わがはじ!

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権利と承認の幸福論~Twitter10年を考える②~

今年でTwitterのアカウントを作って10年になる。その中で、ネットの情報と触れ合いながら考えたことなどを取りまとめ、あくまでも根暗ベースで書いていくシリーズ第2弾。あくまでも持論です。今回はGW10連休の最終日に書き出したということもあって、いつもより2割増しくらい、暗い話を漏らしてみたい。

 

・「子供嫌い」という権利

今年に入って読んだ記事の中で、しばらく引っかかっていたものがあった。

president.jp

 

話題として特段新しいものではない。「NIMBY(Not In My Backyard)=うちの裏庭に~を建てるな」的発想に纏わるエッセイ的記事だ。ごみの焼却炉など、住民と自治体との間でいさかいになるような施設建築の話である。その中でも、最近ネットで往々にして炎上事案になるのが、この記事が取り上げるような「保育所問題」だ。

 

少子化にも関わらず、待機児童が問題となる今の時代。更に拍車をかけるような「近所に保育所を作らないで」という地元住民からの意見は、時たまネットニュースになり、色んな声が向けられやすい。本記事もバズっており「身勝手ではないか」「子供を地域で育てるという発想がない」などという反応を見かけた。

 

昨年末、青山で児童相談所建設に地元住民が反対したという記事も記憶に新しい。この手のニュースを見た際、普段そんなこと考えない僕でさえ住民に対して「子供のためだろ。身勝手なんじゃねえの」と憤りを感じていた。しかしながら、なんとなくクリティカルな反駁が出てこない。歯に何か挟まってるような感覚。「他人の子供のため我慢しろ」・・・果たしてそう言えば済むのか。

 

そんな違和感を抱えつつ。ここで、ちょっと違う話題を思い出してみたい。例えば、昨今の労働に纏わる話。昭和から続いてきた「24時間働けますか」的発想に対するカウンターは「サビ残必要なし」「飲みニケーションへの疑問」「ブラック企業は滅べ」という声が挙がっているように、もはやネット上では通念として定着しかけている。勿論、自分も含めた労働者にとっては良い潮流であり、働きやすい職場、そして生産性の向上という考え方は時代に適したものと言える。

 

では、こうした考えの本質は何か。端的に言えば、それらは権利意識の表れのひとつであろう。雇用関係において、労働者にも認められた権利がある。それを忖度なく行使できる雰囲気を作ることは、確実に悪いことではない。だって、職業選択もプライベートな時間も、れっきとした自分の権利なのだから。

 

そして、冒頭の話に戻ろう。保育所建設反対の意見だ。旧態依然とした「寄合的コミュニティ」を脱した都市部での生活。そこにおいて住む人が、忖度なく自らの権利を主張すること、それもなんら不自然ではないのではないか。

 

プライバシー権日照権など大学での憲法の授業のようだが、保育所拒否を訴える権利。それは、我々の感情論で一方的にはく奪されるべきものでない。いかに「自分勝手な」意見に見えても、彼ら住民が「フェア」なルールに則っているという前提で話を始めなければならない。そして、こうした住民の反対意見に憤っている自分こそ、さっきまで「労働者の権利を」と語っていたのに、その権利という視点を無視するような「ダブスタ」的スタンスにあったことを自覚しなければならないと思う。

 

・不快さを取り除くという幸福追求

苦手な人や嫌いなもの。そうしたものから遠ざかる、遠ざけるのは自然な行為だと思われており、その風潮は昨今強まっている。ブラックなら辞めればいい、いやな飲み会は無理に行く必要はない。そう声を挙げる傍らで、保育所は甘んじて受け入れろ、なのだ。僕がこの問題に反駁したいが、モヤっと感じていたのは、なんとなく「そうすべき」という感情のみで僕自身、自分の理屈を守っていたからだろう。

 

保育所問題から離れて、すこし根本的な話を考えてみたい。つまりは労働をはじめ自らの「権利」を主張する重要性に気付いたネット市民。その「権利」の主張を掲げた末、我々はどこに行こうとしているのかについて軽く語ってみよう。つまるところ、現代の幸福論だ。先日ツイッターで身の丈に合わない主語を使うヤツは信じるなと言っておきながら、これである。ということなので、あくまでも僕周辺の感覚をベースに考えたい。

 

唐突だが、GW久々に母方の叔父に会った。なかなか破天荒な人柄で、バブル期にシカゴで寿司屋を経営。破綻した後、結婚詐欺にあい、心臓を病み、今は近所で生活保護を受けながら過ごしている。その口癖は「とにかく面倒だ」というもの。いや、確かにそんだけの人生を送ってきたら、何かを始めることを厭う気持ちも分かる。

 

最近スマホを持ったものの、競馬情報を見るか電話の二択。何か新しい趣味でもと言えば「新しいことは不快な思いが付きまとうから」と言う。んー頑固なもんだ、と聞いていたが、その言葉からふと感じたことがある。普段、人間というものは趣味だったりそれこそ食欲だったり、基本的に「快楽」を求め、それを種々生活や活動の意欲にする生き物だとなんとなく思っていた。

 

しかしながら、むしろ叔父の発想のように「不快な状況をなくす」つまり「快適さ」を得たいという願望の方が、人としてはより自然な感情なのではないかと思ったのだ。思えば、自動車や家電の発明、種々テクノロジーの進歩はそうした不快さをなくすことを原動力にした営みである。そして一人一人の生活も、居住であれば、住まいがいかに駅から近いか、近くにスーパーはあるか、など「快適さ」が幸福値を表すバロメーターのひとつになっているのは確かだろう。

 

ひいては会社や家族、こうした組織体においても、上司との飲みや、ご近所の付き合いなど、面倒なしがらみをなるだけなくし、個の快適さを優先しようというのが今のトレンドではないだろうか。つまるところ、自分の人生。思うように生きた方がいいでしょ、という話で、この手の発想に頷く人は多い。

 

・承認というローカルブレーキの限界

では、そのように上司やご近所づきあいといった他から煩わされることない快適な生活こそが、現代の「幸福観」なのだろうか。

 

ここで、もう一つ大きな要因を占めるものがある。相反するようだが、それこそ他人から得る承認欲だ。この「権利的快適さ」と「他人からの承認」というセットこそが、今の幸福観に纏わるリアルな温度感ではないかと思う。

 

面白いのは、先に挙げた「権利的快適さ」は人との関係性を薄くしたほうが求めやすい代物だが、ブレーキのように「他からの承認」は存在する。一人でいれば好き勝手に振舞える。社会の中では規律が息苦しい。しかし、一人では得られない「人から承認される」感情を得ることが可能になる。わざわざ言い立てるほどのジレンマでもないが、このバランス感覚こそ、今という時代における人の幸福観と言っても差し支えない気がしている。もちろん、人によってその偏りは大きい。「快適さ」を優先させる人もいれば、「承認」に全振りする人もいる。

 

