わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

仕事で消耗しない為に思い出す3つの言葉

とりあえず夏コミに向けたファイル制作やら宣伝記事やら。そうしたマスト事項はあらかた終えたので、今日は根暗な独り言を好き勝手最近思っていることを書こうと思う。

 

海の日も通過し、待望の3連休を終え平日に突入。やはり連休そのものは素晴らしい概念だけど、それが終わる瞬間は本当にクソの極みといった感情に襲われる。「あぁ、グダグダできる時間が・・・」「先週末のタスクが残ったままだな・・・」「またあの人に会うのか・・・」などなど。そうしたネガティブイメージを極力何も考えないようにしながら布団に入るも、未練がましくタイムラインをめくる手が止まらない。

 

そうすると自分と同様、断末魔のようなつぶやきが流れていく。そうだよな、みんなツライんだよな・・・そんな悲しい同調をしながら嫌々眠りにつき、翌日の労働に身を任せるのである。そう納得はさせてみても、やはりツライものはツライ。なので、日ごろ自分自身が、自らに言い聞かせて労働に勤しむこの身をなんとか前向き、いや後ろ向きでも労働に向かわせてくれる言葉を三つここで掲げたい。

 

何も「お前らがんばれ!」という気持ちからではない。あくまでも自分に対する応援歌をリマインドする意味も込めて、今回はツラツラと書きとどめることにする。まぁ、正直前向きな話では決してないのであしからず。

 

 ①「人より偉い法人があるはずない」

宮田珠己『なみのひとなみのいとなみ』(幻冬舎文庫)より

 

この言葉を聞いたときには「あぁ、いいことを言うなぁ」と切に思った。本書は無気力旅行記で知られる宮田珠己氏のエッセイ集の一説である。本書を誰か友人に貸してしまって、そのままであるためちゃんとした引用ができないのが申し訳ない。本書にはいろいろな話が収録されているが、労働について書いている章は特に興味深い。概要を示すと、この宮田氏はもともと編集や文字書きといった仕事に就きたかったにも関わらず、不動産活用の営業という全く畑違いの興味のない部署に配属される。

 

その中で果たして自分は、このまま仕事をし続けるのか。まったく興味のない分野で働くべきなのか、という問いに晒されるなか、ようやくたどり着いたのがこの見出しの一語である。「そもそも人から生み出された概念である法人が個人より偉いというのはどういうことなのか。ファンタジーが現実より偉いはずがない。金を払うなら働いてやってもいいぞという立場こそ、本来の個人と法人の在り方ではないだろうか。」という自説を述べている。またその境地に至ってから、働くことが楽になりほかの部署に異動してからは、自ら倒れるまで働いたという。

 

まぁ、ぶっちゃけ詭弁であることは確かなのだけど、ついついこういした発想には頷けてしまう。人が生み出したファンタジーである法人ごときに僕は一体何をへこへこしているんだ。主従関係をわからせるべきじゃないか。というのは、働く身としてみればなんだか心強い言葉だ。そもそも、労働についつい虐げられがちな現代人にとって、まず法人と個人の関係性を問い直すためには非常に有益な一言であると感じられ、毎日自分に言い聞かせている。

 

②「この宇宙に比べれば・・・たかが野球!」

島本和彦氏『逆境ナイン』(サンデーGXコミックス)より

 

ここで島本先生の作品『逆境ナイン』でのこのセリフを挙げたい。この作品自体、トンでも野球漫画としてはかなり知られている作品である。ちなみにこの全文は下記の通りだ。

「星か……。この宇宙のどこかでは今も――おたがいの星の運命をかけて、壮大な宇宙戦争が行われているんだろうなあ……。それにくらべりゃ……たかが野球!! まだまだ……、まだまだ……!! どうにでもなるさ……なあ宇宙よ!!」 (1巻2話「完全勝利」)

 

数々の名言で知られる島本作品だが、個人的にはこの一説が非常に好きである。しょっぱなから校長の廃部宣言、それに対して宇宙という大きなスケールでメインテーマである野球をあえて飲み込み、本来は野球にまつわるべき話なのに、その野球という存在を小さくとらえる。正直野球を魅せるべき漫画としてはありえないタブーのやり方だ。

 

しかしながら、これは人生にも非常に染みる一説だ。はっきり言ってしまおう。たかが、仕事である。金をもらい、時間を奉仕し、生活に費やす。確かにその大きな要素ではあるものの、自分の人生すべてを決めるものなのだろうか。あぁ、宇宙よ。その広大さと比較すれば自分の今の仕事など、なんとちっぽけなものか。特段人の生死にかかわることも少なく、種々の利害を調整していく。周囲の人間関係など宇宙と比べれば些末な問題。その中で何を仕事に嘆くことがあろうか。

 

そんな気持ちをふとこのセリフからは呼び起こされる。所詮仕事じゃないか。自分の人生を改めてとらえなおすという意味でも、この発想は非常に重要であり、島本作品の中にはこのようなヒントが数多く残されていたりする。

 

③「生活保護で東京観光するのも悪くないよ」

これは我が、母親の兄貴。つまり叔父の言葉である。私の母親は山口県の生まれ。当然その兄も山口出身なのだが、この兄がなかなかに破天荒な経歴の持ち主であった。20代後半に飲食店経営、また30歳になるとシカゴへ渡米。自分の腕一つでアメリカで寿司屋を経営などしていたとのこと。しかし、経営不振により帰国。今度は新潟にて職を見つけ結婚。しかしながらそこで見つけた嫁さんが、どうも結婚詐欺のきらいがあり、種々恫喝を受けて離婚。

 

気づけば心臓を病んでしまい働けない身に。見かねた母がもろもろ対応をし、我がふるさと東京の江東区への移住を決断。生活保護を受けながら我が家の近所に住まいを持つに至った。そんなご近所となっていらい、たまに正月やお盆といったイベント時期には顔を合わせることになる。その中で、叔父が言ったセリフがこれである。

 

「いやぁ、生活保護受けてるとスカイツリーも安くなったりするのね。東京観光楽しいわ」

 

正直、ネットでこういうこと言うと炎上するのもわかる。実際僕も反感を抱いていたのは確かだ。だけど、なんていうか身内にいざそんな呑気なことを言い出すおっさんが出てきて、なんとも憎めない顔で過去の悲痛な経歴を笑い話にしているわけで。僕自身、少しその叔父との関係をもとに人生観が変わった気がする。なんていうか、完璧な人生でなくていいのかも。なんとか、生きてはいけるもんなんだなと。そんな風に思ってしまった。

 

思えば、我が家。父は元プロのバンドマン。父の兄はサーフボード職人。母の兄貴は上記の通り謎の経営者。もう一人の兄は地元で輸入雑貨店を経営したりと、まともな社会人がいない。

 

この三つの言葉は、前向きに今の社会人生活を送るための言葉というよりは、あくまで「こんな生き方もあるよね」とか「そもそも社会に迎合しすぎずとも生きてはいける」という事実を示してくれる言葉そのものである。

 

