わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

『少女終末旅行』を見て。今この国で生きる絶望と想像力について。

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 少女終末旅行』©つくみず/新潮社

「少女終末旅行」第6話の先行カットが到着。ケッテンクラートの故障、そしてユーリの視界に飛び込んできたのは…(画像1/6) | WebNewtype  より

 

正直そこまで期待をしていなかった作品に完全にいろいろ持ってかれたという経験も、そう多くあるものではない。

 

昨晩深夜1時半。原作・アニメ含めた全話を鑑賞し終えたおっさんがひとり、Kindle fireを抱きしめながら布団の上でさめざめと涙を流していた。いやぁ・・・本当に良かった。

 

タイトルと冒頭にもある通り昨年の秋冬クールにおいてアニメ化された『少女終末旅行』を見終えた。人間が全くいなくなってしまった近未来の荒廃した世界で、2人だけ残された少女、チトとユーリが淡々と旅を続けるという物語である。原作連載も新年に入り結末を迎え、現在ではアニメの内容からもう少し先に進んだ「本当のラストシーン」を読むことができる。

(最終話含めたいくつかの話は下記「くらげバンチ」の公式サイトで読むことが出来る。2018/1/21現在)

www.kurage-bunch.com

今回はその『少女終末旅行』を見て感じたことや、その物語が提示してくれている今の時代の想像力について、相変わらず身勝手に話をしていこうと思う。ネタバレなんかも含むとは思うので、そこは自己責任ってことで。

 

芳文社的キャラが問い掛けてくる「現実」

本作の単行本が書店に並んだ頃からその存在は知っていた。だって、書店で著者の名前を自分のHNと見間違える経験などまずない。つくみず氏、実際何度か空目した。wikipediaを覗けば、名前の由来はどうも同人時代の「月水憂」という名前から転じたようである。その名前を書店で見た当初は「同志か」などと変な期待をしたものの、安心しろ、そんな変態がそこら中いてたまるか。である。

 

今回、ツイッター上でのタイムラインでもにわかに「面白い」という声が上がっており、折角Amazon primeで観られるのならと視聴を開始したわけだが、序盤早々からその世界観にやられた。

 

まず特筆すべきはそのキャラデザである。恐れなく言えば主人公のチトとユーリは一見して芳文社系というか。蒼樹うめばらスィー系譜と言えるだろう。いわゆる「日常系」の代名詞らしさを外見上に持った、そんな二人が近未来の荒れ果てた土地をただ旅をして回り、食料を得て、また旅を続ける。

 

本作の設定として、人の住む都市は縦軸に発展したようだ。何らかの理由で住めなくなった都市の上空に都市が新たに作られ、過去の都市は下層に打ち捨てられたままになっている。戦禍によって無くなったと思われる二人の故郷も下層にあり、二人をその町から逃がした「おじいさん」の「上を目指せ」という言葉に従って「最上階」を目指し旅を続けるというのが、話の軸である。

 

序盤、その旅は特段代わり映えもなく、二人のほのぼのとした掛け合いからはさながら『ひだまりスケッチ』や『苺ましまろ』といった作品を眺めている気分になる。ただ、冷静になって思い出せば、その旅路には家も故郷も授業も暮らしもなく。どこもかしこも廃墟として、そこに人がいたという残滓だけが残っている。その中で食料と燃料を求めながら、ただただ前に進むだけの二人は時折「生きてるって何だろう」とか「生命って何だろう」という哲学的な疑問にも対峙する。

 

二人は未就学らしく、ユーリは字すら読めない。対してチトは「おじいさん」の影響から本が好きで、多少の教養が備わっている。コンビのバランスは、ユーリの子供のような発言や問いにいつも呆れてツッコむチトという構図だ。しかし、そのユーリの子供っぽい言葉の中には生きる上での本質が顔を覗かせ、そしてそれに返さなければならないチトの葛藤は、徐々に我々視聴者とリンクを始める。毎日、寝て、食べて、進んでの繰り返し。生きているってなんだろうね。そんな二人の掛け合いを眺めているうちに、それら問い掛けが画面を乗り越え僕らの心にものしかかっていることに気づく。

 

この作品を手に取るまで、見かけだけで「あぁ、芳文社系亜種かな」と思って特段興味を示さなかった。しかし、いざフタを開けてみればその現実味のない芳文社系キャラが、延々と廃墟と空腹という現実に対して淡々とサバイブする。こうした「現実感」のシャッフルによって、少しずつ単なる観測者であるはずの僕らの「現実」という地盤すら揺さぶりにかけてくるような巧みさがそこにはあった。

 

・「絶望と仲良くなる」という思想

こっから多少考察も入ってくるので、がっつりネタバレしてます。最後まで読む予定の人は避けてね。

 

また、本作では象徴的なセリフがいくつか耳に残る。その中でもやはり「絶望と仲良くなろうよ」というセリフは特筆すべきものだろう。最初に使われたのは自作飛行機を飛ばし「都市」からの脱出を図った「イシイ」と出会った回だ。二人の愛車ケッテンクラートが故障し、修復の困難さに延々悩むチトに対してユーリが放った言葉である。本作終盤までユーリがこの言葉を使い、本作テーマの中軸を成していたように思える。

 

先ほど書いた通り、この作品の中で都市は上部へ向かって発展していく。発展というよりは、避難と言った方が適切かもしれない。二人が軍服を着ている事からも、本作の世界観の裏に大きな戦禍があることは容易に想像がつく。アニメも終盤に差し掛かる中で、その戦争の規模やどのように荒廃が広まったのかも徐々に判明する。そして近未来の強力な自律機械兵器、そして核弾頭といった存在も確認できる。

 

それらを踏まえれば、核が実際に使用された後の世界と考えるのが自然だ。武器使用によって人口が減り、そしてあらゆる場所を埋め尽くした放射能物質から逃れる為には、標高が高いところへ逃れるしかない。現に作中で都市のレベルは標高に比例しており、そしてそこにはまだ人の暮らしがあるかもしれない、という一縷の望みこそが「おじいさん」の「上層部へ向かえ」という指示だったと考えられる。

 

しかし、先に示した飛行機を作り都市からの脱出を図ろうとしたイシイは、決して上層には行こうとしなかった。海の向こう、対岸に見える陸地へ向かおうとしていた。そこに目的があるわけではなく、イシイ自身も対岸の陸には何があるのか全く分かっていない。

 

恐らくながら、イシイは少なくとも自分や二人のいる都市のバックグラウンドや上層の状況について知見があったと想像出来る。物語の最終盤では過去の人間が作った月へ向かうロケットの存在も明らかになる。人はもはや「都市」の最上部すら見捨てている。この折り重なった都市の上下に最早意味はないと、彼女は既に理解していたのだろう。

 

結果を言ってしまえば、飛行機計画は頓挫する。イシイを載せて飛び立った飛行機は、翼が折れ、墜落する。パラシュートを使い脱出し下層へ降りていったイシイは、何か安心をしたように笑っていた。それを遠くから見たユーリが「イシイは絶望と仲良くなったのかも」と呟く。

 

イシイの描写や「絶望と仲良くなる」というセリフは、この先には何もないとうっすら分かっていながら旅を続ける、二人のその後の暗示のようにも思えた。アニメの最後では、観測者たる謎の生命体(ヌコ/神etc)が登場し、この都市において人間の存在は二人以外確認していないと告げる。それは「二人にとって安住の地はない」という、はっきり言ってしまえば本作におけるひとつのバッドエンドの明示となってしまっている。(この生命体の意味合いについてはまた別途の場所で文字にしたい)

 

ただ、二人にとって逃がしてくれた「おじいさん」の意図がどのようなものであれ。幼くして二人で旅を続けることを強いられた彼女たちにとって「安住」という結果に、あまり価値を置いていない印象を受ける。勿論、食事や入浴、安眠といった生活的行為のシーンでは、多幸感あふれる描写がなされており、見ているこちらまで幸せになるようである。

 

