当たらなかった。せがんで父親に500円という大金をもらい、すべてつぎ込んで何にもならなかった。格ゲーなんてもうやるものか。生まれて初めて、本当の意味で悔し泣きしたのはその時だったかもしれない。

 

その後、野球やギターを始めたこともあり、格ゲーとは長いこと距離を置くことになってしまったわけだが。ふと今回「EVO Japan 2018」を眺めつつ、ひとりのおっさんとして焼酎を煽りながら。幼少のそんな事を思い出してしまったのだった。

 

・「フレーム」の世界で闘う事

そんなセンチな思い出を抱えつつ。この週末早速格ゲーを嗜む友人宅に出向き、相当久々に格ゲーを触った。『ウルトラストリートファイターⅣ』と冒頭触れた『GUILTY GEAR Xrd REV2』実際コントローラーを触り、頭の片隅で錆びついていたコマンドを探り当て。そして先日「EVO」で見たキャラクターたちの動きを思い出す。自分でその挙動を試みようとすれば分かる。もう全員化け物でしかない。実際「EVO」での対戦を見ていてその凄さをわかったつもりでいた。しかしながら「手を動かした実感」というのはそれに勝るものでない。

 

「このコンボをあの緊張感の中で、また対人で行っているのか」と思うと、この国においてより多くの人が、格ゲーについて「e-Sports」としての地位を認めるべきではないかと改めて痛感した。ボタンを押す順番、そしてタイミング。専門用語でいえば「1フレーム(1/60秒)」の差異で結果が変わる。読みと動体視力、国際大会などで活躍している選手は、そうした世界で争っている。

 

僕が秋葉原で感じたあの日のしょうもない悔しさを、ゲームに賭けた彼らは何度も抱えながら、その「フレーム差」という境地に至るまで研ぎ澄まし、それをぶつけて戦っているのかと思うと「EVO」での一戦一戦が愛おしく思えてしまい。そして、あの日僕が感じた「対戦台のトラウマ」は裏を返せば、こういう極めた人たちへの嫉妬であり、悔しさであり、憧れだったのだなと。なんだか歳なのかちょっと目頭にジーンと来てしまって。友人宅で迷惑も顧みず深夜まで『ギルティ』のコンボ練習にもひとり無駄に熱が入ってしまった。

 

 

ひとしきり、自己満足コンボ練習を終え。家に帰って一人、本家「EVO」の歴史という動画をぼんやり見ていた。英語版なので、まぁ細かいことは聞き取れないけれど概要は掴める。海外におけるゲーマーという存在。そして、そこにあるドラマ性。「たかが格ゲー」と決め込み、長い間そこへの思いを放置していた僕が恥ずかしくなるくらい、めちゃくちゃ熱い場所がそこにあったことを思い出させてくれた。

www.youtube.com

 

どうやら『ストリートファイター』シリーズも冒頭の『ストⅤ AE』版で30周年の節目を迎えたという。平成と共に歩んだ対戦格闘ゲームも、いよいよ「歴史」を抱え、そこでは、単なる娯楽を超えたスポーツとして。「進化」から「深化」を求められる文化になってきたのだと感じる。そして「EVO」の日本開催を契機に、この発祥の地から海外に劣ることなく盛り上がっていくべき文化と僕は思う。

 

久々にどうも熱くなってしまい、そして、ゲームといえば10年以上エロゲーくらいしか買ってこなかったこんな自分も、いよいよ型落ちPSとアケコンを漁り始めている。正直、こんな出戻り初心者が突如格ゲー始めたところで、ゲーセンなんか行けねえなと思ってるから、みんなやろうぜっていう事が言いたいだけの駄文だったのだけれども。いや、本当。格ゲー面白いから。きっと。うん。頑張ろう。

 

『少女終末旅行』考察その②~『暇と退屈の倫理学』と併せて読む

 

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またもやである。

 

先日、比較的長々と『少女終末旅行』という作品について書いた。非常に良作であったし、その物語性は現代日本における「生き方」に対して鋭い示唆を与えているのでは。というようなニュアンスで文章を書いたばかりである。その際の記事は下記URLの通りだ。

www.wagahaji.com

 

そして今回。ふと書店で手にとった『暇と退屈の倫理学』という本を読んで再度、この作品について滔々と語りたくなってしまった。この本もやはり非常に面白かった。哲学者・國分功一郎氏が、自らの葛藤を通して現代人が抱く「退屈」という気分を見据え、人間らしく生きるとはどういうことなのかを、過去の偉大な先人たちの思想をチョイスしつつ、実践的に考えていくという内容である。

 

「人はなぜ「退屈」してしまうのだろう」という疑問から人間という存在を読み解くと『少女終末旅行』がより深い視座から楽しめる気がしてきたので、需要とかあまり気にせず書き出すことにする。『少女終末旅行』のあらすじ紹介は前回の記事で簡単にまとめた為、そちらを確認して欲しい。

 

・人生の意味を考えると「退屈」にぶつかる

簡単に『暇と退屈の倫理学』の触りから紹介しようと思う。本書は冒頭から「人間のみじめさ」について考え出す。そのみじめさとは一体何か。往々にして人は「人の生きる意味などなく、ただ退屈をしのぐこと」という事実から目を背けているだけなのではないか、という事だ。

 

本書でも引かれるパスカルが挙げた例示では「うさぎ狩りに出かけた人に、うさぎを献上すればきっと嫌な顔をすることだろう」つまり、狩猟が趣味の人にとって、目的はその獲物でなく「狩猟」という行為にある。ギャンブルが趣味の人も同様に、毎月少額の金額を贈与したところで、結局その人の求めるところではなかったりする。

 

また歴史家であり哲学者のバートランド・ラッセルが言うところによれば「20世紀初頭のヨーロッパの若者は完成された社会に生まれ不幸だ。それに対してアジアやロシアといった国に生まれた若者は、これから創造すべき世界がある分だけ幸福である。」という。

 

要は「自分には好きなことがある」「自分にはすべきことがある」こうした熱中すること、趣味や使命感を抱えた人は、本質的な「退屈」から遠ざかりたいだけであり、それによって「生きる意味がある」と自らを騙しているという。また、それだけ「退屈」は人間にとって酷く苦痛なもので、それを緩和するために、人は「何か興奮できること」を探してしまう。

 

それでは「退屈」を逃れるため、熱意を持てる「生きる意義」が見つかれば人間のこの深い悩みは解決かというと、そうでもなさそうである。昨今、宗教原理主義者が自らの命すら投げうって、その使命に殉じるという場面も、ある種こうした「退屈」の末の使命的心理状況の一端とも言える。様々な「退屈」という虚無と向かい合う事、考える事。これは現代人にとっての至上命題の一つであろうという問題提起から本書は進んでいく。

 

・「遊動生活」という視点から読む『少女終末旅行

そろそろ僕がなぜ、この本と『少女終末旅行』をバンドルさせたのかについて書いていく。上記の通り、人間は大きな思想上「退屈」という不安定さを得るに至る。しかし、人はいつから退屈を抱くようになったのか。『暇と退屈の倫理学』の2章ではいくつかの文献から人間の歴史の中で経験した二つの生活スタイル「遊動生活」と「定住生活」という視点を用意し「退屈」の起源を探る。