確かに今、仕事をパッとやめてしまえば困窮にあえぐことは間違いないし、そんな選択肢は取れるはずもない立場にある。ただ、日々の仕事によって「こうしなきゃ」「この仕事が失敗したら」という不安に押しつぶされそうになっている人には改めてかみしめてほしい言葉だと思った。そこまで無理をせずとも、人生何とかなったりするものよ。と。

 

あんまり無責任なことは言えないけれども。責任や社会体といったくだらないことで自分の価値を推し量らずに、たまには人間として生きる。仕事とは違う目線で人生を考える。そんな思考のために自分にとって必要な言葉を並べてみた。誰かの参考にでもなれば。

 

仕事は大切。たけども所詮は仕事。そんな気持ちはやはり今の時代において、誰もが持っていても損はないと思う。

夏コミC92新刊告知『これからの「性器」の話をしよう』

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今年も気づけばいよいよ夏コミまで一か月を切りました。ということでまた凝りもせず、バカ雑誌作りましたので新刊のお知らせです。こんな感じの本になっております、ハヤカワさん訴えないで下さい状態です。下記新刊の詳細です。

 

【タイトル】「’00/25 Vol.7」

【特集】これからの「性器」の話をしよう~明日を生き延びるための下ネタ~

【サークル】わがはじ! 

【ジャンル】下ネタ思想評論雑誌

【参加日/サークルスペース】8/13(日)3日目 東ホール エ-32a

【価格】700円(予定)

【備考】サンデル先生ごめんなさい

 

 

ーー昨今、我々の性をめぐる環境というのは大きく変わりつつある。

 

もはや社会を考える上で当たり前の状態となった晩婚化や少子化、それらは当然ながら社会制度や所得水準の変化によるものが大きいと言われる。しかしながら、そもそも我々の「セックス観」が変わってきているんじゃないか。そう思ったのが今回の企画のきっかけである。そこでアダルトVRや催眠音声製作者など、新機軸の「セックス/オナニー」にまつわる方に声をかけ対談をし、またそうしたカテゴリをもとに寄稿を募った。

 

いや、まぁ、なんか真面目に言ってるけど、表紙の通り過去で一番酷い文章が並んでいるのは間違いないと思う。

 

ということで以下コンテンツです。

 

①【対談】 アダルトVRゲーム制作サークル「VRJCC」に迫る
ヴァーチャルリアリティにおけるエロという<リアル>と<フェイク>
プログラマ>Roba × <広報企画担当>ねこやま

【VRJCC】なないちゃんとあそぼ! (@VRJCCpro) | Twitter

http://www.vrjcc.com/

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『なないちゃんとあそぼ!』©VRJCC

アダルトVRゲーム『なないちゃんとあそぼ』を発売し精力的に活動する同人サークル「VRJCC」今回はそのゲームが出来た過程と内情を聞き出してみた。さぞや今ノリにノッているように思えるVR界隈。その中で足掻き、苦しみ、新たなVRを駆使したエロを生み出すべく奮闘するRoba氏とねこやま氏のトークから、これからのエロにおける「フェイク」と「リアル」を考える。

 

 ②【対談】 フェティシズムと催眠が交差する場所
催眠音声製作者に聴く「声」というオナニーグッズのちから

催眠音声製作者:やん

http://blog.livedoor.jp/yanh_japan/

やn@1日目(金)東ぬ02a(@yanh998)さん | Twitter

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DLSite愛用者ならお気づきのことと思うが近年「催眠音声」というジャンルが急成長している。現に私もどハマりしており、その世界の深みに日々驚きを隠せない。今回はその中でも、特殊なシチュエーションや深い物語性で定評のある音声製作者やん氏に対談を依頼。催眠が持つ魅力と今後の可能性などについて語り合った。最後にはコラムも追記頂いた。

 

 ③【対談】 ふたなりオンリー同人即売会「ふたけっと」主催と語る
なぜ人は「ちんこ」をそんなに生やしたがるのだろうか

ふたけっと主催:すぢこ

http://hutaket.com/

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ふたなりオンリー同人即売会というニッチながらも長年続き、老舗イベントとなっている「ふたけっと」その主催を務めるすどこ氏と語り合う「なぜ人はそこまでちんこ」が好きなのかという話。さらに長く続くイベントとしての矜持、これからのオタク文化が迎える壁など幅広い話題を下ネタベースで語り合った。

 

 ④【寄稿】 催眠音声とも一味違う!一歩先の声萌(こえぶた)の終着点
まさに女性を堕とす「シチュエーションCD」の魔力とは

著者:うるちさよ

http://sayoyo.net/ 

うるち さよ (@uruchi_s) | Twitter

ともすれば、催眠音声と混同しやすい「シチュエーションCD」男性声優による甘い言葉の
羅列は、催眠とは異なる次元で女性を堕とす。ドリームの先にあるこの文化の魔力を本人も
どっぷりなうるちさよ氏に語って頂く。ハマらないと思っている貴方こそ、きっと危ない。

 

⑤【寄稿】 「膣内射精」という決まり文句でおなじみ
「新スク水の淵から」出張版 ~「理想のセックス」とはいずこに

著者:笹松しいたけ

新スクの淵から 

笹松しいたけ (@s_sasamatsu) | Twitter

僕が知りうるインターネット界隈においてここまでストレートに膣内射精への願望を語るブログを他に知らない。そのストロングスタイルかつ知的な性への物言いは、単なるなれ合いと化したSNSを一刀両断するだけの力を持つ。今回その笹松氏の助力を頂きたく、本誌に出張して頂いた。

 

 

⑥【寄稿】 愛は憎しみを招き、そしてまた愛に還るのか・・・
定期連載「その心意気やヨシ!」<エロ同人RPG>その絶妙な世界に潜る

著者:シゲヨシ伊東

本誌ではおなじみになりつつあるシゲヨシ伊東氏のコラム「その心意気やヨシ!」毎度鋭角な切り口から世の中の人間の性を切り取っていく。今回は「同人エロRPG」編者個人、その存在すら知らなかった世界だ。聞けば思いの外彼がハマっていたので、愛憎込めて語っていただいた。

 

 ⑦【寄稿】 「性」を考えることは「生」を考えることに似たり
グノーシス主義的性器運用のスゝメ

著者:賽原庚太郎

性向とは何か。人間とは何か。今回の本質的問に真正面から捻くれた目線で取り組んだライター賽原庚太郎氏の本稿。セックスを求める先にはどんなエントロピーが存在し我々の「意味」はどこへ向かうのか。グノーシス主義を基調としながら大胆な説を宣う。壮大なカルトくささと共に本誌の総論的文章。ぜひとも受け取ってほしい。

 

 以上、こう並べてみるとけっこう盛沢山。気になった方は当日ぜひ遊びに来てくださいませ。毎度ながらも濃厚かつグタグタな本になっておりますのでなにとぞよしなに。

 

また既刊も持っていきますのでこちらからチェックしてみてくださいね!!

sukumizumi.tumblr.com

 