しかしながら、二人はそこに留まり「生活」を考えることはせず、視聴者が想像するよりあっさりと次の場所を目指す。その理由に食料事情という事も当然あるのだが、むしろさながら「安住」自体が続かないものだという事を知っているかのような淡白さである。彼女たちはこの旅が希望のない、つまり「絶望的」な旅路だともう分かっている。逆に、この先の希望や絶望という要素だけで語ることが出来ないモノ、今自分が触れたもの、触れてきたものを信じて、自我を保つこと。そうした価値観を彼女たちは提示してくれている。

 

そして漫画版のラストシーン。愛車のケッテンクラートすら失った彼女たちは、最上階へ足を踏み入れる。もうその前に月を向かうロケットの存在を目にし、読者も彼女たちも人間が不在である事実をうっすらと分かっている。そして、結局何もなかった最上階で、星空を見上げる。「もっと下層の段階で、安住することへの希望があったのでは」と後悔を持ち掛けるチトに対して、ユーリはただ「そんなことは分からない」「でも生きてて最高だったよね」と投げかける。

 

・生きるという事を、自分で再定義出来る強さ

本作に触れて、とかく僕が秀逸だなと感じたのはこの「二周目のSF」という設定が、この国の現代社会における温度感と見事にマッチしているという点だ。

 

少女終末旅行』は人間がすでにいなくなった世界を描いた作品である。つまり、彼女たちの旅よりはるか昔に壮大な一大SF叙事詩が繰り広げられていたということだ。近未来兵器を駆使した世界戦争と都市の再興という大きな物語が終わり、人類は宇宙へと脱出した(と思われる)。そして抜け殻となった地球には、メインテーゼとなるような大きい物語など残されているはずがない。

 

本作の「メインストーリー終了後の二周目としてのSF」という作風は、最初から大きな希望を持ちえない物語という意味で、作品にするには難しい試みであるように思える。しかしながら、僕らがこの作品に共感してしまうのは、むしろその希望のなさに対してだ。

 

二人の旅路に感情を揺さぶられるのは、高度経済成長など遥か過去の遺物となり、人口は減り続け、昭和期の遺物だけでなんとかやり過ごしている、もう成長や成熟という物語を失くしたこの国における将来性とどこか重なってしまうからではないだろうか。

 

物語なんてすでにない。「絶望」だということもうっすら分かっている。それでも生きている事が最高だと言い切れる。最終話、ユーリの姿に僕は今の時代における強さのあり方を見た気がした。それは、一見逃避に見えるかもしれない。大きな希望を想像することを捨て、二人という矮小な世界に引き籠った、と観ることも出来る。

 

ただ、本作の二人からはその卑屈さを感じない。むしろ日々の野放図な旅路から先行きが見えなかったとしても、自分を取り巻く世界を一つ一つ構築しているのは自分だという自負が見える。明日に希望がなかったとしても、明日を迎えて1日をまた想像し、創造する。

 

では、その強さはどこから生まれるのだろうか。 序盤に触れた通り、本作では随所に「生きること」「記憶とは」「時間とは」「音楽とは」「生命体の定義」など、人間としての哲学に直接結びつくようなテーマがちりばめられている。そして彼女たちはそれらと向かい合うことを恐れない。ユーリは奔放にそれらに疑問を抱くし、チトは懸命に回答を用意しようとする。その一つ一つ問答の営み自体が「生きること」そのものであり、単なる「幸せに暮らしました、めでたしめでたし」で終わらせない自覚がそこにある。「生きる」ことを自ら定義する強さこそ、このぼんやりとした絶望に対峙する方法なのだと、教えられた気がする。

 

 

本作から受け取れるメッセージは非常に多い。僕が本作をラストまで享受して、取り急ぎ抱いた感想は以上だ。久々に語るべき作品を見ることが出来たと思うし、単行本でもじっくりと改めて読み深めたい。ここまでネタバレしといてなんだけど、見ていない人は見て損はないと思います。いやホント。

 

 

「批評」と「批判・ヘイト」の違いを考える

インフルエンザが大流行とのこと。弊社もやはり例にもれず、各所で人が消え、その人が復活しては人がまた消えと、もはや職場がシャマラン監督の『ヴィレッジ』よろしくな世界感を醸している今日この頃。実際、僕も風邪をひいたので何も言えないのだけど、ちょっと諸々身の回りであったりしたことから「批評」についての考え事を書いてみようと思う。

 

・叩かれる作品なんか作りたくはない

先日とある久しい友人から「話を聞いて欲しい」という事で、電話がかかってきた。彼は藪から棒に「作品に対して批評をする人、あるいは批評自体について良いイメージを持てない」と言いだす。文脈が飛んでいるぞ。と思いつつ、突如どうしたものかとツッコんでみれば、小説を自分で書いてはネットに上げていて、現在どうもその筆が止まってしまったとのこと。

 

その原因として。ある時発表した作品がとあるサイトのユーザーの評価ランキングにおいて上位を獲得し、一定の評価を受けていた頃があったという。そんな中。どのコミュニティにおいてもやはり一目置かれている人というのは居るもので。いわゆる「ご意見番」のような人間から当該作品を「全く面白くない」とそれはもう酷評されたという。

 

どうもそれ以降、なかなか文章が書き出せなくなってしまったらしい。なるほど、小説サイトにおけるそうしたやり取りは、想像でなんとなく「あるんだろうな」と思っていたが、実体験を聞かされると身につまされる思いがする。「ワナビー」なんて言葉が生まれた場でもあり、昨今の小説サイトというのはなかなかに修羅の世界なのだなと痛感する。

 

そうした鬱々とした心境の中、ブログやら同人誌やらで批評めいた事をしているという認識から僕に連絡を頂いたようで。物事や作品の「批評」をすることってどういうことなのか。逆に何かモノづくりをする際、そうした「批評」される事が怖くないのか。うーむ。なんだか、軽い気持ちで聞いていたけれども、めちゃくちゃ真面目な話だった。 批評・・・堀江由衣とすみぺにブヒブヒ言ってるだけだけどなぁ・・・

 

ふと気になったので僕は、彼に「その受けた批判について、自分はどう感じたのか」と聴くと「まぁ、一理あるとは思うけど、やっぱし感想ってものは人それぞれ違うものだと思う」と帰ってきた。

 

彼の言う通りで、文章や絵、音楽やら映像に至るまで。そうした作品と呼ばれるものは、人の感受性によって評価は大きく変わる。確かに一見して「すげー」って事柄には賛辞が集まるのだろうけど、基本的に好みによって分かれるものだ。文章などは特に賛否が存在する。

 

そして「自分の作品が絶対的に優れている」という自信を持てる人はなかなか少ない。往々にして誰かの評価を基準としながら「これはウケたな」とか「よく書けたな」とか。そういう風にして自我を保っている。こんなこと書いている僕自身ですら周囲からの批判や反感が怖くないと言えば、間違いなく嘘だ。なるべくなら叩かれたくないし、同調してくれる人が多い方が「生きててよかった」とも思う。逆に叩かれたら「死ね」とか「死にたい」とか、結局弱っちい人間なのでそんな軽薄な感情で占められていたりする。

 

・マイナスの意見を書くということ

 そして思うのだ。彼が言う通り、非難や批判が詰まった批評なんて文化のどこに意味があるのかと。詰まらないと思った作品は無視すればいいじゃないか。なんでわざわざ、マイナスの感情を振りまく必要があるんだ、という声もよくネットで見かける。わざわざネガキャンなんて、小さい人間のすることだろう。うん。確かにそう思う。

 

ましてや、今の時代。何かマイナスな意見を言えば、すぐにでも製作者に届く時代だ。僕自身も繰り返してる通り、エゴサなんて当たり前の時代である。「〇〇って作品クソだな」なんて言った日には確実にそれに携わった関係者の目には入っているはずで、ある程度立場のある人がそういう「叩き」をすると、それは昨今炎上にまで繋がったりする。

 

先日Netflixで配信中の『DEVILMAN crybaby』について。カオスラウンジ代表の黒瀬氏の「批判ツイート」が監督の湯浅氏に捕捉され、ちょっとした物議を醸したのが印象的だった。