 

簡単に説明すれば、前者の「遊動生活」とは狩猟などによる原始的な生活で、同じところに留まることはせず、一族単位で少しずつ狩り場を変え、寒暖を凌ぎながら生活をしていく生き方。それに対して「定住生活」とは、ある程度決まった場所に生活の拠点を定め、食料の確保についても農耕といった「生産」を開始した状態である。

 

僕らはどうしても、人間の進化の過程というのは、常に改善しているものだと想像する。この遊動から定住へ、という流れも「農耕というノウハウを学んだ結果、狩猟よりも安定性の高い食料生産へ進歩を果たし、定住を選択した」という理解が多いことだろう。しかし、本当にそうなのだろうか。農耕も、時間はかかり天候リスクもあった手法である。それを「選択せざるを得なかった」としたら。その根拠等は本書を是非読んでいただきたいのだが、種々の説から「遊動生活に向いていた人間にとって、定住生活は強いられた」のではという提示が行われる。

 

そして『少女終末旅行』を思い出してほしい。本作において主人公のチトとユーリが営んでいるのは「遊動生活」である。日々食料を、寝泊まりする場所を探し、敵の存在を警戒しながらも、死んだ都市を闊歩する。『暇と退屈の倫理学』の中で「遊動生活」によって、人は大脳をより発達させたとある。つまり人は「遊動生活」下での、猛獣が潜んでいるかもしれない状況でよ周囲への注意力や、天候に対する敏感な察知力によって、人の脳は他の動物より発達を遂げたと考えられている。

 

逆に言えば「定住生活」に入った人間にとって、必然的に日々の生活で大脳の機能を活かしきれず、思考の余裕、つまりは「退屈」が生じる。また定住生活をする上でコミュニティが生じ、そして退屈の中で生きる意味の模索、つまり宗教が生まれ、土器にあしらわれたような装飾、要は芸術が生じる。まさに今の我々の文明と呼ばれる姿の起源と言える。

 

何が言いたいのかと言えば『少女終末旅行』における、チトとユーリの終わりなき旅。僕は前回の記事で「絶望的ではあるが、1日1日を自らが創造する生き方」と書いた。詰まるところ、それは「定住生活」という文明すら通過し「遊動生活」に帰った人間の姿ではないだろうかということだ。

 

「定住生活」に浸りきった我々はどうしても物語の最後には「安定した生活」か「やり遂げた死」を求めがちである。この『少女終末旅行』は完結しており、最終話には様々な感想が見られた。僕も含めある意味で「切ないエンディング」ともとらえられてしまう意見もちらほら見られた。

 

しかしながら、それは現在我々が「定住生活」によって得た「希望」の形であり『暇と~』の中で批判される「定住主義」に染まった考えと言わざるを得ない。漫画やアニメを通して感じられる、チトとユーリの「退屈」があまり感じられない不思議な世界観は、日々「遊動」しながら新鮮なモノを探し、見るからこそ生じている感情なのだと素直に、この物語を受け入れる事が出来た。

 

前回書いた通り「末永く幸せに暮らしました」でなく「遊動しながら最期を迎える」というストーリーは、これからの物語性に対して大きな提示を行っているように感じる。

 

・僕らが「終末」から乗り越えるべき退屈の連鎖

もう少し踏み込んでいく。『少女終末旅行』において、僕らが考えるべきテーマというのは、チトとユーリの二人の生き方だけではない。その背景たる失われた文明についてだ。

 

以上見てきた通り、チトとユーリの旅はさながら「ポスト定住主義」の世界であると言える。定住生活の「限界」が何かしらかの姿で出現した世界。つくみず氏はチトとユーリの旅から逆説的に「消えた文明」も描いている。戦争によって打ち捨てられた多重に折り重なった都市。僕らはこれをどう読み解くべきなのだろうか。これを「退屈」の思想に絡めながら、考えてみたい。

 

『暇と退屈の倫理学』では終盤、ハイデッガーの「退屈の三分類」を主幹に置き、それぞれ「退屈」の定義を丁寧に紐解いていく。(簡単な説明のため、僕のミスリードの可能性もある)

 

第一形式の退屈は「強いられる」退屈、例えば日常的な強いられた労働。そうした「思考」によらない時間的支配を抱えている状態である。第二形式の退屈は、そうした仕事に対する気晴らしの中「娯楽はあるが感じてしまう」退屈という状態。例えば、日頃の飲み会で感じる虚脱感だったり、どこか興奮要素にかけ退屈を感じるような感慨と言える。

 

そして第三形式の退屈は「根本的な退屈」冒頭に掲げたような人間が本来的に持っている、本質的な虚無にあたる。ハイデッガーによれば「動物は生きる為のルーティンを日々継続しているだけで、退屈は感じないはずだ。」とした。そして第三形質の本質的な退屈とは裏を返せば「人間ならではの自由」であり、そこから脱出するためには「決断することだ」と書いている。

 

頷けそうなものだが、しかし、國分氏は反駁する。「第一形式において人間は日常の仕事の奴隷となっている。しかしながらその人間は、もしかしたらその仕事を決断によって選び取ったかもしれないのだ」と言う。つまるところ「決断」とは退屈の第一形式における「思考なき状態」への第一歩であり、実は第一形式と第三形式の退屈は同じ土俵の上に存在し、双方「退屈を乗り越える」という思考から逃避しているに過ぎないというのだ。

 

第三形式の退屈とは虚無主義に近い。人は本質的に退屈を抱える。そこから脱出する為には何か事を為さねばならない。そして決断を迫られる。そこには、ある種の危険思想の影が見え隠れするように僕は思う。ケッテンクラートを操り、気ままに遊動生活を送る二人。その裏で遠い過去に破綻した定住生活者の抱えていた「退屈」は、今の僕らのリアルにまで踏み込んでくるように感じる。

 

いささか誇大妄想の感も否めないのだが『少女終末旅行』自体、思考実験に近い。作中で「古代文明」と呼ばれるのは、間違いなく我々が送っている「定住生活」である。そしてその「古代文明」こそ現代であり、國分氏が本書で指摘する「退屈」と「虚無」の巣窟である。上記に掲げた「虚無的退屈を壊すための思考停止」という第一形式と第三形式の退屈のらせん構造的リンケージが、あの折り重なった都市という「使えなくなったら次を創造する」といういわゆる終末思想の末路のように映ってしまう。

 

現代私たちの感じている、ぼんやりとした不安。それこそ、日常に横たわる第一形式の退屈であり、そしてそれが先鋭化された極致である第三形式の退屈。また、それを打ち砕こうとする決断を抱いた人々。それは呼び方を変えれば「国粋主義者」や「自国優先主義者」あるいは「原点主義者」というドラスティックな「決断」に溢れた人たちの存在なのかもしれない。

 

國分氏は最後に、人間らしく生きるためと銘打って、退屈を乗り越える希望として、上記の第二形式の退屈についてまた書き出す。なぜハイデッガーは「パーティ」という気晴らしに退屈を感じてしまったのか。いや、確かに我々も飲み会などで、ふと感じる虚脱感は理解出来る。しかしながら、我々はそうした目の前の細かな事に対して、いかに楽しみを見出すか。それが案外重要なのではないか。と説く。

