わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

「or」と「and」の思考

さわやかな秋晴れの1日となった。それでも、今日も今日とて、根暗ぽい思考が過ってしまったため、滔々と書き始める。本来なら同人原稿も修羅場と化しており、こんなことに興じている場合じゃないのだけれど。もう書き始めてしまったものは仕方ないので、多少なりとも吐き出してしまう。

 

・「or」と「and」

中学時代。英語の勉強というのはなぜ、ああも決まりきった文法や言い回しばかりを覚えさせられたのだろうか。「as soon as possible」とか、今思えば完全に日本人サラリーマンの「はい、最短納期でやらせていただきます。」じゃねえかとか胸糞悪くなる。まぁその他にも、色んな固定英文法を習った。当然、どこかで使うことは使うんだろうけど、正直テストなどで単語の穴埋め問題などを書かされても、まったくもって会話に使うっていうイメージが湧かない。2017年の現在ではもしかしたら、小学校教育でも英語を学んでいるみたいだし、当時よりもっとマシな授業が行われているのかもしれない。

 

それはさておいて。受験勉強のため、僕自身も数々のイディオムを覚えさせれた訳だけれども。個人的に最も頭に残っている英文法表記がある。それがタイトルにもした「命令形+or」と「命令形+and」というヤツだ。前者はネガティブな意味合い「~しなさい、さもなければ」という具合で、後者はポジティブな意味合い「~しなさい、そうすれば」という感じに意味が変わる。

 

僕は当時、この英文法を習いながら英語自体の用法なんかよりも、物事の言い方や、行為の目的観について、改めて考えさせられたのを今でも覚えている。そうか。人が何かをするというのは「嫌な状態を回避するため」なのか「良い状況を作り出すため」の2つに分かれるのだなと。昔、親や先生から言われたような「~しなさい」という言葉を思い返すと、大抵前者の「さもなければ」というニュアンスがしっくりくる。「勉強しなさい、さもないとテストで悪い点とるわよ」とか「真面目に走れ!さもないとグラウンド周回増やすぞ」とか。そりゃ、人を動かすにはリスクを提示した方が行動をとるのにはわかりやすいのかもしれない。

 

そして、僕自身も大人になり。このようなことを振り返ってみると、日々の生活の中で、自分自身を動かす為の自分への説得も「さもなければ」という行動原理が強い気がしている。

 

「社会で真面目に働かないと生活が成り立たない」「早く寝ないと明日辛い朝を迎えることになる」「テンションを維持しないと人から嫌われる」とか。なんていうか、自分の人生で「命令形+and」が出てくる機会ってなかなかないような気がしてきた。

 

・「and」の先が不明瞭だから「or」に逃避する

そりゃあ、ただお前がメンヘラなだけであって、根暗ネガティブだからだろうというツッコミは至極真っ当なものである。確かに、何かを前向きに考えることは苦手な質なのは認めよう。しかしながら、先に例示で挙げた通り。過去に親や出会った先生方も大抵「~しなさい、さもなければ」という文脈を多用していたように思う。詰まるところ、教育だったり指導をする上では「and」よりも「or」のほうが、喫緊の危機を煽るため、直接的に人に伝わりやすいという事だ。

 

逆に「and」を使うと。その先には何かしらのメリットや良い価値観を設定する必要がある。それをいちいち考える事は、はっきり言ってしまうと面倒なのかもしれない。本当に相手が望んでいることや、その当人の性質がわからなければ「and」の先の答えは出てこない。よく知らない相手に対して「~しなさい。」とそれに続くメリットを提示したところで、そのメリットに相手が共感を示さなければ、命令や提案の意味すら失ってしまう。

 

どちらかといえば、それを行わなかったときのリスクの提示の方が、共有しやすい価値観なのだろう。「and」を使わず「or」つまり「さもなければ」という思考伝達方法は、人に何か行動を促す際に、考えるべき相手方のメリットやその先の言葉を考える事を、ある意味でサボタージュした結果とも言えるのではないだろうか。

 

内省になってしまい恐縮なのだけど。自分の生活において「or」ばかりで、そういった「and」という考え方を活用できていないというのは、結局のところ自分が何を求めているのか、自分でもよく分かっていないという結論に行き着く。

 

