わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

高田馬場のなんだか異質な中華飲み屋「餃子荘ムロ」

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突如、始める飲み屋放浪の話。

 

いつもなんだか暗い話ばかりで、ちょっと自分でも気がめいってきていた今日この頃。いや、気晴らしに文章書いてるんだから、方向性に固執しないでいいんじゃないかということで、気に入った飲み屋あったらその紹介記事でも書いてみることにする。第一回からストロングスタイルな馬場の名店、餃子荘ムロを薦めたい。

 

・注文は一度だけ、他に類を見ないストロングスタイル

高田馬場と言えば、学生街。降りる瞬間早大生の群れ&群れ。ワイワイガヤガヤうるさいだけの街だろ、と昔は思っていたけれどもそんな喧噪もアラサーとなってはちょっと愛おしく感じるようになってきたりもして。そんな高田馬場の中心地、BIGBOXの脇を抜け、大久保方面の坂を上って少し。さらに路地に入ったところ、この餃子荘ムロがある。

 

引き戸を開けると、そこはカウンターのみ。店内は非常に狭く週末には待たずに入店できれば幸運。なかなか初見で赴くことすらちょっと勇気がいる。ただ、そんなことに驚いている場合でもなく、この店の最大の特徴は「食べ物のオーダーは最初の一度きり」というなんとも強硬な方針。最初に渡される紙にオーダーを書いたらそれきり。餃子の種類も「ふつう」から丸まるニンニクが入った「にんにく」や「チーズ」など、実際バリエーションは6種類ほど。見て確かめてほしいのだが、どれも拘りの一品。もう、迷って仕方がない。

 

また本格的な中華の炒め物各種や、メニューの下を見ればそこには締めのラーメンや焼きそばまで。最初でここまで計算しなければならないのである。なんていうか、初見でこの店をクリアするのは無理だろう。だって、どれ頼んでも本当においしい。1度では後悔が過り、2度では欲に溺れる。緻密な計画と空腹をもってして、ようやくムロを堪能できるのではないだろうか。今回の締めは野菜そば(上司と分けてハーフにしてくれました)。薄味ながら、めちゃくちゃ優しい味。キャラの濃い炒め物の後には最高の締め。

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個人的にはこの店の春巻きに心を奪われた。いやほんと都内随一ではないだろうか。「箸で食べると滑るので紙で包んで食べてください」と指示を受け、まるで中華街の屋台で買ってそのままいただくようにして、噛り付く。辛みのあるソースとの相性も抜群で、具もそこまで奇抜でなく春雨をベースにいい塩梅の食感がもう堪らない。2本で500円というリーズナブルさも光る。

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・飲んでも楽しい「薬酒」の数々

やはり中華屋ということで、最初は瓶ビールをいただく。ビールのラインナップも渋い。プレモルとエビスの黒ビール、しかも小瓶のみ。大抵、それら一本ずつを頼み、ブレンドしながら飲むのも楽しい。料理のバリエーションが豊かだからこそ、ビール一つとっても味を変えながら対応させると案外料理の幅が広がるのでは、とか素人が勝手に勘繰りながら飲む。

 

飲み物のオーダーは、食べ物と違って何度でもOK。そして2杯目。ここで今回は変わり種を狙うことにした。連れの上司は「人参酒」をチョイス。漢方にも使うであろう人参がそのまま瓶に詰められていて、なんとも体に良さそう。おちょこ一杯でも、結構アルコールが強くこの気候の変化で疲れ気味な体に効きそうである。

 

僕が選んだのは「ススメバチ酒S」。正直な話、スズメバチ酒が結局なんなのかはわからないまま頂いたけれども、名前に反して口当たりはさっぱり。なんだ、飲みやすいじゃないか。と思ってから、30秒後。体の芯からなんだか熱と独特な味が口の中に広がる。ちなみに通常の「スズメバチ酒」と「スズメバチ酒S」と二種類があり、後者は「エキス強め」とのこと。ちょっと飲んだ後、錦糸町辺りが頭に過る。果たしてプラシーボ効果なのか、餃子のにんにくもあいまって少し元気になれた気がした。

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・圧倒的なDJSumirockの存在

そしてなにより女将さんの存在感である。純子さんことDJSumirockは1935年生まれ、御年83歳、EDMをメインにフロアを盛り上げ皿を回す現役DJである。

woman-type.jp

 

帰り際「今日もこれから回すんです」とフライヤーをいただく。歌舞伎町のど真ん中で開かれる「OPPARADise」というイベント。いやぁ、だいぶバーレスクですけど、え、ていうか今、今日って言った?馬場の中華屋で働いて、そしてオールナイトイベントへ向かう83歳。圧巻である。なんだか「最近疲れたから家に早く帰って寝たい」と漏らす僕がただのバカみたいに思えてくる。

 

餃子荘ムロは、料理も勿論おいしいが、店の雰囲気もよい。古い店だからといって気取ってるわけでもなく、客も理解しながらその空気を楽しんでいる。それぞれ変わり餃子を食べながら、肘が付きそうなほど狭い店内では、となりの客とも会話になりやすい。「にんにく丸まる入ってましたね笑」「いや、これほんと美味しいのでお勧めです、でも頼めないので次回以降に笑」とか。

 

高田馬場という学生の街。日々仕事に追いやられて忘れていた学生の姿を横目に。やはり人は美味しいものを食べると元気になるものである。確かな味の料理に、バリエーション豊かなお酒に、そしてSumirockに。食べてる間によく分からない元気をもらえる家庭的な老舗である。また今度はどう攻めて、どう締めるか。戦略を持って臨まなければきっとまた悔恨を残すことだろう。

 

餃子荘ムロ 03-3209-1856

東京都新宿区高田馬場1-33-2

17:00~22:00(L.O.21:30)

日曜定休 予約は金曜以外なら可 

カード払い不可

フェイクニュースが暴く我々の中にいる「正義の味方」の本性

気候の変化に体の疲れも最高潮。寒かったり暑かったりと、五月病どころの騒ぎではない。普通に風邪ひいている始末である。そんな最中、一昨日ほどだろうか。ネット上で面白いニュースが話題になった。ほとぼりも冷めてきただろうし、この件について思ったことを書いてみたい。

 

 

出来事はこのツイートがすべて説明してくれているので割愛するが、要は昨今よくある「やらかし系ネット炎上」の応酬がすべてウソネタだったという事案である。案の定このネタに乗せられ架空の大学への非難、誹謗中傷が相次ぎ、結局は暖簾に腕押し、何もないところでSNSユーザーだけが騒いでいた、という一連の流れが話題になった。

 

この件を受けて、タイムラインでのリアクションは結構割れていて。「誰も傷ついていないし、古き良きネットのネタらしい」という見方から「人の心配や気遣いを煽るだけの悪質な行為」と批難が及んだり。あるいは有名なひろゆき氏の発言を引き合いに出し「フェイクニュースを見破れないネットユーザーってww」という嘲笑的な意見も見られた。

 

この件。これまでの単なるフェイクニュースと異なるのは、複数アカウントを使ってあたかもそこにコミュニケーションが生じているように見せかけたのが巧い。やらかしの当事者=「架空の大学」、やらかされた被害者=「架空の飲食店」、当事者の関係者=「架空の生徒」という具合に、ロール割がきっちりとされている。確かにこの会話を見てしまうと、そこだけからこの件が嘘だと見抜くのは難しいだろう。

 

SNSでのツイートひとつを見るにしても「本当のことなのか?」と検索をしたり、一度裏を取る姿勢が重要なのではないかという声が各所で上がっている。

 