 

例えば、料理一つや酒の味にしても。それが逸品であろうと舌が肥えてなければまるで楽しむことが出来ない。芸術にしてもそうだし、会話一つにしても同様だ。第二形式、気晴らしの中でも我々は確かに退屈を感じる事がある。ただ、それは「楽しむこと」を学ぶ事によって乗り越えられ、そして人生を豊かにする方策ではないかと、国分氏は書いているように思える。

 

少女終末旅行』においても。アニメ版に「音楽」という秀逸なエピソードがある。『雨だれの歌』という名曲を残した神回だ。そこでは、雨だれが生み出すちょっとしたリズム。ちょっとしたノイズ。それらが共鳴しだすと、なんだか楽しい。それは過去の文明人が楽しんだ「音楽」という文化になることをチトとユーリは学んでいく。

 

そこに新たな喜びを、彼女たちは見出していく。正直何もない世界を歩むということは「強いられた」退屈かもしれない。しかしながら、ちょっとした気晴らしを少しずつ重ねながら、彼女たちは明確に小さな「楽しむこと」を積み重ねる。そして最終話のシーンにおいて「生きてて楽しかった」と生を謳歌しきったユーリの言葉には、やはり胸を詰まらせてしまった。

 

僕らは娯楽が氾濫しすぎた世界に生きている。國分氏が記す通り、何もかも消費可能であり、そして結局満たされることはない。

 

彼女たちの「遊動生活」というあり方は、モノは少ないけれども、人間にとって適合性の高い生活基盤の上で「退屈」を、日々の発見によって乗り越える、一つ一つの過程そのもののように見えた。今回の『暇と退屈の倫理学』を読みながら、再度『少女終末旅行』を読んでみて発見できた読み方である。ということで、誰が読むのかわからんけれども。長々とそんな感慨でした。いや、ほんとに長くなってしまった。

 

毎度言うけど、どちらも本当に面白いのでお勧めです。

 

 

社畜を生み出す「日常」という信仰

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首都圏の鉄道 雪で運休や遅れ(午後5時) | NHKニュース から

 

・大雪でも許されない我々社畜という存在

東京においても久々の大雪となった。一昨日午前から降り始めた雪は夕方~夜にかけて更に酷くなり都心においても積雪20cmを記録する程。いやはや、驚いた。わかっちゃいるが東京住まいというのは自然に対する想像力を退化させる。

 

タイムラインを覗くと、学生の皆様方におかれましては「よっしゃ休講!!」などと心ときめかせた不届きものも多いのではないだろうか。バチ当たれ。その頃僕は、首都高から関東近県の高速道路が真っ黒(通行止め表示)に塗りつぶされたJARTIC(日本道路交通情報センター)のサイトを眺め「うわぁ・・・これは炎上だな」と諦めと悲しみに暮れていた。

 

現物配送を扱う弊社において、この事態は悲惨の二字。そして実際にトラックを運転しているドライバーさんなんてその比ではない。こんな状況で商品を運ぶとか無理っしょ・・・いくつかのお客さんからは怒号が飛ぶ。「困るんだよ」「遅れるのはわかるけどいつになるの?」「仕事が滞るんだけど」とりあえずマジックスペル「平謝り」にて怒りの矛先を逃す逃す。

 

また当然ながら、夕方以降。各種交通機関の麻痺が想定され、多くの企業において社員へ早めの帰宅を促す場面も見受けられた。僕が働いている会社でもその例に漏れることなく、15時には早退推奨となり、遠方に住んでいる社員や女性社員から早退。しかしその中途半端な「ホワイト企業意識」がいたるところで氾濫。駅での入場規制など結局それも交通機関でのラッシュを生み、麻痺の一因となってしまっていた。

 

そんな中、アメリカの文化と日本のこの惨状を比較し、バズっていたこのツイートが目についた。

 

 

うーむ。僕もそんな交通機関の麻痺を想定しながら出社しちゃった社畜の一人であることは確かで。ただ結局出社したものの「こんな日にやる気でねー」と、早退ばかりを考えていたわけで。そう、このツイートが言うような立派な「社畜魂」や「忠社精神」なんてものを持ち合わせているかと言われると、すまん。完全に「否」だ。

 

そして、同世代を眺めていてもそこまで熱い志を持って「雪?関係ない!仕事を優先させないと!」と働く意識を持って雪の日に立ち向かう人間なぞ、どこぞの「仮想空間代理人」とか不動産関連ベンチャーとか、そんな会社でしか見られないレアモノ人間ではないだろうか。(世間など所詮は類友なので、あまり強くは言えないけど)

 

じゃあ、今この国で多く存在している「社畜」を生じさせている根本にはなにがあるのか。大雪が降るという日に「いつもより1時間家を出ました。はい、交通機関のマヒが想定されますので」と朝のニュースで彼らに答えさせているものは一体何なのだろう。そんなことを一人でうじうじ考え出してしまった。

 

 

「日常」という価値の裏に

僕らは日々の生活において、変わり映えのない「日常」を過ごしている。朝起きて、電車に乗り、会社や学校へ行き、同僚や仲間とコミュニケーションをとり、そして電車に乗り、家路につく。まぁ在宅だったり、これに該当しない人も多くいるわけだが、要するに人の生活にはルーティンがある、という事だ。日々、全く異なる毎日を過ごせる環境にいる人もなかなかいないだろう。

 

その日常というシステムは、それだけで価値がある。自分の精神や生活の安定、毎日を生活する上での思考力や労力コストの節約にもなる。毎日違う状態で仕事をするという事は、それだけで体力や精神力を削がれるモノである。だからこそ、冠婚葬祭や入学就職といった「日常が大きく変化するとき」というのは重要視される。

 

変化の多い4月を乗り越えた後の「五月病」などはその「不慣れな日々」に対するストレスが顕著に表れてしまった状態であろう。つまり、新たな「日常」を定着させることは人として生活する上での必須条件ともいえる。

 

しかしながら、この「日常」というシステム。上記のメリットと表裏一体のデメリットも生じる。注目すべきは「日々の労力や思考力を節約する」という点だ。日々のルーティンに「慣れる」ことで徐々に考える力を低減させても、日々を回す事が出来るようになる。つまりは「いちいち考える手間を省く」という事である。

 

自分もまさにそうだが、朝眠い・・・とか言いながらなんとか起きて。歯を磨き、スーツを着て家を出る。満員電車に揺られて会社につき、さーて仕事だ。と少しずつギアの回転数を上げていく。そして思うのだ。その間、大して物事を考えていないなと。そう、それが大雪の日であったとしてもだ。

 

当然、日本人が社畜と呼ばれやすい所以には、その勤勉さや得意先への迷惑をかけていけないという切々たる思いがあるという事も事実だろう。しかし、その反面。社畜の存在を生じさせているのは「日常」という無思考状態を脱したくないという、ある種の執着・恐怖心なのではないかと思えてきた。

 

 

