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わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

ふと自らの同人活動を客観視して

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 撮影:林先生 半身のおっさん:僕

 

前々からここでも書いていた通り去る2月12日。コミティアにサークル参加してきた。遊びに来てくださった方々、本当にありがとうございました。

 

あまりに売れなかった前回コミティアに対してリベンジを掲げた今回。幣サークルに委託で来てくださった林先生の陽子加速器施設写真集『PROTON』には遠く及ばなかったものの、こちらの既刊も「前回実績3部」に比べれば、それなりに数も捌けた気がする。むしろその写真集目当てで来たお客さんに、下ネタ満載の『3K歌集』を押し売りするなど非人道的な振る舞いもしたような気がするが、何はともあれなんとか今回売上で今月の電気代・ガス代辺りは賄えそうだ。また本が捌けたおかげで帰りも宅急便を使わずにキャリーを引いて家まで帰ることが出来た。いやほんと有難い限りである。

 

これが林先生のとこの写真集。やっぱすごい。ビレバンでも買えるみたい。

 

 

と、そんな中で今更ではあるのだけど、昨日のコミティアという場所で。ふと自分のサークルを客観視することが出来たのでそんな感慨をここに書洩らしておこうと思う。

 

これがコミケの場合案外難しい。行軍のような人の群れ、極寒と灼熱という過酷な環境、そして盆暮れという日本の心を逆手に取った開催日程。毎度参加してもバタバタしてしまい、気づけば「終わった・・・疲れた・・・」という言葉に尽きてしまう。最近アフターなんて行ったところで大抵寝落ちしてる。いつかレイヤーさんと楽しく談笑、更には夜もワンチャンとか夢見てみても、体力が足りない、コミュ力が足りない、結局のところ自分が足りない。てかそれ以前に、そもそもうちのサークル、コスプレイヤーとまるで関係がなかった。長くなったが何が言いたいかっていうと、コミケって落ち着いてイベントや同人活動自体を省みれないなぁ、と思ったのである。

 

それに対して、比較的よい頃合いに開催してくれるコミティアそして、会場もいい塩梅の人ごみ、そして落ち着いた雰囲気。今回はいい機会だったのでちょっと冷静になって、自分のサークルを諸々眺めてみたという訳だ。

 

・そもそも、うちの本って

そこでふと思った事としては、買ってくれた人にも、協力いただいた方にも失礼な気もするが「うちの本を買っていってくれるような人って、どんな人なんだろう」って事だった。それが顔見知りであれば義理人情も含めて、ありがとうございますって感じなのだけど、とにもかくにも偏ったテーマにこの文章量。まず初見で「ちょっと見てみてもいいですか」と言う人はまず買っていかないというジンクスまである。いや、ジンクスというか、ただの自明の理かもしれない。

 

思えば、これまで発刊してきた「'00/25」シリーズは所謂、傍から「こんな人たちと会話してみましたよ!」というおもしろカルチャー紹介本では、まずない。どちらかと言えば「当事者」向けの本に近い。オタクだったりフェティシズムだったり、そうした「一物抱えた人」の心理を文章化してみたい、なぜそうした趣向を抱くようになったのか、ということを考えるのが根源的な目的の本となる。そりゃあ「ちょっと気になるぞ」って人が買える代物ではないかもしれない。自身の編集・デザインスキルの不足も当然あるのだけど。

 

また今回、売り子するでもなくぼんやり突っ立ってると、スペース前を通る人が「女装だってよ」「フェチって」とヒソヒソ話して通っていくのにも案外気づけた。結構いた。なるほど、扱っているジャンルもやはり文化として全然アウトローにいるのは間違いないようである。そうした周囲のリアクションを見てみて、やっとその実感が出来た。アホである。いや分かってはいたが「分かる」のと「実感」では雲泥の差がある。

 

まぁ、まずジャンルとして。ご飯とかペット等よか明らかに数字が取れない分野を扱っているってのは理解できる。イヤらしい妬みという話ではなく、当然のこととして一般的なジャンル、あるいは手に取りやすい切り口に設定すれば「欲しい」と感じる人は増えはしないでも、一定層いるわけで、その逆を地で行けばそもそも手にする人も減少するはずだ。

 

昨日はなんだか、そんなことを考えながら。減少したはずの需要層の方々が、目の前で本を買ってくれている事に不思議な気持ちになったのである。この人一体何を抱えているんだろうと。その前にてめーは、何を作ってるんだというツッコミもしかるべきながら、余り需要を考えずに毎回走り出す為、やはりそうしたモノに興味を抱く人もいるのだと、他人事のように改めて実感してしまったのである。

 

・同人誌って、やっぱ面白いなぁって思った

小学3年生レベル国語苦手なヤツの感想文みたいな見出しで申し訳ない限りだが、こういう本を出せるというのはやはり同人誌の魅力なんだなというありきたりな結論に帰ってきた。だって需要考えてないんだもの。僕が聞きたい話を聞き、そして読んでみたい本を作る。そんな勢いだけで本当に作ってるんだなと、改めて実感したのである。逆に言えば、そんな本でも手に取ってくれる人がいる。その事実に改めて励まされた。

 

そう思ってみてから、こんな独りよがりなオナニー大会に巻き込んでしまった方の多さに恐縮している。今回、改めて過去にこのシリーズに対談や寄稿、写真等によって協力頂いた方の人数を数えたら総勢25人に上った。いやはや、ほんと申し訳ないやら、ありがたいやら。ここまでいると、どの方向を向いて寝てもたぶん誰かしらに脚は向くから立って寝るしかない。特にオチがあるわけではない。それにしたって、自分だけでは出来ない企画ばかり。本当に文字通り皆様のおかげ、というよりむしろ皆様が「陽」に立って完成する本だなとも痛感した。

 