もっと発想は単純でいいのかもしれない「働けばおいしいものが食える」とか「朝早起きすれば、通勤の電車がちょっと空いている」とか。少しずつ自分にメリットを提示していく。面倒だからとネガティブに自分を動かしていた脳みそに、多少なりとも餌で釣ってみる。それは恐らく思考の癖となるし、自分の行動原理も変わってくるのではないかとふと思った次第だ。

 

・小さく希望を持つ癖をつけること

なんだか自己啓発セミナーの内容みたいな話になってきて、自分でも吐き気がするのだけど、そういう時期なので放っておいてほしい。自分の「and」の先を知ることは、すなわち自分の希望を明確化させることに他ならない。先に挙げた通り、小さなことでもいい。何かをするときにも「これをすれば得られること」を大なり小なり考えていく。そうすると、常々頭の周りを飛び回っていた「さもなければ」という脅しにも似た行動原理を多少なりとも黙らせることが出来る。

 

そして、やはり昨今のネット上などでの発言を見ていると、格差社会もよろしく「自己責任」「自助努力」という言葉が一辺倒な風潮が目に飛び込んでくる。労働環境やら生活苦など。様々な面から特集をする番組や記事を見ては「結局自分の選択次第」とか「普通に仕事すれば真っ当に暮らせるはず」とか。それもまた一理あるのだろうけど、そんなこと言ってると、世の中の行動原理がほぼ「or」で埋め尽くされてしまう気がして窮屈になるような感じがした。

 

真面目に生活をすることが悪いとは言っていない。ただ、その発想が「そうしなければ、社会の底辺に落ちる」とか「自己責任を果たせない人間に落ちぶれる」とかある種の脅迫じみたところからスタートしていると、まぁ社会も暗くなる。個人なら精神衛生上とても宜しくない状況に陥ったりする。簡単に言えば、人生減点方式みたいな。何かをなさなければ、どんどん負け組になる。僕は単純にそうした図式が嫌いで仕方ないし、ついついそういう発想になってきている自分がふと露わになった気がして、こんな文章を書いてしまっている。

 

周囲でツライひととか見たときに。「ほれ見ろ」じゃなしに、そこから「and」を提示できるようなそんな大人でありたいなと。自分に対してもそんなことを思った夜でした。

 

英文法の話からだいぶ飛躍はしたけれど、もうすぐいよいよアラサーも佳境の29歳を迎える身として。そろそろ、大人としてちゃんとしなければ、と思うと同時に。自分が何を得たいのか。その得られるもののために、ちょっとずつでも行動することが出来ればなと一人反省をしながら、今日はこの辺で。

 

企業の不祥事に抱く「安心感」

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日本企業の不祥事やらが相次いでいる。昨今賑わっているのは神戸製鋼のデータ改ざん問題。その少し前には日産の無資格検査問題、新国立競技場建設社員やNHK職員の過労死、時間を少し前に戻せばタカタのエアバッグリコール、東芝の会計不祥事、電通の社員過労死・・・

 

僕らはそれらを見たときに、どんな感情を抱くだろうか。モノづくり大国の洛陽、日本企業の失墜、栄華を誇った経済大国の成れの果て。各紙面には様々な見出しが躍る。またネット記事などには、そうした不祥事行為は職場の意思伝達不全が原因にあるのではと、管理職同士あるいは若手層とのコミュニケーションの問題をハウツー的に取り上げるメディアもある。

 

しかしながら、僕は、もしかすると同世代、更に同世代より少し上の人たちは。数々の企業不祥事事案から、不謹慎ながらどことなく「安心感」をそこに見出している気がする。そんな感情を、自分の中に見つけ出しこんな文章を書きだしてしまったというわけである。雨が降りやまない。そんなときに、薄暗い考え事を漏らしていく。

 

・「消費者を裏切る」前に、何を根拠に信頼をしていたのか

前々からも書いている事ではあるが、昭和から平成への移行期。その時代に生まれた世代は、青春期がまさに「失われた20年」にピッタリとマッチする世代だ。2000年代初期のITバブルや、まさに今「いざなぎ景気」を超えるという景気回復を実感として得ている層はごくわずかではないのだろうか。80~90年代にあったと言われるバブル経済という存在すら都市伝説のような気がして、そのうっすらとした残り香だけを感じながら幼少を過ごした世代である。

 

 

そのような目線から、昨今の企業における不祥事はどう見えるのか。正直に言ってしまえばごく「自然」なことのように思えてしまう。よくニュースなどで聞く、当該企業に対する「遺憾」というコメントだったり「消費者を裏切る行為」という批判は、確かにその通りなのかもしれない。だけれども、消費者だって労働者で、労働者もまた消費者なのだ。