・非日常を受け入れる柔軟さを

基本的にあまりトラブルを望む人間はいないだろう。そして、何より大戦やあの震災を経験した我々が「日々の平穏な暮らしこそ、最上の平和的状況である」という事を否定はできない。しかしながら、その「日常」というものが至上価値になり始めると余計な発想が生じてくる恐れがある。本当に訪れる「非日常」に対処できなくなるのである。

 

例としては極論だが、2003年に韓国で起きた地下鉄放火事件を挙げたい。200人以上の死傷者が出てしまったことも当然ながら、この事件は別のことで有名になった。一体何なのかと言えば、車内に煙が充満しているにも関わらず、座っている客席が一向に騒がず逃げないという状況がカメラに収められた事で話題となったのである。

 

これは専門家によれば心理学上の「多数同調性バイアス」が働き「周囲も動かないし大丈夫でしょう」「騒ぐ必要のないこと」という思い込みが、結局多くの人の行動を阻止してしまったという事態を招いたとのこと。詳細は下記の防災・危機管理アドバイザーの山村氏のページを参照頂きたい。

防災心理学、正常性バイアス、多数派同調バイアス、

 

こうした事案における心理的バイアスを例とするのは大げさかもしれないが、僕らのこの社畜的状況というのは、長時間労働にせよ、出勤困難時での出社にせよ、そうした「まぁ、日常的なことだから」という思考停止や周囲への同調が「ちょっと待てよ」と考えるという選択肢を放棄させているのではないかと感じたのである。

 

先ほどから繰り返している通り「日常」のシステムの強みは、思考の低コスト状態でのルーティンの持続だ。しかしながら、いざ環境が「非日常」となったときに「日常」への甘えが抜けきれずに、その慣性のまま行動を起こしてしまう。

 

この時期でよくある話で言えば「どうもインフルエンザぽいけど、とりあえず会社出て簡単にメール片づけて病院に調べに行こう。」というアレである。いやいや、移してるからそれ。そうした仕事という「日常」への依存は、災害時や自分の体調コントロール、更には周囲への影響においても、危機管理意識を鈍らせるのではないかと感じる。

 

 

・絶対的なものがないからこそ「日常」に依存する

もう少し深い部分を掘り下げて終わりたい。よく話題になるのは3.11の災害時の話だ。東京都心でも交通網が麻痺し、通電すらままならないという状況下で。「とりあえず会社やってるか分からなかったから、電車走ってないじゃない。ママチャリで50km出勤しちゃったよ」と武勇伝として語る先輩がいた。確かにすごい。あの状況下、ガッツは見上げたものである。

 

これは極端なパターンだが、ただそこまでして僕らが守りたい「日常」とはなんなのだろうか。冒頭近くで引用したツイートもそうだが「Karoushi」という言葉が英語としても通じるほど、日本人の「社畜」さは世界でも特異とのことだ。そして近年に入れば、それが決して生産性をもたらすものではないという事も通説となってきている。

 

この社畜という現象は、僕個人の考えでいえば以上見てきた通り、自分で築き上げてきた「日常」への依存的状態のように思える。以前このようなエントリを書いたことがある。

www.wagahaji.com

 

ここでは無宗教という人が大半を占める日本において「労働」こそが代替宗教となっているのではないかという問題提起をした。今回、更にそこから踏み込んで「労働」をも組み込む「変化のない日常というシステム」という大枠こそが、日本人にとっての代替宗教と化しているようなイメージを持った。

 

何か宗教を持て!といいたいわけでもないが、何のために生きるのか、という問いは無意識レベルで誰もが抱えている問題である。それに対して「日常」はある種「変化のない安定した幸福な日々」という答えを提示出来るシステムのように思えた。だからこそ、人はそこに依存してしまうし、明らかな長時間労働に対しても「日々の生活だから我慢する」というバイアスが働いてしまうように思える。

 

更に言えば、それほどに崩されたくない自分の日常。それを維持する為にこの国では「されたくないことは人にしない」というような「道徳」という自主法治的な構図も用意されている。ただ、当然慣習法レベルであるため、人それぞれによって答えは異なり、冒頭のごとく「雪で配送できないの仕方ないじゃん」と思っても「バカヤロウ」と怒る人がいるのだろう。彼らは彼らの「日常」を壊されたくない。それが非日常な環境においても日常を優先する感情となるのかもしれない。

 

「日常」を大切にするのは人として当たりまえのことだし、そこには多くの価値がある。しかしながら、それによって僕らは大きな思考停止を強いられているのではないだろうか。大雪の中、色々な「社畜」自慢がインターネットを流れる中、そんな考え事が過ってしまった。

 

『少女終末旅行』を見て。今この国で生きる絶望と想像力について。

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 少女終末旅行』©つくみず/新潮社

「少女終末旅行」第6話の先行カットが到着。ケッテンクラートの故障、そしてユーリの視界に飛び込んできたのは…(画像1/6) | WebNewtype  より

 

正直そこまで期待をしていなかった作品に完全にいろいろ持ってかれたという経験も、そう多くあるものではない。

 

昨晩深夜1時半。原作・アニメ含めた全話を鑑賞し終えたおっさんがひとり、Kindle fireを抱きしめながら布団の上でさめざめと涙を流していた。いやぁ・・・本当に良かった。

 

タイトルと冒頭にもある通り昨年の秋冬クールにおいてアニメ化された『少女終末旅行』を見終えた。人間が全くいなくなってしまった近未来の荒廃した世界で、2人だけ残された少女、チトとユーリが淡々と旅を続けるという物語である。原作連載も新年に入り結末を迎え、現在ではアニメの内容からもう少し先に進んだ「本当のラストシーン」を読むことができる。

(最終話含めたいくつかの話は下記「くらげバンチ」の公式サイトで読むことが出来る。2018/1/21現在)

www.kurage-bunch.com

今回はその『少女終末旅行』を見て感じたことや、その物語が提示してくれている今の時代の想像力について、相変わらず身勝手に話をしていこうと思う。ネタバレなんかも含むとは思うので、そこは自己責任ってことで。

 

芳文社的キャラが問い掛けてくる「現実」

本作の単行本が書店に並んだ頃からその存在は知っていた。だって、書店で著者の名前を自分のHNと見間違える経験などまずない。つくみず氏、実際何度か空目した。wikipediaを覗けば、名前の由来はどうも同人時代の「月水憂」という名前から転じたようである。その名前を書店で見た当初は「同志か」などと変な期待をしたものの、安心しろ、そんな変態がそこら中いてたまるか。である。

 

今回、ツイッター上でのタイムラインでもにわかに「面白い」という声が上がっており、折角Amazon primeで観られるのならと視聴を開始したわけだが、序盤早々からその世界観にやられた。

 

まず特筆すべきはそのキャラデザである。恐れなく言えば主人公のチトとユーリは一見して芳文社系というか。蒼樹うめばらスィー系譜と言えるだろう。いわゆる「日常系」の代名詞らしさを外見上に持った、そんな二人が近未来の荒れ果てた土地をただ旅をして回り、食料を得て、また旅を続ける。

 