では、そろそろ本題に移る。何を言いたいかといえば、インターネットの時代において、この「個」と「承認」という対立軸に変化が生じているということだ。「個」における権利追及は先述の通り、加速している中で「承認」の場が、ローカルだけではなくむしろネットワーク上に移ってきているように感じる。会社の上司から承認をされなくても、フォロワーから認められる。家族が疎ましい時にはネット上の意見が自分を守ってくれる。という具合だ。

 

例えば、一人で好き勝手に振舞った反動は大抵、友人や家族など周辺の人のリアクションとして帰ってくる。周辺の人がそれを咎めた結果、承認を失わないよう行動を調整する。しかし、そうした言動をネットに呟けば、様々な第三者がいきさつに評価を与える。「自分の自由に振舞った行動のほうが正しいよ」「周囲を気にするな」など、意見が投げかけられる。

 

当然メリットもある。顕著な例としては、いじめや家庭内暴力が存在する閉鎖状況において。ネット上の第三者からの意見は、明らかに偏った環境に対して修正を行える力を持つ。また広く周知されることによって問題解決の可能性が生じるという意味では、ローカルを超える承認を得る過程は効果的だ。

 

反面。こうした構図に慣れ親しむと、ローカルにおける承認を気にしないで済むようになる。要は「個人の快適さ」の追求に対して、周辺のリアルな関係性に対する相対的な価値を下げてしまうということだ。親と折り合わなくとも、ご近所付き合いなどしなくても、ネットには自分の意見を認める人がいる、と。

 

・今ある快適さと、自覚と。

ネット上における実際の利害を伴わない、ゆるく繋がる承認の輪。自我や個の主張を守る上では有効だろうが、果たして本当にその輪が自分を救ってくれるのかという疑問が立ち上がる。「個の快適さを優先させる」人たちがそう主張し合い、同調する中、ここで醸成されるのは「自己責任」の感覚だ。

 

あくまでも、自分の人生は自分の人生だから。そして、自分を縛るローカルな関係性に重みはない。その主張を掲げながら、いざという時に面倒な人生の中で、本当にツライ状況に置かれた際、一体誰と在るべきなのか。はたまた一人で乗り越えられるのか。昨今の社会問題は往々にして、こうした空気感、あるいは諦観が横たわっている気がする。

 

労働の効率化、晩婚化、独り身での生活、少子化、そして保育所建設の拒絶。案外、これらの清濁双方を含む事象やそれに関連する発想は地続きだ。昨今、人それぞれの異なる幸福感は、それぞれに尊重されるべきという風潮の中、自らの不快さはなるだけ排してよいという発想が定着してきている。もちろん手放しに賛同出来るメリットもあれば、疑問も生じたりする。

 

権利を主張することは決して悪くない。ただ、僕らが得たいと望む幸福観の先に一体何があるのか。この問いを自覚的に自問しなければ、恐らく足元にあるローカルという土壌すら消失させている可能性もある。この保育所反対の問題についても、住民の感情は理解出来る。いや、誰であろうとまず「理解しなければならない」時代なのだ。

 

その上で、ようやく失われるものについて、何を犠牲にするのかについて。そこからようやく倫理観を含めてお互い考えていくべき対話のスタートが切れる。すべてがモラルの問題と捉える人、感情で反駁を行い続けていると、自分が欲しているものすらわからなくなる。

 

そんな不安を文字にしてみた、という具合でした。令和という年号を迎え、新しい時代の幕開けに。まぁ、案の定という暗い内省記事。まだ、このシリーズは続きます。

 

人生がわからなくなった時に読む個人的処方箋マンガ選

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気づけば令和。前回から続けようと思っていた話題は、プロットが大きくなりすぎて一旦お休み、お茶濁しと文章を書くリハビリを兼ねて、久々にサブカル系を中心に漫画レビュー記事でも書きたくなりました。各作品「処方箋」ということで短めです。

 

・「わからない」ことが「わからない」ときに読む漫画

学校の授業や勉強をする上で一番の末期症状がこれだ。「わからないところがわからない」果たしてどこから手を付けたらいいのか、そもそも何を聞かれているのかもイマイチぴんと来ない。ていうか「わかる」ってなんなんだ。僕も過去、高校時代の数学でこの沼に陥ったことを思い出しては、鼻の奥がツンとなるような心地がする。

 

そして現在。時代も平成から令和へ。僕自身も三十路に突入、増える白髪、遅くなる筋肉痛、随所に現れる老化現象を逐一見ないふりして日々を過ごしている。そんな中、最近再びこの「わからないところがわからない」現象に見舞われている。うん、そう、人生で。

 

経済的なひっ迫、現在の仕事、趣味、結婚、家族・・・油断すればユニコーンヒゲとボイン』の「仕事とはなんだ、人生とはなんだ」という一節が頭の中を延々ループしている。新時代、いったい何から手を付ければいいの。

 

まぁ、こんなことを考えだすということは大概暇なのであり、せっかくのGWだし、ぐーたら漫画でも読もうじゃないか。ということでそんな「人生のどうしたもんかなぁ」と思った時、僕が処方箋的に読んできた漫画を簡単に振り返って紹介してみたい。毎年、夏コミ作業詰めのGW。今年は、お休みしたことによりなんだか落ち着かない。そんな手持無沙汰さを、そんなレビューをもって共有させてほしい。

 

・『西洋骨董菓子店』(全4巻)よしながふみ 新書館

www.shinshokan.co.jp

ふと諸々、人生が重くなってきた時に読む安定剤みたいな漫画。思えば、前時代では椎名桔平藤木直人滝沢秀明阿部寛という豪華メンツでドラマ化もされた本作。イケメン4人が小さな洋菓子屋で働くよしながふみの真骨頂みたいな話。もちろん同性愛はのっけから物語の核心になってくる。

 

往々にしてよしながふみ作品は顔がいい前提で話が進むので、そこはご愛嬌なんだけど、それにしたって、登場人物各人の人生の機微を過去から現在まで、短いながらきっちり描いてしまうのはさすがの一言。基本線日常系でありつつ、それでいながら、本筋にはミステリの要素なんかも加えちゃって、とっちらかるかと思いきや、まとまりのある全4巻。

 

同性愛関連の話が非常にフラットに設置されていたり、登場人物の重たい過去が比較的軽妙に描かれていたり、オムニバスに近い展開もあって、いい意味でストーリーを押し付けられない感が心地よい。サラッと重い話が続出する度「そうだよな・・・人生の問題って案外悲劇としてでなく、オフビートに進むよね」と納得し、悩みが軽くなるような気がする。ほんと、よしながふみって人生何週目なんだろう。とはよく思う。

 

・『雑誌『ヨミ』』(『白い狸』収録)横山旬 エンターブレイン

www.kadokawa.co.jp

コミックビームで『変身!』を連載していた横山旬の短編集。表題の『白い狸』は、まさに筆者の得意分野という感じの読み切り伝奇ミステリ。こちらも好きなんだけど、これに収録されている「雑誌『ヨミ』」という短い漫画が僕にとってのカンフル剤的処方箋だ。

 