・自分の中にいる「正義の味方」の存在

ただ、この件の本質は「嘘を見破るリテラシーをしっかり持ちましょうね」ということに留まらないと僕は思った。はっきり言えば、ネット上におけるウソをウソと見抜くリテラシーなど、この先人間が完璧に持ち合わせることなど不可能だと思う。

 

端的な例を挙げる。先日、オバマ大統領の表情をマッピングし、あたかも本人がしゃべっているかのような印象を与える「ディープフェイク」動画というのが話題となった。

www.itmedia.co.jp

 

動画で確認できる通り、これもう見抜くの無理じゃね。と感じてしまったほどである。まだ多少違和感を感じることはあれど、今後「実写の映像」すら本物かどうかが疑わしい時代が来てしまったというわけである。こんなものを目の前にして「フェイクニュースを見破るリテラシーを」と叫んだところで、無意味のように思える。フェイクニュースを考えるには、もう一段階深いところで思索をする必要がありそうだ。

 

冒頭の話に戻ろう。架空の「国際信州学院大学」を叩きに叩いた人たち。簡単に言えば嘘に踊らされた人たちなわけであるが、そうした人はどういった思いから「叩いた」のだろうか。これを考えてみたい。

 

このフェイクニュース批判の中に「人の心配や気遣いを馬鹿にした行為だ」という声が上がっていたのを思い出してほしい。確かに「やられた飲食店」側の立場に立てば、悪行をなした「国際信州大学」を懲らしめてやろうという感情は、世間的に見れば「善」なる感情であり、コメントを寄せた多くの人が抱いていたモノではないだろうか。こうした「悪を懲らしめる」という発想や、苦しんだ飲食店に同情する、という感情は道徳を重んじる人間の美徳の一つである。

 

我々はこの情報過多の時代。数々のネットニュースを見ながら、こうした案件を日々見つけだしている。政治与党のスキャンダル、連休ドライバーの交通マナーの悪さ、街中での老害的発言、職場でのパワハラ上司などなど。「是正すべき」事案がいたるところに転がっており、そうした内容を見ながら憤りを感じ、そして批難を繰り返す。まるで自分の「正しさ」を確認するかのように。

 

・「正しさ」は憎悪の言い訳となる

そして往々にして、その正しさは過剰防衛となる。「悪いことをしているから何をしてもよい」「懲らしめるならとことんやれ」こうしたネットの風潮が炎上に繋がる。勧善懲悪が、とうとう死体蹴りすら容認する空気感となり果ててしまう。

 

今回の件では「フェイク」と分かった後。その件が「嘘」だったことに憤りを見せるユーザーも一定数いた。ただ、よくよく考えれば、彼らが本来寄り添うべきは「キャンセルされた飲食店」だったはずだ。この悲劇が結局「なかった」のだから、本来傍観者であるネットユーザーは安堵すれば、それで済む話だろう。

 

しかしながら「自分の憤りを返せ」という論調の方も少なからずいる。「正義の味方には敵が必要だろう」とは『Fate』シリーズでおなじみ言峰神父の名言だが、その巨悪が幻となったときに「自分が正義」となれないことに対してフラストレーションを抱く人も一定数いるわけだ。そこには、是正すべき事案もなく、救うべき人間もいない。ただただ個の「正義」に溺れ、本来の目的を見失った感情が残るだけである。

 

正直、ここまで情報の真偽を見抜くことが難しい時代。先に挙げたディープフェイクを始め、人がテクノロジーに騙されるのはもう仕方のない時期に入っている。それよりも、そうした「騙されたとき」あるいは「騙されたと分かったとき」、自分がその情報によってどのように動いていたのか。あるいは動かされていたのか。つまり「自分がどのような正義を抱いているのかを知ること」は今後、情報が複雑化する中で非常に重要な視点だと感じた。

 

・正義の味方を飼いならす為に

はっきり言えば、人間悪の根源は「正しさ」という観念にある。「正しさ」があれば「不正」があり、自分が正しければ、不正をした人間は報いを受けるべきという発想が大なり小なり人全般に備わっている。ただ、その正しさというものは、ここで言うまでもなく多種多様な文化に基づいており、正しさの違いで争いが起き、また、その正しさによって人間はどこまでも残酷になれる。

 

こんなことは目新しい話ではなく国内外問わず、現実を始め数多くの小説でもこうしたテーマを扱っているわけで。しかしそれでも。電車で席を譲ったり、あるいは道に迷った人を案内したり、ふと募金なんかしてみたり。こうした慈善的行為もその人が持っている「正しさ」に起因するものであり、冒頭のフェイクニュースに憤る、その心も間違いなく「正しい」ものである。ただ、誰の為の正しさなのか。何のための正しさなのか。それを自覚することがより重要になっていると感じる。

 

ちゃんと自身の中にいる「正義の味方」を飼いならさなければ、人はいつでも正義の飼い犬となる危険性がある。自戒も含めて、今回感じたことがこれである。

 

こうしたフェイクニュースは今後より一層増えるだろう。そして、その質も今回と比べ物にならないほど緻密なものになることが想定される。僕らは前提としてそれら真偽を見抜く努力をしなくてはならない。そして、同時にどういう感情をもって、そうした情報に触れるのかも考えなくてはならない。有象無象の情報に対して、単に自分の正しさを保つ為に、非難や中傷を繰り返していると「自分」すら見失ってしまう。

 

単なるフェイクニュースの真偽以上に、まずあらゆる情報に対する自己のスタンスを考えたほうが建設的なんじゃないかなと思ったお話でした。

 

「大人」の定義って何なのだろう。

気づけば僕も20代最後の年となり。視力弱化、白髪の増加、代謝や体力の低下など、老化の発端を次々に見せつけられる年代。そうなれば、やはり同世代と飲んでもこんな話がいつでも持ち上がる。

 

「いやぁ、30歳だって。子供のころはこんな30歳になるなんて想像していなかったよね。」

「子どもやら結婚とか言っているけれど、まだ10代の気持ちを持ったままな気がする。」

 

こんな会話をしていてふと思うことがある。「大人」って何だろう、ということだ。サッポロビールのCMで妻夫木聡がそんな話題を人生の先輩に聞く、という企画も見かける。そんなこともあって、日ごろからなんとなしに「大人」という言葉を頭の中でなぞったりもしていた。実際問題、何をもって僕らは「大人になった」と言うことが出来るのだろうか。GWを終えて、空模様もまるで僕ら労働者の心を映しているような雨の日に少しアンニュイな考え事をしてしまった。

 

・大人という「幻想」

子供のころ、僕らは「大人」とある意味で相対していた。なんだか生き物として別の存在と感じていた気がする。何せ、うんことか言わない、ちゃんとしている、自分より体力がある、仕事をしている、お酒を飲む、お金を持っている、そして自分にとって重要な事を決める権限を持っている。これらの印象というのは親を筆頭にして、子供である時分には誰もがぼんやりと抱いていたモノではないだろうか。

 

しかしながら、いざ自分がその「大人」の年齢になるにつれて、実際の脳内が見えてくる。すると、考えている事は自分の苦しい生活についてだったり、しょうもない色恋沙汰だったり、とことん追い求めたい社会に何の役にもたたない趣味についてだったり。毎年誕生日を重ねるたび、当時、別の生き物と信じていた「大人」像に届いている気すらしない。やはり、どこかしら過去抱いた「大人」という存在と今の自分に対するギャップを抱き、悩んだりするわけである。

 