本作の設定として、人の住む都市は縦軸に発展したようだ。何らかの理由で住めなくなった都市の上空に都市が新たに作られ、過去の都市は下層に打ち捨てられたままになっている。戦禍によって無くなったと思われる二人の故郷も下層にあり、二人をその町から逃がした「おじいさん」の「上を目指せ」という言葉に従って「最上階」を目指し旅を続けるというのが、話の軸である。

 

序盤、その旅は特段代わり映えもなく、二人のほのぼのとした掛け合いからはさながら『ひだまりスケッチ』や『苺ましまろ』といった作品を眺めている気分になる。ただ、冷静になって思い出せば、その旅路には家も故郷も授業も暮らしもなく。どこもかしこも廃墟として、そこに人がいたという残滓だけが残っている。その中で食料と燃料を求めながら、ただただ前に進むだけの二人は時折「生きてるって何だろう」とか「生命って何だろう」という哲学的な疑問にも対峙する。

 

二人は未就学らしく、ユーリは字すら読めない。対してチトは「おじいさん」の影響から本が好きで、多少の教養が備わっている。コンビのバランスは、ユーリの子供のような発言や問いにいつも呆れてツッコむチトという構図だ。しかし、そのユーリの子供っぽい言葉の中には生きる上での本質が顔を覗かせ、そしてそれに返さなければならないチトの葛藤は、徐々に我々視聴者とリンクを始める。毎日、寝て、食べて、進んでの繰り返し。生きているってなんだろうね。そんな二人の掛け合いを眺めているうちに、それら問い掛けが画面を乗り越え僕らの心にものしかかっていることに気づく。

 

この作品を手に取るまで、見かけだけで「あぁ、芳文社系亜種かな」と思って特段興味を示さなかった。しかし、いざフタを開けてみればその現実味のない芳文社系キャラが、延々と廃墟と空腹という現実に対して淡々とサバイブする。こうした「現実感」のシャッフルによって、少しずつ単なる観測者であるはずの僕らの「現実」という地盤すら揺さぶりにかけてくるような巧みさがそこにはあった。

 

・「絶望と仲良くなる」という思想

こっから多少考察も入ってくるので、がっつりネタバレしてます。最後まで読む予定の人は避けてね。

 

また、本作では象徴的なセリフがいくつか耳に残る。その中でもやはり「絶望と仲良くなろうよ」というセリフは特筆すべきものだろう。最初に使われたのは自作飛行機を飛ばし「都市」からの脱出を図った「イシイ」と出会った回だ。二人の愛車ケッテンクラートが故障し、修復の困難さに延々悩むチトに対してユーリが放った言葉である。本作終盤までユーリがこの言葉を使い、本作テーマの中軸を成していたように思える。

 

先ほど書いた通り、この作品の中で都市は上部へ向かって発展していく。発展というよりは、避難と言った方が適切かもしれない。二人が軍服を着ている事からも、本作の世界観の裏に大きな戦禍があることは容易に想像がつく。アニメも終盤に差し掛かる中で、その戦争の規模やどのように荒廃が広まったのかも徐々に判明する。そして近未来の強力な自律機械兵器、そして核弾頭といった存在も確認できる。

 

それらを踏まえれば、核が実際に使用された後の世界と考えるのが自然だ。武器使用によって人口が減り、そしてあらゆる場所を埋め尽くした放射能物質から逃れる為には、標高が高いところへ逃れるしかない。現に作中で都市のレベルは標高に比例しており、そしてそこにはまだ人の暮らしがあるかもしれない、という一縷の望みこそが「おじいさん」の「上層部へ向かえ」という指示だったと考えられる。

 

しかし、先に示した飛行機を作り都市からの脱出を図ろうとしたイシイは、決して上層には行こうとしなかった。海の向こう、対岸に見える陸地へ向かおうとしていた。そこに目的があるわけではなく、イシイ自身も対岸の陸には何があるのか全く分かっていない。

 

恐らくながら、イシイは少なくとも自分や二人のいる都市のバックグラウンドや上層の状況について知見があったと想像出来る。物語の最終盤では過去の人間が作った月へ向かうロケットの存在も明らかになる。人はもはや「都市」の最上部すら見捨てている。この折り重なった都市の上下に最早意味はないと、彼女は既に理解していたのだろう。

 

結果を言ってしまえば、飛行機計画は頓挫する。イシイを載せて飛び立った飛行機は、翼が折れ、墜落する。パラシュートを使い脱出し下層へ降りていったイシイは、何か安心をしたように笑っていた。それを遠くから見たユーリが「イシイは絶望と仲良くなったのかも」と呟く。

 

イシイの描写や「絶望と仲良くなる」というセリフは、この先には何もないとうっすら分かっていながら旅を続ける、二人のその後の暗示のようにも思えた。アニメの最後では、観測者たる謎の生命体(ヌコ/神etc)が登場し、この都市において人間の存在は二人以外確認していないと告げる。それは「二人にとって安住の地はない」という、はっきり言ってしまえば本作におけるひとつのバッドエンドの明示となってしまっている。(この生命体の意味合いについてはまた別途の場所で文字にしたい)

 

ただ、二人にとって逃がしてくれた「おじいさん」の意図がどのようなものであれ。幼くして二人で旅を続けることを強いられた彼女たちにとって「安住」という結果に、あまり価値を置いていない印象を受ける。勿論、食事や入浴、安眠といった生活的行為のシーンでは、多幸感あふれる描写がなされており、見ているこちらまで幸せになるようである。

 

しかしながら、二人はそこに留まり「生活」を考えることはせず、視聴者が想像するよりあっさりと次の場所を目指す。その理由に食料事情という事も当然あるのだが、むしろさながら「安住」自体が続かないものだという事を知っているかのような淡白さである。彼女たちはこの旅が希望のない、つまり「絶望的」な旅路だともう分かっている。逆に、この先の希望や絶望という要素だけで語ることが出来ないモノ、今自分が触れたもの、触れてきたものを信じて、自我を保つこと。そうした価値観を彼女たちは提示してくれている。

 

そして漫画版のラストシーン。愛車のケッテンクラートすら失った彼女たちは、最上階へ足を踏み入れる。もうその前に月を向かうロケットの存在を目にし、読者も彼女たちも人間が不在である事実をうっすらと分かっている。そして、結局何もなかった最上階で、星空を見上げる。「もっと下層の段階で、安住することへの希望があったのでは」と後悔を持ち掛けるチトに対して、ユーリはただ「そんなことは分からない」「でも生きてて最高だったよね」と投げかける。

 

・生きるという事を、自分で再定義出来る強さ

本作に触れて、とかく僕が秀逸だなと感じたのはこの「二周目のSF」という設定が、この国の現代社会における温度感と見事にマッチしているという点だ。

 

少女終末旅行』は人間がすでにいなくなった世界を描いた作品である。つまり、彼女たちの旅よりはるか昔に壮大な一大SF叙事詩が繰り広げられていたということだ。近未来兵器を駆使した世界戦争と都市の再興という大きな物語が終わり、人類は宇宙へと脱出した(と思われる)。そして抜け殻となった地球には、メインテーゼとなるような大きい物語など残されているはずがない。

 