話の筋としては、中学3年の受験前。主人公と友人Aで雑誌制作を思いつく。学校の「一物抱えた」人間に声をかけ、原稿を募るという同人誌作成の話だ。最初は面白そうと進めてみたものの、編集から原稿集めなどに苦慮し、受験を控ながら「なんでこんなことしてんだろう」的葛藤を抱える。それでも最後、表紙を頼んだ知人から完成した絵を見せられた瞬間、その出来に感化を受け「本にしなければ」と思い新たにし、完成にまでつなげるというひと夏の青春群像。

 

見た通り単純ではあるものの、横山旬の独特な絵柄に完全に心を掴まれて仕方ない。そして、僕が続けてきた同人誌作成の流れとほとんど一緒で、僕自身「なんでこんなことしてんだろ」と沼にはまりそうな時、完成へのモチベーションを思い出させてくれたりする。集まってきた話や原稿を見つめなおし「あぁ、これ世に出したほうがいいな」と。結局、完全に一人よがりなんだけど、何かものづくりを行うことなんて詰まるところ一人のエゴで十分なんだなと、毎度教えてくれる貴重な作品。

 

・『変身のニュース』(短編集)宮崎夏次系 講談社

kc.kodansha.co.jp

当時気になる絵柄ということで、手に取ったら久々後頭部殴られたような衝撃を得た本作。他の作品も好きなのだけど、最初に読んだ宮崎夏次系作品ということでこの1冊を挙げたい。

 

処方箋、ということでピックアップしているが、結構強いオクスリという感じ。漫画や小説を読んでいて「これ書いてる作者、大丈夫かな」と心配することがたまにあるけれど、その筆頭。人間が生きていて、ふと感じる「もうイヤ」みたいな感情を、無表情なキャラに語らせ、その人生を捨てる瞬間を、あまりに軽く、ファンタジーとして描いちゃう。この短編集では、直接「死」という帰結には繋げないが、そんなおとぎ話的救いが逆に恐ろしいくも、儚い。

 

1冊通して、我々が日ごろの生活でふと抱く絶望の先を「はい、こんな感じ?」と示してくれているような印象を受ける。だいたいあってる。あっているが故に狂っているし、そしてその狂気には、希望だとか安心も宿っている。日常的に過ぎていく日々が、たまにあまりに不条理に感じる時。僕は改めてこの本を読みながら、ちょっとした安心感を得るのだと思う。

 

・『G戦場ヘブンズドア』(全3巻)日本橋ヨヲコ 小学館

csbs.shogakukan.co.jp

個人的に一番、即効性があり効果があった処方箋と言えるかもしれない。漫画家を目指す漫画は、いろいろ作品はあるのだろうけれども、3巻完結ということもあり、ここまで熱量の密度が高い作品も他にないだろう。何かが詰まると、粛々と読みだしてしまうほどにはお世話になっている。

 

こちらも短いゆえに話の筋はそこまで複雑でない。ただ、2人の主人公を置くことによって、創作に対するそれぞれのスタンスを書き分け、そして大団円では1本の線に紡いでいくその過程は何度読んでも鳥肌が立つ。そして、本作でのキーパーソン、漫画雑誌編集長、阿久田が言う「誰も生き急げなんて言ってはくれない」というセリフ。数々の漫画のセリフの中でも、人生訓としては、非常に重たく、またその通りな一言。

 

創作という道自体、普通に生きて得る幸せを放棄することと宣言しながらも、ラストでは様々な問題や葛藤を超えて、2人は漫画の道に至る。そこまでの覚悟がお前にあるのかと問われれば、めっそうもないです・・・と消沈するのが常なのだけど、趣味だとしても何かを作る、書く、発表する、その重たさと価値を感じさせてくれる作品。高校生とか、本当に読んでほしい。

 

・『ファミリー・アフェア』(『おかえりピアニカ』収録)衿沢世衣子 イーストプレス

www.eastpress.co.jp

短編集を主に主軸に活動している衿沢世衣子という漫画家。どの作品も瑞々しい感受性で描かれており、しがらみながらも、嫌味のない人間関係は彼女にしか描けない独特な空気感がある。そんな中で、本作もカンフル剤的に、自分の歩く方向を確かめる際に読む1本がこの作品である。

 

原作はよしもとよしともだが、衿沢世衣子の作品集にキレイに収まっているあたり、話の筋としても親和性が高かったと想像がつく。ごく普通の家庭が、父親の会社の倒産を機に過渡期を迎える。引きこもりの兄、女子高生の姉、主人公は小学生女子で「こどもだから分からない」と家族の問題にも目を背けている。ただ、両親の関係含めて少しずつ、家族が自分の道を歩み始める。その過程が丁寧に描かれている。

 

その中でも「何かに夢中になっていれば他のことなんてどうでもよくなる」「一番大事なのは自分で決めるってことさ」というセリフが象徴的に使われるが、日ごろのノイズが多い生活の中で、迷わない指針がここにあると読み返すごとに痛感する。本作品集通して、大人になりかける子供の話が多い。我々がとうに忘れた「大人になる自分に何を感じていたか」ふと思い起こさせられるようで、背筋が伸ばされる心地になる。

 

 

 

ということで、とりあえず簡単に挙げてみた5冊ほど。こういうレビューテイストは、まぁ、ふとした感情で書けるのでたまにはいいもんだなと思う次第。ということで、自身も挙げた漫画を読みつつ、徐々にやりたいことに向けて頑張っていかねばと気合を入れ始めたい。季節の変わり目に体をやられないよう気を付けなければ。

 

 

正しさの限界と未完成な自分~Twitter10年を考える①~

今年でTwitterを使い始めて10年になってしまう。便所の落書きも、10年続けば立派な病気である。そんなわけで、その10年を振り返りつつ、ちょっといくつかの論点から数回に分けて連続的に思いついたことを書いていくつもりだ。ネットやらそこらへんと自我の話だったりいつも通り、基本根暗ベースなのであまり面白い話ではない気がするけど、自分が今書けるネット総論として、残してみたい。

 

・ネットとデモクラシーという関係性から

大学時代、政策やら政治をかじっていた僕が卒論に選んだテーマは「eデモクラシー」というものだった。2008~10年当時、オバマ氏がFBを使って不利と言われた米大統領選に勝利したり、アラブ諸国ではSNSを使った民主化運動が過熱、日本でも民主党がいよいよ政権を奪取。長きにわたった自民政権が終わりを迎えるなど変化の時期にあって「ネットって民意反映にとって面白いツールなのでは」と選んだテーマだったように思う。

 

電子投票の議論も相まって、当時はそこそこ熱のある話題だった。それから約10年。広くスマホが普及し、SNSのアカウントは一部のネットユーザーから老若男女一般層にまで拡大。その結果、マスコミを中心とした情報流通の仕組みが変わり、アメリカ大統領さえも日々Twitterを駆使、それによって世界情勢が大きく振り回されるようになった。

 

こう見ると、ネットによる民主政治は加速しているように見える。ただ、どちらかと言えば、チャーチルが言った「民主制は最悪な政治形態」という言葉がより鮮明になっただけかもしれない。日々流れてくるクソリプの応酬を見れば、民主政治の主体たる市民さま方の発言にゲンナリする毎日だし、そうした衆愚に加担したくない頭良き方々の主張合戦も、結果自分の肯定のために吐かれている言葉がほとんどのように見受けられる。