ということで、暑い日が続きますが身体に気を付けて毎日を過ごしましょう。

『失敗の本質~日本軍の組織論的研究~』を読んで感じる宗教的思考の重要性

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夏コミ原稿中に読んでた本についての感想その2である。自分でも思った以上に頭の中に、いろんなことがたまっていたらしく、珍しく続けての日記を書いている。それにしても売れているらしい、この『失敗の本質』(中公文庫)。各書店大きいところはどこでも平積みだし、今回都議会選でも話題をかっさらった都知事の小池百合子氏が推してるという文句でも注目を集めている。

 

この本は日本軍がなぜ戦争に負けたのか。その理由を「なぜ戦争に至ってしまったのか」という歴史的経緯的理由を排して、あくまでも「戦略的・組織運営的」に分析したものだ。もとは80年代に発刊されたので、今考えると30年近く前の本である。それがいまだにビジネス書として共感を呼び、注目を集め続けるということは、まぁそれだけこの30年間を通して、いや、本書が扱っているのは戦時中の日本軍の挙動なのだから、少なくとも100年近く。本書が指摘する「日本の組織における失敗の本質」は未だに拭えていないというのが実情なのだろう。

 

・今の社会でも通じる「あるあるネタ」が詰まってる

上に書いた通りなのだが、この本が今になってもに売れているということは、日本軍が抱えていた問題が、現代社会における日常でも「あるある」と感じてしまうということを意味している。これまで僕自身、戦時下の歴史モノ書物は過度に専門的だったり情報に偏りがあったりと、ちょっと避けてきた節がある。しかし本書ではなるべくそうした恣意的な部分はなくすよう努められているし、フラットにその戦略のみを考える姿勢が初心者にも読みやすい。

 

そして、現在の版の表紙に掲げられている「破たんする組織の特徴」という文章で、本書の大枠は理解できてしまうのだが「トップからの指示があいまい」「大きな声は論理に勝る」「データ解析がご都合主義」「新しいかよりも、前例があるかが重要」といった例示が掲げられている。お勤め先によっては、ついつい頭を縦に振ってしまう企業人も多いのではないかと思われる。これら負の要素が、ノモンハン・ミッドウェー・ガダルカナルインパール・レイテ・沖縄という6つの作戦を通し、どのように垣間見えるかがこの本では示されている。

 

この本の最も秀逸なところは、これら日本軍の組織的弱点は、戦後社会の企業風土においても影を落としているのではないかという着眼点から研究がスタートしているところにある。そもそも日本軍という組織自体、明治大正期には勤め先としてもお堅い処というイメージがあり、組織統制もしっかりと機能していたという。つまり比較的平時や計画が通しやすかった頃には官僚的組織としてきっちり機能をしたということだ。しかしながら終戦期のような環境や状況が変化し当初の想定から外れた時、上記のような組織の機能は瓦解していった。

 

この戦時における環境や状況の大きな変化を現在の経済世界に当てはめるならそれは情報化社会の波であり、グローバル社会の到来と言える。またその日本組織瓦解の現代版モデルケースとしては東芝や松下といった大手電機メーカーが当てはまるのかもしれない。それについては『失敗の本質』をモチーフに書かれた大西康之氏の『東芝解体 電機メーカーが消える日』(講談社現代新書)が詳しいのでオススメしたい。いずれにせよ、未だに日本軍の組織風土がどこかで引き継がれており、本当に今の時代に適した組織作りは、この国において道半ばであることを痛感させられた。

 

帰納的考え方の根底にあるものとは

本書の中でも批判される日本軍の考え方の一つに帰納的発想がある。帰納法とは、その場その場の現実を踏まえて判断や目標を決定するというもので、オペレーションにおける柔軟性という面では分があるものの、戦略としては場当たり的になりやすく、かつ全体としての組織統制には向いていない発想である。つまるところ、戦争における明確な大目標(グランド・デザイン)が欠如していたという批判がなされているのである。

 

結局、この戦争は何をしたら勝ちなの?この戦いではどの点をクリアすればよいの?日本軍では陸海空軍それぞれの仮想敵国や理想とされる戦い方が異なり、空気を読みあった結果、中途半端な作戦目標が策定されたりした、という具合だ。確かに現場からしてみたら、自主性を尊重と言われたところで、何をすべきか各々が考えるのだから日本軍全般としての統率なんか取れるわけがない。今で言えば先輩から「自分で考えろ」と言われやってみたはいいものの、結果が伴わず怒られたりするアレに近い。つまりは、その場その場での各組織の利害、個人の感情が過度に強調され、結局根本的な「これをしたら我が国は勝ち!」という具体的な事案も明確になされないまま「大東亜共栄圏」というユートピア思想のみを掲げて戦ったというのが大きな敗因の一つであったのだろう。

 

では何故、そのような場当たり的帰納主義がはびこったのかと考えると、どうもこの国民性というか宗教性の薄さなような気がしてくる。そう言うと「当時は国家神道が」とかそういう反駁が聞こえてきそうだが、ここで言う宗教性というのは「信仰深い」ということでなく「自分の生の意味を問い直す」という営みが習慣として薄いのではないかという事を言いたい。

 

何が言いたいのかと言えば「自分はどのように生きていくのか」という自問をするカルチャーがないということだ。戦略も一種の哲学と相似している。「何をしたら勝ちなのか」を決めることは「自分の人生における幸福概念とは何か」を決めることと近しい。その営みは宗教的であると僕はそのように思う。そして、そうした「人生の目的を考える」宗教的な発想はその場その場での立ち回りを考える帰納的発想の逆を行く思考ではないだろうか。元来、この国の宗教観はやはり土着の発想として神仏習合という概念が存在するように、宗教そのものにも場当たり的措置が根付いている。人生にも、仕事にも。そうしたグランドデザインを作り出すこと自体、この国ではそもそも文化として薄いという自覚は、単なる組織論ハウツーとしてでなく、より根本的な部分で考えたほうがいい思想だと感じた。

 

・組織論として「個々が何をすべきかを考える」こと

ありきたりな結論ではあるものの、この表題のような事が頭を過ってしまう。個々で何をすべきか考えるって、それではさっき問題視した現場裁量と一緒では?という疑問はあるかもしれない。それでもやはり、まずは一人ひとりが「何をしたいのか」「何をすべきなのか」を考える事は重要なことである。そこをスタート地点とし、それらを共有あるいは練り合わせをして、大きな組織としての具体的な行先を決めるという事は、組織運用の中で基本的かつ最も重要なことであろう。

 

またそれを実行する上で、最近面白いニュースを見た。話は飛ぶが岐阜県の各務野高校という学校の野球部がNHKで特集されていた。近年実力をつけており、今年は甲子園出場も狙えるほどのチーム力だと言う。そのチームの特徴は「年功序列をなくした」ことだ。監督が現役時代「先輩に気を使い、何も言えなかった。そんな環境で練習してもあまり野球が上手くなったとは思えなかったので、真逆のことをやろうと思った」とコメントしている。試合のサインも下級生が出す。それを選手も首を振ったりしながら戦略を決める。その関係性に遠慮はない。各人が何をすべきなのかを表出させ、ぶつけ合い、試合に勝つという明確な目標に繋げている。特に印象的だったのは、練習中、不用意なプレーがあった場合に二年生や一年生が声をかけてプレーを止める。自分の意見を述べてまた、練習が再開する。