ここで先に結論を言ってしまうのだが、そのように「こんな大人になると思っていなかった」と感じた時点で、その人は「大人」だと僕は思った。詰まるところ、子供の頃に抱いてた「大人という幻想」を自分で打ち破ってしまった瞬間こそ、その人が大人になる瞬間なのではないかということだ。

 

なんでそんな事を考えたのかと言えば、先日古い友人と飲んでいた際、それぞれの両親の話になった。お互いどうしようもない父親同士を持ち、金に対する分別もなく、幼少から今に至るまで苦労をしたよね、なんて暗い話で盛り上がったのだが。そんな折「いくら自分の親父だったとしても、所詮はただのおっさんの1人で、クズの可能性もあるんだよな」と改めて納得し。それと同時に「大人はちゃんとしている」「大人は自分を守ってくれる」という、そんな幻想が壊れたんだなと、ふと思ったのだ。

 

まだ僕が学生の頃だったろうか。家族の問題や本人の弱さから、僕の親父がボロボロだった時期があり、僕は「親はやはりちゃんとしているもの」ということが幻想だと理解した。ただ、その時点ではその幻想が捨てられずに蔑んだ。「親として、いやその前に人としてクソじゃねえか」と。

 

それから10年余りが経ち。自分も含めて同じ「ダメな大人」になった。地元でたまにグズグズになるまで一緒に飲んだりしながら。今では良い関係が築けていると思う。親でも大人でも、所詮は女と男なのである。事情や情事、色んな事があったり、なかったりしながら生きている。

 

・幻想を捨てられない「子供っぽさ」

また少し話を変えて「大人」という角度から今度は逆に「子供っぽさ」という話をしてみたい。前段で、大人になるとは様々な「大人はかくあるべき」という幻想を、自分の年齢や感情をもって捨て去ることと書いた。それは言い換えれば同時に、人を、そして歳をとりゆく自分を許すことである。

 

ふと過去在籍していた学校などを思い浮かべてほしい。イジメが今でも社会問題になる通り、子供という存在は時として大人と比較しても残酷な存在になる場合がある。仲間外れや容赦のない暴力。そうした事例は全国津々浦々にて散見される。なぜ、大人と違ってこのような露骨な事態が起こりやすいのかと言えば、そこには「幻想」の問題が大きく横たわっているように思う。

 

「幻想」とは「かくあるべき」という思いである。それはつまりその「幻想」に適合しない人を許さない、除外してもいい、という思考に繋がってしまったりする。例えば「お父さんがこういうヤツは無視していいと言っていた」イジメの理由としてドラマなんかでも見そうな案件だが、子は親に対して大抵「無謬性という幻想」を抱いている。

 

親が言っているのだから、間違っているはずがない。そして、クラスメートにもその「かくあるべき」基準を当てはめる。除外すべき対象が生じてしまうという具合だ。そして、個人が言っているだけならいいが、そうした「幻想」は往々にして共鳴する。皆がその「かくあるべき」という空間になれば、確実にそこは「幻想」が支配する空間となる。イジメはその空気感によって醸成されていく。

 

イジメる側を守るわけでないが、この雰囲気というのは子供社会において非常に起こりやすいと感じる。あくまでも大人と子供という単純な対立軸である為、安易な対比なのは理解いただきたいが、子供のように経験則が薄く、想像力も不足している状況において、そうした「幻想」は幅を利かせやすい。自分が独善的に持っている価値判断基準が全面に出てしまうという意味だ。

 

そして、ここからが本題である。小題にも掲げた「子供っぽさ」である。実際の年齢にかかわらず、こうした「幻想」を捨てられず「かくあるべき」という思いに支配されやすい人格を、ここでは「子供っぽい」と呼ぶ。そしてこの類の人は案外多い。当然、人が寄り集まって社会生活をする中で道徳規範は重要である。人として基本的な振る舞いを指して「かくあるべき」ルールを定めたいというのは自然な感情である。

 

しかし、ふと社会に出たりネットなどで。その「かくあるべき」が暴走し、人に対してただひたすら強く当たり散らす人を見かけたりする。例えばスーパーのレジで。僕の地元の治安の問題もあるけど、結構な頻度でいい年齢のおっさんがレジ打ちしている人に「遅い!」「そんなことも出来ないのか」と怒鳴っているのを見かける。方やネットでも、芸能人のスキャンダル、政治家の発言に対して、ひたすら烈火の如く罵倒する人がいる。

 

確かに批判というのはすべきタイミングがある。しかしながら、往々にしてその目的が自分自身の「幻想」を守りたいだけなのでは?と疑問に思う口ぶりも非常に多い。

 

・大人として「子供らしくある」こと

そうした「幻想」つまり自分の世界を守ろうとだけする人はやはり「子供っぽい」。イジメで見受けられたような、狭い価値判断基準で人を推し量り罵倒する姿。しかしながら、そうした「幻想」というものは人生経験によって大抵解消されるものである。

 

例えば、野球をしたことがないファンが、守備でエラーをした選手を罵倒する。しかしながら、野球経験があれば「ファンブルしたのか」「人工芝の境目だったのでは」とその事由に想像がつく。また、選手と友人であれば「緊張していたのかな」「そんな失敗に負けるな」と違った感情が沸く。経験則と想像力とは、このように人の感情を左右する。

 

大人になるということは、人が生きていて一つ一つ何かを経験をしていく中で「人生って安易に判断出来ないものばかりなんだな」と理解することだと思う。仕事を探す、結婚をする、子供を育てる、お金を借りる、家を買う、手術をする・・・生きているとなんだか一朝一夕では決断のつかないことばかりが襲ってくる。大人ってツラい。え、生きててもそんな感情しか沸かないのなら、大人になりたくない。まぁ思うよね、普通。小生も日々そう思いながら仕事に出かけたりしている。

 

しかし、そんな感情に対して一周回って「子供らしさ」を持つことが必要だと僕は思う。先に挙げた「子供っぽさ」とは違う概念であると定義したい。

 

まず「ぽさ」は無意識的、つまりは単純に「かくあるべき」と喚いているだけである。短絡的というかそこには経験則や寄り添う想像力がない。それに対して「らしさ」とは、情事も事情も経験したしょうもない大人であると自覚しながらも「かくあるべき」をもう一度掲げるスタンスである。自分の人生に対して、子供のような指針を立てる。臭い言葉で言えば夢を持つみたいな。言いたくなかったけど。

 

「大人として子供らしく」そうしたダブルスタンダードが、この時代あって然るべきではと感じる。

 

昨年末、冬コミで作った弊サークルの同人誌において、中野の「大怪獣サロン」というお店を特集した。「<おとな>が正しく<こども>な居場所」とはその特集におけるキーワードであった。特撮や怪獣というテーマを掲げながらも、色々な趣味、時代、価値観、国籍を吸収して成り立つその空間は、まさに清濁併せのむ強さを持った大人として、バカが出来る子供らしさを掲げたスポットであると思う。昨今ジョークも分からないようなネット民や、自分の意志だけで騒ぐ老体を前にして。大人であることの意味を再度考えてしまった次第である。

 

平日から長々と文章を書いてしまったが、寒い初夏の根暗な独り言ということで大目に見てほしい。早く僕もちゃんとした大人になりたいものである。

 

あの日、教室の隅で読んでたサブカル雑誌の面白さを

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ゴールデンウィークもすっかり終わりを迎え。毎年毎回の事だが連休の終わりというのは独特の虚脱感に包まれる。仕事が嫌と言ってみたところで、そもそもその仕事が目の前に控えている現実味すらない。毎度「とりあえず明日起きてから考えるか」というのが最適解で、案外寝てしまえば人間どうとでもなるものである。

 