そして、こんな文章を書いてると、このシリーズも次回がラストなような気持ちに自分がなってくるが、もうしばらくは続けようと思う。今日はそのモチベーションを改めて見直したいという、いわば自分励まし記事である。「そんなんアナログ日記でやれ」と言われそうなので、事前にやってみたら「無意味」「虚無」「結婚」とかネガティブ単語の羅列大会になったので公開記事で気勢を張ることにした。いやぁ、独りよくない、死ぬねほんとに。

 

次回夏コミ。一応テーマは定まっている。追々公開していきたいが、多分またバカだと思われるテーマを真剣に文字化してみたい。その根底は何なのかと自問すれば、多分人が好きなんだなぁとたまに思う。面倒なことを考え、主張し、ちょっとした違いを騒ぎ立てる。多分本質的に考えれば人間の営みって、動物として考えるとかなり無駄が多い。でもせっかく人に生まれたんだし、そういう無駄も楽しまないと損だよなと。そんな無駄に仰々しい本をまたしばらくは作っていければと思う。と、こんな壮大なこと言ってると、僕まで「宇宙キタ――(゚∀゚)――!!」と出家した感じになりそうなのでここらへんでやめておくが、コミティアに参加してそんな事を改めてぼんやりと思った所存である。

 

あと会場で。『3K歌集』読んでくれた人が「下ネタが星野源みたいですね!」と言ってくれたので、今年は頑張って星野源らしく生きていきます。そう言ってくれた人の目の前で、なんだか嬉しくなって恋ダンス歌いながら踊りかけました。

 

今週末、コミティアでリベンジです。

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ということで、読んで字のごとく。なぜリベンジなのかは後述するが、今回は今週末の2月12日(日)に開催されるコミティア119にサークル参加するよというお知らせと、ちょっとしたお話。

 

コミティアと言えば、創作ジャンルオンリーの同人誌即売会。同人誌を買うにもコミケともちょっと違った雰囲気が味わえる為、漫画好きで行ったことない人はぜひ行ってみるべきだろう。コミティアのことを紹介したこんなエントリを以前書いたので参考にしてみてほしい。

www.wagahaji.com

 

・前回の販売実績 3部

正直に言えば当初、今回のコミティアに出る気は毛頭なかった。だって、前回参加したら3部しか売れなかったから。「同人活動は金じゃねえ!」という正論も分かるのだけど、そりゃ結構凹む。しかも、そのうち1冊は身内売りだから、実質2冊。久々に「こんな売れないことってあるのね」とか思いつつ開場から3時間ほどで心が折れて撤収、下町江東の羅生門こと門前仲町へ向かい昼から酒を浴びるように飲んだ。運営に見本誌を献上しに行っただけな気分になり、荒んだ心でひたすら黒ホッピーを煽る。

 

僕が同人活動始めた当初、2007年に出した東方ギャグマンガのコピ本ですら6部売れたよ。いやぁ、やっぱしあれかな。本来、創作漫画を出すべき世界にこの評論ジャンル、しかも完全にとっつきにくい「フェチ」「オタク」趣味全開な対談集。やはり場違いだったのか。みんなが待ってるコミケに帰ろう・・・と同じビッグサイトなのにホームシックを抱く始末。とそんな感じで、サークル活動としては完全離別を決めたコミティアだったが、そこに運営から一通メールが届く。

 

「見本誌読んだけど、カタログ兼入場証のティアズマガジンで紹介レビュー載せるからまた出ない?(雑な要約)」

 

あんだけ売れなかった事を「ぐぬぬぬぬ」と思っていた気持ちが見事に反転「はい出ます!!」と超素直に即答。すぐさま参加費を振り込む僕。なんだか、普段は無碍にされても、少しでも優しさを見せられるとすぐ惚れる駄目男の気持ちがすげえ分かった。まぁ、ということなので『ティアズマガジン』の威を借りてリベンジである。いやらしいけど、せめて月の電気代くらいは稼ぎたいぞ。

 

※『ティアズマガジン』プッシュ&レビューの「情報ジャンル」のコーナーで本当に取り上げてくださってます。嘘じゃないです。 買った人は見てみてください。ありがとうございます。

 

・以下、やっとちゃんとした宣伝

ということでこれがお品書き。とりあえず参加スペースは「なー08a」お誕生席です。

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 ということで、冬のコミケで完売した自分の黒歴史だけで作った『3K歌集』も恥を忍んで今回再販。コミティア行く予定だよって方は是非遊びに来てね。そして今回は更に委託商材として、あの「スク水着用割引」というキチガイ制度を引き継いでくださった林先生の冬コミ新刊も販売予定。当日遊びに来て頂けるようなので、多分ご本人もいます。スク水着てるかは分かりません。普通にすげえ写真集なので僕も欲しい。詳細は下記ツイートから。

 

 

配置場所は入り口からわかりやすい感じですので、まぁ、ふらついたついでにでも覗いてみてください。展示やってる大通りの並びにいます。ね、超わかりやすい。

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ということで、主役の創作マンガの陰で、情報ジャンルも結構しっかりおります。周りも今カタログ見てみたら面白そうなサークルさん多いので、ぜひ「コミティアはあくまでマンガの祭典!」と思ってる方も、たまには趣向を変えた本をつまんでみてもよいのではないでしょうか。当日はよろしくおねがいいたします~

 

『この世界の片隅に』に感動する理由を考える

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画像元サイト 片渕須直監督による『この世界の片隅に』(原作:こうの史代)のアニメ映画化を応援 | クラウドファンディング - Makuake(マクアケ)

 

見終わった際、なんで自分が泣いているのか分からなかった。

 

ようやっと見に行けた。思い返せば「年内には行こう」という思いもむなしく気付けば2017年の2月頭。皆様のお陰でというか大ヒットロングランという事もあり、今もなお劇場で見る事が出来たわけで。もうこの時分、こういうブログとかで何を言おうが野暮なんじゃという思いも相当あるものの、折角こんな作品を見れたのだから感想のひとつ、書いたところで罰は当たらないだろう。

 