 

縦社会や官僚的組織において、最もありがちなデメリットは発言力のない人間が存在してしまうということだ。確かにどのような社会においても、本人の性格も含めて、そうした発言力の大きさに差異は生まれてくるだろう。しかし、その壁を限りなく低く、あるいは発散させやすい形にすることで「誰でも何かが言える」という風通しを作ることができる。そしてそれは「自分がその組織で何がしたいのか」という組織内での個々のグランドデザインを構築するきっかけになる。

 

どうしても、我々日本人というものは。友人家族でさえも普段の会話において当り障りのない会話が多かったりする。コミュニケーションを円滑に回すという意味では仕方のないことかもしれない。ただ、そこで。「人生における自分の在り方」だとか「生死について考えること」そういう宗教に近い営みを自分の中に持つという事が、または上の各務野高校のようなフラットな関係性を作り、そうした考えを表出させられるような関係性を誰かと持つということが、各個人の演繹的思考の一助となり、この国における組織の弱点のひとつを乗り越えるヒントになるんじゃないかなと、そんな事を考えてしまった。

 

長々と思った身勝手なことを書いてしまったが、まぁ、深夜の独り言ということで許してほしい。

無意味な人生を歩むこと~『断片的なものの社会学』を読んで~

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もう気づけば7月も中旬に差し掛かろうとしている。ようやく夏コミの原稿もひと段落。その宣伝なんかはまた次回でやることにして。ここ1か月近くはツイッターで脳みそに溜まる澱を吐き出していたものの、やはり140字にとらわれずブログに好き勝手書く時間が取れるというのは案外幸せなもんなんだと気づいたり。

 

そんな夏真っ盛りな気候の中、このアンニュイなタイトルなんとかならないのだろうか。と自分でも思う。ただ、今回はそんな夏コミ原稿中に見つけて読んだ岸政彦さんの『断片的なものの社会学』という本がとても良かったので、それに纏わったり、纏わらなかったりすることを気のまま書いていこうと思う。

 

・ヘンリーダーガーに見る人生の物語性

岸政彦さんは社会学者ということで、在日コリアンの方や同性愛者など、社会の様々なマリノリティと言われる方や、そうした人を取り巻く環境を研究。また随所で出会った一生活者に対してインタビューを行い、そのひとつの人生やそれに纏わる物語を文字に起こすというフィールドワークを行っている方のようである。(間違ってるかもしれない)

 

僕も氏の本を手に取ったのは初めて。恐らく今回の本はそうしたメインストリームの研究を取り扱った文章ではなく、本筋の研究の合間から漏れ出てきた「社会学とまではいかないけど、社会の中で生きる人を考えるには重要なエッセンス」を少しずつ集め、一冊の本に纏めたという企画のようである。なので、一貫して「こういう主張だ」というよりは、むしろ誰かの人生の断片、あるいは氏のエッセイ的文章から、読者に「あなたならどう思うか」という投げ掛けが為されているような印象を受けた。また大阪をメインに繰り広げられる話の数々は、時にユーモアがあり、人懐こく、着飾らない話が多い。それ故、随所に見られる人生を捉える目線はかなり鋭い。

 

個人的には幼少から障害を持ち、その死後多くの作品が発見され一躍伝説的なアウトサイダーアーティストとなったヘンリーダーガーを例に挙げた文章が印象的だった。彼は誰にも知られることなく、懇々と『非現実の王国で』を作り上げた。それらが彼がなくなった後から発見されたことにより、ある種のロマンチシズムが生じ、多くの人の心動かすに至ったというのは周知の事実である。恐らくその作品自体の質もさることながら「作品が死の間際に発見された」「他者との交わりもない中で作製された」という事がある種のロマンを想起させ、作品により強い訴求力を持たせたことは確かだろう。

 

しかし、ここで様々なイフを考える。仮にそれら作品が発見されたなかったとしたら、ダーガーの存在自体が全くもってほぼ無に近いものになってしまう。また、ダーガー本人は彼の死後つまり現在の彼の作品の評価を知りはしない。そして、その評価を得ているダーガーを我々も知りえない。つまり、人生における物語性の有無は、その観測者の認知によって初めて成り立つもので、もしかしたら我々の周囲のおっさんの中にも「ダーガー」はいるのかもしれない。その可能性とその無意味性は、この人生の物語性を示している。この章をそのように僕は読み、深く感銘を受けた。

 

・他人が主役の人生を垣間見るとき

その他、本書では氏が行っているインタビューやエピソードもいくつも掲載されており、この社会における幸せとは、また正しさとは。各章から多角的に「人生における物語」の性質を考えさせられることになる。そんな中、僕自身の話で恐縮だが、過去に出会ったこんな事をふと思い出した。

 

営業先の北関東の片田舎。取引先の社長と飲みに行くことになり、寂れたスナック街の一店に入った。中にはママが一人と、恐らく常連と思われるおっさんが一人。邪魔をしたかなと思いながらも、まぁ気にしないでと店内に入れられ酒を飲みつつカラオケを歌うことに。その常連のおっさんも『宇宙戦艦ヤマト』を歌い出した。なぜその選曲・・・と思いながら聞いていると、そこそこ上手い。音程も取れている。しかし圧巻だったのは、なんとカラオケの採点で100点を出したのである。僕らが驚いて「すごいですね!」と声をかけるも、大して大きなリアクションもないおっさん。

 

その後、更に『恋するフォーチュンクッキー』でも、そのおっさんは100点を出した。採点基準が緩いのかいえば、僕らは80点止まり。どうやら彼は採点の「コツ」を掴んだらしい。そのコツを掴んで歌えば100点は獲得できるとのこと。そう自慢気に話すもどこか儚く、聞けば他のカラオケなどにはまず行くことはなく、ここでしか歌わない。こと採点システムに関しては、他社の端末ではおろか、同じ製品でも機械の個体差などで得点は変わってしまう。つまり、そのおっさんはこの寂れたスナックの、この一つの端末に特化したカラオケで100点をとる術を得ているのである。

 

なんだしょうもない話じゃねえかと思われるだろうが、なんだかこの出来事を思い出した時にふと色々な思いが沸いた。そのスナックのママだけが聞き続ける、おっさんの100点の歌声。ある種、この10畳そこらのステージにこのおっさんの輝きどころがあり、それを本来部外者である僕が観測出来たという事がとても感慨深かった。正直、冷静に考えれば「固有のカラオケマシンで100点を取る技術」にまるで生産性はないのかもしれない。その特技に汎用性もなく、彼の雄姿を普段見られるのはママだけ。彼がそこの店だけでカラオケの天下を取ることに、確かに意味は見出しにくい。ただ、そこに彼の物語があり、その物語を紡いだおっさんがいる。それは確かなことである。自分の暮らしている周囲随所に、こうした「自分以外の主役の存在」を想像することはとても大切なことではないかと思った。

 