愚痴で始まるのが弊ブログの平常運行なのでもう気にも留めないが、今日GWの最終日、東京流通センターで開催された「文学フリマ東京」に足を運んできた。そこで買った一冊の本の話から、出版に関するところまで考えを広げてみたい。

 

・「架空映画批評」というちょっとしたアイデア

文学フリマ」は名の通り文学・批評がメインの同人イベントであり、そこでしか買えない通な作品も多い。特に今年は他のイベントにも行けず、同人イベント自体、昨年末のコミケ以来とあって否応なしに気分は高まる。目の前に広がる規則的に並べられた机、そこに佇むどこか暗さがある参加者の面々、そして企画や内容も想像がつかない有象無象の同人誌たち。その光景だけでゾクゾクする。もうフェティシズムの一種なんだろうと思う。救えない中毒患者である。

 

お世話になっているサークルさんに挨拶を終え、懐具合の寒々しさもあり早々に退散するつもりだった。まぁ、そうは言っても好みのジャンルが並ぶ同人イベントである。そんな事は不可能で。毎度の通り、気づけば腕に収まる紙の束は増えること増えること。スペースを舐めるように見まわしながら、気になる文言があれば手を伸ばしてしまう。

 

その中でも、今回最も引っ掛かりを覚えた文言が「架空映画批評」という6文字だった。見た瞬間に「やられた」と思った。「批評」なのに対象が「架空」。思わず二度見、『ビク』と銘打たれた簡素なコピー本ではあったものの、気になったので買ってしまった。100円だったし。

 

「批評」というモノ自体、何か対象を論じる事である。なのでその対象に興味があれば気になるし、あるいは批評している人自体が論客として知られていればその一家言に注目がいく。むしろ正直な話、それが「批評」をやって本が売れるストロングポイントでもある。人気作を論じればそれだけ注目は上がるわけだ。ただ、今回手にした『ビク』の清々しいところは、それを逆手にとって一次創作活動している、ということだ。

 

一次創作をしてから、批評する。なんだ二度手間のように思われるかもしれない。ただ、面白いのは「批評」という文体は前提として「実際に存在する事象を対象にする」ので、そのフォーマットを使うと急にリアリティが増す。ニュース番組のテロップ風に嘘画像を作ると説得力が増すようなイメージである。ただ、よくよく考えれば映画の場合「レビューを見てから見る映画を決める」という人にとって「自分が知らない映画」の話題を読んでいるのだから、そこで起きている現象は「架空映画批評」と同様なのだ。

 

実際に中身を読んでみたが、その映画が本当に架空なのかちょっと疑いだしてタイトルをググってしまった。読者として完全に負けている。多分、書いている本人の現実を少し混ぜながら、架空映画の批評を展開するのでやけにリアリティが生まれている。そして、きっちりと映画批評になっており、読者はそのシーンすら想像出来る。あっさりとしたボリュームながら、整った文体ですっきり読めた。「架空映画」を批評するという逆手なアプローチに驚きを覚えてしまった。

 

・同人誌の価値が際立つ今

今回紹介した本以外にも、先日ブログにも上げた「金腐川宴游会」さんの新刊『二級河川19』も密度たっぷりで「ファミコンソフトのカセット形状比べ」特集とか本気で感動したし、それぞれ着眼点という意味で非常に尖っている。特に前者『ビク』はコピ本でもあり、編集後記を読めば日ごろのアイデアを取り急ぎ本にしてみたという一冊だ。それでもその「アイデア」レベルの本が驚きを与えないと言い切れない。

 

そして、話は多少飛ぶが商業出版が苦境に立たされている昨今において、同人誌という媒体の価値は増しているように思えてしまう。

 

当然ながら今なお、全国流通を前提とした大量生産およびプロモーションで売れる作品も確かにある。需要喚起のための文学賞など有効な手立ても多い。むしろ、そうした仕組み作りが出版社の役割である。しかし、Amazonの台頭などから出版社の力も相対的に下がり、そして全国的に流通させるメディアとして紙媒体を選択するメリットも目減りしている中で。より効率的なコンテンツ消費方法を模索・提案しなければならなくなっているのが出版社の現状だろう。

 

そうした状況下において。同人誌はやはり「面白い」のだ。上記の通り、出版社が生き残りをかけて効率的になればなるほど、相対的に同人誌は面白くなる。

 

宝島にしても、徳間にしても、三才にしても。かつて、そうした規模の出版社が請け負っていた、ニッチな雑誌による情報提示は少しずつ同人誌の土壌となっているように思える。昨今のグルメ系同人誌ブームやダムや団地、廃墟といった建築物写真集、また特殊な企画の評論同人にフォーカスが当たっているのは、まさにその流れの一端ではないだろうか。そして、上記のような「ちょっとしたアイデアが光る」という小回りの効く作品がきっちりと評価を受けるのも同人というサイズ感ならではと思う。(当然マネタライズの問題はあるが、今出版社がそのサイズ感のマネタライズを請け負えるとは思えない)

 

そして、もはや全国流通というシステム自体が厳しい現実を突きつけられている。電子書籍なんて言ってる場合でなく、各種映像配信やVtuberといった新たな対戦相手も数多くいる。娯楽や教養が地域や年齢、性別にかかわらず個別化し、そこに大量生産を前提とした現物流通という形でコミットすること自体がナンセンスに近い状況に陥っている。むしろ先の小規模に同人誌を作る形以上にマネタライズに難が生じる事も考えられる。(印刷会社の受注額、作者の印税収入、広告費etc)

 

何か発信したいと思った際、当然同人誌じゃなくてもブログでもオウンドメディアでもなんでもいいのだけど。ただ、案外バズることを前提にすると、ネットメディアは詰まらなくなるし、炎上やら怨嗟やら無駄なリスクがある。「儲かりたい」ってストレートに言われたら勧めはしないが「面白いことをやりたい」という意味では、クローズドでありながら自分の意思を表出出来る、そして小さいながらも確かなコミュニティを形成出来るという意味で、同人誌という古臭いメディアは無駄に底堅いんじゃないかと改めて感じ始めている。

 

・「独りよがりの面白さ」の破壊力

先にも言ったが、同人なんて所詮は趣味である。同人誌という媒体をいわゆる「メディア論」に組み込むと、ビジネスやらマネタライズが前提となったりして。そこと同列に見てしまうと「いや、同人を同列に語るのはおかしいでしょ」というツッコミが入り、その指摘はそれ以上ないほど正しい。稼ぎたい人がやるもんではないと思う。そもそも前提が違うし。

 

ただ、逆に。「面白いことやりたい」って人はあえて同人から何かを起こすのは今アリだと思う。「遅いメディア」なんて言葉もどこかで聞いた気がするけれど、そういう意味で同人誌はめちゃくちゃ遅い。自分の意思で「面白い」と思ったものを紙やらメディアにして、せっせせっせと自分で売るのだ。地道な作業だしリアクションも遅い。自分でも「何してんだろう」って思うのも日常茶飯事である。

 

ただ、スティーブジョブスの有名な言葉として「消費者は何が欲しいのか、見せられるまで分からない」というモノがあった気がするけれど、まさに需要を見て作られたものよか「これ面白いだろう」と、全力で殴られたモノが好みにハマったとき、恐ろしい程の訴求力を持ったりする。そして、僕個人としてはついついそうした「独りよがりの破壊力」にどうしても期待してしまう。現にこれまで10年以上同人誌という媒体にハマってきた淵源はそれである。

 