 

と、斜に構えてそう言ってる自分も、結局はTwitterで10年を過ごし、ここで好き勝手物を言いながら、自分の足場を確かめるだけという作業を延々行ってきたにすぎない。そんな時間を過ごしているうちに、ネット社会において「正しさ」という概念自体が、ある種限界を迎えているように思えてきた。

 

・この時代が提示できる正しさの姿

数年前に「正義」について語り、ベストセラーになった本があったけれども、結局それを読んだところで、モヤっとした気持ちは消えずにいる。むしろSEKAI NO OWARIだって歌っている通り、人にはそれぞれ正義があるんだから、定義するのもおこがましいというのが最近の定説くさい。

 

そもそも普く人に与えられた「正しさ」は本当にあるのだろうか。一見、確実そうな定義として「正しいこと」=「嘘でないこと」という定義を考えたい。最近のはやりで言えば「デマ」でなければ「正しい」ということだ。こう見てみると、白か黒かという認知はしやすそうである。ただ、これも正直「であること」と「とすること」の境は、案外類推に任せることが多かったりする。

 

例えばツイッターにおいて。ある情報がデマでないかどうかの判断をいかに行うだろうか。その発言についてくるリアクションを確認し、別の識者がデマと断定していたり、あるいは発言者の普段の言動が怪しさなどで判別をつけたりする。つまるところ、その話題に対して自分が明白な答えを持ち合わせていなければ、白か黒かの判断も、結局自分のバイアスによって変化してしまうわけだ。

 

昨今。いわゆる道徳的、歴史的にみて「正しい」とされる観念はSNSの個別意見によって分解され、むしろ個人個人が何を「正しいとするのか」という判断に委ねられる存在にまで降りてきたといえるのかもしれない。

 

例えば校則。いわゆる「ルールがあるから守られるべき」正しさの典型だろう。ただ、最近では、髪の色議論なども記憶に新しく、時代にそぐわない校則に関する対応などもネット議論の対象になっている。現代において「正しさ」というものは天賦的に与えられるものでなく、僕らが作り出すもの。むしろ共有されて生じる合意のようなフラットな「正しさ」のイメージは、このネット社会における議論の本質を感じさせるものだと思う。

 

・「自己肯定」から生じる歪み

そう考えると、今の時代。「正しさ」を生成するうえで、非常に重要な存在が浮かび上がってくる。それが「自己肯定感」だといえる。正しさを作るのが個々であるならば、逆説的に「自分は間違えていない」と考えなければ、そこに正義は生じない。あの対応は今の時代に反している。そんな批判は、自分が正しい陸地に立っているという自己肯定からスタートしている。

 

正しくあるためには、自分が間違ってはいけない。僕が勝手に一人で感じているだけかもしれないが、昨今のネット社会に感じる窮屈さ、なんとなく流れている強迫観念。そうしたものの根底には、この思想があるのではないかと思う。

 

今のネット社会における自己肯定の姿は、承認欲とも密接に結びついている。多く賛同があったから自分は正しい。社会を動かす影響力が数字として見える分だけ、自分は正しい。反対意見は、当然のことながらそれを受け入れれば、自己否定にも繋がってしまう。人としての価値を賭け、それら反駁に対して、同意見者の連帯をもって烈火のごとく反発をする。SNSで日々見受けられる日常的な攻防である。

 

見てわかる通り、ネット上における正しさにはキリがない。どうしたって、自分と意見が合わない人間は星の数ほどいて、逆に自分に賛同する人も数多くいる。それぞれがコミュニティを形成しながら、自己肯定を相互に承認し、自陣の掲げる「正しさ」を生成し続ける。はっきり言えば、この構図を見ていていい気分ではないし、結局のところこうした対立軸、あるいは自己肯定の沼とも言える状況に、僕は冒頭掲げた「正しさ」の限界を見てしまったという具合だ。

 

・未完を受け入れること

 「正しさ」という概念を見出すことに無理がある。それは確かにそうかもしれない。ただ、今回の最後は、ちょっと飛躍するが大乗仏教にまつわるこんな話を引っ張って終わりたい。

 

大乗仏教は成立した年代から考えても、釈尊の教えを直接的に伝えたものではない。それでは、仏教として後付けで作られた「偽の劣った教え」なのだろうか。そんな古典的な問いがある。

 

この問いに対しては多くの回答が用意されているが、その中でも大竹晋氏『大乗非仏説をこえて』(国書刊行会)という本において、数ある「大乗仏教は非仏説(釈尊の教えではない)」に対する反駁として、非常にクリティカルな回答が用意されていた。

 

簡単に記すため語弊覚悟で書くが、大乗経典をもとに、その僧が修行をし、徳を積んだところに得られる「大乗仏教は正しい」という確信、あるいは体験が多く残されているからこそ、大乗仏教は仏説である。という回答だ。これだけ読むと「はぁ?」という感もあるだろうし、強引さもわかる。なんなら先に挙げた昨今の「正しさは我々が作り出す」という現代の思想に近いような気さえする。

 

では何が違うというのか。その差こそ、修行によって仏説だと確信しながら、まだ決して完成には至らない、自らが未完だという自覚、境地にあると思った。我々がネット上の議論で見かけるのは「正しい」か「正しくないか」という今存在する自分自身の肯定に纏わる衝突である。今の自らの知識が、そこで完成されている前提で殴り合っている。

 

対して、そうした修行僧らが得た境地はといえば、未完ながらも正しい道を歩む、という過程的な自己肯定感と言える。先の言い方になぞるならば「正しくあろうとするか」という、生き方の話である。その生き方自体が周囲の人に感化を与え「正しい在り方」を伝播させることで、結果大乗仏教の本質たる衆生の救済という大願へつながっていく。

 

徳を積む、という言い方は過度に仏教的かもしれないが、瞬間的に正しいか否かということでなしに、先々を見て「正しさに至ろうとしているか」という事を、各人が自らに問うべきなのだろう。今、ネットを見ていると、あまりに即時的な「正しさ」またはそれに基づく「自己肯定」に依存しすぎているような気がした。今、自分自身が正しくなかったとしても、そこに至ろうという未完成を受け入れる姿勢こそが、より健全な知恵と、より大きなものを包括する議論につながるんじゃないかなと。

 

ツイッター10年を振り返る第一夜、こんな説教、というか説法くさい話で終わろうと思う。また思いついたらぼちぼち書いてみたい。

 

格ゲーは「観戦」に耐えうるか

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格ゲー観戦も悪くないもんですよ。はい。

春真っ盛りすぎて、正直暑い。このままだと予定より早く桜も咲いてしまう・・・人間ってわがままだよなぁって思いつつ、昨今にわかに熱を帯びてきた「e-sports」関連の話題を書いてみようと思う。ちなみに花見予定はないです。

 

今日のテーマは対戦格闘ゲーム、いわゆる格ゲーである。本日、秋葉原UDXにて行われたCAPCON主催「ストリートファイターリーグ pwoered by RAGE」のグランドファイナルが開催され、僕も観戦に出かけてみた。

streetfighterleague.capcom-s.com

 