 

まず「消費者を裏切る」という言葉が僕は嫌いだ。そこで働く人たちを突き放した言葉のように聞こえるからである。確かにその企業で不正が行われたかもしれない。ただ、企業という組織体が、社会から隔離された世界にあると信じ込んでいなければ「消費者を裏切る」という言葉は出てこない。「お客様は神様だ」という言葉も、顧客満足を優先するという意味合い以上に「労働や生産と消費は別世界のもの」という認識の植付けに感じる。そうはいっても所詮、企業体など、そこらの人の寄せ集めなのである。

 

 

確かに、消費者として購入する製品に不具合があるというのでは困る。でも、そのそもそも「裏切る」前にあった「製品への信頼」はどこから生じていたものだったのか、という話だ。消費者側の理屈を延々と推し進めていき、需要側が労働者としての自分の在り方を忘ていく。企業はもっと消費者に売る為に、より良い印象を与える為に。その半面、ここまでの品質を要望すれば生産側に無理がかかってくるのでは。この単価でこの製品が買えるということはどこかに負荷がかかっていないか。そんな疑問も湧いてくる筈だ。そこには徐々に、そして確実に、現実と欲望の軋轢が生じてくる。

 

こと好景気の時代においては、そうした疑問はそこまでフォーカスされない。「これから先は確実により良くなる」という希望はその時の不安や不満を感じさせない麻酔になる。この先の報いがあるからこそ、今の苦を乗り越えられる。しかし、好景気という存在自体が怪しい時代において、そういう行動原理は徐々に薄れていく。つまり、希望という麻酔が覚めてきた世代にとって「消費者の為に」という一心不乱さを伴う労働環境は歪なものにしか思えなかったりする。

 

・「不祥事」という本音

社会人ともなれば、基本的には建前同士で話し合い、仕事という共通の基盤の上でコミュニケーションをしながら経済活動を交わしていくものである。それは社内でも取引先であろうと、対消費者であろうと、そう差はない。そうした建前同士の連携から、企業の本音が漏れだす事態がいわゆる「不祥事」である。

 

実際は、こう言っていたけど出来ていませんでした。ここまでのクオリティを保つ為に社員に加重な労働を強いていました。それら暴かれた「本音」は「持続可能な経済成長」という中途半端なお題目しか聴かされていない世代にとって「まぁ、そうだよな」という納得に繋がってしまう。社会に出て働きだした身として、おそらく誰もがうっすらと感じているように、また目の前にしているように、至るところに「本音」と「建前」の軋轢は生じている。

 

川上から、川下から、それら要望は降り続き、また沸き続ける。特に昭和期から、その体面を保ってきた企業は大変である。当時の大らかな時代風土が社内に残っている反面、世の中は非常にデリケートなデータを扱うようになった。更に、周囲からの目線も当然「老舗」という厳しいレッテルが付く。時代が変わった中でも、成長期と同等に企業活動を続ける為には、確実に何か新しい事を組み込まなければならない局面が今という時代なのだ。

 

不祥事がこのように続くという事から、各種のメディアでも取り上げている通り企業単体の問題というより、社会風土の問題としても捉えることが出来る。そして、その社会全体に張り巡らされた建前で作られたガラスには、徐々にヒビが入り始めている。そしてこれから。いま以上に、各企業において様々な事が明るみになるのではないかと。いや、そもそも働いている人は、最早そのヒビの存在に気づいていることなのだろう。

 

・企業に人がいるという「安心感」を

僕はこの不祥事が続発する事態に対して「安心感」という印象を受けた。理由は上で述べてきたとおりである。「カスタマーファースト」という建前が色んな角度からたわみ始めていると、多くの人が気づいているか、そもそも実感しているのかもしれない。現に運送業のヤマトHDでは、残業未払い代を計上、後に値上げに踏み切ったという流れは不祥事ではなく前向きな事として捉えられている。企業は、そろそろ本音で商売すべき時代になってきているのだと感じる。

 

前に、amazonの当日配達サービスに対して「そこまでする必要はある?」と記事にしたことがあった。昨今の事情を鑑みれば「先進的」という言葉は「人間の欲求をどこまででもかなえてくれる」という意味合いではないと気づくはずだ。企業であるからには世間における心象は良くしたい。これまでは、サービスを提供することでそれを叶えた。しかし、今後その心象維持を実現するのは、今の企業における現状をつまびらかにする、その姿勢にあるのではないだろうか。