・決して感動作なんかではなかった

「感動作でなかった」と早速煽り気味の文句を見出しに載せてはみたものの、結局のところEDではコトリンゴの歌う『たんぽぽ』を聴きつつただ号泣していた。まぁ、どこの映画批評サイト覗いてみても同じような話なので恐縮だけど、お涙頂戴でないのに溢れる涙。それはまがいもなく正しい感想であった。しかしながら、では僕らはこの映画見ることによって、どんな感情を得て、そして泣いてしまったのだろうか。今回はそんなことについて滔々と考えてみたい。

 

まず、この映画が観た人に投げかけたのは「感動しろ」という強迫観念ではなく、そもそも人が感動するとはどういったことなのだろうという問いだと感じた。書き出しの通り、僕自身もただただ、EDクレジットを見ながら流れる涙に対して、当初はただ当惑していたといってよい。

 

はっきり僕の感想を言えば、本作のストーリー自体に起承転結といった明確なストーリーがあるようには思えなかった。主人公のすずが幼少を広島で過ごし、呉へ嫁に嫁ぎ、周作と愛を確かめ合い、新たな家族との絆を結んでいく。言ってしまえば広島の港町で育ったちょっと野暮ったいひとりの女性の生活と人生そのものである。当然、戦時下という悲惨な境遇はあれど、そこには明確に「乗り越える」とか「達成される」とか「離別の悲しさ」とか大きな感動ポイントなどはなく、そんな化学調味料みたいな味は全くしない。普通の人生がひとつ、描かれているに過ぎない。しかも、この作品は戦争映画ではあれど、単にそれは「戦時中を切り取った話」というだけである。

 

ただ、そのことによって自然なすずの生き方は、現代を生きる我々の生と違和感なくリンクしてしまう。この共感があるからこそ僕らは、感動させられてる、のではなく能動的に感動してしまうのだと感じる。果たして今回抱いたヒロインすずへの共感、何がそのトリガーだったのだろうか。

 

・自然な「感動」とは、想起し寄り添う心にある

先の話の続きになるが、この映画の特筆すべき点は、戦争を描いているのに、視点があまりにも「ただただ人生」ということだと思う。僕らは普段生活していて、日常でドラマティックな状況と向かい合う頻度は少ない。むしろ、それが後から振り返れば大きな出来事だったとしても、案外普段と同じような顔をして流れていく。逆にいざ、インパクトのある出来事と出会うと、その現実味の無さにその場にそぐわぬ事を考えたりもする。この映画はまさにこの「リアルな戦時下の日常」と「リアルな戦時下の非日常」の双方を、すずの視点から巧みな演出によって表している。

 

例えば、目の前で繰り広げられる空襲の様子を絵になぞらえたり、大事な人との死別を淡白なイラストで示すなど、すず目線で瞬間瞬間のリアルを抽象化し、すずが自分の中に事実をどう落とし込んでいくのかという過程を、観客は追体験させられる。本作がアニメーション映画である価値がここにあると思う。また、逆に。すずが実際に立ち会っていない過去や死別に関して本作はかなりサラッと流す。あからさまに見過ごせない数多くの出来事、要素が想像できるにも関わらず、しっかりとは触れず、ただ時間と共にそれらを流してしまう。

 

この作品では観ている人が、少しずつ話の中からそうしたすずが体験していない、あるいは体験していても画面上では見せない要素を拾い、今見ているストーリーにおける「あるはずの過去、過程」を察してしまう。それはまるで日常生活において我々が職場や家庭、近隣の人との会話の中から雰囲気をくみ取り、明確な事実として目で確認して認知するのではなく、伝聞として、また噂として何があったのかを知るプロセスそのものだと感じる。

 

目の前にあるものに対して感動するのは、五感に直接訴えかけるものだとわかる。美しい景色や美味しい食べ物、それらに対して畏敬の念を抱いたり、幸福感を得たりと比較的わかりやすい。しかし「ストーリー」において感情を揺り動かされるというのは、どういったタイミングなのだろう。それは、ふとした誰かの記憶、過去や過程、それらを自分の中に取り込み、もしそれが自分だったら、と想起した瞬間ではないだろうか。境遇が近ければ近いほど、その取り込み作業はスムーズに行える。描かれるすずの普通さと、その現実をいかに見ているかという視点のリアルな演出が、彼女の感情を容易に我々に共有させている。「時代さえ違ったら自分も」という想像が、過去の戦争映画にない形で体験出来たのだろう。

 

・自分がいる片隅を思う

このタイトル『この世界の片隅に』をふと映画を見終わった後にみると、単純に広島、呉という舞台だけの話でない気がしてくる。今僕が住んでいる東京下町にも大空襲があり、一面焼け野原になった過去がある。ふと数年前に亡くなった祖母の話を思い出したりもした。見せてもらったそのころの地元の写真なんかも頭を過った。あの時分、戦時下どこだって、すずがいた「片隅」だったのである。

 

戦争映画には、映画であるからして大抵主人公がいる。そして普通の映画であれば主人公は特別な存在である。それに対して、本作におけるすずは本当に一庶民だ。戦禍を生き延びた、むしろ「幸せな市民」だと思える。ただ、そんな彼女でさえ作中のような苦しみを受け、また描かれはしないが、貧困に喘ぐ戦後を生きていく。時代という大きな流れは、そこにいる人たちすべてを飲み込んでしまう。この映画が改めて示してくれたのは、戦争の教訓や命の大切さといった角張った主張なんかでは決してなく、片隅でも、そこに生きている人がいるということだ。その事実を想起するだけで、どんな反戦理論よりもシンプルかつ強い思いが沸く。

 

そして今僕がいるのも片隅だといえる。時間、土地含めすべての歴史は地続きである。そうした片隅が集まって今という時代は形成されている。そしてそこにはそれぞれの暮らしと、それぞれの幸福がある。そして今回、この作品を見て流した涙はそんな当たり前のことを、再度、共感によって認識させられた、そんな感情の表出だったのかもしれない。

 