実際見てみるまでは、はっきり言って「生で観衆が見にいく格ゲーの大会」という感覚がイマひとつつかめず、またチケット代¥3,000という価格が適正かも疑っていた。ただ、モノは試しにと思い切って行ってみた結果、興味深い点がいくつかあった。今回はこのグランドファイナルを見て思った「e-sports」の可能性について考えてみたい。

 

・格ゲーの「わかりにくさ」をどう乗り越える

格ゲー。過去から根強いファンも多く、昨今では世界で活躍するプロプレイヤーも多い。僕もかなり熱を上げている。しかしながら、ファンはいいとしてもそのプロの凄さを人に伝えようとしても非常に伝わりにくい。実際にプレイしていない人からしたら「これ、何がすごいの?」となるのは当然だろう。

 

今回「ストリートファイターリーグ powered byRAGE」では、そのような層に訴求力を持たせるため一風変わったことを行った。それは「レベル別チーム制」である。格ゲーに初めて触る若手タレントからオーディションした「ビギナークラス」、20歳前後の若手実力者プレイヤーから募った「ハイクラス」、そして世界で活躍する筆頭プロプレイヤーから選出した「エクストリームクラス」、それぞれ異なるレベルの3人がそれぞれチームになり、約2か月にわたるリーグ戦を闘うというレギュレーションだ。

 

対戦はクラスごとに分けられており、ビギナー同士の対戦は1ポイント、ハイクラス同士は2ポイント、エクストリームは3ポイントという具合にポイント制でリーグ戦の順位を決定。上位3チームがグランドファイナル出場となる仕組み。

 

つまるところ、このゲームを極めた人は何がすごいのか。初心者プレイヤーとの差異を見て、初めてなるほどこれはすげえという認識に繋がるのは分かりやすい狙いである。超人を紹介するバラエティ番組などでもよくある手段だ。この企画はチーム編成が始まったところから、abema TVで配信されており、僕も「面白い発想だな」と関心していたのだけど。

 

実際に見て、湧きあがった感情はまた更に異なっていた。

 

・推しの化学反応

ビジュアル系エアーバンドとして人気の「ゴールデンボンバー」。そのメンバー歌広場淳氏が格ゲーにかなり精通していることは一部で有名である。いや、普通に強い。今回もそんな氏がスペシャルゲストとして呼ばれ、解説やトークを担当することとなっていた。

 

そして入場待機列に並んでみると、確実にこの女性・・・格ゲーじゃなくて歌広場目当てでは・・・という女性が目に付く。チケットは完売と聞いていたが、これ格ゲーの盛り上がりじゃなくて、金爆効果・・・という疑惑が頭を掠める。実際、歌広場登場と共に盛り上がる女性陣。しかし試合が始まるとその不安は、思わぬ方向で解消されることになる。

 

今日、最も観衆の声援を受けたのは、ネモが率いる「NEMO AURORA」に所属するビギナークラス奥村茉実(浅井企画)だったのは間違いないだろう。今回企画、紅一点の女性選手でチームはリーグ2位で本戦を通過したが、本人の戦績は0勝10敗。一度も勝てていなかった。

 

このグランドファイナルにおいても、初勝利を狙い、健闘したが勝てなかった。しかしながら、彼女の操るブランカが、ビギナークラス最強を誇った国定涼介から1Rを取った場面、会場は今日一番の盛り上がりを見せ、かく言う僕も声をあげて応援してしまった。その際、横を見れば先の女性観客からも、奮闘する奥村に熱い応援が飛んでいたのである。

 

これはあくまで憶測だが、もしかしたら本当に。歌広場目当てで来場した人も多かったかもしれない。格ゲーにそこまで強い興味はなかったかもしれない。しかし、大会の最後、勝てなかった事を涙ながらにチームと観客に対し、謝る彼女のコメントは、恐らく見ている人の胸を打っていたことだと思う。そして「今後も格ゲーを続けたい」と語った言葉に僕はちょっと泣いてしまった。

 

格ゲーは正直言って地味である。スポーツと違って身体性はバーチャルであり、その人間的な凄さは想像しにくい。ただ、そこにひょんなことから共感に足るストーリー性が付与されると、思った以上の訴求力が生じ、会場にも一体感が生まれる。はっきり言って、今日もスポーツ観戦のような盛り上がりは生じないだろうな。と思っていた。ただ、やはり現場は違う。何かが起こるものだと、改めて実感させられた。

 

・ビギナーとプロがあっての「文化」

板橋ザンギエフ率いる「ITAZAN OCEAN」の優勝をもって大会が終わり、カプコン小野義徳プロデューサーが総括の際こんなことを言っていた。「ビギナークラスの戦いでは想像をしていなかったような結果が見えた」その通り、このリーグではビギナークラスの存在、そしてハイクラスの中間層を設けたことに大きな戦果があったのだろうと思う。

 

これまで格ゲー周辺は、どちらかと言えば強さ一辺倒なカルチャーであり、新規参入は他の文化と比較すると厳しい世界だった感がある。今回、目に見える形でプロに対して「育成」を義務とした企画を開催したことによって、これまでの「強いからすごい」という見方から「強くなる面白さ」を提示出来たのは大きいことだと思う。

 

また大会中「ITAZAN OCEAN」のハイクラス・もっちゃんの個性の強さなども見どころとなり、やはり今後、格ゲーがスポーツとして受容されるには、そのプレイヤーの魅力や、ストーリーの共有という部分への注力が重要視されるべきなのだろうと感じる。

 

当然、ある程度上の世代、つまりゲーセン世代からすると格ゲーがいよいよオープン化することに対して、戸惑う気持ちも理解できる。しかしながら、最近ネット対戦をすれば中国勢、韓国勢、また東南アジア、アメリカ勢、各国の猛者とマッチアップすることも日常となった。現状、すでにすごい時代になったものだ、と思っていたが。今日の大会を経て、もっと格ゲーがスポーツへと深化し、そしてプレイしても、見ていても面白くなるような気がした。

 

日々、夜な夜なネット対戦をしては負け、もう嫌だ・・・と折れそうな気持ちになるものの、今日の奥村茉実の言葉で少し前向きになれた気がした。また今後も様々な仕組みをカプコンは企んでいるらしく、引き続きその続報を待ちたいところである。

 

格ゲー本筋のことは、詳しい人に聞いてくださいってことで。暖かい1日の格ゲーファンの独り言でした。

 

 

 

『カメ止め』がつまらない、のは何故か考えてみた話。

春眠マジで暁を覚えなくなってきたこの頃。花粉も飛んで、仕事に身が入るわけもなく、月曜から生産性のない考え事をしていた。今回はめずらしくサブカル論評みたいな話題になりそうなので、各位は優しい心で受け止めてほしい所存です。

 

・『カメ止め』好き?