本作の「メインストーリー終了後の二周目としてのSF」という作風は、最初から大きな希望を持ちえない物語という意味で、作品にするには難しい試みであるように思える。しかしながら、僕らがこの作品に共感してしまうのは、むしろその希望のなさに対してだ。

 

二人の旅路に感情を揺さぶられるのは、高度経済成長など遥か過去の遺物となり、人口は減り続け、昭和期の遺物だけでなんとかやり過ごしている、もう成長や成熟という物語を失くしたこの国における将来性とどこか重なってしまうからではないだろうか。

 

物語なんてすでにない。「絶望」だということもうっすら分かっている。それでも生きている事が最高だと言い切れる。最終話、ユーリの姿に僕は今の時代における強さのあり方を見た気がした。それは、一見逃避に見えるかもしれない。大きな希望を想像することを捨て、二人という矮小な世界に引き籠った、と観ることも出来る。

 

ただ、本作の二人からはその卑屈さを感じない。むしろ日々の野放図な旅路から先行きが見えなかったとしても、自分を取り巻く世界を一つ一つ構築しているのは自分だという自負が見える。明日に希望がなかったとしても、明日を迎えて1日をまた想像し、創造する。

 

では、その強さはどこから生まれるのだろうか。 序盤に触れた通り、本作では随所に「生きること」「記憶とは」「時間とは」「音楽とは」「生命体の定義」など、人間としての哲学に直接結びつくようなテーマがちりばめられている。そして彼女たちはそれらと向かい合うことを恐れない。ユーリは奔放にそれらに疑問を抱くし、チトは懸命に回答を用意しようとする。その一つ一つ問答の営み自体が「生きること」そのものであり、単なる「幸せに暮らしました、めでたしめでたし」で終わらせない自覚がそこにある。「生きる」ことを自ら定義する強さこそ、このぼんやりとした絶望に対峙する方法なのだと、教えられた気がする。

 

 

本作から受け取れるメッセージは非常に多い。僕が本作をラストまで享受して、取り急ぎ抱いた感想は以上だ。久々に語るべき作品を見ることが出来たと思うし、単行本でもじっくりと改めて読み深めたい。ここまでネタバレしといてなんだけど、見ていない人は見て損はないと思います。いやホント。

 

 

「批評」と「批判・ヘイト」の違いを考える

インフルエンザが大流行とのこと。弊社もやはり例にもれず、各所で人が消え、その人が復活しては人がまた消えと、もはや職場がシャマラン監督の『ヴィレッジ』よろしくな世界感を醸している今日この頃。実際、僕も風邪をひいたので何も言えないのだけど、ちょっと諸々身の回りであったりしたことから「批評」についての考え事を書いてみようと思う。

 

・叩かれる作品なんか作りたくはない

先日とある久しい友人から「話を聞いて欲しい」という事で、電話がかかってきた。彼は藪から棒に「作品に対して批評をする人、あるいは批評自体について良いイメージを持てない」と言いだす。文脈が飛んでいるぞ。と思いつつ、突如どうしたものかとツッコんでみれば、小説を自分で書いてはネットに上げていて、現在どうもその筆が止まってしまったとのこと。

 

その原因として。ある時発表した作品がとあるサイトのユーザーの評価ランキングにおいて上位を獲得し、一定の評価を受けていた頃があったという。そんな中。どのコミュニティにおいてもやはり一目置かれている人というのは居るもので。いわゆる「ご意見番」のような人間から当該作品を「全く面白くない」とそれはもう酷評されたという。

 

どうもそれ以降、なかなか文章が書き出せなくなってしまったらしい。なるほど、小説サイトにおけるそうしたやり取りは、想像でなんとなく「あるんだろうな」と思っていたが、実体験を聞かされると身につまされる思いがする。「ワナビー」なんて言葉が生まれた場でもあり、昨今の小説サイトというのはなかなかに修羅の世界なのだなと痛感する。

 

そうした鬱々とした心境の中、ブログやら同人誌やらで批評めいた事をしているという認識から僕に連絡を頂いたようで。物事や作品の「批評」をすることってどういうことなのか。逆に何かモノづくりをする際、そうした「批評」される事が怖くないのか。うーむ。なんだか、軽い気持ちで聞いていたけれども、めちゃくちゃ真面目な話だった。 批評・・・堀江由衣とすみぺにブヒブヒ言ってるだけだけどなぁ・・・

 

ふと気になったので僕は、彼に「その受けた批判について、自分はどう感じたのか」と聴くと「まぁ、一理あるとは思うけど、やっぱし感想ってものは人それぞれ違うものだと思う」と帰ってきた。

 

彼の言う通りで、文章や絵、音楽やら映像に至るまで。そうした作品と呼ばれるものは、人の感受性によって評価は大きく変わる。確かに一見して「すげー」って事柄には賛辞が集まるのだろうけど、基本的に好みによって分かれるものだ。文章などは特に賛否が存在する。

 

そして「自分の作品が絶対的に優れている」という自信を持てる人はなかなか少ない。往々にして誰かの評価を基準としながら「これはウケたな」とか「よく書けたな」とか。そういう風にして自我を保っている。こんなこと書いている僕自身ですら周囲からの批判や反感が怖くないと言えば、間違いなく嘘だ。なるべくなら叩かれたくないし、同調してくれる人が多い方が「生きててよかった」とも思う。逆に叩かれたら「死ね」とか「死にたい」とか、結局弱っちい人間なのでそんな軽薄な感情で占められていたりする。

 

・マイナスの意見を書くということ

 そして思うのだ。彼が言う通り、非難や批判が詰まった批評なんて文化のどこに意味があるのかと。詰まらないと思った作品は無視すればいいじゃないか。なんでわざわざ、マイナスの感情を振りまく必要があるんだ、という声もよくネットで見かける。わざわざネガキャンなんて、小さい人間のすることだろう。うん。確かにそう思う。

 

ましてや、今の時代。何かマイナスな意見を言えば、すぐにでも製作者に届く時代だ。僕自身も繰り返してる通り、エゴサなんて当たり前の時代である。「〇〇って作品クソだな」なんて言った日には確実にそれに携わった関係者の目には入っているはずで、ある程度立場のある人がそういう「叩き」をすると、それは昨今炎上にまで繋がったりする。

 

先日Netflixで配信中の『DEVILMAN crybaby』について。カオスラウンジ代表の黒瀬氏の「批判ツイート」が監督の湯浅氏に捕捉され、ちょっとした物議を醸したのが印象的だった。

 

 

 

黒瀬氏は自身のラジオ配信において、今回の『DEVILMAN crybaby』について語り、その要約をツイートに記したらしいのだが、その内容は傍から見れば非常に浅い「叩き」にしかなっていない。「サブカルオシャレアニメ」意識の海外受けを狙ったドメスティック作品であり、物語・脚本・演出はひどく、昨今の深夜アニメの方がマシという発言をしている。

 

確かに、ラジオでの発言を聞いていないので「細かいフォローもあったのかな」とは想像する余地はあれどこのツイートが発言の「要約」と自分で言ってしまっている時点で、この批判の羅列が評価すべてになってしまう。こうした発言がアニメ文化における「批評」というものだとするならば、冒頭友人が疑問視した「批評って精神性に意味はあるのか」という不信感には同意せざるを得ない。叩くにしては、言葉や視座が雑すぎる。