善意におぼれて窒息す

天気が晴れない。そうすると当然気分も晴れない。ふさぎ込みがちになるこんな日なので、相も変わらず暗い事を考えてしまった。

 

・LINEのグループチャットが苦手

である。この見出しだと語弊を招くかもしれないが、それはSkypeでもメッセンジャーでも一緒だ。つまりグループチャット。これが苦手で仕方がない。たまに一晩でも放っておくと何十件、時に何百件もの未読通知があったりして。もう気分的には増えるワカメをただ眺めているようである。「おい、眺めてないでなんか言えよ」よく怒られる。「ごめん」とは言いつつも、なんだか釈然としない感情だけが残る。

 

ちょっと「苦手」の言い訳をさせてほしい。各所いろいろ言い分はあるだろうが、ここで普段の対面コミュニケーション、特に同様の形式であるグループ内で話す際を思い浮かべる。自分の振る舞いはこうだ。今この人が喋ってる内容は自分に関係ないと思ったら基本黙っている。脱線したら元に戻してみる、いや、あえて脱線に乗っかってみる。あ、そこの人黙ってて暇そうだなと感じたら話を変える、いっそ話を振る。そう、僕はどちらかと言えば空気を読みすぎる質である。

 

その場その場の人の顔色を窺いながら空気を探って発言を考える人間にとって、グループチャットのあの場というのはもはや真空状態なのだ。読むべき空気も存在せず、誰がどんな顔してるのかもわからない、賛同の後ろ盾もない情報不足甚だしいところに、文字だけ残すという会話というのはもうある種宣言に近い。RPGで言えば、敵のステータス値がわからないのに戦闘に行けるか馬鹿野郎という話である。

 

「そこまで求めてねえから。出席するかどうかだけでも返信よこせよ」とも言われる。ごもっともだ。確かに予定を見りゃそのくらいは返信出来る。ただ、なんだこの見えないパワーバランスは。見えないあいつは僕の返答いかんで答えを変えそうだぞ、あるいは最後に回答した方がこのイベント自体の全体像が見えてとか云々。たぶん僕が被害妄想で勝手に抱いているだけなのだろうけど、その単純なYes/Noを答えること、何人既読したという事にすら政治的恣意を感じてしまう。もはや将棋とかボードゲームに近い。つまるところ考えすぎ根暗ならではの文字コミュ障なのである。

 

・善意で窒息する瞬間

まぁ、以上の通りグループチャット無精であることは理解いただけたと思う。すると時たま、そうしたチャットの場でキレる人を数年に1度見かける事になる。短絡的に言えば、何かしらの幹事されてる方が予定調整やら「みんなの反応が悪い」という事でお怒りになる場面である。

 

メッセンジャー時代からそんなこともあったなぁとか思いつつ。今やLINE全盛の時代。おっさんでもそうなのだから、モテレイヤーさんとかそういう光景は日常茶飯事なんじゃねえかと思ったりもする。いやいや、一般論にするなお前の反応が悪いだけだろ、という自己反省も正しいことこの上ないのだが、ふと思った。結構こういうグループチャットでの返答に困ってる人って多いのかもしれない。だって、そうじゃないと幹事キレないよね。俺だけがハブられて済むもんね、と。

 

ふとそんな折。僕の中学生時代、こんな出来事があったのを思い出した。合唱コンクールで。一人生真面目な女の子がいて、練習やら曲決めやら取り仕切ってて。女子は団結して「ちょっと男子ー?」という感じならよかったのだけど、女子もノリが悪かった。彼女の奮闘むなしく中途半端な空気のまま当日。当然結果も振るわなかった。そのコンクールが終わっての学級会。彼女はひたすらに謝った。全員の前に出て、金切り声を上げて何度も「ごめんなさい」と叫びながら、最後は突然走って教室を出て行ってしまい、クラスは茫然。それ以降彼女は学校に来なかった。

 

今でも鮮明に覚えているあたり、ガッツリとトラウマになってる出来事である。僕もそこまで彼女が真剣であり、追い詰められているという事にも気づかなかった。どうしたらそれを回避出来たのか、というタラレバも考え続けたが彼女に声をかけるべきだった。とかそんなにいい回答は浮かばなかった。

 

上記は極端なケースかもしれない。ただ、気づいたこととして。人の善意というものは、相手が大衆であればあるほど分散し、そもそもそれが善意であったことすら分解する。逆もまたしかりで、誰かが仕切っているところを見ても、とりわけ日本人はその重さに気づきにくいのかもしれない。これが善意の窒息というか。ひとりの善意は多数に吸収され、いつか本人が呼吸困難を起こす。僕自身の反省も含めて、この出来事自体がそんな現象に思えて仕方がなかった。

 

・大衆に善性はないと思え

というのが先の出来事から僕の抱いた結論である。当然、そこに自分も含める。個々の人間性という以上に、パワーバランスの問題である。「衆愚」なんて言葉もあるが「愚」というより、むしろ大衆になると人は非常にシステマティックに判断するものだと思う。そこには国民性だったり社会性が大きく影響するが、一様にまず集団におけるリスクヘッジをし、各人リアクションが遅れたり消極的になったり、一辺倒な回答になったりする。その結果として「愚」となることも否定はできないが。

 

一国を動かすのと同等に語るのは大げさかもしれないが、10人前後のグループを動かすにも結局「味方」を作るほかはないわけで。「みんな友達、みんな味方」と思ってもその友達が大衆化すれば、話は変わる。単に「相手個人からの要望に応える」ことと「集団内においての彼個人の要望に応える」ことは意味合いが違う。特にグループチャットにおいて、情報発信者の存在はメディアに近い。一方的に複数人へ情報を提供すると、情報を受ける側からすれば、ネットから情報を落とすことと大差なく感じる。そうすると、顔は見えない、情報は流れてくる、すぐに友達グループだったはずのものは大衆化する。

 