 

 

 

黒瀬氏は自身のラジオ配信において、今回の『DEVILMAN crybaby』について語り、その要約をツイートに記したらしいのだが、その内容は傍から見れば非常に浅い「叩き」にしかなっていない。「サブカルオシャレアニメ」意識の海外受けを狙ったドメスティック作品であり、物語・脚本・演出はひどく、昨今の深夜アニメの方がマシという発言をしている。

 

確かに、ラジオでの発言を聞いていないので「細かいフォローもあったのかな」とは想像する余地はあれどこのツイートが発言の「要約」と自分で言ってしまっている時点で、この批判の羅列が評価すべてになってしまう。こうした発言がアニメ文化における「批評」というものだとするならば、冒頭友人が疑問視した「批評って精神性に意味はあるのか」という不信感には同意せざるを得ない。叩くにしては、言葉や視座が雑すぎる。

 

・期待と根拠と提案と

じゃあ、単にモノが作れない人間は。マイナスの意見について黙ってた方がいいのだろうか。

 

いや、何を作れなかったとしても、それでも作品に何かを感じたのなら言うべき事があると僕は思う。「批評」とは「非難」や「ヘイト」とは異なる。少なくとも僕はそう信じたい。作品のことを語るのは、詰まらないことをあげつらってマウントを取りたいからではなく。作者と同様に映画が作れなくとも、漫画が描けなくとも。その負い目を抱えながら、それでも作品を語ってしまう。もし作品に何かマイナスに感じたならば、その不足点を言葉にして更に高次の想像力に繋げる事、それがオタクとしてなすべき「批評」の、そして吐くべき「言葉」の役割そのものだろう。

 

そうであるならば、やはり一つ一つの言葉を大切にしなければならない筈だ。何か本当に批判的な事を書くにしても、それはやはり「どのスタンスから」そう思うのかを明らかにしなければならない。例えばリメイク作品を「酷い」と一言に言っても、それは「原作に準拠していない」からなのか「物語の本質がズレているから」なのか。「脚本のテンポが遅すぎる」からなのか。詰まらないをただ、詰まらないと言ったら、それはオタクとしての思考停止状態でしかないように思う。

 

例えば先ほどの『DEVILMAN crybaby』に対して、実は僕も惜しいモノを感じた。今の時代に合わせながら、原作『デビルマン』がやっていたことをなるだけ自然に取り込もうというその姿勢には感服した。細部において、表現方法を変えながらシーンを踏襲するその在り方にまずはしっかりと目を向けなければならない。

 

しかしながら、7~9話あたり終盤における幸田の哀しみ、ミーコと美樹の会話、追いつめられたデビルマンと石を投げる民衆のやりとり、そうした最後の友情の確認や、人間くさい言葉の応酬、そうしたモチーフには個人的に見ていて違和感を感じてしまった。

 

そうした一つ一つの描写では原作にない「悪魔になっても残り続ける人としての慈愛」「滅びゆく人間における最後の救いの姿」が描かれているわけだが、それらシーンが却って、人間の本質的な悪を描くはずのデビルマンの中で、災害パニックモノのようなチープさとなって浮いてしまっている。またSNSを積極的に登場させ、さながら現在でも起こりうる破滅としてのリアリズムを求めた結果が、逆に神と悪魔、そして善と悪、という大きな宗教観すら巻き込む『デビルマン』の大枠を狭めてしまっているような印象を受けたのである。

 

 

 

本作の感想としてはまだまだあるのだけど、とりあえず一部分ということで。

 

・「批評」とは何のために

ふとなんとなしに話が逸れてしまったが、結局のところ上記数行は単なる僕個人の感想である。『デビルマン』という作品に高校時代衝撃を受けたからこそ、もう少し表現の方向性を不動と飛鳥の内省にフォーカスしてほしかったと思ってしまうのだ。まぁ「あるべき批評とは」とか偉そうな事抜かして、書いているのはこのレベルなので「まったくわかっていない」と怒られるかもしれない。どちらにしろ、所詮うぬぼれなのだけれども。

 

 

冒頭。会話をした友人との話の中で。結局のところ、何かを言葉にしてネットで発表したり、作品を作るというのはやはりリスクなのだ。批判を覚悟し、自分の力不足を恐れながらも、何かしら吐き出すということ。当然それは周囲の目線というリスクだけでなく、自分の時間すらコストとして費やす。今行っていることが、人生において果たして本当に意味があることなのかと懇々と自分に問い詰め始めれば、自然とこのタイピングしている指も止まるだろう。

 

改めて言うが、批評という文化、精神性は非難やヘイトとは違う。リスクを負いながら、結果どうなるかもわからないような文章や漫画を淡々と書き続けること、そうした人たちへのリスペクトから生じる、オタクなりの激励であり自己表現だと、勝手に思う。

 

最後、その批評というものが真に批評であるかどうかを見分けるためには。

 

ポジティブなエネルギーの為に言葉を吐いているかどうか、それを見極める必要がある。まずは、その作者の為に。もっと面白いものが作れるんじゃないかという期待を込めて。そしてそれは、そのより素晴らしいものを見たいという自分の欲求の為でもある。何かを考えながら色んな作品を見るということは、より面白い作品を作る一助になるのだと、一趣味者として身勝手なことを思う夜半でした。

 

みなさんもインフルエンザとか気を付けてくださいね。

 

LGBT議論が解いていく「自分」という存在

いくつかの考え事が重なると、文章を吐き出すという傾向が自分でも分かってきた。一つの観点だとなかなか文章にならない。いくつかの関連する発想が重なったときに「これって一連の話じゃないか」と懇々と書き出す。今日もそんな引っ掛かりから、考え事を漏らしていく。

 

・女装して女湯に「忍び込む」という行為の考え方

先日、こんなニュースを見た。

news.livedoor.com

 

数年に一度はお見受けする感じのこういったニュース。側溝覗きやらサドル泥棒、ちょっと社会一般とは違った行動力と性癖持ちおっさんの「あぁ、やってもうたかー。」みたいな事件。今回もいつも通り何とも言えない悲哀を持って眺めていた。

 

ただこの事件を見ていて、ちょっとこれと関連させていいのかは微妙なのだけど、NHKバリアフリー・バラエティ番組『バリバラ』にて昨年末放映された特集が頭から離れなかった。それがこの企画である。

NHK バリバラ | LGBT温泉旅

LGBT温泉旅」非常に分かり易いタイトル。つまりは、ゲイセクシャルやレズビアンバイセクシャルトランスジェンダーといういわゆるセクシャルマイノリティの人たちで温泉に行ったら、女湯・男湯どっちはいったほうがいい?みたいな実験企画だった。

 

非常に攻めた特集で、温泉宿の女将さんをも巻き込んで「温泉とか性別を真っ二つにせざるを得ないとき、セクマイってどうしたら一番自然なんだろうね」と考える内容はなかなかに刺激的だった。特にFtMの万次郎さんを画面に映す際、胸部はたしかに女性、でも全くモザイクなしという選択、これには「さすが」と思った。

 

通常TVのモザイクには二種類あると想定できる。本人プライバシー保護のような「被写体個人が映されたくない」ケースと、エロシーンみたいな「社会一般的に放映するのが不適切」なケース。今回の判断は「男って裸の画面で乳首消さないでしょ?あと万次郎さんも望んでないし。」という正論真っ直ぐな放映を行った。既存の「性別」だけが放映の基準じゃない。そうした宣言にも見受けられた。

 

そんな特集を見た後だから切に思ってしまうのだ。「おっさんは本当にただ「忍び込んだ」のか?」と。ニュースだけを見れば、後から「女性の裸体が見たかった」と供述を変更しており「なんだただのスケベおっさんが女装を道具にした事例じゃん」と断罪出来るのだが。

 