 

・期待と根拠と提案と

じゃあ、単にモノが作れない人間は。マイナスの意見について黙ってた方がいいのだろうか。

 

いや、何を作れなかったとしても、それでも作品に何かを感じたのなら言うべき事があると僕は思う。「批評」とは「非難」や「ヘイト」とは異なる。少なくとも僕はそう信じたい。作品のことを語るのは、詰まらないことをあげつらってマウントを取りたいからではなく。作者と同様に映画が作れなくとも、漫画が描けなくとも。その負い目を抱えながら、それでも作品を語ってしまう。もし作品に何かマイナスに感じたならば、その不足点を言葉にして更に高次の想像力に繋げる事、それがオタクとしてなすべき「批評」の、そして吐くべき「言葉」の役割そのものだろう。

 

そうであるならば、やはり一つ一つの言葉を大切にしなければならない筈だ。何か本当に批判的な事を書くにしても、それはやはり「どのスタンスから」そう思うのかを明らかにしなければならない。例えばリメイク作品を「酷い」と一言に言っても、それは「原作に準拠していない」からなのか「物語の本質がズレているから」なのか。「脚本のテンポが遅すぎる」からなのか。詰まらないをただ、詰まらないと言ったら、それはオタクとしての思考停止状態でしかないように思う。

 

例えば先ほどの『DEVILMAN crybaby』に対して、実は僕も惜しいモノを感じた。今の時代に合わせながら、原作『デビルマン』がやっていたことをなるだけ自然に取り込もうというその姿勢には感服した。細部において、表現方法を変えながらシーンを踏襲するその在り方にまずはしっかりと目を向けなければならない。

 

しかしながら、7~9話あたり終盤における幸田の哀しみ、ミーコと美樹の会話、追いつめられたデビルマンと石を投げる民衆のやりとり、そうした最後の友情の確認や、人間くさい言葉の応酬、そうしたモチーフには個人的に見ていて違和感を感じてしまった。

 

そうした一つ一つの描写では原作にない「悪魔になっても残り続ける人としての慈愛」「滅びゆく人間における最後の救いの姿」が描かれているわけだが、それらシーンが却って、人間の本質的な悪を描くはずのデビルマンの中で、災害パニックモノのようなチープさとなって浮いてしまっている。またSNSを積極的に登場させ、さながら現在でも起こりうる破滅としてのリアリズムを求めた結果が、逆に神と悪魔、そして善と悪、という大きな宗教観すら巻き込む『デビルマン』の大枠を狭めてしまっているような印象を受けたのである。

 

 

 

本作の感想としてはまだまだあるのだけど、とりあえず一部分ということで。

 

・「批評」とは何のために

ふとなんとなしに話が逸れてしまったが、結局のところ上記数行は単なる僕個人の感想である。『デビルマン』という作品に高校時代衝撃を受けたからこそ、もう少し表現の方向性を不動と飛鳥の内省にフォーカスしてほしかったと思ってしまうのだ。まぁ「あるべき批評とは」とか偉そうな事抜かして、書いているのはこのレベルなので「まったくわかっていない」と怒られるかもしれない。どちらにしろ、所詮うぬぼれなのだけれども。

 

 

冒頭。会話をした友人との話の中で。結局のところ、何かを言葉にしてネットで発表したり、作品を作るというのはやはりリスクなのだ。批判を覚悟し、自分の力不足を恐れながらも、何かしら吐き出すということ。当然それは周囲の目線というリスクだけでなく、自分の時間すらコストとして費やす。今行っていることが、人生において果たして本当に意味があることなのかと懇々と自分に問い詰め始めれば、自然とこのタイピングしている指も止まるだろう。

 

改めて言うが、批評という文化、精神性は非難やヘイトとは違う。リスクを負いながら、結果どうなるかもわからないような文章や漫画を淡々と書き続けること、そうした人たちへのリスペクトから生じる、オタクなりの激励であり自己表現だと、勝手に思う。

 

最後、その批評というものが真に批評であるかどうかを見分けるためには。

 

ポジティブなエネルギーの為に言葉を吐いているかどうか、それを見極める必要がある。まずは、その作者の為に。もっと面白いものが作れるんじゃないかという期待を込めて。そしてそれは、そのより素晴らしいものを見たいという自分の欲求の為でもある。何かを考えながら色んな作品を見るということは、より面白い作品を作る一助になるのだと、一趣味者として身勝手なことを思う夜半でした。

 

みなさんもインフルエンザとか気を付けてくださいね。

 

LGBT議論が解いていく「自分」という存在

いくつかの考え事が重なると、文章を吐き出すという傾向が自分でも分かってきた。一つの観点だとなかなか文章にならない。いくつかの関連する発想が重なったときに「これって一連の話じゃないか」と懇々と書き出す。今日もそんな引っ掛かりから、考え事を漏らしていく。

 

・女装して女湯に「忍び込む」という行為の考え方

先日、こんなニュースを見た。

news.livedoor.com

 

数年に一度はお見受けする感じのこういったニュース。側溝覗きやらサドル泥棒、ちょっと社会一般とは違った行動力と性癖持ちおっさんの「あぁ、やってもうたかー。」みたいな事件。今回もいつも通り何とも言えない悲哀を持って眺めていた。

 

ただこの事件を見ていて、ちょっとこれと関連させていいのかは微妙なのだけど、NHKバリアフリー・バラエティ番組『バリバラ』にて昨年末放映された特集が頭から離れなかった。それがこの企画である。

NHK バリバラ | LGBT温泉旅

LGBT温泉旅」非常に分かり易いタイトル。つまりは、ゲイセクシャルやレズビアンバイセクシャルトランスジェンダーといういわゆるセクシャルマイノリティの人たちで温泉に行ったら、女湯・男湯どっちはいったほうがいい?みたいな実験企画だった。

 

非常に攻めた特集で、温泉宿の女将さんをも巻き込んで「温泉とか性別を真っ二つにせざるを得ないとき、セクマイってどうしたら一番自然なんだろうね」と考える内容はなかなかに刺激的だった。特にFtMの万次郎さんを画面に映す際、胸部はたしかに女性、でも全くモザイクなしという選択、これには「さすが」と思った。

 

通常TVのモザイクには二種類あると想定できる。本人プライバシー保護のような「被写体個人が映されたくない」ケースと、エロシーンみたいな「社会一般的に放映するのが不適切」なケース。今回の判断は「男って裸の画面で乳首消さないでしょ?あと万次郎さんも望んでないし。」という正論真っ直ぐな放映を行った。既存の「性別」だけが放映の基準じゃない。そうした宣言にも見受けられた。

 

そんな特集を見た後だから切に思ってしまうのだ。「おっさんは本当にただ「忍び込んだ」のか?」と。ニュースだけを見れば、後から「女性の裸体が見たかった」と供述を変更しており「なんだただのスケベおっさんが女装を道具にした事例じゃん」と断罪出来るのだが。

 