・人生を無意味と捉えることから

本書の後半。岸氏が人生そのものの無意味性を説く場面がある。本来自分が持っている意味などあるのだろうか。また、本当に私たちの命がかけがえのないものであるなら(そう思い込むなら)今の自分を捨てて何かに賭けるという行為ができなくなる。と。ただそれは、人は挑戦すべき、だとか夢は叶うというような啓発的意味合いではなく、ただただ「何者にもなれない人生」があるという客観的な事実があると自認すべきではないか、という感慨を述べている。

 

この部分を読んでいて、鬼頭莫宏氏の『なるたる』という漫画を思い出した。その内容についてここで触れることは避けるが、まぁざっくり言えば、いかんせん救いのない話セカイ系作品である。その最終巻12巻の表紙裏に書かれた下記の一説が未だに頭に残り、今回読んだ部分と重なった。

「かけがえのない命」。そんなモノに救いを求めていても先には進みません。 
 あなたがいなくてもたいして困りません。 
 自分がいなくてもまったく困らないでしょう。 
 だからこそ、無くてもよい存在だからこそ頑張るのだとおもうのです。

 

普段から僕自身も思っていることだが「かけがえのない命」という表現は欺瞞だと思っていた。実際、僕が小さい頃にこの「かけがえのない命を大切に」という道徳の授業の一環でアフリカの貧しい子供たちが餓死で亡くなっているという映像を見させられた記憶がある。その際、幼心に「じゃあ、代わりに僕が死ねばいいのだろうか」という感想を抱いた。世界の別の場所で、かけがえのない命が失われている事に対して、自分がのうのうと生きててもよいのか分からなくなった。

 

まぁ、それは鬱屈とした発想だと今になれば思うのだが「かげがえのない命」という前提は、倫理的に正しいように見えて、現実に起こっている事を歪めてしまうという副作用を持っている。鬼頭氏の上記の言葉も、岸氏の文章も、僕らはやはりそもそも無意味だからこそ、意味を作り出すために足掻けるのではないかという示唆だと思う。上記のカラオケおっさんも、社会一般からすれば生産性のない無価値な存在かもしれない。ただ、そこには広く公共的な「意味」でなく個別によって作られた「意味」がある。自分で人生における意味を作り出すことは、幸福という概念を生み出すことに他ならないのではないだろうか。今回、本書を読みながらそんなことを思いふけっていた。

 

 

実際、全然まとめきれていないし、かなり自分の偏見が混じっているため正直レビューにもなっていない。多分この本は読む人それぞれの読み方があるし、僕自身二回目に読んでみたら捉え方が変わるかもしれない。ただ、取り急ぎ、読み終わった熱量だけでこのような駄文を長々書いてしまった。久々におすすめしたい本だし、是非とも興味があるなら手に取ってみていただきたい。

 

僕自身もこれまで同人誌において色んな方との対談やインタビューという事をやらせて頂き。そうした事が多少なりとも、意味のある行為だったのかなと。少し励まされた気がしました。また次出す夏コミの本も下ネタばかりのくだらない中に、色んな人の感情や価値観が詰まっていておすすめです。またそれはおいおい書くことにします。

 

 

日本のモノづくり復活と同人活動のススメ

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最近ニュースを見ていると日本の家電・ITを中心としたモノづくり企業が窮地に立たされているという話をよく目にする。東芝については、ここ数年の中で低迷していた経営体質が明るみになり大きな問題となった。現在ではその主幹事業であったメモリ事業売却先の決定に奔走している。また、鳴り物入りで立ち上がった日本の主要メーカーが合弁した企業「ジャパンディスプレイ」についても同様、アジア各国の新興ブランドとのコスト競争を前に苦戦を強いられている。

 

そんな昨今。僕ら昭和好況期を知らない人間からすると、今の大手家電メーカーに対する懐疑の念は強く「そもそも今の大手日本企業って昭和期の新規参入メリットや、特需で成り上がっただけなの?」という思いすら抱く。日経なんか読みつつ、ぼんやりとそんな事を考えながら、つい最近あったことから滔々と考え事。

 

・「営業職だからわかんないだろうけど」

突如話が変わるようだが、オタク趣味を抱えて色んなところで活動していると、種々オフ会に参加させて頂く機会もあったりする。ネット上ではあんな発言しているけど、この人会うとちゃんと働いてるんだな・・・とか仕事の話になることもある。すると、どうもたまにこんな思いを抱く。

 

「なんていうか、オタクって営業職って少ないよなぁ・・」僕の周りだけの問題かもしれないが、比較的頷ける人もいるのではないだろうか。IT含めた技術系職の人がやはり多い印象。そして種々専門職。たまに「そんな仕事してるんだ?!」みたいな特殊ケースな人もいるけど、世の中に結構いるはずの営業職と出会う事って案外レアな印象を受ける。

 

先日もそんなオタク同士の飲み会の席。参加者は数人いるも営業職は僕一人。周りはITエンジニアやプログラマで埋められている。すると酒も入り、次第に仕事の話から「職業におけるモノづくりとは何ぞや」という話になる。それぞれがクライアントとの過去の話だとか、納期の愚痴だとかが飛び出す。ちょっときな臭いなとは思いつつ聞いていると、僕に向かってこんなことを言った人がいた。

 

「君は営業職系だから分からないだろうけど」

 

言った当人はだいぶ酔っぱらっていたし、覚えているかはわからないが、僕個人としてはその言葉になんだか異常に腹が立った。そのまま話を聞いていると営業という仕事は仕事を取るだけ取って、自分は結局何も作れない。相手の調子に合わせてるだけで成績が上がる立場じゃないか。と。確かに彼の話に頷くところは大きいし、ネット上でもよくみる揶揄である。これを読んで同意する方も多いことだろう。

 

しかしながら、専門商社という立場で仕事をしている身としては反発も多いにある。人口減、需要減の世の中。その中で既存の仕事を得る為にどれだけ自分を投げうっているのか。相手が自分の足元を見ているのが分かる中、出たくもない飲み会に参加して、必死に足掻いている人たちがどれだけいるのか。その安直な「営業職だから」という言葉は、彼の職業的な立場として理解出来る言葉ではあるものの、やはり何か僕の中の心をざわつかせるには十分なものであった。

 

・斜陽の原因はすっかり固定化した対立軸では

その帰り道。先に言われたエンジニアオタ勢からの「営業職はこれだから」という突き放しを自分の中で改めて反芻する。すると次第に、これってすべての産業において在りうる対立軸なんだなと痛感した。正直自分の日頃の仕事でもわかってはいた。製造部隊に無理を言って、なんとか納期を間に合わせる。営業もエンドユーザーの「絶対」を守ろうとする。営業も製造もお互いに消耗しあっているのである。

 

そんなことを続けていれば、疲弊して次第に対立が生まれるのは自明の理である。この話は鶏と卵のようなもので「プロダクツが先か、案件が先か」という話だ。こんなことは延々話し合っても喧々諤々の議論になるであろうし、だからこそ昭和期から製造メーカーでは「現場を知った営業が強い」という話に落ち着いたりして、経営者も工場出身者などが抜擢されるという事も多かった。

 