それを防ぐには、やはりマンツーマン会話での「根回し」が重要となる。根回しと聞いてネガティブなイメージを持つ人もいるのかもしれないが、所詮人は目の前の人の要望にしか忠実には応えられない。例えば「地球にやさしく」なんて言われたところでピンとこないけど、自分の子供の将来を想像すれば「資源を大切に」と言えるのかもしれない。「Think globally,act locally」なんて言葉もあるが、善意を持つことが無意味なのではなく、それを同時に届けられる人数には限りがある、ということだ。

 

まず集団を相手にするならば、集団の中に何人サシの関係を作れるのか。集団において返答がなくとも、信頼関係を継続できる状態を作れるのかというのが、手間はかかるが実利的で、精神的にも良い気がする。てか、もう一人ひとり聞いて回って、結論の伝達だけグループチャットにする。だって意見のわからないままの集団を相手にするというのは、心に良くない。僕なら全員を疑ってしまう。集団飲みにもグループチャットが必要なこのご時世、果たして幹事なんて芸当ができるのか不安になってきた。んー、無理くさい。

 

 

ということで、理屈ぽく言ってはみたものの、結局自分の人間性がクソなのだ、という結論でこの話も終わりそうである。ちゃんとこれからは幹事してくれる人を大切にして、グループチャットが怖くても、自分からみんなに寄り添っていく人生を歩めれば、いいなぁ。

『映像研には手をだすな!』は漫画界の『メリー・ポピンズ』のよう

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各種ネット媒体でもかなり話題となっている『映像研には手を出すな!』

 

発売当初amazonでは品切れになる事態も。単行本発売からしばらく時間が経ってしまったわけだが、僕自身も購入、読了から1週間と少し。いや、買って即読んだのでもっと早く感想文的なモノをここに吐き散らしたかったが、思うように感想が纏まらず。数回読んでみて多少冷静になった今時点から、ちょっとこの作品について言及をしてみたいと思った。

 

・王道なのに斬新、新しいのに落ち着く

まず内容以前に本のカバー裏を覗くと筆者・大童 澄瞳氏は1993年生まれという事が分かる。うーん、非常に若い。いや、確かにこの年代でもいい漫画を描く人というのは既に結構いる。しかしながら、この『映像研には手を出すな!』の内容を読むと彼の「若さ」がある種の異常な事実だという事に気づくことだろう。

 

その異常性には後々触れるとして、ここで簡単に本書あらすじを追っていく。多分ネタバレにもならない話なので未読の方も問題ないと思う。

 

メインキャラはちょっと普通から外れた女子高生3人組。アニメーションを作りたいが、一歩踏み出すことが出来ない妄想癖オタク<浅草みどり>を主人公とし。リアリストで皮肉屋、常に浅草の言動に対してツッコミを入れる銭ゲバ弁論家<金森さやか>。高校生にしてカリスマモデルながら本当の希望はアニメーター志望というお嬢様<水崎つばめ>という組合せである。

 

分かりやすい程の凸凹トリオがそれぞれの特技を活かし、協調しながらアニメーション制作に挑戦するという学園部活ストーリーである。話としては分かりやすいことこの上ないのだが、いかんせんずば抜けているのはその描写におけるギミックである。

 

各回とも、アニメーション制作を中心に話は進むのだが、様々な困難が彼女たちの前に立ちはだかる。それはアニメーション制作自体であったり、また部活運営であったり、生徒会から予算を取ることであったり。正直言えば学園ものとしてはありきたりなテーマだ。だが、それらありきたりなストーリーに挿話として差し込まれる、圧倒的な浅草の妄想世界観。これが凄い。それを3人が同時に追体験するこにより彼女たちの創作へのエネルギーが増していく。ここが、この物語の肝となる点だろう。浅草みどりの発想をアニメ作品とすべく、金森さやかは現実的なサポートを、そして人物画が得意な水崎つばめがキャラクターを生み出して、少しずつアニメーションは形になっていく。

 

当然話としては全話つながっているものの、読み物としては1話ごとのオムニバスな感じで楽しめるのも嬉しい。軽いテンションながら熱い展開。その双方のバランスが実によくできており、先の斬新な演出ながら、読んでいてもまったくストレスにならないというのは流石の構成であると感じてしまう。

 

・圧倒的な設定の数々が「絵」を動かす

ここでそろそろ、先に述べた筆者である大童氏の若さがなぜ異常なのかという点に触れていこう。本作は、浅草の妄想した世界観が基軸となる。それをいかにアニメに落とし込むのか、というのが作品としての軸である。その「絵をいかにアニメにするのか」を話中だけでなく、読者に対しても説明をする。そしてそれを表すのに、本作では設定資料集のようなページを挟むのである。

 

例えば妄想マシンの細かいギミック。妄想する街の風景、それを説明する為に見開きのページを使い、解説する。そう、一度話を止めるのだ。それを読むことで、読者は次のページにある「絵」がしっかりと動いて見えるのである。漫画のストーリーの中でも登場人物が「絵をいかにアニメにするのか」を画策するのと同時に、読者目線に対しても「漫画が動いて見える」という工夫を作者が如実に仕掛けてきている。しかもそれが、理屈にかなっているのだ。

 

例えば1巻に収録された第3話。絵の風車をパラパラ漫画でいかに回すのかという課題が彼女たちの行く手を阻むのである。それに対して、浅草みどりは風車が平面でなく、いかに風を受ける角度で作られているのか、更には周りの芝を飛ばすことによって、より見ている人に「風が吹いている」ということを錯覚させるのかという解説を行い、ご丁寧に「説明ページ」もわざわざ挟むのである。

 

普通であればそんな説明ページを挟むことはテンポが損なわれる気もするのだが、そこで「絵が動く」為のギミックを理解した読者が次のページを開くと、やはり風車は回って見えるのだ。これは恐ろしい体験をしたと感じた。この若さで、漫画の合間にこの緻密な仕組みを生み出すこと自体が圧巻であるし、更に言えばしっかりと「動いて見える絵」を理解し、説明し、そして描けるだけの画力が彼に備わっているということ自体が圧巻である。いくら言葉で説明したところで実感に勝るものはない為、これに関しては見ていただきたいとしか言えない。