もし、本当は「おっさんの性自認に揺れがある」パターンだとしたら。むしろ社会的に見ておっさんが「性自認の不一致よかスケベの方がまだマシ、と思っていたから供述を変えたんじゃ」とか。警察の陰謀論まで持ち出せば「立件する上で性自認の問題に持ち込まれると、法的にも話がややこしくなるから供述を覆させた」・・・とか。あくまでたらればの話、思考実験として捉えてほしい。

 

真相自体を知る術はないし、おっさんの行為はあくまでも犯罪なので断罪されて然るべきなのだけど。その本意を探ろうとすると、思った以上に難しい自我の話につながっていく。

 

(余談だが、女装して女湯凸は罪状として恐らく建造物侵入が適用される模様。公然わいせつでは・・・?と思うんだけど、入浴場は「公然」ではなく適用されないみたい。各自治体で条例が定められていれば違反にはなるかもしれないけれど。また戸籍上の性別変更の条件に「性器の外観の近似」が掲げられた要因として「公衆浴場での混乱を防ぐ」とある通り、そこらへんの法整備はなんだか逆に微妙なところ。小学生が性別関係なく銭湯入れる年齢なんかもネットを眺める限りまちまちらしい。)

 

 

・自分が抱くアイデンティティの範囲の無限性

もう一つ、この話に関連して引っかかった話題を挙げる。

 

昨年末、冬のコミックマーケットで発刊した弊サークルの新刊『’00/25 Vol.8』/「大怪獣サロン大特集」の中で、お話を伺った怪獣芸術家ピコピコ氏の示唆的な一言が脳裏に過った。

 

「本当は男だけど、女という自認が認められるのだとすれば。例えば日本人とドイツ人だって、国籍の違いが自認によって認められたりしてもいいのになと思うよ。「私はドイツ人だと思ってる!」とかね。基本的に男と女っていうのも「自分がどう思うか」っていう問題だから。最終的には「宇宙人だ」っていうのも認められてもいい気はするよね。こういうこと言うと怒られるから、あまり言わないんだけど。」

 

この短い文章には、茶化しているようでありながら、かなり多くの問題提起が詰まっている。そして、最後には「こういう事言うと怒られるから」と〆ている通り、こういう話題に敏感な人もいる。

 

「自認がズレているならしっかりと手続きを踏んで変更すればいいじゃないか、それで解決だろう。」という反駁も浮かぶ。現在、性別や国籍について、生まれ持った属性から変更することが法律上で認められている。それぞれの条件はあれど、何らかの理由で変更する相当の理由があれば、公的な立場からそのお墨付きを受け取ることも出来る。

 

しかし、ここでピコピコ氏の発言が問いただすのは「そもそも自分の自認で決まるものなら、国籍とか性別ってなんなんだろうね」という自己決定の本質の部分だ。極論「自分が宇宙人だという自覚を認めてくれるのは一体誰なんだろう」という話である。

 

例えばある日僕が突如天啓を受けて「ドイツ人女性」だという自認を持ったとして。それに対するあらゆる条件をクリアして、国家からそういうお墨付きを貰ったとしよう。もともとの「日本人男性」という存在。これは、一体何だったんだろう。という具合だ。

 

何が言いたいのかといえば、逆説的に。今多くの人が抱いている自分にとって、厳然たる「事実」に基づいた日本人そして男性および女性「であること」は、往々にして自認によって追従された「とされたこと」ではないかという事だ。確かにこれは詭弁だし、男女という生物学的な事実は存在するし、国籍は基本的に揺るぎもしない。ただ、自認ベースで権利取得を目指す昨今のLTGB議論に耳を傾ける中「じゃあ僕は何者なんだろう。」という自分への問いが足元まで及んでいるように感じたのだ。

 

・無思考による追認からの離脱

また少し。しょうもない話をここで挟みたい。

 

僕の父親は誕生日が2つある。戸籍上は11/27で、正確には11/28だという。祖父が書類を出し間違えたとかいう話らしい。そういうこともありうるものなの?と胡散臭いのだが、戦後間もない時代の混乱期、そして4人兄弟の末っ子。まぁ、なくもない話なんだろうなと思う。

 

結局、家族で訂正などを検討したものの僕の親父が「手続き上面倒だ」という事もあり戸籍上の27日を自分の誕生日にした。という。自分の誕生日を自分で選択するというのもよく分からない話だが、これもまた小さいながら「本来あるはずのない決定権を得た」行為と言えるだろう。

 

本来あるはずのない選択権。昨今のLGBT議論はそこを掘り下げにかかっている。過去から社会的に「事実」とされ、疑いようのない、疑問をさしはさむ余地のないものとされた性別・恋愛対象。そこに対して巻き起こっている現代の反駁を、単に「セクマイの社会運動」としてではなく、その議論の本質をもう少し広い視野で眺めても面白いと思う。

 

例えばこの日本という国の中で左翼右翼と全く違う「国籍観」を保有している人たちがいる。(大東亜共栄圏発想と戦争犯罪国家的な対立)よくこれを「歴史観」と言うが、歴史はどの時代でも改ざん可能だ、という事実くらいはそれぞれ分かっていることだろう。それでも頑なに自身の主張をぶつけ合う姿を見ていると、自分の在り方そのものをぶつけ合っているように見える。自我そのもの「国籍観」の衝突に見えて仕方ない。しかし。それらはお互いに「固有」と信じ切っているものの、恐らくどこかで彼らは「選択」をした。だからこそ、国籍という観点から大きなズレが生じている。

 

僕らは揺るぎのない自我として「国籍」「性別」「性嗜好」など様々な付属品を身に着けている。それらは本当に生まれ持ったものなのか、あるいはどこかで選び取ったものなのか。もう一度問いただす場面に来ているように思える。

 

最後に。冒頭に掲げた『バリバラ』で。そのエンディングに重要な議論があった。自らの性自認を、外観や心中、恋愛対象など5つの項目に分けて、それぞれをバロメータとして表すフリップを使ってディスカッションが行われていた。

 

どの部分が男性的、ただここは女性的、あるいは中性的など。結論から言えば、その趣向や意見は同じトランスジェンダー同士でもバラバラだ。主にセクシャルマイノリティはタイトルにもある「LGBT」という4種で見られているが、本質的にはこの4種の区分はあくまでも大きな枠組みである。

 

恐らく、本来僕らが持っている「固有な自我」とは、カテゴライズ出来るほど明確なものでなく、そして自分でも理解が及ばないほど複雑な状態のように思える。そこへの単純な仮回答として「国籍」や「性別」という枠組みが与えられているに過ぎない。単純化した自我がないと生活がままならないというのも仕方のない話だが。

 

セクシャルマイノリティと呼ばれる彼ら彼女らが、その運動にレインボーフラッグを掲げるのは「7色もバリエーションがあるから」ではなく「カラフルな色が不可分に存在するから」だろう。男女、国籍、そうした可分な現実から、不可分な内面を想像すること。まるで仏教のような結論に至っているけれど、恐らく今の時代。幸福感やら社会的達成が個別化されてきた中で、大切な視点、思考方法のように思える。

 

まとまりのない雑感を日曜の昼に捲し立てた感がある。風邪気味の暇つぶしにはちょうど良かったかもしれない。

 

『ドキュメンタル』の下ネタは笑えるのか

うちのテレビは、寒い日だと調子が悪い。スイッチをつけても5分は画面が安定しない。電波の受信がうまくいっていないのだろう。この謎の不調を抱えたテレビは5年前にネットで購入、32型で2万円という破格の新品単価が功を奏して、いまだにメーカーすら判っていない。

 

そして、昨年末12月。とうとう映るチャンネルがNHKテレビ朝日だけになっていた。個人的な日常生活としては『おはよう日本』と『プリキュア』が見られれば何の支障もないので特段気にしていない。さらに今やネット配信が主流の時代。僕もこの年末年始は結局AmazonPrimeやNetflixばかり流している日々だった。

 

 ・僕らはAVを見ても笑わないのは何故か

そんな中。昨年度から延々見続けているコンテンツがある。タイトルの通り松本人志が主催を務める『ドキュメンタル』だ。もはやTVCMでもお馴染みだろう。芸人が10人密室の部屋に集められ、互いを笑わせあい、最後まで残った一人が賞金1000万円を手にする。すでにシーズン4までが製作されており、Amazon Primeの中でも筆頭の人気コンテンツだ。僕も欠かさず見てしまっている。