 

ある種、ツイッターのシャープ公式アカウントがここまでの支持を得ているというのはその在り方なのだろう。会社自体が苦境に喘いでいることは周知のとおりである。その中でも、身内ネタを織り交ぜながら企業に「人がいる」事をアピールすることは無駄ではないはずである。

 

あくまでも、労働者は消費者であり、消費者はまた労働者である。そして、労働者も消費者も人である。これまで企業に力のあった時代は、法人という牙城のような存在の中に、人がいることの想像力が失われていたといえる。むしろ経済成長著しい時期においては「労働」が価値に、成長に繋がるという確信があったから、それでも差し支えなかったはずだ。

 

しかし、昨今は結婚しても共働きが普通となり男も女も結局、企業の中にいる事となる。常に働く立場である人が増え続けるという事である。だからこそ、これまで以上に企業は人らしく。そして、一個人も企業に対する妄信や過信を改める時期に差し掛かっているのではないかと。消費者を綺麗なだけの建前で取り合う前に、お互いが本音で商売し合うべきなのではないかと。

 

そんな野暮なことを一人滔々と考えてしまった。

 

僕とアニラジとコミケ~アニゲマスター復活を受けて~

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画像元:文化放送HP下記特番ページより 

 

突然、サブカルクソオタクみたいなテーマで記事を書き始めたわけだけど。こんな事があったら、ちょっと僕も黙ってはいられないわけです。はい。

 

www.agqr.jp

 

放送開始から20年という時を経て、文化放送の土曜21~23時というゴールデンタイムを作った『超機動放送アニゲマスター』が1時間特番として復活!11月3日文化の日に放送決定とのこと。ファンとして嬉しいのは勿論だが、いやぁ、なんて懐が深いんだ文化放送

 

この『アニゲマスター』は僕自身も中学生時代に毎週欠かさず聞いていた番組の一つで、数あるアニラジの中でも「オタク総合スレ」的な存在だったような印象だ。つまり「特定の声優ファンだから聞く番組」というよりは、今アニメゲームの界隈ではどのような事が起こっているのか、どんな新作アニメが面白そうかなどなどを語る、オタクのオタクによるオタクの為の番組。先にも例えたが、色んな意見を集約してくれるオタ向けの掲示板という感じを受けていた。

 

まだまだネット民の少なかった2000年代初頭。改めて思うと、その存在のありがたさと、番組が果たしていた役割についつい感じ入ってしまう。今回はそんな番組復活を契機に、自分のラジオにまつわる思い出についてちょっと振り返ってみようと思った。

 

・オタクはやっぱしラジオから

反感買うかもしれないんだけど、僕はこういわざるを得ない。いまさら声を大にして言うことでもないが、90年代から今に至るまで「オタク」と「ラジオ」が切っても切れない関係なのは間違いない。最近では「声優もメディア露出してなんぼ」という世界になってきたが、当時なかなかその御顔を謁見できる機会も少なかった。毎年1度『声優グランプリ』の付録としてついてくる声優名鑑を眺めては「あ、こういう人なのか・・・」「この人、所属事務所が去年と違う・・・」など、なんとも言えぬ感慨を覚えていたのも懐かしい。

 

そういう奥ゆかしい世界だからこそ、当時ラジオ番組は僕らオタクと声優さんを気軽に繋いでくれるほぼ唯一の存在だったわけである。僕自身もオタクの道に堕ちたのはラジオが原因だった。何度か書いていることではあるが、オタの道を歩み始めたのは中学生の頃。そもそも小さい頃からマセていて「アニメなんてダサい」と、そういう文化を蔑んでいた。

 

僕の転機は中学時代の野球部。都内でも上位に入る強豪チームだったので、結構同級生といえどチーム内には張り合いがあった。勉強でも野球でも周囲に負けるものか。そう思っていた中、特に鼻につくチームメイトがいた。なにをやっても僕より少し上をいく。しかも、性格も尖っていて常に上から目線ときた。こいつにだけは・・・と初年度から負けず嫌いを全開にしていたそんな折、そいつから突如こんなことを聞かれる。

 

「お前、声優ラジオとか聞かないのか?」

 

と言われ思わず「は?そんなん聞いてねえけど」と返す。

すると彼は「なんだよ、ダセえな」と一言。

 