 

そして言わなければならないのは、そうしたギミック説明のひとつひとつが本当に間違いなく「オタクのしわざ」なのである。たぶんSFが好きでしょうがないのだろう。そしてミリタリから物理、機械の仕組みまで。そうしたオタクが好みそうな事象が全てこの本には詰め込まれている。そんなのを見てしまうもんだから、本当に93年生まれなのかという疑問はここでも沸いてくる。まるで『宇宙船』読者なんじゃないかと疑念に感じるほどのデティール描写は素晴らしいとしか言いようがない。空想もここまでくれば芸術である。

 

・まるで『メリー・ポピンズ』を見ているよう

この漫画を読んだ感想をネットで見てみると「新しい!」という言葉を見受けることが多い。それはそうだ。上記の通り、あえて漫画のストーリーを止めてまでギミックを説明することで、アニメーションという本来であれば漫画と相対するものを紙媒体の中に飲み込んでしまっているのである。僕も読んでいて衝撃を受けたし、また漫画の軸である王道のストーリーも日本橋ヨヲコの『G戦場ヘブンズドア』や『SHIROBAKO』ほど重くはないものの、アニメ制作に対して「熱さ」を感じるには十分といった展開が心地よいのである。

 

また、ここの見出しにも書いたのだが、漫画とアニメの融合、そしてやけに軽妙なリズム。僕個人としてはその他メディアの統合を一つの媒体がここまで表現できるという点においてディズニーの『メリー・ポピンズ』が頭を過ったのである。確かに話のジャンルも違えば、そもそも本作は映画でもない。まったく違うだろという異論は認める。ただしかし、実写とアニメの融合というその異ジャンル組み合わせの形でいえば、確実に今回の『映像研には手を出すな!』という作品もそうした「マルチメディアとしての漫画」という新しい基軸を擁しているように感じる。

 

僕自身『メリー・ポピンズ』を見たときに感じた感動を、本作は呼び起こしたのである。それほどに新しい何かを孕んでいると僕は言いたい。今後の話の展開は確かに難しいかもしれない。アニメ制作という本来漫画では再現不能なものを扱っているからである。しかしながら、この1巻を読む限りでは大童氏に僕らは期待せざるを得ない。漫画が動いて見える。そんな摩訶不思議な現象を食らったのだ。今後についても、確実に注目すべき作品であるし氏のセンスが漫画文化自体を、もう一歩新しいステージに移行させるのではないかと。そんなワクワクを久々に、漫画から味わってしまった。

 

 

「嫌なヤツ」から逃げないこと

日曜も惰性のうちに過ぎ、一年のうちの22/365が終わろうとしている。こう書くと結構もう残りも少ない気がしてくるから不思議である。「365」がFGOのボス鯖のHPと仮定するなら「22」ダメージはそれなりに削っている感もある。

 

そんな中、ようやく今年1年の目標でも立ててみるかと脳内議会がこの週末を使って討論。その結論が出てきたので、内省がてらブログネタにでもしてみる。案の定、こっぱずかしい感じになってるので、サブカルはてぶユーザーを粘着してひたすら叩きたいだけの人は、ここはもう既にサンドバッグみたいなものだからスルーしてね。自分で殴りがいのある対象を探してね。

 

いや本来であれば本日、最高な演出と作画とキャストの演技で実質最終回を迎えた『魔法使いプリキュア』の1年振り返り記事や、ここで封切になったM・スコセッシ監督の『沈黙~サイレンス~』なんか観に行って感想なんか駄弁りたいのだけど、なんだかそのエネルギーもなく。タバコを吸いに入った地元の喫茶店でひたすら粘って、可愛いウエイトレスさんを眺めながら惚けつつ脳内会議を行ってきた。まぁ悪くない時間だった。

 

・「嫌な人とも付き合いなさい」

本題に入っていく。社会人生活5年ともなると、自社の会社説明会なんかにも人事から呼びだされ。先輩社員からのお言葉、みたいなコーナーで喋らされたりもする。こんなところで社会に対する憂さを堂々宣っているような人間に、社会人としての心得みたいなコメントを期待するほうが間違いである。ツイッターを見てみろ。と。社会人と思わしきアカウントは皆、日曜夜には嘆き、月曜日には血涙をながし、仕事に愚痴をただただ吐きながら日々を送っているだろうと。学生が社会人の心得を学ぶなら、それを見れば十分だと思う。

 

まぁ、そんな駄社会人たちの話は置いておいて。よく席上「社会人と学生の違いを教えてください」なんていうテンプレ質問に対して、企業人事もテンプレでこんな事を返す。「学生時代は好きな人とだけ付き合っていれば良かったかもしれないですが、社会人ではコミュニケーションも仕事となります。なので、苦手な人、嫌な人とも関係を構築せねばなりません。」

 

「学生時代でもバイトとか同期とかで嫌な人間関係あるだろうになぁ。」とか脳内で、どうでもいい反駁をしながら流し聞いているわけだけど、確かに正論ではある。嫌だったり苦手な人と付き合うというのはストレスが溜まる。しかし、それをしっかりと仕事と受け止めるのは必要な耐性だろうし、実際に身を振り返ってみてもそのような機会は多分に存在する。ビジネスパーソンたるもの、得意先や関係各社の方々とは平素よりお世話になって申し上げる所存だし、今後ともなにとぞ宜しくな関係性を作らなければ、仕事は成り立たないものなのである。

 

・本当に嫌なヤツは自分の中に沸いてくる

そして、ここまで前置きしたものの、今回の本筋はまた変わっていく。今回自分が思い描いた「嫌なヤツ」というのは他者との人間関係というより、自我の認識という話に近い。むしろ自分自身の中に存在する「嫌なヤツ」これと向き合う事が大切なのではと思うようになってきたという話だ。

 