本という媒体はこれまで、全国流通でも非常にニッチなジャンルの本を扱ってくれた。それが出来ていたのも、一人ひとりの編集者の熱や、作者、営業の思いが比較的小さな規模で回っていたりして、それを伝達する方法も印刷して製本して全国流通させることが、ネットワークの全てだったからだ。

 

それが今、崩れようとしている。僕らが教室の隅で読み漁っていたしょうもないサブカル本やファミコン雑誌、ホビーカルチャー雑誌、マイナーな漫画雑誌・・・皆にはイマイチ伝わらなかったけど、どれもやはり面白かった。正直、メジャーな面白さではないのは認める。小さな物語に過ぎない。ただ、多分作っていた方は、それが「面白い」「熱い」と信じて全国流通させていたんだろうし、案の定それに震え、共感した人間はいるのだ。

 

そうした、教室の隅で感じた、街の本屋の隅で感じた、独りよがりなあのワクワクを維持出来るのは今、同人誌しかないんじゃないかと遠大な独り言として文章にしてしまった次第である。

 

 

今日、「文学フリマ」に行き「あぁ、面白いな」と思える同人誌を買えた裏で、ツイッター上のタイムラインには漫画家さんが「印税の低さ」に嘆き、また電子書籍媒体の各社の足並みの揃わなさを糾弾する記事が流れ。なんていうか、ちょっとしたサブカル気質だったり視点の根暗さ、オタクの執念が生み出すような面白さをどう活かすべきか、考え出してしまい。

 

当然に同人誌から延長させて電子書籍化だったり、マネタライズを考える方法もあるとは思う。ただ、それ以前に「面白い」モノをという気概も一緒に論じられてもいいのかなと感じた。

「日本よ!これが二次創作だ」~オタクのリビドーしかない『レディ・プレイヤー1』という映画~

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映画『レディ・プレイヤー1』60秒予告【HD】2018年4月20日(金)公開 - YouTube より

 

※軽くネタバレ込みです 

 

もうね。

 

「映画でも見る?あ、これなんか話題みたいだし、面白そうだからこれにする?」なんてGWの陽気に誘われ、本作をノリだけで見ちゃったご婦人方や、あまり本作の文化に関わりが薄そうな子連れ家族に心より哀悼の意を表したい。

 

鑑賞後、EDクレジットの時点で早々に立ち去るそうした人達。帰り際には「アタリって何?」「ネタわかんないし」「シャイニングってそんなメジャーな映画?」そんな声も聞こえる。まぁ、そう・・・だよね・・・うん・・・普通。そんな一定層の姿をよそに、一部の観客はざわつき、吹き出す。そして終盤にかけてさめざめと泣いている輩、クレジットが流れ終わった瞬間に小さく拍手すら聞こえた。そう、我々オタクだ。

 

ヒロインが金田バイクで颯爽と登場?ATARI2600に大オチが絡む?はっきり言ってやろう、バカじゃないのか?(誉め言葉)

 

 

東京・日本橋三越の建物を前にそびえる高級シャレオツビル、コレド室町2。ここTOHOシネマズ日本橋にて、ようやく僕は本作を観た。先週から行こう行こうと思いながらも仕事で圧殺され、一度は平日夜に予約した1800円を一度失うという煮え湯を飲まされつつ、何とか本日鑑賞。

 

もううだうだ難しいことは言わない。ただただこれをまだ見ていないオタクは見に行ってほしいという思いだけで、この文章を書いている。ネタバレも多少あるし、粗なんか探せばいくらでも出てくるだろうけど、とりあえず熱量だけ置いておく。

 

・「見たことある」がいっぱいだが、大丈夫か

簡単にあらすじから。冒頭に書いた通り、本作は非常に偏ったカルチャーを基盤に展開される近未来SFだ。「オアシス」という仮想ゲーム空間で、いわば『RO』や最近の『FF』的ソシャゲと、近年盛り上がりを見せるVRゲーが完全コラボした世界といえる。その中では様々なゲーム、ショッピング、疑似恋愛すら楽しめる。その世界に熱狂した人はもはや現実世界に興味を失い退廃的になり、半面「オアシス」内充実を求めるような時代背景となっている。

 

正直言えばその文脈は『僕らのウォーゲーム』『サマウォ』。自らのアバターが代替を果たす世界であるということは同じである。ただ、相違点としては没入性の高いVRという装置の存在と、その世界を作ったジェームス・ハリデーが死に際に、仮想空間内のどこかに隠した3つの鍵を手に入れられれば「オアシス」の所有権と彼の莫大な遺産が手に入るというのがプレイヤー達の主たる目的である。

 

当然、ゲーム内での装備や、リアル世界でのデバイスは今のオンラインFPSよろしく現実世界での課金によって手に入る。ハリデーの死後「オアシス」での課金滞納者を取り締まるなどして台頭したIT企業「IOI」もその資本力を使い、鍵探しに奔走する。それに対して主人公たちは、純粋にポップカルチャーマニアでありとことんオタクだったハリデーの意思を、そして大切な遊び場である「オアシス」を守る為に鍵を探し出し「IOI」と対立する、というなんつーか、とってもジュブナイルな、むず痒い感じの話の軸である。

 

そして隠された鍵をゲットするには、サイバー空間に無数にあるゲームのうち「指定のゲーム」を「指定の方法」でクリアすればOKというもの。それにしても、その「指定」が完全に「あの頃のゲーム脳なのだ。ここからは明確なネタバレなので内容の記述は避けるが、最先端VRソシャゲのくせに情報の集め方が完全に「ここのドット、絶対バグあるよね」「まさかだけど、ここ落ちてあえて死んだほうがいいんじゃね?」みたいなヤツ。製作者の意図を組んで、裏を掻いてクリアを目指すという展開にとかくウズウズする。

 

そして、なんといっても本作が注目を集めているのは作中で使用される「オアシス」ユーザーのアバターのパロ具合である。タイトルにもある通り「え、大丈夫・・・なんだよね・・・」と思わず心配になるほどの自由さ。一時期話題になった中国の遊園地のごとく、いやむしろキャラデザ完璧なだけに逆にまずい気がする。てか、ヒロインのアバターがどことなく『アバター』ぽいアバターなんだが大丈夫か。てか、同時期に裏で『アヴェンジャーズ』の新作やってるけど大丈夫か(

 

その酷いほど、愛のあるパロディアバターの数々。そしてそれらアバターが活躍する「オアシス」内でのゲーム描写CGの緻密さ。もうストーリーがなかったとしても、そのシーンの一つ一つに僕らは感動を禁じえなかった。

 

僕がそうしたシーンの一つ一つを見て思い出してしまったのは1983年、大阪で行われた日本SF大会のOPとして流された「DAICON Ⅳ」のアニメーションである。当然、リアルタイムで見られる年齢ではないものの、高校時代だろうか。初めて僕はこの数分間の映像を見たときに、オタクのパロディへの真摯な姿勢と、その熱量に「本当に俺、オタクでよかったな・・・」と号泣したのも懐かしい。

www.youtube.com

詳細はこれ読んでね。DAICON FILM - Wikipedia

 

このサムネイルにあるバニー美少女キャラが次々と、当時のSF作品キャラを相手に立ち回る。終盤には細かくも無数の二次キャラクターたちが描かれ、最後は「あぁ、ゼネプロ・・・てか庵野・・・」みたいな感じ。その描写には紛れもなく「こういう作品群を見て僕らは育ったんだ」という意思表示が見て取れる。そして今回の『レディ・プレイヤー1』に話を戻すが、端的に言ってしまえば、個人的にはこの「DAICONⅣ」OPを140分に及ぶボリュームで見させられているような気さえしたのだ。

 