しかし、近年になると中堅含めた大手企業は四大卒以上を採用するのが普通になっているし、そうすれば自ずと現場を知らない、あるいは逆に営業畑を知らない人物が幹部に登用されるというケースも多分にみられる様になったわけで。徐々に上記の対立軸は人事を含めた「派閥」となって現れ、経営以前に社内における権力抗争の具となることがしばしばである。

 

そしてここで言いたいのは、この対立軸の固定化こそが、日本企業のモノづくりを徐々に衰退させた原因そのものなのではないかという話だ。工場のプライド、営業の矜持、そして目指されるべき数字。詰まるところ製造、営業、管理という三部門がそれぞれの立場において、会社が自らのスタンスを維持するだけの場所になってしまえば、そこには最早競争力や創造力などは既になく、ただの「自らの居場所をそれぞれが求めるコミュニティ」のみが残ってしまうのではという話だ。そうなってしまえば、どれだけ大きな企業でも次第に斜陽になるのは明らかだろう。

 

・創業者精神ってつまるところ同人活動みたいなものか

僕らが例えば、本田技研トヨタ、シャープやパナソニック、あるいは任天堂などといった今や日本を代表する企業を思い浮かべるとき。必ずそこには創業者の存在がある。既に各所でそれは本になっていたり、ドラマ化されていたりもする。

 

たいていの場合、それは戦後の何もない状態からのモノづくりからスタートしている。そして偉大な創業者たちの逸話を読めばわかる通り、往々にしてモノづくりと営業活動は一体である。自分の作ったものを自分で売る。これが最初期の企業のスタートである。そこでふと思った。規模感や価値観は、確かにまるで違うけれども。やっていることの本質は同人活動とさして変わらないのでは。と。

 

自分なんかを、松下幸之助氏や盛田昭夫氏などと並べるつもりなどほんっとに毛ほどもないのだけれど、自分が日ごろやっていることを分解すると、詰まるところ同人活動は本を企画し、自らのコストで製造し、自分で売るという流れそのものである。そしてコミケなんかを覗けば、多くの人がこれと同じことを同人活動を通して行っている。ここに何か小さな可能性を感じたのである。

 

 

先の「営業職だから分かんないだろうけど」という言葉に憤りを感じたのも、おそらくどこかで僕が同人活動を通して感じていた「作る難しさ」を実感した事があったからこそかもしれない。自ら企画し、自ら作って、自ら宣伝し、自ら売る。たとえ趣味であったとしても、このルーティンのリスクと楽しさを知っている人は、きっと「自らの役割の殻」に籠りはしない。

 

むしろ先の「営業職はこれだから」「製造部隊のくせに」という価値観で仕事を見ている人にこそこの同人活動をしてみてほしいと感じた。作ったはいいけど、誰にどう売るんだ?大部数にしたほうが製造コストは下がるけど、その先の在庫管理はどうするんだ?製造コストから単価設定をいくらにするんだ?趣味と商業の境目はどこなんだ?こうした悩みを自分自身、一人で行うことで、恐らく多少なりとも、作って売るまでの本当の意味での「モノづくり」を体感できるのではないかと思ったのである。

 

 

こんなこと言ってるが、ハウツー本に書かれるような働く上での「創業者精神」とか「当事者意識」という言葉のための言葉が僕は非常に嫌いだ。お前らが指し示すようなモチベーションに、本来の創業者精神などはまったくないと思ってしまう。ただただ、自分の意志によって生まれたものを、人に届けたい。その「承認欲求」や「エゴ」をまずは自ら感じる点こそ、重要なのではないだろうか。

 

・「水車屋は水車を回すために、小麦が生えると思っている」

これはゲーテの『格言と反省』からの一節である。自分の立場でのみ物事を見てしまえば、恐らくトータルとしての企業活動とはならない。案件は雨のように降ってくるわけでもないし、製品は雑草のように勝手に育つわけでもない。また当然ながら、人には得手不得手があり、きっちりとした役割分担によって回る組織もある。しかしながら、それで回るのは大抵小さなサイジングの時分であり、その規模が大きくなればなるほどに、組織は対立の構図となることも明確である。

 

 

城山三郎の小説において『臨3111に乗れ』という近畿日本ツーリストの社史を綴った作品がある。やはりここにおいても、社長の馬場という人間がいかに破天荒で、周りを取り巻く人間も個性的だったかが描かれる。旅行を企画し、泥水啜って顧客をつかみ、結果に繋げる。時代という要請も大いにあるのだが、学ぶべきところは数多い。

 

今回はトンでもな話から、このように同人活動のススメという記事を書いてはみたが、実際に同人活動から学ぶ点は大いにあると思う。いくら製品に自信があっても、売れるかどうかは別だし、そして身内だったりコネクションを使うことも時には重要になる。世の中の経済の一端を体験するという意味では非常に悪くないだろう。

 

まぁ、こんなこと言っていても、自分の所属する会社一つ動かせていないので、片腹痛いのは確かなのだけれども。日本企業の行く先が暗いといわれている中、自分の作ったものを売るというそのルーティンにこそ、希望が残されているのではというお話でした。夏コミの当落もいよいよ今週末。自分の制作状況も思わしくない中でこんな与太話を延々している暇はあるのだろうか。とりあえず、まぁ、頑張ります。

 

デザフェス初めて行ってみて思った「拗らせる」ということ。

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最後なんか、めっちゃ内省記事になっちゃってるんで、そこは了承くださいませ。

 

週末が過ぎ、気づけば5月ももう終わり。2017年も半分そろそろ差し掛かる?マジですかと言ってる間もなく、コミケの当落発表も目の前なんだから否応なしに夏コミ同人誌の作業へと没頭させられる時期がやってくる。え、もちろん嫌・・・じゃないんですよ。趣味ですから。はい。自分で好きでやってますんで・・・みたいな。もう誰に言い訳してるんだか分からなくなってきた流れも、今年で何回目なのだろう。

 

ということで、そろそろモチベーションも上げていかないとという時期に差し掛かってきた今日この頃。「同人用素材を整理しなくては」とPCを立ち上げて、とりあえず情報収集という名目でツイッターイラレ立ち上げる気分になったら作業に取り掛かろう。そんなバカな区切りを考えつつTLを眺めていると「デザフェス」という単語が目に留まる。ほう、今週末だったか。

 

思えば、デザフェスには行ったことがなかった。デザフェスとは下記の通り、アートイベント「デザインフェスタ」の略称。1年に4回くらいやってる気がする。結構な回数をすでに重ねており、絵から小物からパフォーマンスまで。様々なジャンルを問わずアーティストが参加し、その作品等を買うことが出来たりするイベントである。

 

designfesta.com

 

アート系という意味では自分の興味の十分範疇である。うん。確かに、過去も何回か行ってみようとは思った。だけども、なんだかちょっと行くまでにはならない理由があった。それはタイトルにもある通り。「参加してる人って、ちょっと拗らせてるよなぁ・・・」と思ってたからである。

 