完全にキレて、負けず嫌いのベクトルを見失った僕はその日からニッポン放送文化放送でやっていた声優が出そうなラジオ全てを聞く決意をした。ちょうどニッポン放送では平日の21時から『東京キャラクターショーRadio』が始まった頃だった。吉田尚記アナがメインパーソナリティを務め、アシスタントを日替わりで声優が務める情報帯番組だ。

 

また、偶然その週はレーティングで『西川貴教のANNスーパー』に林原めぐみ石田彰池田秀一というスゲー面子がゲストに来ていて、圧倒されたのを覚えている。(そこから結局『西川貴教のANN』とも長い付き合いになる)

 

また文化放送に移り、例のチームメイトから「『ノン子とのび太のアニメスクランブル』は基本中の基本だから」と言われていたので、金曜深夜眠い目をこすって、結局『でじこさん』までを走破。そして『堀江由衣の天使のたまご』を始め、多くの沼に足を取られながらも、アニラジゴールデン帯である土日夜のアニメラジオをあらかた制覇した。

 

翌週には詰め込んだ知識を早速ぶつけた。「おい、声優の名前で山手線ゲームやるぞ」そう言って、こちらから仕掛けたが、結局彼に僕は負けた。やはり付け焼刃では勝てなかったのだ。オタクってすげえな。愛があるんだな。そんな感慨を抱いたが最後。中学時代は大抵、野球の練習がない日はそいつの家でギャルゲをやっていた気がする。

 

また、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった電撃レーベルの10周年祭が幕張メッセで開催された時があった。イベントを記念して、昼から文化放送で特番をやっていたのだが、丁度野球の大会の開会式と被ってしまい。ただ、諦めきれなかった僕らは二人で、ユニフォームのハイネックの内側からイヤホンを通して、式中ずっと携帯ラジオから流れる田中理恵の御声を聞いていたこともあった。今考えれば、完全にバカである。

 

・「コミュニケーション」が面白い媒体として

以上見てきた通り、僕はラジオからオタクに堕ちた身である。その過程を振り返ってみて、数々のラジオ番組を通じ、僕が一貫して惹きつけられていたのは「コミュニケーション」そのものの面白さだった。目から入る情報がない分、やはりその意味や言葉尻に意識が向く。言葉ひとつ、間合いひとつ。そこで繰り広げられる対話や会話、あるいは一人喋りでも。そうした言葉のキャッチボールって、やってる当事者だけでなく、聴いている側でも楽しむ事ができるんだと学んだ。

 

僕は今、同人誌においてテーマに沿った対談などを基調としたシリーズを数年間続けている。当然、雑誌のような出版物が好きということもあるのだけど、その根底にはラジオから学んだ「コミュニケーションそのもの」の面白さを未だに信じているのだと思う。

 

ラジオでのMCや出演者をパーソナリティと呼ぶが、それは映像表現以上に「喋る」という行為が、個そのものを表出させるからなのかもしれない。僕自身も、そうした個を抽出出来るような、ラジオ的な媒体を作りたいと常々思っていた。

 

そんな折。もう2年前の話となってしまったが、冒頭掲げた『超機動放送アニゲマスター』のパーソナリティ、おたっきぃ佐々木氏と同人誌で対談企画を持たせて頂いた。その時のテーマは「今、オタクであること。」昨今のオタク文化が容認されやすい風潮や、過去と今の対比、そしてオタクとはどうあるべきなのか。各界から5人の強そうなオタクを呼んで話し合ったという過去シリーズで最も熱く、厚い、薄い本だった。

(※まだイベント等にて頒布中です)

 

おたささ氏はこんな当時一介のリスナーだっただけの若輩者にも、バカみたいに語ってくれた。いや、正直バカだと思った。収録は7時間超え。なんだかんだ終電も逃して、結局使えた内容は3時間分ほど。でも、そのオタクとしての熱量は間違いなく確かなものだったし、そしてやはりその「コミュニケーション」は、きっと傍から聴いていても面白いものだと。レコーダーから流れる、延々終わらない自家製ラジオを文字に起こしながら、そう思った。

 

そんな企画をやり遂げたご褒美だったのか。その同人誌を頒布した夏コミでは、おたささ氏本人がサークルまで遊びに来てくれ、その向かいでは『オタク落語』の音源を頒布していたサークルになんと吉田尚記アナの姿が。そちらにもすっ飛んでサイン貰いにいった訳だが、僕のオタクとしての原点であるパーソナリティ二人がコミケなんかで一遍に合い見えた訳である。結構、今思っても個人的には感動のシーンだった。