個人的にグッと来たのは『レディ・プレイヤー1』の冒頭にはエディ・ヴァンヘイレンの『JUMP』が使われるのだが、84年のリリース。「DAICONⅣ」での冒頭ELO『Twilite』のリリースが81年で、時代的にも感じるところがあり、非常にリンクしてしまい、冒頭からひそかに目頭を熱くさせた。

 

・アメリカの二次創作への親和性

そうしたいわば「オールスターごちゃまぜ」的な空気にわくわくする気持ちとして、一時期、流行したオンライン格ゲー「MUGEN」が登場した時の興奮にも似ている。知っている方には説明不要だが、キャラ素材さえインストールすれば、どんな作品でもクロスオーバーさせ、戦うことが出来るなかなかアレな格ゲーだ。当時から賛否などいろいろな意見はあれども「格ゲーという土俵ひとつで戦ったら、どのゲームのどいつが一番強いんだ」みたいな謎の高揚感があった。正直バーリトゥードもいいとこ。

 

そもそもアメリカでは『アヴェンジャー』シリーズ含めてオールスター展開な人気が非常に強いように感じる。格闘ゲームの世界大会「EVO」でも一番の人気ゲームは大抵クロスオーバージャンルであり『Marvel vs Capcon』シリーズにたいする熱量は日本の想像以上に根強い。北米で最も有名なプロゲーマー、ジャスティン氏の人気を支えているのも本作である。

 

そもそもアメコミも、同作品にも関わらずパラレル展開をよくするし『スパイダーマン』や『バットマン』シリーズが、あそこまで回数を重ねて、映画化される土壌を考えても、日本と同様に二次創作とクロスオーバーに対する親和性は高いものと思われる。むしろ今回のような「全部ぶっこんだれ!!」という、ちゃんこ鍋的二次創作はヤツらの方が上手い気がする。

 

オタクとしての想像力のスケールというか、作品同士の機微なんて言ってないで、よろしいならば戦争だ!突っ込め!!敵をぶっ潰せ!!そして仲良くやれよ!!という満漢全席的漢気オタのそれを感じる。はっきり言えば小学生男子がクソ興奮する感じ。この作品を見て感じる熱さはそうした勢いから迸るものなのであろう。

 

朝から淡々と同人誌作成を行い「疲れたな・・・」と心折れかけたところにアメリカ式二次創作の魂をぶち込まれた気分であった。「日本よ、これが二次創作だ!」みたいな。やっぱあの国スゲーって単純に思った次第である。

 

まぁ、話はとっ散らかったけれども。詰まるところ久々に「あぁ、オタクで良かった・・・」と実感できる作品だったということは確かだ。こんなクロスオーバー全開の土壌に、とことんネット上で出会っちゃったボーイミールガールの典型をぶち込み、最終的には「異世界もいいけど結局腹は減るからなぁ」とか言い放ち「そうは言っても、ゲームは1日1時間!」という高橋名人みたいな教訓めいた要素も注入。やられた。エンタメとしても「あの頃の空気感」をきっちり演出していて、流石はスピルバーグという作品だった気がする。

 

とかく今のハイエンドソーシャルゲームの世界に80’sの古き良きポップカルチャーを組み込むとこんな空気になるんだなと。これから様々な技術が進歩する中でも、割と懐古主義と言われたところで。あの頃楽しかった思い出だったり、大切にしていたことっていうのは忘れちゃいけないもんなんだなとか、おっさんらしい感情を抱いたりして、やはり涙をホロリ。隣で見ていたのもどうも同世代かちょっと上のオタクで、同じところで笑い、そして啜り泣き。「ガンダム!!」とハモったりもした。なんか映画にとどまらない不思議な体験をしたような気分だった。

 

いや、長々書いたけど。ほんとただただ面白いので、GWも本番。ぜひ見に行ってみてください。

この春同人ファンに薦めたい「金腐川宴遊会」というサークル

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そろそろGWが近い。様々なイベントが目白押しなわけだが、こと同人オタにとってもなかなかスケジュールが詰まる時期でもある。コミティアやCOMIC☆1など大きいイベントから、ニッチなオンリーまで。その数、今週から5月の連休の終わりまで調べてみるとどうもその数およそ900という。華やかな行楽シーズンのその裏で、全国津々浦々にて薄い本が売られているという状況がこの国の実態である。あな恐ろしや。

 

そんなイベントのひとつ、同人ファンには既におなじみになってきた文学フリマ東京が、東京モノレール沿い流通センター第二会場にて、GWもラストの5/6(日)に開催される。

文学フリマ - 第二十六回文学フリマ東京 開催情報

 

自身も過去1度、サークル参加させて頂いたことがある。イベントの趣としては「文学」と冠している通り、結構しっかりと文学。一応文章系である弊サークルとしては、浮かないまでも、やはり「ちょっと場違い」な感を受け、その後参加を続けることはなかった。むしろ当日、誰も人員を確保できず単身サークル参加ということもあり、なんていうか寂しかったというのが大きい気がする。なかなかね。5月って心折れやすいからね。

 

ただ、その参加自体を後悔したかといえばそんなことはない。大きな収穫を得たからだ。それこそが、その時お隣に配置されていたサークル「金腐川宴遊会」さんの存在である。出会いは簡単、単身参加で買い出しにも行けず、お腹がすいた僕を憐み、宴遊会の皆さんがおにぎりをくれたのである。なんていい人達だ・・・そう思いながら新刊交換なんてしてしまったが最後。その本の魅力に一発で心奪われた。

 

前に評論・情報系サークルのレビュー記事を書いたときも、ピックアップさせて頂いた。

www.wagahaji.com

 

ただ、それでは足りず。「この面白さ、誰かに伝えたい」ひとりで勝手に盛り上がってしまい、5/6(日)に文学フリマ東京に参加される「金腐川宴遊会」さんの『二級河川』シリーズの魅力について、今回は滔々と漏らしていきたい。

 

・ニッチという言葉が陳腐になるほどの「間隙」

二級河川』の基本コンセプトとしては、色々な方が執筆、あるいは対談・座談会を行った文章をぶち込んで出来上がった雑誌シリーズだ。文学フリマで一緒になった際に伺った話では、元来サークルのメンバーで身内に配るだけのミニコミ誌だったようだ。文学フリマが皆さんの地元金沢で初開催という時に同人誌として頒布開始。なので、一般読者として入手可能なナンバリングはVOL13以降(在庫次第)となる。それ以前の特選集『二級河川リサイクル』も素晴らしいので是非見つけたら手に取ってほしい。

 

予備情報はここら辺にして。それにしても、本誌が圧倒的なのはやはりその内容と質量である。一冊丸まる歴史教科書の「注釈欄」のようなサブ的空気は圧巻の一言。現代はネットによって「調べれば何でもわかる」というほど、情報とそのアーカイブに満ちている社会である。ただ、その中でも終ぞ漏れることがなかった「需要なき貴重な情報」で本誌は満ちている。

 

僕が好きな記事のその一部の一部だけ紹介してみたい。

 

<VOL.16>特集「翔べ!グルメうらごろし」より

「読んだ気になれる!『美味しんぼ』全話100文字レビュー【前編】」

グルメマンガ特集の中のお気に入り記事。2016年の3月に『美味しんぼ』が大団円にて終了か、というニュースを受け書き出したはいいものの、即終了撤回を受け筆者のテンションがちょっと下がっている事が想像できる。更に「筆者の精神状況やモチベーション等の問題もあり、ところどころ嘘の記述が混じっていますのでご了承下さい」という注釈にも思わず吹き出す。それでも、文字で埋められた6Pからは確実に『美味しんぼ』の痛快かつキチガイ染みたエッセンスに溢れている。細かい文字を辿っていると筆者の虚言なのか、単純に本家『美味しんぼ』のヤバさなのかわからなくなり、その交錯すらトランスとして楽しめる。今回は40巻までの【前編】とあるが、今のところVOL17・18に【後編】の影はない。『美味しんぼ』のゴールと共に待ちたい。