先に言っとく。僕は好きです。昨年秋口から口コミで大ヒットとなり、社会現象にまでなった『カメラを止めるな!』。最近ネットやCMで見る企業や自治体との安易なコラボ広告にはちょっと閉口モノだけれども、個人的には面白かったと思う。ていうか、それが乗じてこんなめんどいレビュー記事まで書いたほどだ。

www.wagahaji.com

 

この作品。もちろん大ヒットになったということで、絶賛する人がいる反面で叩く人も案外多い。実際、僕も上映当時一度見た後、友人から感想を聞かれ「面白かったので見に行こう」と誘ったところ、見事に彼にはダダすべり。最終的には「いや、なんか誘ってごめん・・・」「いやいや、面白く感じない俺が悪いから・・・」と2時間ほど非常に気まずい感想合戦となった。

 

それ以降、タイトルにある通り「あの惨劇は避けられなかったのか」「『カメ止め』が面白くない人ってどういう目線で物語を見ているのか」と考えるきっかけになったのだった。そして先日、テレビ放映を終えたら案の定「カメ止め つまらない」という組み合わせがトレンド上位にもなっていた。おお、やはりいるもんですな。

 

今日はそんな「叩く人」の目線から『カメ止め』の物語の仕組みを確認、そして、話を広げてそもそも人によって感じる面白さの違い、つまり人にとっての「物語の向き不向き」についてそのエッセンスだけ、考えてみたいというお話でございます。

 

・好き嫌いが分かれる珍味「メタ作品」

アニメや映画のレビューを読む際「メタ」という言葉が濫用されているのを見たことはないだろうか。僕もゼロ年代サブカルクソオタとして、大して意味もないのにこの言葉を安易に使いたがる。しかし、この「メタ」。実際、何ぞやと聞かれると、ちゃんと説明するのが難しい。

 

よし、これを枕にブログ書き出せばある程度の取れ高が、と思ってたらこちらのサイトでよくまとまっていたので貼っておく。そうそう、こういうこと。うん、分かってたし。
storymaker.click

 

つまるところ、物語の世界観から「超越」する表現方法、それが「メタ」と呼ばれる手法である。『カメ止め』では、冒頭の『ONE CUT OF THE DEAD』という「ホラー映画」の世界観を後半で自ら壊し、舞台裏を物語の本筋に置く。その作中劇スタイルは、上記ページに説明がある典型的な「メタフィクション」の要素であり『カメ止め』がメタ的だ。と言われる所以がここにある。

 

ただ、ぶっちゃけて言えばメタ的作品は、物語としては王道ではない。ふと逆の王道作品を思い出せば話が早い。例としてジャンプ漫画など『DB』から『ONE PIECE』『スラダン』などなど。主人公がストーリーの中で成長し、苦難を乗り越える。読者はその苦闘に共感し、キャラのセリフに自らを重ねる。このマンガに感動した!勇気をもらった!と語る人は、大抵この「王道」作品を列挙する場合が多い。

 

それを考えるとメタ作品がいかに亜流な存在であることが分かるだろう。物語を自分で壊しにかかり、その壊した先で「衝撃」を与える。同じジャンプの鳥山明作品でも『Dr.スランプ』は、かなりメタ的だ。キャラが突如、読者に話しかけてきたりする。そういう「想定外」の混乱を物語に招き、読者に笑いや驚きを与えたりする。つまり「メタ的な作品が好き」などと自分で言っちゃう人は、正直ちょっとひねくれてるのが常だ。

 

・向き不向きは「メタ」との距離感

少しずつ冒頭の問いに答えていこう。つまるところこの「メタ表現」への許容性があるかどうか。これが『カメ止め』の評価に繋がっているのではないか、ということである。恐らく、上世代のオタクからは「何をわかりきったことを」という反応が予想される。

 

その要因として1984年公開の『うる星やつらビューティフルドリーマー』の存在が挙げられる。高橋留美子すら「別作品です」とコメントしたほど、原作世界をある意味壊しにかっかった劇場版2作目。「虚構」を「虚構」として自覚するという手法は、当時のリアルタイムオタクたちに衝撃を与え、傑作あるいは問題作として名を馳せた押井監督初期の名作である。

 

そして当然のことながら、当時もこれが許せないファンがいた。つまるところ「メタ」は純粋に「物語」本筋を楽しむ人に対する挑戦、あるいは挑発にも受け止められる。

 

『カメ止め』で考えれば『ONE CUT OF THE DEAD』という作品をまず楽しみにしてしまった結果、後半の「はい、あれはウソでしたー」というネタバらしを見た途端、映画としてシラケちゃったという帰結は容易に想像がつく。いやいや、あそこまで「ネタバレ禁止」って言ってて、これ?という落胆は、レビューでも結構見受けられた。

 

ただ『カメ止め』がミニシアターにとどまらず、社会的ブームになったのは、単にメタ作品による驚きや笑いがあっただけではないだろう。本筋は亜流であるメタの形をとりながらも、後半で家族の絆を扱った「王道ホームコメディ」としての体裁を取り返しに来たのが大きい。つまり、一作品の中にも様々な要素がある。メタな部分と王道な部分、普通それぞれが共存しながら物語は紡がれていく。

 

そして、もちろんそこから何を受け取るかは人それぞれである。序盤のゾンビ映画を「くせえぞ」と怪しみながら見たメタ作品ファンもいれば、ホラーに期待をした結果30分後の転換にシラケた人、あるいはそこからの父と娘の王道ホームコメディに胸を熱くした人、自分が『カメ止め』のどこに何を感じたのか。

 

クソだと思った人も、面白いと感じた人も、本作を見た上でこれを考えてみると、一体自分が「何に面白みを感じるのか」という自己理解への一助になるだろう。

 

・流血沙汰の「作品論」をなくすために

そして、最後の結論はここに繋がる。冒頭僕自身が友人とやらかした感想戦。どちらも得をせず、なんならちょっと険悪にもなった。そして『カメラを止めるな!』だけにとどまらず、ネット上における「あれはツマラナイ」「いや面白さを理解でいないお前がクソ」という悲しい言い合いは、インターネット史以来の風物詩となっている。

 

正直、根絶はできないまでも減らすことはできないもんかと常々思っていて。今回の『カメ止め』を巡る考察が多少なりとも和平工作へ寄与できるのではないか、というのが本記事の主たる目的だ。

 

古来、オタクたちはこのような「メタが与える衝撃派」か「純粋に物語を楽しむ派」か自覚的に把握しながら殴り合いをしてきた、クソめんどくさい人種である。(ぶっちゃけ綺麗には不可分なので、結果泥沼なのだけど)だからこそ、対立はあくまでもディベートのそれであった。お前の言い分もわかる、だが、俺の理屈でねじ伏せる!的な。

 

昨今、そうした「メタ」という作風が広く一般化した結果「メタ」か「アンチメタ」かという作品へのスタンス論でなく、単純に「人生観」「感受性」での殴り合いとなってしまっているケースが結構見受けられる。いやぁ、それで殴ったらアンタ心から血がでるよ・・・と思わずにはいられなかったりする。

 

人によって、それぞれの得手不得手なストーリーがあり、そして配信サービスが群雄割拠し、過去にないほど多くの作品群に我々は囲まれている。あの人の批評は、恐らくこういう視点からでは。僕はこの目線から面白くないと思う。こうした自分の感情の言語化をもっと丁寧にすれば、もう少し心穏やかにインターネットの海を泳げるんじゃないかなと。