たぶん、オタク文化も当然ながら親和性があるのは分かっている。でも、アート系ってちょっと毛色が違うというか。どこかでオタクを蔑んでそうというか。自虐ネタをあんまし言わなそうというか。自分の作品にすごく自信を持っている人多そうとか。社会を斜に見てる破天荒な人多そうというか。身内ですごい盛り上がってそうというか。和装で下駄の人多そうというか。すぐ狐面とか買ってそうというか。スチームパンク好きそうというか・・・

 

後半はすでに岡崎体育の『ミュージックビデオ』みたいな事になってるわけだが、とりあえずちょっと自分と違う文化なんじゃねえかと思っていたわけである。ただ、やはり僕もいよいよ本格派のサーティなアラウンド。そろそろ立派な大人として食わず嫌いはよくないんじゃないのと。あとは、同人誌へのモチベーション上げられるかもよ。そんな囁きに惑わされ、軽い気持ちで東京ビッグサイトへ直行してみた。

 

下調べも何もなしで行ったもんだから、東館でやってるという情報も現地で獲得。4・5・6ホールに加え、新設の7・8ホールでの開催。結構広いな・・・と思いつつ身構えて会場へ。

 

確かに僕のイメージは案外間違っていなかった。アート系、そしてフェスティバルという名目通り普段から慣れ親しんだコミケとは全く異なる雰囲気。そもそもの空気がそんなにオタクぽくない。そこら中でライブドローイングをやってたり、各自ブース内でパフォーマンスをやってる人も。ファッションから小物雑貨、不思議なおもちゃやら、革製品なんかも見られる。あと、やっぱしスチパン、和装に下駄の人は結構いた。それでも、不思議とアウェイな気分はしなかった。

 

 

そして、いざ実際に各ブースを見物。普段はここビッグサイトで薄い本ばかりを眺めている根暗な小生には新鮮なブースばかり。ついついちょっとシャレたポロシャツを買いそうになったり、おしゃれ小物やらアクセなんかも目を惹かれる。いやいや、即堕ちしてるじゃねえのと自分でもツッコミつつ周回。ただ、歩くたび徐々に気づいていく。あれ、これ普通に楽しい。なんでこれまで来なかったんだよ。

 

そんな中、冷静になってみると僕がデザフェスに来れなかった本当の理由が少しずつ見えてきた。ブースを見ては「いいなぁ」「羨ましいなぁ」と思う自分。なんていうか・・・これは、嫉妬じゃないだろうか・・・。恐らく、僕自身も気づかないレベルで、アートという空気に憧れ、同時に妬む感情が心中に潜んでいたことに気づいたのである。

 

思えば大学進学時、選択肢の一つとしてデザインの勉強がしたいという思いがあり、美大進学を考えていた時期があった。ただ、親が過去にその道で大きな失敗をしたことや、学費の面を考慮して、結局その選択肢は早々に切り捨てた。親を反面教師に「まっとうに」と考え文系の大学へ進学をした。

 

自分で選んだ道のはずなのに、おそらくどこかで引っかかっていたのだと思う。結局その後は、コミケという文化の中で自ら同人誌を出すなど、諦めきれなかった何かが噴出してしまったのは別の話。種々ブースを眺めてはハイレベルなモノづくりをする人達を見て「いいなぁ」「楽しそうだなぁ」とか羨む裏側に、そうした「アートの素養を得た人たち」に対する歪んだ感情があったこと、そして逆差別的に「きっとアート系は拗れているから」と避けていた潜在意識に、今回のデザフェスを楽しむ中で今更ながら気づかされたのだった。

 

そして、今日ブースを回る中で最も強く自戒したのは、結局過去学んだ素養とか経歴とか気にしてないで「お前は今何を作りたいんだ」というその一点こそが最も重要なんじゃないか、ということだった。スニーカーを手のひらサイズに縮小させた素敵な小物を作っている処があったり、妙齢の女性が自分の作ったしっかりとしたブックカバーを売っていたり、小さいブースながらも本当に丁寧な細密画を描かれる人が佇んでいたり。何にせよまず「作りたいと思うその人」がいるからこそ、その作品がそこにある。ひとつひとつのブースを目の前にして、そんなシンプルなことが強く思い起こされた。

 

さらにその中で。何回も目の前を素通りしながら、目線が外せなくなり、ついつい最後はポストカードセットを買ってしまったイラストメインで活動されているブースがあった。キャラクターのセンスも良い、色彩の具合もいい空気感。周囲の設営の感じも素敵。「本当に可愛いですね」とグッズ購入の際、当人に話しかけてみたところ、特に過去絵を学んだりはしていなく、好きなものを追っかけて、好きな絵描きさんに影響されながらこういうモノが出来たということで。改めて、ただただモノを作るということの根本を再確認させられた気分になった。

 

 

詰まるところ、イベント以前に最も見方を拗らせていたのは自分だったのだ。気づかない間に、アートという高尚に見える世界から自ら零れ落ちたような感慨を抱いていたのかもしれない。そして、一番危惧すべきは、その「デザフェスはちょっと」という避ける理由をどこかで勝手にすり替えていたということだ。「ちょっとアウェイ感がありそう」とか言いながら結局は知らず知らずのうちに自分で壁を作っていた。「拗れる」とは、物事がもつれるという意味である。一度、もつれた糸はどこに繋がっているのかすら判別困難にさせる。

 

やはりその「拗れた糸」をほぐすには、実際に現場を見てみるのが早いし、そして答えは大抵シンプルな場合が多い。何かに対して違和を感じていたら、案外自分の中に回答はあったりする。僕自身も改めて、まずは目の前のすべき事に目を向けるべきだなと。今回、デザフェスとは直接関係ないかもしれないが、そんなことを改めて実感させられてしまった。

 

イベントとしては、純粋に楽しかったし、当然金も想像以上に溶けてしまった。またライブドローイングを見ていて、気になる人には話しかけてみたりとなんだか新鮮な出会いもあった。まぁそもそも、これまで避けていたこと自体が間違いだったイベントだったな、という事でまた改めて機会があれば覗きたいと思います。イベントレポになってなくてすみません。 

 

「クソリプ」に見る人間の可能性について

晩春も過ぎ、初夏の気候が続く今日この頃。そういや片頭痛に襲われる日も増え、そうなると梅雨が近づいてきた証拠である。そんな湿っぽい季節を前にまたもや根暗な考え事を懇々と書き溜めていく。

 

 

・「クソリプ」(を眺めるの)が好きだ。

クソリプ」とは詰まるところ「クソなリプライ」の略称であり、もともとはツイッターにおける会話返信機能「リプライ」において、わざわざ言うまでもないようなクソな返しを指してそう呼ぶようになった。簡単に言えば、発言主である相手に要らん事言ってしまうという現象だ。いわばコミュニケーションデブリとでも呼べるこの「不要な返信」は当然ながら今に始まった話ではなく、通常会話はもちろん、ネットでも昔から見受けられた現象だ。

 