 

<VOL.14>特集「宗教漫画」

・「教祖を描いたマンガたち」

この尖りきった特集の冒頭を飾るに相応しい素晴らしい文章。コミケの評論島でも宗教パロもの・宗教系情報同人というのは結構探すと見つかる。ただ、往々にしてその色がオタ的嘲笑の的にされていたりするので、なんとも言えない感情に占められることが多かった。ただ、この記事。絶妙なバランス感覚と圧倒的な知識量をベースにしている事が読めばわかる。立正佼成会やオウム、幸福の科学創価学会、それら団体をどうきり取ったマンガなのかを明確に示し、まずマンガレビューとして成立しているのがすごい。この扱いにくい類の特集を一つの文章で雑誌一冊まるまるきっちり整列させるような、ある種モノの見方を教わった気がする名記事。

 

<VOL.18>特集「地獄・極楽懐ゲー攻め!」

・「「明日やろう」はストバスヤロウ-虚無作品『ストバスヤロウ将』の全貌」

懐ゲー特集の本誌。その中でも、完全にぶっ飛んでる文章がこれらである。前者『ストバスヤロウ将』いや、この記事を読むまでその存在すら知らなかったゲーム化もされたジャンプ漫画。でも連載時期を見ると93~94年『DB』『スラダン』も佳境で「え、なんで知らないんだろう」って思ったほど。ただ、記事を読めば読むほど納得するそのマイナーぷり。「決して本作はクソ漫画でもクソゲーでもない純粋に面白くないだけである。」という言葉の辛辣さには笑う他ない。

 

・「『燃えろ!!プロ野球』調査隊 2017石川ミリオンスター編」

後者は野球ファンゲーマーではおなじみのクソゲー『燃えろ!!プロ野球』を地場石川県の中古ショップをめぐりひたすらゲットする狂企画。当時の販売ヒット規模と、その後の評価の失墜を踏まえると中古市場にたくさん出回っている事が伺える本作。この記事では、核戦争後を描いたゲーム『Fallout』において、通貨が戦前のコカ・コーラの王冠が使われていることから、リアルに存在する我々も何かの荒廃を受けた後に通貨となるものを探そうということで、浮かんだのが『燃えプロ』。その通貨集めの一環も兼ねてという企画ネタは、なかなかに常軌を逸していて大変好感が沸く。

 

二級河川リサイクル>(同人誌化以前の特選集)

・「エレクトリック・サンの世界」

僕がこの『二級河川』にほれ込んだきっかけともなった傑作記事。エレクトリック・サン、つまりゲームメーカー「サン電子」の過去作品を元ネタに70年代サイケバンドのディスコグラフィー調に紹介した嘘音楽記事。知らない人が読んだら本当にそうだと思い込むような密度と、その嘘の鮮やかさは一級品。何がすごいって懐ゲーのハイレベルなパロを『ストレンジデイズ』とか『レココレ』あたりの通好み音楽雑誌のパロに乗せるという二重パロ。双方の知識と記事を書く上での文脈の編集力が求められ、ネタを完遂すること自体に驚く。その実すべて嘘という意味では「中学時代とか洋楽の音楽雑誌って実は分かった顔して読んでるヤツ多かったよな」という皮肉まで詰まっていそうで、考えるほどメタすぎる記事。内容については、キリがないのでここらへんにしたい。

 

 

これ以外にも、戦前出版関連情報、競馬、セパタクロー、SCP財団、JR鶴見線・・・・正直気付いてほしいんだけど、ほんとにこんなような怪しい記事が所せましと訳わかんない密度で掲載されている同人誌って他にないんですよ。自分が親の立場なら子供に見せたくないような、そんな本。

 

今、評論同人誌は見た目もキレイ、特集もグルメやデザインなど読む側にもキャッチーってことで、各方面から案外スポットが当たっているジャンルだとは思う。自分自身もその一端として、何とか読みやすいものをとか思いながらシコシコレイアウトを考えているわけだけど。

 

そんな中、企画ドーン!!情報ドーン!!文字数はページ割り振り次第!!おもろいやろ!!みたいなストレート同人雑誌は本当に貴重だと思う。僕自身、このシリーズと出会って「あぁ、やっぱ同人誌って本当面白いな」と久々に思えたのは確かだ。出版不況によって、色んなアホみたいな企画の本は恐らく作りにくくなっている。本当の意味で「面白いもの」が紙媒体から全国流通される機会も今後恐らく少なくなるだろう。

 

そんな時代に、やはりこうした同人誌の持つ力というのはバカにならない。我々の知識やバカネタは、ネットに漂っているものだけじゃない。ネットすら一般インフラとなった昨今、そこにも浮かばないアングラ層に、まだまだ沢山面白いものはあって。そしてそれを探す余地は依然として残っている。そしてそれらを探し出し、共有するでもなく(しちゃったけど)ひとりほくそ笑む事こそオタクの愉しみだ。「モノ消費からコト消費へ」オタクだってその時流に逆らえない。何かを保有すること自体に意味がなくなり、すべてがオンライン化する中で。再度、本当に面白いモノを求める事について考えさせられた日曜でした。

 

ということで、改めて「金腐川宴遊会」さん、ハードル上げちゃいましたが、文学フリマ行かれる方、お勧めです。

 

 

 

漫画村騒動から思う「印税を払う」オタクの習慣の重要性

すっかり春。いろんな世代の人が、新たな生活を始める季節である。それぞれの身分が変わり、弊社でも新卒社員が配属についたり。働きだすってどういう感情だったっけか。そんなこともすでに7年も前の話になり、自分の年齢を振り返ればアラサーっていうかもうサーだよね。サー。偉くなったもんだ。まぁ、そんな身の上話はどうでもよくって。

 

・「権利」と「無料」の抗争

漫画村騒動は今やネットにおけるメイントピックスの一つになっている。漫画を無料で読めてしまうネット上の仕組みづくりに対して、漫画家や出版社はもちろんネット論者の声も高まっている。それに対して、当の本人というか漫画村の運営者側から「紙媒体でのコンテンツ販売自体がもう成り立たない」という具合の反論がなされ、まぁ、なんていうか権利者側じゃないので、さすがにその反論はどうなのよ。という具合に盛り上がりを見せている。

www.huffingtonpost.jp

 

漫画村」という単語だけ見ればここ数年の問題では、と感じるかもしれないが、こうしたコンテンツの無料配布や、権利者の収益を無視したビジネスモデルの問題は、ご存知の通り今に始まった話ではない。数年前に目を移せば、ネットの間で問題になった「自炊」と呼ばれたスキャニングを使ってPDFデータだけ吸い取ってしまおうという行為。ちょっと畑はズレるがマジコンといったイメージファイル互換機、あるいはその温床となったカボス・ウィニートレントなどファイル共有ソフトを使った違法DLもろもろ。目線をもっと前に戻せば、レンタルビジネスだってその走りだし、その源流を見れば貸本なんていう戦後のビジネスモデルにすら行き着く。そもそも中古売買すら、言ってしまえば製作者本人の意図しないところで作品やコンテンツが売買されるという意味では、権利侵害に当たると言えるだろう。

 