どういうことかと言えば、例えばネット上やSNSなんかでも承認欲求や利益欲しさ丸出しにして、人への訴求を全開にしながら自分を売り込んでいる人を見るとする。それを見た僕は「必死だねぇ」などと思いながら冷ややかな目線をくべたりしている。やり方次第ではあるのだが、露骨なフォロー数稼ぎやリアクションを欲しがっている姿というのは、見ていてもあまり快いものではない。「面白い人、才能のある人には自然とフォロワーは生じるし、いちいち画策するのはダサい」と心のどこかで思っている。

 

しかしながら、今このように文章を書いていることや、コミケの度に同人誌を出したりと、そうした行為をとっていること自体、僕の冷ややかな目線の先にあったものと何が違うのだろうと気づいてきた。「俺が思ってた嫌なヤツ、むしろ俺やん」みたいな。むしろ他人からそう思われても全くおかしくない事を繰り返していたわけである。いやまあ、なんとなく分かっていたけど、新年だしそんなサブイことしてる嫌な自分に理性で正面からドーンと向かい合ってみた。

 

すると過去、音楽であれ絵であれスポーツであれ。その嫌な自分を避ける為「これ以上やっても太刀打ち出来ない」とか「冷めてきた」とか諸々理由をつけながら無自覚的に自分の行為の方にブレーキをかけることが多かった気がする。要は「センスもないのに努力してバカじゃないの」そのバカになりたくなかったので、徐々にブレーキをかける。ただ、それだけの話だった。

 

・理性からバカな自分を眺め続ける努力

これが、よくある話であることも分かっている。人生的に見れば賢い選択だとも思う。ただ、知識と実感には雲泥の差がある。ようやく無意識に行ってきたブレーキにこの歳になってちゃんと目を向けられるようになってきた。何かを気持ちの中から捨てる瞬間は、自分を、自分の批難から守っているわけで。

 

disってる他人の人間性を、自分も持っていると理解は出来るが、自覚をするのは思った以上に難易度が高い。「勘違いして才能がなくても続けるバカ」「大人にもなって青臭いこと言い続けるキモオタ」いずれも、なるべくならばそんな人間にはならないほうが、人生としては順調にいくだろう。自分の中でも、そうした人へdis心は持ち合わせているし、自虐もネタなら簡単に言える。

 

しかも、案外それを捨てる事も出来なくはない。過去の通り、要は辞めればいいのである。バカと思われるのが嫌なら発信もしなければいいし、ネットなんかにそもそも書き込むなという話である。バカと思われる事を積極的にアウトプットしているこの人格を、あるべき人生航路にいる自分は「嫌だ」と思う。つまりは理性とも言える。その理性は意外と賢くて、悩んでるふりをして結構、色んな事にかこつけてバカを排除するのだ。

 

正直、昨年。同人誌発刊も実際疲れたしやめようと思っていた。それも正解であろう。でも、ちょっとよくよく考えたらまた理性が暗躍している気がしたので理性の機能を止めてみた。まぁ、いつ辞めるも自由だしもう少し続けてみようと。嫌な自分を理性で捉えなおす。「はいはい、自己顕示欲乙」と理性フィルターで投げ出さずに、恥を忍んでまたブログや企画を書き出す。

 

まんまリスクだし、まんまバカなんだけど、そうしないと何も続かない。やめたところで、どうせまたネットを眺めては才能ある人に嫉妬してるのだろう。まぁ何か作る人をネットで遠巻きに見てるくらいが賢い、とも思うんだけども。あえて締め切りなんか設定して、文章泣きながら書いて、必死で入稿して。そんな苦労をわざわざしている嫌な自分と付き合わないと、その先の何かには達しないよなぁと思った。

 

実際考えれば仕事も一緒なのだ。「嫌な人とも付き合え」というのは案外そんなもので。経済は社会と同様、人との間に生まれるものだから、そこを逃げていると延々金は巡らない。ムカついても、苛ついても、やはりビジネスなのだ。本当に合わない人は居るもんだけど。

 

こんな独りよがりな内省を年始のうちにカマスのもどうかと思う。きっとCreepy Nutsの『悩む相談室』を聴きながら書いたからこんな事になってしまったのだ。先ほどツイッターでおススメされて聞いてみたけどやっぱ面白い。僕からもお借りして、おススメです。

 

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「格差社会」だから何なんだ

僕、結構こう見えて真面目なので、そんなことについて考え事をしたりする。

www3.nhk.or.jp

 

・格差は続くよどこまでも

上記のNHKニュース。なんだか、数字だけ見てると小学校高学年の算数の問題に出そうである。

 

「たかし君たち上位高所得者8人は貧民層36億人分の資産額を持っています。たかし君たち大富豪は一人当たり、何人分の貧民層の資産を抱えているでしょうか。」

 

うーん、エグイ。答えたくもない。それはさておき、この手のニュースを見たとき、我々は果たして何コマンドを押すべきなのかとよく考えたりする。「再分配すべきだ!」「いや、これが資本主義である」「まぁ俺には関係ない」「社会主義革命を!」沸いてくる感情は色々あるんだけど、何にせよこんな問題を解決するにも一小市民が何をしようと、無力であることには変わりない。タックスヘイブンからを金を盗んで、ねずみ小僧よろしく、貧しい村に小判をばらまくみたいな、そういう話でもない。

 

でも、ビットコインをハッキングして貧民層の端末にばら撒く「海外版ねずみ小僧」みたいなハリウッド映画あったらちょっと面白そう。ブロックチェーンをどう破るかとか見てみたい。

 

たしか昨年にも爆笑問題が司会のNHKスペシャルで『マネー・ワールド 資本主義の未来』という特集を組んでいた。アメリカの一部の富豪が政治家に組みすることで、結局資本主義の富の循環作用であるシャンパンタワー効果が起こらないという指摘がなされていた。貧しい人は貧しいままで、富める人は余計に富を集中させる。うん、番組を見てても確かに平等じゃない感じがする。日本においても正社員と派遣労働者の格差は広がる一方であり、同一労働同一賃金の議論も活発化している。