 

Wikipediaにも詳細がきれいに纏まっていたのでリンクを張っておきたい。

HITOSHI MATSUMOTO presents ドキュメンタル - Wikipedia

 

この番組の特徴は、基本的に放送コードがないこと。(画面上のモザイク処理などはあるが)ド下ネタでも放送してしまう。序盤からシーズンが進むにつれて、その下ネタ活用の度合はさらに強くなっていき、最新のシーズン4では、オチが宮迫の勃起させた男根だったり、千鳥が小便漏らしたりと流石の僕も「いや・・・ないな・・・」と引いてしまうレベルに至っていた。

 

それでも主催の松本人志はそのパイロット版のインタビューの中でこう語っている。

 

「「ドキュメンタル」のレビューを見るとよく言われるのが「下ネタがひどい」という内容ですよね。でも、僕らがやっているのは単なる下ネタじゃないですから。それなら、あんたらAV見て笑わないでしょ?と。」

 

んー。確かに。AV見ても笑わないよな・・・そういう意味では単に人は、下品だったりエロければ笑う、そういうことではないというのは松本人志の言う通りかもしれない。じゃあ「AV」と「下ネタ」その差はなんなのだろうか。そして、追い詰められた芸人たちは何故、ことごとく下ネタに走ってしまうのだろうか。こんな考え事が頭を離れず、仕事中も正月ボケでやる気も出ないのでこんなことを延々考え続けていた。

 

・すべて感情の源泉は「驚き」

これを考える上で、そもそも「笑う」とはどういうことなのか。を少しだけ抑える必要がある。フランスの哲学者・アンリベルクソンが『笑い』という本を残している。人は何故笑うのか。そんな事をクソ真面目に書いた本で、読んでみると笑いを考える特段笑えない本というのがなんだか笑える。

 

ただ、示唆に富んでいるのは間違いなく考察も難解である。そのエッセンスにこんなものがある。「往来の通行人がつまづいてよろめくと周囲の人は笑う」そう例示しながら、自分が想定していないことが起こった時に人は笑ってしまうのだと。一発屋の芸人を思い浮かべるとわかりやすい。テレビなどに唐突に表れ、誰だろうと思っている間に予想外のギャグを披露する。それが「笑えるネタ」として受け入れられるのは「驚き」とセットだからだ。

 

一発屋ブームが落ち着き、そのギャグを次第に見慣れていけば、当然のことながらその「驚き」という感情のトリガーも薄れ、やはり笑いは起こらない。よくよく考えれば「喜怒哀楽」という感情もすべて、その大本には「驚き」がある。予想外の事を言われ、怒ったり悲しんだり。ホラー映画を見たときの恐怖感もベースには「驚き」が存在する。

 

余談だが、昔とんねるずが苗場で披露したコントに「タクシードライバー」というネタがあった。途中までの明るいコントが一変、オチはダークホラー調で笑えないラストになっている作品だ。これも観客がコントとして「笑い」を期待しているところに突如不気味な要素を加えることで、新鮮な「恐怖」という感情を観客に与えている。そして、引き続くコントも「もしかしたらどんでん返しが」と見ているものを不安にさせることで、その後の笑いをも引き立たせる効果があるのだろう。

 

・『ドキュメンタル』という場での「驚き」はどこに

そろそろ本題に話を戻したい。最初の問い、AVと下ネタの差はどこにあるのか。これまで見てきた通り、AVは「最初からエロを期待している人が見るもの」であって、そこに驚きはない。対して下ネタは「下世話なことを突如言ったり、行為を行うことで周囲に驚きを与える」からこそ笑えるのだ。もちろん、その下世話な事が感覚的に行き過ぎていたりするとその「驚き」は怒りになったり困惑になったりする。

 

(逆に、緊縛された女性の間近で蕎麦打ちしてたり「驚く」要素があるAVは笑えたりするわけだ)

 

『ドキュメンタル』のレビューを見ていても下ネタに対して「不快だ」とか「面白くない」という単語が並ぶのはその「驚き」が見ている層とマッチしないせいであろう。僕自身もシーズン4についてはその一人だし、そこまでの耐性は正直なかった。

 

ただ、各芸人が「笑いにつながる驚きをどう作るのか」という見方で本番組を見ていると、単なるバラエティでなく、徐々にリアルなドキュメントのように思えてくる。

 

彼ら参加している芸人は人を笑わせるという事が仕事である。要するに常時見ている人に「驚き」を与えるネタを考えている訳だ。そんな「笑える驚き」に日頃から浸かりっぱなしで麻痺をしている芸人同士が、相手のネタに笑ってはいけないという場面において。単純なトークバラエティのような話術だけで、その「驚き」を生み出すというのは、対視聴者の難易度の比ではないのだろう。

 

参加した芸人はそのインタビューで「あの場では何が面白いのか、自分でも全く分からなくなってくる」と回想する者が多い。要するに、リアクションを許されない世界では「何が驚かれるのか」すら分からなくなってくるという具合である。そこで選択される下ネタという行為は、そうした行きも詰まった状況下において「普通、突如そんなことする?」という驚きを与えるのに最も原始的で効率的な一撃であるのかもしれない。

 

シーズン4の終盤。千鳥が両名脱落し、ゾンビとして生存者を笑わしにかかるシーン。二人とも真っ裸で漫才をするものの、まるで笑わせることができなかった。しかし最後は、ふとした折にノブが小便を漏らすという荒業を使って、宮迫の笑いを誘った。「そこまでするか?」という芸人としてのプライドをかけた「特攻」こそが、本作における下ネタであり、松本人志が「あそこで小便をするのも意地だよね」と擁護する「本気さ」なのだろう。

 

・下ネタの先にある「笑い」とは

そんな中シーズン4で制限時間の6時間を耐え、判定の末に優勝したのは野生爆弾のくっきーだった。彼はシーズン通して、自分の身体を晒すような露骨な下ネタは披露せず、想像の限りを尽くした顔芸や合成写真ネタなどで闘っている。もしかしたら、そうした面も評価されての優勝だったのかもしれない。(TENGA EGGを頭から被るのは下ネタに入るのかもしれないが)

 

いずれにせよ『ドキュメンタル』という番組は、年末の『笑ってはいけない~』とは一線を画しつつある。「笑いの実験場」を松本が呼称する通り、常に笑いを考え続けている職業人が「相手に衝撃を与える」事を最後まで追い詰めた先に、何をするのだろうか。という実験である。

 

こう言うと、たぶん考えすぎであり、単純に本人たちはただ「面白いこと」を追求しているだけなのだと思う。しかしながら、そこで生じる「笑い」という現象は、少しずつ人間の本性の部分に言及を始めているようにも思えてくる。コント番組もなくなり、トークバラエティやお散歩企画に一辺倒のテレビのバラエティが詰まらなくなったと言われる昨今。

 

ネットユーザーすらドン引くほどの「本当に面白いもの」とは何か。そうした疑問を追及した先に『ドキュメンタル』という番組はあるのかもしれない。小便を超えた先、シーズン5がどうなるのか、実際楽しみでもあり、ちょっと怖かったりもするが、いずれにせよ期待して待ちたい。

 

三十路とオタクと友人と孤独と

昨日は成人の日ということで、全国各所で成人式が執り行われていたようである。若いという事はそれだけで価値があるってもの。しかしながら、同時に年齢を重ねるという事も、また価値的ではないだろうか。そうなんだよ。価値的なんだよ。

 

日々のごとくツイッターを眺めれば、成人式という事でいい大人たちが「当時を振り返って今後悔していること」だったり「20代のうちにやっておいた方がよかったこと」などリスト化して呟き、加齢に任せてマウントを決めていた。そうして各々承認欲求を満たす場面を見ることができたわけだが、気づけば、僕自身も今年で29歳となり老害プギャーとか言ってる場合じゃなくなっていた。もう折角の機会なので、20歳からこの10年間を振り返ってふと感じた事を、若人へのメッセージを偉そうに残してみたい。