 

そんなことを思いながら、適当に働いてた暖かな1日でした。

「上坂すみれのノーフューチャーダイアリー2019」で再確認した異常性と安心感

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2.10 革命的ブロードウェイ主義者来襲に怪しく光る神奈川県民ホール


そろそろ僕も大人なので、ちゃんとページのHTMLとか弄ってヘッダから既刊紹介ページに飛べるようにしてみた。さすが、超エライ、サイバーエクスペリメンツ(適当)。

 

ていうかこれまで数年間、当ブログこそ同人活動の旗艦宣伝ページのはずなのに、どこにも委託先のリンクや既刊紹介ページのURLすら貼ってなかったのね・・・「え?同人誌なんて作ってたの?オタクじゃないと思ってたのに!気持ち悪い!!」という人はこれを機会に覗いてみてください。

 

ということでそろそろ本題。時間けっこう経過しちゃったのだけど、いよいよ今週ツアーファイナルを迎える「上坂すみれのノーフューチャーダイアリー2019」その初日、神奈川公演行ってきたよ、っていうレポートである。

 

上坂すみれファン宣言から2年

以前、このブログで高らかに「僕は上坂すみれのファンになる」そう宣言したのも最早懐かしい。思い返せば2016年12月にまで遡る。

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声優アイドルとしてカテゴライズしにくいその独創性と、プロレタリアート階級労働者を労いながら搾取するというダブスタ余裕な芸風に惹かれ、このような記事を書いた次第である。しかしながら、人間、その熱量はそこまで続かないものだ。毎日忙しいしね。

 

音源などは手に入るだけ入手してみた。しかしながら、確実に僕自身イベントに足を運ぶかと言えばそこまででもなく、この今日に至るまでの間実際に彼女のパフォーマンスを見られたのは、その年明けにあった「KING SUPER LIVE 2017 TRINITY」と2年間の「アニサマ」のみ。彼女が本音ベースで暴れる現場を見ていないという意味では、現場参加は実質ゼロと言っていいだろう。

 

え、フェス行っといて参加なしとか・・・そこまで厳しい基準を敷かなくても・・・ファンの基準を一様に縛るんじゃない・・・昨今ツイッターで横行する「好きっていう気持ちに形ってないやん?」みたいな反応が既に脳内に響いている気がするが、上坂すみれの現場というものは、やはりそんなものではない。既に2月10日に神奈川県民大ホールにて行われたツアー初日を見て確信した。

 

・「いや、だって話す人いないし」

冒頭、久々の単独イベントということで、ここ数年の大きいイベントの話題になり早速出てきたのがこの言葉だ。一般人が聞いても「確実にこの発言、業界において絶対得にならないだろうな」と直感するようなことを平気で吐き出す。上段で「参加現場は実質ゼロ」と書いた心因はここにあるし、それこそが上坂すみれのMCが一級品である証左と言える。

 

まだまだ続く。神奈川県民大ホールの形状を把握次第「これは関係者席がない会場ですね・・・最高じゃないか」とか確実に発言のタガを自ら外しに行ったり、グッズ紹介の場面で「このグッズあげます、じゃあこの中で職質された回数が多かった人」とか「あの、あそこ髪染めてる、バカっぽい人」と観客を指さす始末。

 

また、でんぱ組.incの話題の際は「自分がアイドルユニットを組むなら」という話に。「私ならガンダムとATと組んだりするんですかね。でも、声グラ表紙とか載るとサイズ比がおかしくなっちゃいますね」いや、そもそも、ロボとアイドルユニット組むって前提をナチュラルに持ち出しすぎて、観客もその超展開にスグにはついていけてない。なんならAT(アーマードトルーパー)を解説なしで話にぶち込むなど、さっきまで新規ファンを歓迎していた割には、ボトムズ履修前提のエグイ対応である。

 

更に、公演中すでに飲酒願望丸出しで、水を飲む際には客と「乾杯!」と叫ぶ。今回の筆頭アンセム『よっぱらっぴ☆』では客の「S・A・K・E」コールと共に歌う。掟ポルシェ作曲の『チチキトクスグカエレ』では、掟氏のパフォーマンスをオマージュ、包丁を振り回しステージ上でキャベツの千切りをしながらの熱唱。本当なんなんだこのアイドルは。

 

久々の現場ながら、やはり他では見られないモノが見られた気がする。

 

・友達にはなりたくない、けど応援はしたい

そして、何より特筆すべきは生バンド演奏である。今回ツアーのメインアルバム『ノーフューチャーバカンス』について、個人的な感想を言えばこれまで以上の雑多さを感じていた。当然、曲の提供者や参加アーティストが異なっていたりと、上坂すみれらしいバラエティに富んだアルバムなのだが、逆にとっちらかった印象も拭えなかった。

 

しかし、ライブでは生バンドが一貫して演奏をするため、アルバムの各曲も驚くほどまとまりのある「楽曲群」として聴くことが出来た。なんなら、このライブを経てアルバムの完成形を見た思いである。

 

そんな大満足の演奏と同時に、上記の通り上坂すみれが破天荒なことをしゃべり続ける。¥9,999で壺をファンに売りつけたりする。正直、わけがわからない。ただ、楽しくないはずもないのだ。2016年年末以来のこの高まり、少し冷めていた自分に再度熱が入ってしまい、気づけば、とうとうファンクラブ(コルホーズの玉ねぎ畑)にも加入してしまった・・・。

 

そして、上坂すみれのファンになった、とオタク友人らに言えば「え、すみぺ?本気?(笑)」という反応が8割である。いや、確実にその反応で正しい。これまでの文章を見れば分かってもらえるだろう。ただ、やはりツアーレポをここに書こうと思ったのも、好みの差は(激しく)あれど、僕以外や古参の革ブロ以外でも「上坂すみれの現場、面白いかも」と感じる人がいると確信したからだ。

 

上記の異常な発言を見ていると、なんていうか。友達にはなりたくない。でも、なんか応援はしたい。個人的にはそんな感じ。ただ案外、僕にとっては声優アイドルとの距離感として、大正解なのだと感じる。

 

この週末。3/9(土)には埼玉の大宮ソニックシティ大ホールにてツアーファイナルが行われる。コル玉の一員となった僕も勇んで参加したかったものの、会社ゴルフコンペ幹事という不可避かつ無慈悲なバッティング。ぜひ、参加される同志は楽しんでほしい。

 

僕自身、2016年の年末に両国で感じた「これは・・・何かがヤバい・・・」その感情を少しずつでもまた拡散出来たらとの思いでこのような文章を書いてしまった次第である。末席が何を言ったところで片腹痛いかもしれないが、それ以上に上坂すみれの現場は面白い。この事実だけはやはり当ブログでも残しておくべきだろう。

 

2.10神奈川大会において「団結、生産、反抑圧」のスローガン斉唱すら一瞬忘れかけた上坂すみれ代表。この4月には、あの清竜人作曲の新タイトル10thシングル『ボン♡キュッ♡ボンは彼のモノ♡』を引っ提げてくる。今年度もますます楽しみである。