 

しかしながら、恐らく今後経済状況が好転しないまま、システムだけ「分配の平等」を取り入れようとしても、余計に社会主義的というか。「みんなで貧しくなろう」「みんなで我慢しよう」の流れになってしまい、それはそれでデストピア感が溢れてしょうがない気がする。これってどうしたもんかね、という悶々の中で面白い新聞記事に出会った。

 

カースト制度は単なる「格差」の体現ではない

日本農業新聞というニッチな業界紙があるが、訳あって毎日読んでいる。その1月15日付。明治大学の岡通太郎さんという講師の方の記事が載っていた。紙面をそのまま掲載するのはおそらく著作権的にアウトなので文字オンリーだが、タイトルは「インド農村から日本農村を見る」というもの。普段は流し読みだが、なんだか気になって読み込んでしまった。簡単に要約してみる。

 

僕の中でのインドのイメージは工業発展も著しい半面、中国のように国土・人口ともに莫大な為に国内格差が大きく、カースト制度といった階級差別もまだ地域によっては残っており、都市化は一部に限られてると思っていた。どうもそれは正解のようで、岡氏が研究したのも、そんな農村から都市化を半分果たしたようなグジャラート州という土地。もともと1~2割の富裕農家が土地持ち、7割以上の貧民層を使うような農村地帯であったという。そのグジャラート州の半分は農村から都市化(工業化)に成功。住民の平均所得は90年代の3倍以上となった。残りの半分は農村のまま所得は1.5倍から据え置き。つまり発展は遅れていると言ってよい。

 

しかし都市化に成功した方を見てみると、地域を治めていたのは商業知識がなく、下層の人とは関わり合いを持たない武人カーストの人たち。下層カーストの人が病気をしてもほったらかし。そこに工場が出来た所、農村との人材取り合いに。所得はアップ、エリアは都市化を果たす。しかし若者が農村から流出し農業は衰退。また工場での児童労働は絶えない。

 

逆に発展が遅れている地域を治めているのは、農業知識のあるいわゆる商人カーストという人たち。そこの上位層の人は、下層カーストの人へ農業訓練をするし、教育にも熱心。病気や冠婚葬祭の際には無担保・無利子で融資も行う。「下層カーストを助けるのは上位カーストの役割であり、これを果たさないのは恥」という文化が根付いている。その結果、農村として所得は大幅に変化はないものの、先を見た先人の考え方により若者は根付いているという。

 

・格差是正より求められるは、コミュニティと文化の在り方

この記事を読んで驚いたのはインドの「カースト制度」にも、しっかりとした封建制のポジティブな役割があったという点である。どうしてもカーストと聴くと勝手なイメージで奴隷制度とか日本でいうなら部落問題やらを想起させるような後ろめたさしかない文化と思っていたのだが、それも違うようである。

 

何もこれを読んで「日本も封建制を取り戻すべき」とかそんなことを言いたいわけではない。要はとかく所得の格差を是正したところで、それによってあるべき生活圏や家庭は取り戻せるのだろうか、という話である。

 

現在、日本においては晩婚や出生率の低下、核家族化など人と人を結びつけるコミュニティ自体の在り方が徐々にエントロピーが増大するように、その秩序を失ってきている。確かに、子供を育てるだけのお金がない、親を養うだけの余裕もない。国民の所得向上、格差是正はそれに対抗できる策の一つであることは認める。しかしながら、いくら所得向上・格差是正を掲げたところで、本当の生活の質を上げられるのだろうか。そして上記のインドのケースは何も特殊な例示ではないだろう。

 

日本においても結局は経済主体の「孤立化」を防がなければ、個々がそれぞれの生活のみに埋没し、繋がりのないままに労働し利益だけを求める。むしろ「先の富める者は弱きものを助ける」という文化が根付いたカースト制よりも低次元だと言える。よくわからない平等な「チャンス」のみがそれぞれに与えられただけの個人主義は、結局社会自体の衰退を招くというのは自明の理ではなかろうか。

 

また「格差社会」というがその格差社会にイラついているのはただの妬みの類ではなかろうかと自分を顧みて思ってしまう。確かに経済的に苦しい。奨学金なんていう学生ローンだって払い終わるのは東京五輪など遠い昔となった頃だ。そんな中、同じ社会に裕福な人がいるという事実は、何かこう気持ちをザワザワさせられるのも痛いほど分かる。

 

しかしながら、過剰な再分配というシステムも同時に問題をはらんでいるのは、歴史が見事に物語っている。僕個人としては大きな政府の方がいいとは思うけれども、格差社会の是正を!などとはあまり叫びたくない。目の前の弱者を見て「政府が悪い!」などと叫ぶのも、なんだか違う気がする。お前が舵を取れ事案であろう。

 

そしてインドの事例を見れば分かる通り、相互扶助システムをいかに個人あるいは自治体が保持できるのか。そこが肝だと思う。所得は向上しても上を見ればいくらでも格差は生じている。格差なんて言ってしまえば正直キリがないのだ。日本においては特に、所得以上にコミュニティにおける地位をそのようにフォローできる体制が「格差社会」という仮想敵を消滅させられる唯一の方法ではないかと。オールウェイズ3丁目な時代に戻れとは言わない。しかしながら、それすら唾棄すべきというのは、やはり今後の社会においても無理は生じるのだろう。今回岡氏の記事を読んで考えさせられてしまった。

 

まぁ逆に詰まるところ格差社会なんて、所詮解決しない問題だと僕は思う。牧歌的と笑われようが、所詮は人間が寄り合っての社会である。友人を目の前にして「お前は金を持ちすぎだ!格差だ!」とか叫びだしたら、それこそ世も末である。ふと格差の話に悶々してたところに、良い記事を見つけてしまい長々真面目に書いてしまった。冬の平日、一人布団に入るのも寂しい日々が続く。