しかし「クソリプ」と名が付けられたようにツイッターにおいて顕著にこの存在が取り上げられたのは、ここまでオープンなソーシャルメディアがかつてなかったからであろう。ツイッター上では誰でも、誰かの発言を覗くことが出来、そして言及も可能。ましてやその言及は、対面では会ったこともない発言主の端末にしっかりと通知され「ウザい」と感じさせることが出来る。すごい時代だ。受けたことのある人ならわかるだろうが、あの「誰なんだよお前」「そんなマジレス知らんわ」「返されたけど何のネタか分からん」という何とも言い難いモヤモヤとした憤りは解消も難しい。

 

そんな僕は、大量に拡散されたツイートに付いてくる有象無象のクソリプを眺めるのが趣味の一つになっている。自分でも性格がかなり歪んでいる気がする。でも「なんで人はクソリプをしてしまうのだろう」という問いが毎回興味深く、楽しいのである。(されるのは嫌だけど。)

 

とは言いつつ、様々に理由はあるだろう。「自分の知識を相手に示したい」「憧れの人に絡みたい」「嫌がらせしたい」「賛同の意を表したい」そういうカテゴライズを、日々「クソリプ」を眺めながらしているのだが、最近見た中で新鮮な一節があった。

 

「FF外から失礼します」というのはツイッターユーザーであれば馴染み深い言葉である。つまり「フォロー」「フォロワー」という相互に発言が見られる関係でないけれども、一言言わせて欲しい、というクソリプにおける決まり文句みたいなものである。今回見つけたのはその亜種で「TLから失礼します」というものだ。違和感が半端じゃない。恐らく、彼(あるいは彼女)が言いたかったのは「自分が見ているタイムライン上から失礼します」という事なのだろう。ただ、本人が見ているタイムラインなどリプライを受けた側からすれば知ったこっちゃないし、何の関係もない。とことん自分本位な立場から物申すその姿勢に、初夏らしい一種の爽快感すら覚えた。

 

そのように「相手のことを考えず自分の言いたいことを言っちゃう」この姿勢こそがクソリプの淵源であることは重々理解いただけたことと思う。ここで「どうだろうか」とか続けると内容の薄いまとめ記事みたいである。というかこんな文章読まずとも分かってるわボケという声も聞こえてくるので、そろそろ本題。この記事のタイトル「クソリプの可能性」という話に徐々に焦点を合わせていきたい。

 

・コミュニケーションにおける延命措置がクソリプを招く

僕が「クソリプ」を眺める事が好きな理由の一つにその「会話の想像できなさ」がある。言ってしまえばコミュニケーションは基本的にロジックによって成り立つ。例えば質問に対して人は簡単に答えられる。「そこに大きな木はありますか」という問いがなされれば「はい」か「いいえ」で答えればいい。次の質問や返答がなされない限り、本来会話はそこで一旦終了する。「クソリプ」における投げかけでは、そのロジックが引き延ばされねじ曲がっているのだ。

 

例として「そこに大きな木があります」という一見して完了されている文章があるとする。これに「クソリプ」を付けてみよう。カテゴリの一つ<知識誇示型>「大きな木がある」という点から「大きな木といえば日立のCMでも有名なモンキーポッドの」という自分からの提示を行いたくなるタイプ。<意識共有型>では「私も大きな木のそばにいます」と投げかけたくなるタイプ。<疑問提示型>は質問として会話を提供しているようで「あなたが大きいと思っているだけで他の場所と比較すると小さいのでは」という、相手の認識の土壌の引っぺがしにかかるタイプである。

 

他にも色々あるとは思うが、簡単に三類型からクソリプを見てみた。どれも完了している会話に「自我」を織り交ぜようとした結果、コミュニケーションの終点を無理やり引き延ばして、自分の方へ寄せようとしている。ただこれ、普段の会話ではよくある技法である。対面している人との会話が「大きな木があります」で終わってしまったら、関係もそこまでである。そこから想像力を働かせ、自分からの知識提供や疑問、共感を行うことでコミュニケーションを延命させるというのは逆にコミュ力のある発想といえる。

 

しかし、これをネット上ましてやツイッター上で行うと「誰だか知らない人が、終わらせた話を望んでもいないのに延命させにかかっている」という具合になる。対面と非対面において、また知人と非知人の間で同じことをしようとすると歪みが生じてしまうのである。本来完了された文章をいかにして引き延ばそうとするのか。またそれが会話のように自然にではなく、文面でくっきりと残ってしまう。ここにこそ「クソリプ」への新鮮な驚きがあるし、僕も知らない会話ロジックの発明があったりする。

 

・人間にしか出来ない「欲」が為すエラー

ここで徐々に考え始めたのが、最近普通の存在となってきたAI(人工知能)である。特にiOSに搭載されているSiriなどは顕著な例で、知りたいことを聞けばおおよそ答えてくれる。最近天気を知るには、自然にSiriを使うようになってきた。また更に質問の内容によっては気の利いた答えを話しだしたりと、なかなかにユーザーの心を捉える憎い演出が為されている。

 

こうしたAIが徐々に会話を独自のロジックで習得していき、人間との会話がスムーズに行えるようになったとしよう。果たして彼らAIと我々人間はどちらの方がよりコミュニケーションが上手いと考えるべきなのか。恐らく、流暢にそして無駄なくという意味ではAIに軍配が上がるだろう。現在は質問に対して明確な答えを用意するというレベルにとどまっているが、そのうち単語の意味から、空けるべき間合いや、方言すらマスターするのではないかと思う。例えば「法事」とか「死」という単語を認知し、その国々にマッチした形で喪に服すことだって学習できるかもしれない。

 

つまりはAIは空気すら読む存在にもなりかねないのである。知識においてはクラウドにつながっている彼らに勝てる余地はなく、更に「今は何を言うべきか」という「べき」「should」すら徐々に覚えていく事だろう。そうすれば、人間以上にスムーズな対話が可能になるのではないかというのは想像に難くない。人間は将来的にAIにチェスや囲碁だけでなくコミュニケーションすら勝てない存在となるのか。

 

ようやくここで「クソリプ」の話題に戻ってくる。先ほども見た通りクソリプの淵源には人間の「欲」がある。「言わないべき」という理性は働けど、「自分の知識を誇示したい、共感したい、相手を言い負かしたい」という欲も人間には存在する。そうした欲は、理性的な判断である「べき」を時に超えてしまう。ある意味で、AIからすれば「エラー」となる発言である。それでも人はその「エラー」を実行する力を持っている。「大きな木があります」という本来「はい、そうですか」としか返せないような会話にでも、無理に食って掛かる自我がある。遠くない将来を想像したときに、日々眺めている「クソリプ」というコミュニケーションデブリが、思わぬ形で人間固有の意思形成のあり方を感じさせてくれた、というのが今回の記事の本旨である。こうした欲によるヒューマンエラーこそが、人間に残された創造力の重要な部位になるのかなとか、ランニングしながら考えたり。

 

なんだか「失敗こそが魔法の継承の秘密」という『魔法陣グルグル』的な話になってきた感じもする。分からない人は面白いので是非読んでほしい。まぁ、そんな遠大な独り言を言ってみても日常においてクソリプ見てると「うわぁ、キッツいなぁ」としか思えないので、出来ればツイッターでは相手の気持ちを考えて、自分のオナニーを抑えてリプライを投げるようにしましょうね。