 

そう、たまには僕だってマウントくらい取ってみたいのである。

 

 

 

今週末。僕は登山に行く。行く羽目になったといった方が適切かもしれない。初心者コースだから安心、とかそんなことはどうでもよくて、突如LINEグループで登山に行こうという話になり「所詮ノリだけだろう」と甘く見ていたら、登山したことなかった僕も登山靴やらウェアやらグッズを買う段取りまで進んでいた。マジか。

 

そのメンツはといえば、高校時代以来一緒にコミケに行っていた友人たちとその仕事仲間。「当時、エロ同人ばかり買って盛り上がっていたはずなのに、こんなアウトドアな人種だっただろうか・・・」そんな一抹の疑問など消し去られ、登山自体定例化しそうな勢いである。彼らとはもう付き合いで言えば10年を超えている。一度は離れかけたけど、なんだか腐れ縁みたいな友人だ。そんな事から、自分が20歳ごろの事を思い出してみる。

 

 

 

僕の高校時代から大学時代。唐突にざっくりと10年ほど前に話は振り返る。当時、インターネット環境も高速化の時代を迎え、少しずつネット通販なんかも世の中に浸透してきた頃だ。SNSといえばmixiからTwitterFacebookへの移行期。さらにYoutubeニコニコ動画といった動画配信サイトも立ち上がり、インターネットこそが次世代の開かれたコミュニケーションツールだと皆が自覚し始めたころである。

 

僕らはそれを駆使しながら、学校やバイト以外の友人とも繋がる事ができるようになった。大人たちは「ネットの知り合いなんて」とまゆを顰めたが、意に介すこともせずオフ会やイベントなどで知り合いを増やした。そんな中、コミックマーケット初めて参加し、各人欲しい本をゲットする為、共闘体制を取る。そこで多くの「友人」が出来ることになった。

 

当初は「本来知り合えるはずのない友人たち」という存在に興奮し、そうした出会いをもたらしてくれたインターネットに熱狂した。彼らと夜中までチャットを続け、深夜ラジオを一緒に共有したり、同人イベントの作戦を練ったり。大人で言えば「サードプレイス」と言えるような環境がそこにはあった。学校・家庭とも違う、新たな空間。同好の士を見つけられるとてつもない場所だった。

 

大学時代に入り、オタク活動も活発になる。僕はコミックマーケット、特に同人誌という世界にのめり込んだ。元来、絵を描いたり文章を書いたりという事に興味があった為、コミケに通っていた友人たちの中で唯一サークル活動を始めた。

 

漫画、評論、音楽、コスプレ・・・何かしらを作って発表する。そんなルーティンを何とか維持しようと必死だった。一人で、頭の中にわいてきた創作意欲を何とか形にしようと足掻いていた。しかしふと、気づいたときに周囲を見渡すと、僕らは20歳を過ぎていて。脇目も振らずアホやっていた僕らも、少しずつ大人にならざるを得ない立場に立たされていた。

 

次第に周りの「仲間」と思っていた友人達がコミケ、オタクからも少しずつ脚を洗い始めていた。それぞれ薄い本を買う熱量は冷め、コミケに行く意義はなくなり、就職活動に専念する中で現実が目に入り、そして結婚が視野に入り、長年集めたコレクションを一気に売っていた友人もいた。

 

ずっとこの先も自分はオタクなんだろうな。そう自覚しつつあった僕にとって正直その光景はショックだった。十数人いた同志。数年後、就職した頃には何年もビッグサイトへ通い続けているのは自分ともう一人くらいになっていた。ちょっとずつ、自分が孤立しているのを感じた。インターネットという空間の中であんなに馬鹿を言いあっていた友人たちから、少しずつ置いて行かれるようで。

 

そんな中、徐々に隆盛を極めつつあったのがツイッターである。ここでも同様に知り合いは増えた。数多くの出会いがそこで生じた。今思えばこのツールがあったからこそ繋がる事が出来た、という友人もかなりいる。実際僕の同人誌の7割はツイッターがあったからこそ成り立っているものだ。

 

しかし、そうしたオープンなSNSがコミュニケーションの全盛になったとき、その功罪は「数値化された関係」だった。mixi時代も「友達の数」はある種交友関係や人脈という力として認められていたが、Twitterというオープンな場における「数の価値」というのはその比ではない。フォロワー数だったり、いいねの数だったり。そうした「数=強さ」みたいな風潮は今でも感じられるものだろう。

 

特に同人活動を始めた身として、作ったモノが注目に値するかどうかというのは、シビアな問題である。友人というより「アカウント」としての、そのリアクション数、インフルエンサーとしての力量が頭をもたげるようになった。この人と繋がっておいた方がいいのではないか。逆にフォロワー数が少ないから放っておこう・・・過去ネット上で出来た友人と疎遠になった経験から、傷つきたくないから、あくまでもアカウントとして友人を見る。そんな発想が心のどこかに巣喰っていたような気もする。

 

 

そして昨今。SNSという社会はインフラと化し、学校の友人と家庭と、もはや同列の位置にまでその地位を上げてきた。僕らはリアルとネットの狭間という難しいコミュニケーションの渦中にいる。TLを覗けばすぐ見つかるだろう。数を自分の力と思い込み、あるいは人をそのように捉えたり。SNSという場は、数値化されるリアクション数がその発言者・投稿者の価値のように見えてしまう所だ。それに振り回される人も日々、散見される。それぞれの派閥が出来、シンパが生まれる。言葉は概ね借り物で、結局おもねることしかしない人々。

 

何を基準に人を見ればいいのか。友人とは何なのか。そんな後期中二病まっさかりな中、僕自身思った事がある。

 

突拍子もないが、ここまで同人誌作成をやめなくてよかったなと。そう思った。これまで色んなことを言われ。あるいは逆に何もリアクションがなかったり。全然赤字だったり。意思疎通の行違いで不愉快な思いをしたり。在庫の入った段ボール抱えて腰痛めたり。売り子に嘘告知されて叱ったり。

 

正直活動はボロボロだったし、今もそんなに変わらないのだけど、絶えず自分ののめり込むという姿勢をブラしはしなかったと、それだけは自負出来る。今でも、こんなことを書きつつ、どうせそこまでの意味はないとさえ思っている。ただ、書くことはやめたくなかった。面倒なオタクであることだけは、捨てたくなかった。

 

確かに社会でうまくやっていくため、コミュニケーション力を持つこと、人脈を持つ事は大事だ。でもそれ以上に、孤独に打ち勝つ事って本当に重要だと思う。一人でも、何か踏ん張ってやりつづけるとたぶんだけどきっとそれを見てくれる人はいて。今でも「馬鹿だな」とか「しょうもない」と思いながらも付き合ってくれる友人が残る。

 

この複雑怪奇なSNSの友人関係・対人関係において、とてもシンプルな答えがあるとすれば「自分の意志をブラさない」姿勢だろう。一時、このインターネットという場、その先の見知らぬ「友人」が怖くなった身だからこそ思う。あくまでも、外部からの評価や声は全てが終わった後の結果でしかない。今、言うべきことを。作るべきものを。やるべきことを。孤独に熟す事が信頼出来る友人を、関係性を作る一つの手段だ。

 

 

今週末。僕は登山に行く。たぶん、自分の意思では登山なんて絶対しなかった。今でも「えぇ・・・」という気持ちも抜けない。登山グッズのお店で見た「快適に登山するグッズ」という文言に「山登らない方が快適では」とか文句を言う人間である。興覚めとはこのことだろう。それでも結局、誘われた。

 

彼らは一時離れたように見えても、勝手に足掻いていた僕を結局は見てくれていた。「よくわかんねえ本、ずっと作ってるんだな」と。そして、周囲を見ていても結局個々の世界で淡々と勝負している。各人それぞれが孤独を抱えながら、仕事に生活に闘ったからこそ、高校時代のチャットに集まった頃のように、この歳になってまた少しずつ輪が広がっていくように感じている。