 

若者の同人離れと「自惚れ」についての考察

「若い人が同人製作に新規参入しにくい。」

 

この手の話は頷くところが多い。最近、この類のツイートやら発言をよくネットで見るようになった気がする。昨日もこんなツイートが流れてきた。

コミケも毎年多くの参加者を抱え、せっかくイベントとしての規模も大きくなっている中、そこを担う若手の作り手が減る傾向にあるとのこと。中堅30代不足にあえぐ弊社か。とツッコミを入れたくなるが、その要因、あるいはその先を考えるため、回想がてら自分が同人に足を踏み入れたころを思い出してみたくなった。

 

・覇権は『月姫Fate』『ひぐらし』『東方』

なんとなく言いたいこと、バレてる気がする。2000年代初頭から中盤にかけて、同人コンテンツでも筆頭を誇っていたこの御三家。同人界にこれら作品が登場した瞬間を知っている人なら、その熱量は理解いただけるだろう。そう、圧倒的な世界観、音楽、そしてテキスト量。いずれもモンスター級の作品だ。

 

ただ。敢えて誤解を恐れず言えば、それぞれ絵を見てると「あれ?俺も描けるんじゃ」当時そう思った御仁は少なくないはずである・・・はずである。先生、怒らないから正直に手を挙げなさい。

 

・・・はい。僕はそう思いました。ということで、なんだお前が性格悪いだけじゃんみたいな話になりそうだけど、続けてみよう。当時『月姫読本』やら『東方求聞史紀』(まだ目の前にあるけど)など資料を買い漁って延々模写を繰り返し、何とか本家並みに可愛い、そして評価を得られるキレイな絵を描きたいとの熱意に燃えた。マール社教則本もなけなしの金で何冊買ったことだろう・・・

 

そんなある日、スケッチブックに気合をいれてコピックで色まで付けて、一枚を描き上げる。そして思うのだ「あれ?俺、めっちゃ上手く描けてるのでは」そう思ってしまった、すくみづ少年は翌日学校でクラスのオタク数人に型月ヒロイン大集合みたいな絵を見せて回り、お互いに描いた絵を講評し合う。それによって悦に入ったり、ひいては「俺もいつか同人誌出すんだ」などと興奮気味に、すみません、もうこれ以上思い出すのやめていいですか。ちょっと吐きそう。

 

漆黒史なので以降は割愛するけども、如何せんすんごい己惚れてたって話。いやぁ、10代って恐ろしいよね。(今見るとほんとひどい)

 

ただ、その時に感じる「俺、すごくない?」「自分もしかして天才では?」みたいな、アレ。正直言えば、未だに評論同人などの企画考えているときに沸いてきたりする。そして、案外そんな思い違いがモチベーションになってくれたりする。(当然、しっぺ返しもあるんだけど)要は「自分ってすげえかも。」この勘違いを抱くことが、いま難しいのでは。という話だ。

 

・客観視スキルという「脆弱性

昨今の若者の同人製作離れ。僕個人としては、上で引用したツイートの「印刷代等の高騰」は一理あれども、直接的な要因ではないように思う。確かに値上げは各所で認められるものの「参入」という部分を考えれば、昔より少部数印刷は安価に済む。

 

直接的な要因はやはり「レベルの向上」だろう。ここ10年ほど、同人ショップに並ぶ同人誌の表紙も明らかにその質が上がっている。ネットでもCG定点観測の小さいアイコンカチカチしてた時期と比べると、今のタイムラインに流れてくるイラストの質は恐ろしい。

 

それでは、この「レベルの向上」これは一体何なのだろうか。

 

よく言われることだが、インターネットにおける資料の大量散布、そしてハイレベルなイラスト、アイデアの共有によるものと思われる。ネット上のアーカイブも一気に充実、情報も具体的な素材も手に入る。これがインフラ化した結果、今のような「ハイレベル」な絵師の増産に繋がったのでは。

 

ただ、今回の主題は書き手の話でない。同人の参入ハードルの問題、つまり受け手の話だ。新しく絵を描きだそうと思っても「TLの絵師のレベルの高さに萎縮するんじゃ」というのはよく見る意見だが、より本質的なことを言えば、むしろ読み手、受け手の「目が良くなっている」のではないだろうか。

 

日常生活においてスマホを持ったことにより、常に「完成された画像」を眺めている時間が増えた。これは二次元絵に限らない。例えばインスタでセンスのいい構図の写真を延々と1日何時間も眺めているだけでも写真レイアウトに対する感受性は異なるだろう。

 

つまり昨今において「自分の絵」を見て「俺すげーかも」と勘違いできないだけの目の良さを、絵を描きだす前からスキルとして得てしまっているのではないか。そう感じたのだ。

 

・本当の承認欲求を満たす為の「寂しさ」

上記で書いてきた客観視スキル。これは、インターネット時代の副産物として大きなものだ。創作に限った話ではなく、考えれば、SNSとは常に他者から見られる前提で振る舞い、そして共有をするツールだ。

 

インターネットの拡充した現代は、自分の行為を客観することに非常に長けた時代と言える。逆に、客観性を失った投稿や発言は、程度の差にもよるが炎上を招くケースすらある。

 

話を創作に戻す。つまるところ「こんな絵で、誰からも評価を得られない」などこの手の発想に行きつきやすいのが、このソーシャルネットな時代の特徴であり、ひいては同人参入や創作への意欲低減を招いている根源なのでは、と妄想気味に分析してみた。はっきり言えば僕もこうした被害妄想を抱えている。それでも、ここに。また同人誌に、文章を書き続けていたりする。

 

 

最後に僕なりの考えで終わろう。自分を客観視するというのは、他者からの承認を求めたいという願望の一端でもある。簡単に言えば、人からバカと思われたくない、とか、すげーと思われたいって話。では手軽にその願望を叶えるにはどうすればいいか。

 

例えば、動画でもスクショでも撮って、ツイッターでバカを叩けばいい。自分を客観視出来ないようなバカを断罪することで、自分の地位を守ればいいのだ。そうすれば客観的に見て「自分は正しく在れる」それは保証される。ただ、恐らくそこで満たされる感情は、きっと僅かなものだろう。

 

承認欲求には質がある。本当の意味の承認には、孤独が伴う。実際、自分のやっていることに本当に価値があるのか。という問いを自分にしなければならない。その段階で自分を客観する必要はまるでない。やるか否かは、自分の判断だ。その葛藤の末に完成したもの、成し遂げた事に、初めて承認欲求の重みが伴う。

 

当然、その行為や創作が本当に凄いのか、面白いかどうか、というのは客観スキルが必要となるけれども。ただ、今回はその根にある「衝動」のお話。今、何かをする前から、客観する癖が本当につきやすい時代だと思う。ただただ、独りの自分として。バカな事のように思えても、客観を敢えて遮断して、独りになる。己惚れる。

 

自らの意思を見直す時間や隙間を作ってもいいのではないか、という説教臭いお話でした。