何が言いたいのかといえば、まず「現代の若者に著作権モラルがなく、今の時代だからこうした問題が生まれている」こうした自分から問題を突き放すような論調・認識は、まず間違いだという話だ。

 

極論を先に出してしまえば、戦後闇市がなければ焼野原に残された市民は飢え死んでいた。という話である。法規上、いくら正規の権利を守ろうとしたところで、混乱期や貧困、そうした社会情勢においては大抵、権利の保護というのはなかなか守られにくい。

 

今回の漫画村騒動の中で興味深かったのは「権利の保護」という真っ当な主張に対して、さまざまな反論があったことだ。例えば「貧しい人間は漫画を読むなということか」「地方に住む漫画など買えない人間がコンテンツを得るにはどうしたらいいのか」こうした自己都合的発言は案の定、炎上しながらネットの海を漂うことになるんだけど、その切々たる「意見」には、まだこの国において無視された世紀末な空気が残されていると理解するには十分な発言である。

 

そして加えて。案の定というか。学生の間では、こうした無料サイトのユーザーというのは多いようで、ニュースといったメディアのインタビューに応える学生の姿を見ることができる。自分がいち貧乏学生だった頃を振り返れば、確かに漫画や文庫本を買うのはたいてい中古だった。なるべく一冊の単価を抑えようとし、自分の財布を守るのに必死だった。この発想から言えば、無料で漫画を楽しめる仕組みづくりが進んでいる、というのは純粋に当人にとって考えれば歓迎以外の対応はないだろう。

 

しかも、昨今。ネットの拡充によって出版社発行物の紙媒体での販売落ち込みは顕著であり、そこにamazonなど電子書籍の巨頭が入り込むことによって、これまでのビジネスモデルが通用しなくなっているというのは確かな事態である。実際に漫画村の管理者が言う「努力が足りない」という批判は、既存権益にすがる出版ビジネスモデルに対する言及という意味では、無視できるものではない。

 

・「何に金を払っているのか」を改めて考えること

とは言っても、上に貼ったリンクの通りで「積極的にその権利の壁を崩しにかかるお前がそれを言うな」というのも真っ当な批判である。ただ、こうした「何かを安く得よう」とする心理は経済学的に言っても、神の見えざる手によって引っ張られているというか。奥さんならチラシを並べながらどの店が安いか1円単位で吟味するというか。自分の財布から少しでも金を出したくない。その極地にある「無料」という誘惑に、なかなか人は勝てそうにない。

 

正直、この時代様々な法規制によって、違法DLを抑えるというのはいたちごっこであり、法規としては必要だが実運用としてはあまり得策ではないだろう。漫画と言えば「紙媒体」という認識を21世紀の今、なんとか保っているものの、メディアの変遷が激しい音楽業界に至っては、そのビジネスモデルも完全にデータ購入および定額配信という流れが激しくなってきている。ひと昔前に音楽での権利保護と言えば「コピーコントロールCD」などがあった。確かに権利者の保護に向いていたにも関わらず、むしろ利用者の不便が大きく非難が相次いだ。

 

元来一人のマンガ好きとしては悔しいものだが、漫画村の管理人が言った「努力不足」という言葉。おそらく今の時代、やはりそれを「キチガイの放言」と笑えないのだ。だとしたら、やはりどうやったら人は漫画に金を払うのか。結局、守るよりも攻めの理屈でビジネスモデルや発想を変えるしかない。ということで、儲かりそうなビジネスモデルについては意識の高いメディアにお願いするとしてここでは触れない。それよりも、ここでは個々人の発想の転換を呼び掛けたい。

 

今回、この問題を考える中で「対価感覚」という言葉が頭を過った。この「対価感覚」とは「自分が一体何に金を払っているのか」を考える感受性と言えるだろう。なんでもいいのだが、例えばコンビニで一本ペットボトルのお茶を買ったとしよう。この150円のうち、いくらがこの目の前のバイト店員に寄与することになるのだろうか。という発想だ。出来高でもない限りは、一定の単価であることはないのだけれども。自分の身銭を切ったお金の行き先を考えることは、こうした無料問題の一端を多少緩和するのではないかと思う。

 

「安くものを買いたい」というのは買い手の、そして、その時の瞬間的な都合である。社会に出て何かしらモノの売買に携わった人なら実感として理解できるであろうが「安く買う」という事は、一瞬出来ても「先数年の間、安定的に」行う事は難しい。相手もその商売で得た利益を使い、さらなる投資や商売を行う。ある程度の単価で金銭を払うというのは、将来的にも大きな変動に巻き込まれない為の「信用」というリスクヘッジに繋がる。一度限りの飛び込み営業や現金問屋でもない限りは「商品単価」をある程度の水準で保つことは、継続的な取引や経済の循環を意識すれば、単に高い買い物をさせられている、というわけでない事を実感できるはずだ。

 

・「印税を払う」というオタクの姿勢

少し話が飛んだが、要は我々消費者は。何かを買う際に払ったお金によって得られる対価が「現品」限りでないということをより想像すべきだと思う。当然のことながら、漫画村の件で数々の漫画家の声明が上がった。こんなことをされては暮らせない。漫画家という稼業すら続けられない。悲鳴に近い声だった。逆に言えば、漫画を買うという事は、こうした漫画を提供してくれるメーカーである漫画家、クリエーターを支える投げ銭になる。オタクなどがたまに言うセリフだが「印税を払う」という感覚だ。

 

ドルオタなどはその傾向がより顕著なのでたまに度が過ぎて問題になるわけだが、当該CDを確実に視聴必要以上の枚数を購入し、おそらくファン投票の投票権などの枚数を稼ぎ、そしてそれを「推し」に捧げる。なんていうか、ファンの語源が「ファナティック」であることを痛感する事例である。それでも、彼らは単純にCDを買っているのではない。「推す」という行為に対して金を払っている。

 

漫画好きな我々オタクが新刊が出るたび使う「印税を支払う」という言葉。当然ながら本当に直接税として取られているわけではない。しかし、それが著者の印税収入となることを理解し、そして意識している。この金が好きな漫画家の飯になり、そして、例えば映画代になる。その刺激はまた新作に繋がるかもしれない。そんな夢想をしながら、我々は何等かの形でやはりお金を落とすのだ。

 

今回、漫画村の閉鎖に伴い、大学生のコメントなどが多く取り上げられ「困る」という言葉も数多く見られた。確かに、学生というのは今の自分の生活でも手一杯だし、将来の道も模索中だしと、かなり自己に不安定な要素が多い。過去の自分も含め、人のことなんて考える余裕もなかった気がする。ただ、社会に出て。そうした相互扶助の要素が経済にはあること。そして、多少でも自分の出したお金というのが、巡りめぐって応援する人の元に届くという事。古臭い話ぽいのだけれども、ここまで様々なECや課金の仕組み、マネタライズのシステムが出来上がった今だからこそ、再度意識をした方がいいと感じた。

 

最後に。何に対してお金を払うのか、という事は、詰まるところ「何を大事にしているのか」を考えることである。「漫画が金を払うまでもない暇つぶし」なのも理解出来る。さも慈善家らしく「困っている漫画家に愛の手を」なんて見下したふざけた事を言うつもりは毛頭ない。ただ、自分が「これだ」と思えたものには、しっかりとお金を払う事。その習慣を身に着けていないと、いざ大切なものを目の前にしたときにお金を払えなくなる。逆にネットワークビジネスみたいに、大切なものもわからず金を払ってしまう。「対価感覚」大枠のビジネスモデルを考える前に、いち消費者としても時代の過渡期には必要な発想ではないかと思いました。

 

そんな日曜夕方のおっさんのぼやきでした。