 

ネットは色んな刺激的な事に満ちている。映像もニュースも喧噪もネタも。ただ、思った以上に、スマホを持ってそれを覗いている一人ひとりの人生は孤独で地味だ。だからこそ、人は社会で生きていかなくてはならないし、その社会に本当の意味で適合する為には、その孤独から目を背けず乗り越える必要がある。と思う。

 

ふとそんな説教くさいことを思ってしまった成人の日でした。本当に面倒ですね。

合理性の先に待つ『ポプテピピック』という罠

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©大川ぶくぶ/竹書房キングレコード TVアニメ「ポプテピピック」公式サイト

正月気分からなかなか抜け出せない。何をするにも虚脱感がのしかかり、結局ツイッターを眺めてはぼんやりと内省を繰り返す日々。そしてとうとう始まった問題作『ポプテピピック』の放映。種々の社会問題に対するネットユーザーの意識からクソアニメ考察につなげていくというアクロバティックな駄文を、暇つぶしにぽつぽつ書いていこうと思う。

 

・「鉄拳制裁」という教育

先日1月4日。野球界の重鎮、星野仙一氏が亡くなった。いち野球ファンとしては、思い入れのある人物だ。2013年には田中将大擁する楽天ゴールデンイーグルスを球団創設以来初の日本一に導いたのも記憶に新しい。それでも僕らの世代としては、中日ドラゴンズの監督というイメージがやはり強く、そしてその時代の代名詞は「鉄拳制裁」だろう。「ユニフォームは戦闘服」という言葉の通り、熱く、そして時に暴力的なスタイルというのは当時は指導者として案外「そういうものなのだ」として受け入れられていた気がする。

 

今回の訃報を聞き。それに纏わるツイートを見ていると。当然、星野氏を偲ぶ内容も多くあるのだが、それに関連してこの国における体育会系発想の「鉄拳制裁」への批判的な話もちらほら見かけた。偉大な故人を振り返り、鉄拳制裁が単に「あの頃の美談」となるのは、今のネット層とは馴染まない文化のように思える。

 

そもそも現在は、教育現場においても体罰なんてものは完全にご法度になっている。しかしながら、世代の違いによってやはりこの話題は食い違う。60代に話を聞けば「ふざけた子には鉄拳制裁が飛んでいた」「それが躾であり、教育だった」と。

 

・合理性が分解していく「20世紀の価値観」

今の時代、上記の発想は明らかに「合理性に欠けている」と言える。教育は個別の子供の発育事情を勘案して対応すべきというのが、現代における一般的な解答だろう。またそうした体育会系価値観の震源であったはずのスポーツ強豪校においても、ラグビーの東福岡などその方針の重点を徐々に合理性にシフトしているニュースもよく聞く。

 

そして最近ネットではこの「鉄拳制裁」の話にとどまらず、他にも旧態依然とした価値観への批判が噴出するようになっている。大きな話題で言えば、日馬富士暴行問題における相撲協会の対応である。同じく4日。相撲協会評議会議長の池坊氏が会見を開き、今回の貴乃花親方の対応に対し理事解任という処分を下したことを発表した。

 

本件もやはりネットでキレイに炎上した。そもそも会見の中で池坊氏、相撲協会が今回の件について最も問題視していたのは「問題が大きくなったこと」だと言う。その背景には「内々の和解で済ませられたはず」という隠ぺい体質ともとれる意図が見え隠れしてしまう。責任をセクションの長に押し当て、組織自体に汚れが降りかからないようにするというのも、古くからある官僚組織の悪しき風潮といえるだろう。

 

・ポストの先にある「やおい

以上、例示を行ってきたが「20世紀的価値観の分解」の動きはこれに留まらない。こうした瓦解は数年前から続いているのは自明だ。日頃からこのブログでも書いている通り、企業の経営不振・不正問題、労働時間問題、オールドメディアの劣化などなど。そして、その「瓦解」とネット文化の親和性は高い。これまで示した話題は、ツイッターなどで非常に反応がいい。働き方改革やネットにおける告発の増加、組織ありきの実社会に対して違和感を持っていた層が気概を上げているというのが、今の時代の構図のように思える。

 

ネット上を主導に様々な事柄において合理性が重視され「そもそもこんな事に意味ってあるの?」「人として生きていく上でこの我慢いる?」というようにこれまでの前提条件が崩されてきている。今という時代はこうした「そもそも論」がまかり通る時期に来ており、過渡期としては非常に面白い時期に入っていると感じる。

 

ここから話が一気に飛ぶからなんとか付いてきてほしいのだけど、こうした時代だからこそ、そういった層に求められたのが『ポプテピピック』という作品のように思える。はい無理やりねじ込んだ。

 

ジャンルは「4コマ漫画」としか言えず、日常系でもなければ、セカイ系でもない。2014年に連載が開始されて以降、本作は作品そのものというよりも、じわじわと広がってきたムーブメントのように思えてくる。KADOKAWA一極時代に放たれた竹書房の刺客。そのホームグラウンドすら爆破するという破天荒なスタイルで、もう読めばわかる通りだが、まさに文字通り「やまなし・オチなし・意味なし」。21世紀の新しい「やおい」の形がまさに『ポプテピピック』だろう。

 

では「何もない」そこにあるのは何かという話になる。

 

・将来に対するただぼんやりとしたヘイト

この作品について云々語っても正直しょうがないのだけれども、平たく言うなら『ポプテピピック』は「やっちゃいけないけど、やりたいこと。言っちゃいけないけど、言いたいこと。」で構成されているように思える。通常の漫画やアニメ作品であれば、こうした作家性そのものともいえる「反抗心」だったり「世の中への疑問」をストーリー展開に載せて、ねじ込む。しかし、大川ぶくぶ氏のスタイルは、こうした反抗心をありのままに4コマを使って図式化するため、話としては「ナニコレ」というリアクションが各所から上がる通り、分かりづらくなる。

 

しかしながら、そこに現代のネットコア層から「謎の共感」が生じているという事も確かだろう。表情が死んでいるポプ子とピピ美から放たれる「明らかに言っちゃいけないよね」という言葉の数々は世の中に対するぼんやりとした反感と共振する。今まであった価値観とか、別にもうどうでもいいんじゃない?という破天荒さが、ネットにおける意識とかみ合っているように思える。

 

つまるところ「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ ポイズン」の「ポイズン」こそが『ポプテピピック』なのだ。毒そのもの。意味にもならないヘイトや煽り、茶化しをポップに二次元化したものがポプ子とピピ美であり、作中で随所におっ立てられた中指なのだろう。実際、日々インターネットを眺めていると、古い価値観に対して中指立てるような空気感というのも感じられる。今はそんな時代じゃねえ、と。

 

特段そこから「だから本作は優れている」とかそんなことを言いたいわけでもなく「この作品が今の世の中にマッチする原因があった」と思えるのだ。はい、社会問題話題に戻るよ。付いてきてね。

 

冒頭から挙げていた「20世紀的価値観」は、特に問題意識を持たなくても労働や部活動、つまり日々の生活するだけでぶち当たる障壁である。会社、上司、先生、先輩、ルール・・・この国が戦後というキツイ上り山を上るのに必要だった結束を、僕らは今少しずつ解く作業を行っているように思える。「合理的に考えれば」この国は70年ほどその思想に至らなかったからこそ、どん底から一度は這い上がってこれたのだと思う。しかし、ある程度の高度に達すれば、当然次なるスキルが求められ、異なる環境に晒される。

 

その異なる環境に適合する為の不和こそ、今の時代の種々意識改革なのだろう。そして、働き方改革は進めてしかるべきだし、旧態依然とした意味のない慣習はなくなるべきだと強く思う。しかしながら、その結束を解いた後に待つ虚無感も同時に感じてしまう。

 

個人的に『ポプテピピック』が面白いなと思うのは、先ほど言った「とりあえず中指立てとく」「なんとなく抗う」という姿勢を前提としながら「壊した後、どうしよっか」みたいな代案のないナンセンスさが、どこか結論を見つけづらい人生とリンクしているからなのかもしれない。