 

なんつーか、時代が過ぎ、ネットが発達して映像技術が格段に進歩しても、結局心に残ったラジオスターは殺しきれないもんなんだなとか、よく分からない感動から、年甲斐もなくちょっと泣きそうになったのを記憶している。オタクも片意地張って続けてみるもんである。

 

以上、単に自分のラジオにまつわる過去振り返り記事となってしまった。

 

正直言って、最近はあまり日常的にラジオを聴かなくなってしまっていた。何かめぼしい番組があればという具合ではあるものの、やはりラジオっ子の血は死んでいないらしく。今回この『超機動放送アニゲマスター』の復活の報を聞き、僕自身も非常に嬉しかったし、またTL上で盛り上がっている人らを見て。なんだか柄にもなく、純粋に喜んでしまった。ただただ、同じ頃に同じラジオを聴いてた人がこんだけいるんだなと。

 

もう少し下の世代から「ただの懐古厨のおっさんらじゃねえか」と言われれば、何も言えない。その通りなのだ。

 

でも、多分きっと今の2017年の空気とも違う何かを、この番組は聴かせてくれるのではとついつい期待してしまう。コミュニケーションそのものの面白さが、本物のオタク自身が作る番組の面白さがそこにはあると。いち文化放送のA&Gファンとして11月3日の放送を、心から楽しみに待とうと思う。

 

 

人は胃カメラ検査で性的に興奮できるのか

人が大人になる過程には、さまざまな禊(みそぎ)がある。何かしらの儀式と呼んでもいいだろう。例えば、セックスをし、童貞を捨てること。あるいは酒を飲むこと。社会人として働きだすこと。まぁ、つまるところ何でもいいのだけど、今日。僕は胃カメラを初めて飲んだ。きっとそれも、大人への儀式の一つなのだ。今日はそんな大したことない話題から、結局下ネタや特殊性癖に繋がっていく話をしたい。

 

 

前々から胃の調子が少し悪かった。どうも食べたものをうまく消化できない。なんだか量も食べられなくなった。翌日に酒がやけに残る。とにかく朝起きたら胃がもたれている。徐々に身体もアラウンドサーティ仕様になってきたということか。まぁ、これも摂理。生きてる上では仕方なしと思いしばらく放置していたものの、ちょっと無視できないレベルになってきて。胃薬あたりでごまかしてはいたのだけど、昨年母親も胃がんをやっていたこともあり、もうまどろっこしいので胃カメラを飲んで検査してもらうことにした。

 

これまで胃カメラ検査などしたことがない僕にとっては、ある種の大英断だった。なんだか周囲の諸先輩方の話を聞く限り「飲み込む瞬間がキツかった」「顔面から出る汁が全部でた」「ずっとお腹に何かいる感じがする」「いやな膨張感がしばらく残る」など、さながらシガニーウィーバー的状況を思わせる感想ばかりが出そろう。ただ、一部からは光明が。どうも「鼻から入れればマシ」という声も聞こえてきた。どうやら同じ胃カメラにしても「鼻から入れる細いタイプの胃カメラ」があることを知り、真剣にそちらであることを祈った。

 

そんな大人の階段を昇る直前の昨晩。21時から水を除く飲食を禁じられた中で徐々に緊張が高まる。不安を紛らわす為にも「明日、胃カメラ童貞を捨てる」と一言ツイートをしてみる。きっとそれを見たみんなは「どうしたの?」「体調でも崩したの?」「ストレス溜まってるんじゃない?」と心配してくれるだろう。と、僅かながらに期待した僕がバカだった。

 

「ついに食道オナニーという新しい性癖へ」

「触手責めに遭うという夢が叶いますね」

「凌辱されるヒロインみたいな気持ちで頑張ってください」

「直腸カメラじゃなくて残念ですね」

 

アホか。俺を何だと思ってるんだと。催眠音声ばかり聞いて現実的な感受性を完全に失ってしまった変態オタクとでも思っているのだろうか。文面にしてみたらほぼ正解なので黙るほかなくなった。結局、待てど暮らせど体調に関する心配リプライはゼロ。病院に胃カメラジャンルという新しい性癖を開きに行くというネタリプライばかりが集まり、なんだか今まで僕はどんな人生を送ってきてしまったのだろうと自分でも後悔し始める。