もし、本当は「おっさんの性自認に揺れがある」パターンだとしたら。むしろ社会的に見ておっさんが「性自認の不一致よかスケベの方がまだマシ、と思っていたから供述を変えたんじゃ」とか。警察の陰謀論まで持ち出せば「立件する上で性自認の問題に持ち込まれると、法的にも話がややこしくなるから供述を覆させた」・・・とか。あくまでたらればの話、思考実験として捉えてほしい。

 

真相自体を知る術はないし、おっさんの行為はあくまでも犯罪なので断罪されて然るべきなのだけど。その本意を探ろうとすると、思った以上に難しい自我の話につながっていく。

 

(余談だが、女装して女湯凸は罪状として恐らく建造物侵入が適用される模様。公然わいせつでは・・・?と思うんだけど、入浴場は「公然」ではなく適用されないみたい。各自治体で条例が定められていれば違反にはなるかもしれないけれど。また戸籍上の性別変更の条件に「性器の外観の近似」が掲げられた要因として「公衆浴場での混乱を防ぐ」とある通り、そこらへんの法整備はなんだか逆に微妙なところ。小学生が性別関係なく銭湯入れる年齢なんかもネットを眺める限りまちまちらしい。)

 

 

・自分が抱くアイデンティティの範囲の無限性

もう一つ、この話に関連して引っかかった話題を挙げる。

 

昨年末、冬のコミックマーケットで発刊した弊サークルの新刊『’00/25 Vol.8』/「大怪獣サロン大特集」の中で、お話を伺った怪獣芸術家ピコピコ氏の示唆的な一言が脳裏に過った。

 

「本当は男だけど、女という自認が認められるのだとすれば。例えば日本人とドイツ人だって、国籍の違いが自認によって認められたりしてもいいのになと思うよ。「私はドイツ人だと思ってる!」とかね。基本的に男と女っていうのも「自分がどう思うか」っていう問題だから。最終的には「宇宙人だ」っていうのも認められてもいい気はするよね。こういうこと言うと怒られるから、あまり言わないんだけど。」

 

この短い文章には、茶化しているようでありながら、かなり多くの問題提起が詰まっている。そして、最後には「こういう事言うと怒られるから」と〆ている通り、こういう話題に敏感な人もいる。

 

「自認がズレているならしっかりと手続きを踏んで変更すればいいじゃないか、それで解決だろう。」という反駁も浮かぶ。現在、性別や国籍について、生まれ持った属性から変更することが法律上で認められている。それぞれの条件はあれど、何らかの理由で変更する相当の理由があれば、公的な立場からそのお墨付きを受け取ることも出来る。

 

しかし、ここでピコピコ氏の発言が問いただすのは「そもそも自分の自認で決まるものなら、国籍とか性別ってなんなんだろうね」という自己決定の本質の部分だ。極論「自分が宇宙人だという自覚を認めてくれるのは一体誰なんだろう」という話である。

 

例えばある日僕が突如天啓を受けて「ドイツ人女性」だという自認を持ったとして。それに対するあらゆる条件をクリアして、国家からそういうお墨付きを貰ったとしよう。もともとの「日本人男性」という存在。これは、一体何だったんだろう。という具合だ。

 

何が言いたいのかといえば、逆説的に。今多くの人が抱いている自分にとって、厳然たる「事実」に基づいた日本人そして男性および女性「であること」は、往々にして自認によって追従された「とされたこと」ではないかという事だ。確かにこれは詭弁だし、男女という生物学的な事実は存在するし、国籍は基本的に揺るぎもしない。ただ、自認ベースで権利取得を目指す昨今のLTGB議論に耳を傾ける中「じゃあ僕は何者なんだろう。」という自分への問いが足元まで及んでいるように感じたのだ。

 

・無思考による追認からの離脱

また少し。しょうもない話をここで挟みたい。

 

僕の父親は誕生日が2つある。戸籍上は11/27で、正確には11/28だという。祖父が書類を出し間違えたとかいう話らしい。そういうこともありうるものなの?と胡散臭いのだが、戦後間もない時代の混乱期、そして4人兄弟の末っ子。まぁ、なくもない話なんだろうなと思う。

 

結局、家族で訂正などを検討したものの僕の親父が「手続き上面倒だ」という事もあり戸籍上の27日を自分の誕生日にした。という。自分の誕生日を自分で選択するというのもよく分からない話だが、これもまた小さいながら「本来あるはずのない決定権を得た」行為と言えるだろう。

 

本来あるはずのない選択権。昨今のLGBT議論はそこを掘り下げにかかっている。過去から社会的に「事実」とされ、疑いようのない、疑問をさしはさむ余地のないものとされた性別・恋愛対象。そこに対して巻き起こっている現代の反駁を、単に「セクマイの社会運動」としてではなく、その議論の本質をもう少し広い視野で眺めても面白いと思う。

 

例えばこの日本という国の中で左翼右翼と全く違う「国籍観」を保有している人たちがいる。(大東亜共栄圏発想と戦争犯罪国家的な対立)よくこれを「歴史観」と言うが、歴史はどの時代でも改ざん可能だ、という事実くらいはそれぞれ分かっていることだろう。それでも頑なに自身の主張をぶつけ合う姿を見ていると、自分の在り方そのものをぶつけ合っているように見える。自我そのもの「国籍観」の衝突に見えて仕方ない。しかし。それらはお互いに「固有」と信じ切っているものの、恐らくどこかで彼らは「選択」をした。だからこそ、国籍という観点から大きなズレが生じている。

 

僕らは揺るぎのない自我として「国籍」「性別」「性嗜好」など様々な付属品を身に着けている。それらは本当に生まれ持ったものなのか、あるいはどこかで選び取ったものなのか。もう一度問いただす場面に来ているように思える。

 

最後に。冒頭に掲げた『バリバラ』で。そのエンディングに重要な議論があった。自らの性自認を、外観や心中、恋愛対象など5つの項目に分けて、それぞれをバロメータとして表すフリップを使ってディスカッションが行われていた。

 

どの部分が男性的、ただここは女性的、あるいは中性的など。結論から言えば、その趣向や意見は同じトランスジェンダー同士でもバラバラだ。主にセクシャルマイノリティはタイトルにもある「LGBT」という4種で見られているが、本質的にはこの4種の区分はあくまでも大きな枠組みである。

 

恐らく、本来僕らが持っている「固有な自我」とは、カテゴライズ出来るほど明確なものでなく、そして自分でも理解が及ばないほど複雑な状態のように思える。そこへの単純な仮回答として「国籍」や「性別」という枠組みが与えられているに過ぎない。単純化した自我がないと生活がままならないというのも仕方のない話だが。

 

セクシャルマイノリティと呼ばれる彼ら彼女らが、その運動にレインボーフラッグを掲げるのは「7色もバリエーションがあるから」ではなく「カラフルな色が不可分に存在するから」だろう。男女、国籍、そうした可分な現実から、不可分な内面を想像すること。まるで仏教のような結論に至っているけれど、恐らく今の時代。幸福感やら社会的達成が個別化されてきた中で、大切な視点、思考方法のように思える。

 

まとまりのない雑感を日曜の昼に捲し立てた感がある。風邪気味の暇つぶしにはちょうど良かったかもしれない。