 

僕らはネット上でより良い社会環境を求め、古いしきたりを壊していく。しかし、その先は本当に「快適な生活」「より良い生」なのだろうか。毒をもって毒を制した後、何が残るのだろうか。ふと不安になったりする。

 

著者自身『POP TEAM EPIC』という英語タイトルに意味はなく、音で合わせたというコメントを既に発表している。それでも「ポップな二人による大作(叙事詩)」とはなんとも皮肉が効いているように思えてしまう。

 

ある意味、過激な鉄拳制裁や爆破を腹に抱えつつも、笑顔でポップに合理的に生きねばならない現代人だからこそ、こんなふざけた作品に振り回されているのかもしれない。とりあえずしばらく、すみぺファンとしては『ヤバい〇〇』のアニメ版として見ています。今後も楽しみです。

 

オタクとして「消費者」を逃げないということ

全国的に2018年ということで、平成もいよいよ30年を迎えたらしい。気づけばどこもかしこも新年賀正ムード。そして、社会に身を報じる立場としては、すぐすぐ仕事始めが見えてきて、3月末に向けてのラストスパートが始まる・・・

 

そんな絶望的な現実についてはさておいて。ひとまず、コミックマーケット93、参加された皆様、本当にお疲れさまでした!また今回弊サークルの新刊にご協力いただきました、造型工房SIGMA様、RINS様、そして大怪獣サロンの皆様。記事を書いてくれたりょうちゃん氏、シゲヨシ伊東氏、また手伝って頂いた方、当日ブースまで足を運んで頂いた方すべてに感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 

引き続き、COMIC ZIN様とお世話になった大怪獣サロン様において、新刊の委託販売を続けていますのでコミケで買い逃した方や、遠方だった方はぜひこちらをご利用下さい。

www.wagahaji.com

 

COMIC ZIN 通信販売/商品一覧ページ

COMIC ZIN様での新刊の通販対応はもう少しかかるかと思います。(既刊は通信販売まだ承って頂いております)店頭委託販売はすでに現品ありましたので、何卒よしなにです。

 

 

 

そんな中で、年が明けてからひとしきりぼーっとしていて。少しずつ思ったことや、新年明けてみて考えたことを、今回の新刊の中身に軽く触れつつ話そうと思う。

 

新刊のそれぞれ特集の記述については、編集後記でダラダラと僕が蛇足な文を書いているのでそちらを参照いただければ十分なのだけれども、もう少し。追記としてここに残したいことがあった。

 

それは、今回うちのサークルで毎度売り子をしてくれているりょうちゃん氏に書いてもらったコラムについてである。いつもプリキュアショーに積極的に通い、着ぐるみ面の工房「RINS」の広報を自称し、終ぞ勝手にツイッターアカウントまで作った彼の意中を覗いてみたい。そんな思いもあって、日々の生活が忙しい中、無理を言って文章を書くお願いをしてみたのだ。読んでいただいた方は既に見たとおりなのだが、今回彼がテーマにしたのは掻い摘んでいえば「造型工房SIGMAとRINS、双方の工房主と出会って気づいた自分のオタクとしての在り方」というような内容だ。

 

当初彼に伝えた締め切りよりも文章の上がりが遅れていて。正直軽い気持ちで彼に頼んだことをちょっと後悔し始めたとき。ようやく、その文章が上がってきた。そして目を通してみれば、それはこれまでの彼自身のオタクとしての自我を問う、オタクとしての葛藤についての話だった。単語からも実際に悩んだ痕が感じられる、そんな文章。時間もかかるはずである。ここでそのまま文章を引用することは憚られるので、ざっくりと概要だけ。

 

インターネットというログが残りやすい場所において、オタクとしてモノづくりが出来る才能に対する嫉妬を自分の感情の中に発見してしまう。ただ、それでも造型工房SIGMA・RINSの工房主との出会いを通して、何もモノを作る才能がない、いわゆる今でいえば「無産オタク」と蔑まれるような自らの在り方を「オタクとしての楽しみ方」で乗り越える。何かを好きだという気持ちで、そして行動で、言葉で。自分のスタイルとして認識していく。そんな筋の話であったと思う。文体を感じた方がよりリアルに彼の言葉に共感出来ると思うので、是非それは実際に読んでみて頂きたい。

 

僕がここで、余計な事を書きたくなってしまったのは、やはり僕自身も彼と同様の観念を抱いていたからに他ならない。恐らくこのSNS全盛の時代。超絶絵師の絵が次々とTLに流れ込み、誰もが動画などのコンテンツ作成に着手可能、素人からゲーム配信主、Youtuberなんていうほぼ芸能人と大差ない存在へも、技術とやる気次第で手がかけられるようになった。そんな、オタクであるからには何かモノを作っていたい、いや作らなければならない。という逆説的な強迫観念から、先に挙げた「無産オタク」なんていう言葉も生み出されたのではないだろうか。

 

うだうだ言ってないで、はっきり言ってしまおう。最もこの文章に刺されたのは、依頼をした僕自身だったのかもしれない。昔から常々、絵を描いたり、楽器を持ってみたり。何かを表現せねばならないと思っていた。オタクであることが形として残らない、いや、生き方として何かが残らないという事がなんだか怖くて仕方がなかった。それも自分では「本気だ」なんて嘯いてみるものの、結局はその筋の人を前にすればやはり半人前の志で。何度もそうした壁にぶつかっては、もう自分の生きている値打ちすら否定する事を繰り返した。

 

今では、同人雑誌という体裁で。誰か飛びぬけている人や、この人の言葉は残すべきだと感じた人に協力を頂いて何とか本を作ってはいるものの、それは全て所詮は借り物に過ぎないといつでも感じてはいる。話を聴けば聴くほど、自分の矮小さに気が付いてしまうような。

 

そして、最終的に何をゴールにすればいいのかと、考えた末に「悩んでしまうのなら最初から始めないほうがいいのでは」と、少しずつ物事に背を向ける癖もいつからついたのだろう。いろいろな方向への興味が閉じていく感覚は、こうした「無産オタク」への抗い疲れとでも呼ぼうか。僕自身のそんな葛藤を彼に見透かされていたようで、なんだか笑ってしまった。

 

そうした精神状況であった僕が。今回の彼の文章から、ただ純粋に楽しむこと。楽しみ尽くすこと。それがオタクの根本ではないかと。そんな事を思い出させてもらった。「オタクとは究極の消費者」とは、かつて話を伺ったことのある某氏の言葉である。何かを愛好すること、のめりこむこと、それは、消費者である自分から逃げないことに他ならない。ネットが拡充し、サブカルチャーが地表に表れ、萌えキャラ広告やCMも毎日見かけるようになった。僕はそれを見て「あるべきオタクのサクセスストーリー」みたいな像を無意識のうちに作り出してしまっていたのかもしれない。

 

なんていうか、もっとバカで。単純で。中学二年生の頃のような消費者として「この先が見たい」という熱量こそが、逆に大人になった今だからこそ、これからの時代を切り開く想像力で在り得る思う。この時代の閉塞感に打ち勝つ為には、まずいかに楽しむか。その消費者的思考の重要さを改めて学ばせてもらったなと。好きだからこそ、楽しみたいからこそ、自分がどう行動すべきなのか。そんなニヒリズムに打ち勝てるだけのオタクとしての心構えみたいなものを、改めて見直す一年に出来ればと。また青臭い考え事で一年の計を埋めてしまった。

 

今年で僕自身も30歳という佳節を迎える。周囲に聞けば「大した違いはないよ」と言われるのだけれども、自分がどういった佳節にするべきなのか。ちゃんと考えなきゃなと思いつつ「仕事嫌だな」とかいつも通りの嘆きばかりが頭を埋めていて。酒に酔いながら何ともならない文章を書いてみたりしているわけで。

 

ということで、やっぱし結局のところ人間としてそんなに大差はないと思いますが、本年もよろしくお願いいたします。