 

しかし。みんなの言う通り。胃カメラ検査を目の前に、自分の人生を後悔ばかりしていても仕方ない。もしかしたら、フォロワーさんたちの指摘はあながち間違っていないのかもしれない。新たな性の目覚めというか。最近、30前後となりマンネリ化してきた昨今の自慰事情において、新しい角度からの興奮を得られるかも、という一抹の期待感を持って病院に乗り込んだほうが建設的なのではないかと。今思えば、ほぼ錯乱していたのだろう。自分でもちょっと建設的の意味がまったくわからなくなりつつも、色んな意味でドキドキしながら当日を迎えた。

 

明朝。早速病院へ。しばらく待たされたのち、診察室に入る。いや、まだ口からの胃カメラと決まったわけじゃない。案外、検査としてはアッサリと終了するのかもしれない。先生を前にして、まるでクラス分け帽子をかぶらされたハリーポッターが「グリフィンドールがいい、グリフィンドールがいい」と呟くが如く「鼻からがいい、鼻からがいい、鼻からの細いヤツがいい」と内心で連呼する。

 

そんな僕に向かって「歯ブラシで歯を磨くときは、えずく方ですか?」と質問する先生。

 

この瞬間、シガニーウィーバーが確定。淡い期待感も砕かれ「あ、ええ・・・まぁ、そんなには。」と冷静に答える他なかった。ここからはもう開き直るしかない。オークに捕まった女騎士を自分に投影しながら、触手に凌辱される事を想像。エロ異世界的固有結界を脳内で作りだし、この状況下を楽しむしかない。まずは喉元を麻酔で麻痺させ、感覚を鈍化させる。そうしたら、ベッドに横向けになり、いよいよ管を飲み込む。結構太い・・・え、こんなものが身体に入っちゃうなんて・・・くっいっそ殺せ・・・ここまではいい展開。なんだか気持ちも昂ってきた。え、本当に興奮できちゃうんじゃないの?ちょっと舞い上がりながら、少し胸の鼓動を感じる。これは・・・そう思いつつ先生の「はい、じゃあうどん飲む感じでー」の声に従う。

 

まぁ、結果、ただただ本当にキツかったよね。性的興奮?するかボケ。という感じ。

 

もう、諸先輩の意見が正しかった。結局、僕はその時ただのシガニーウィーバーでしかなかった。顔から色んな汁出るわ、検査終わってもお腹の中になんかいた感じ残るわ、異世界は異世界だけど、確かに『エイリアン』の世界観だったわ。エロ女騎士なんて微塵も感じさせない苦痛だった。なんだか、今まで体験したことないタイプの仕打ちをうけたもんだから、なんだか少し大人になれた気がした。ちょっと苦めのコーヒーが昨日よりも美味しく感じた。

 

 

ただ、今回の胃カメラ検査の経験を終えてみて感じたこととして。僕は正直無理だったけど、この検査に性的興奮を覚える人は確実にいる。そんな確信が芽生えた。なんていうか、口からあんな管を通されるっていうこと自体に、凌辱感的な何かを得る人もきっといる気がする。僕が必死に思い込もうとしていたエロ妄想を、胃カメラ検査で実際にやってのけちゃう「達人」はきっとこの世の中にもいるんだろうなと思うと、世界がもっと広く感じた。

 

個人的に色んな友人がいる手前、様々なことに性癖を抱く人を見てきた。先日は、某フェミ系弁護士さんが「真空パックプレイなんて気持ち悪い!」と散々宣っていたけど、まぁ、結構いるんだよ。うん。

 

こんな僕でも過去に「え?それは・・・どこに興奮するの・・・?」って思う事も沢山聞いたし、見てきた。実際、自分の性癖をまともな友人に話すと「それはそもそもAVなの?」って聞かれたことも思い出した。結局、胃カメラ飲んだことよりも、それを興奮の材料にする人を想像して関心してしまっている。という次第である。

 

ちなみに胃の検査の結果は異常なし。但し、人より胃酸が多かったり、腸への出口が狭かったりと、胃がもたれやすい体質らしく、もう30近いんだからお酒も飯も摂生しなさいと怒られた。確かに食べ物には気を付けようと思う。油ものはダメだ。2~3日調子が悪くなる。

 

とか、ダラダラ書いてきて、何が言いたいのかいまいち分からないんだけど、少なくとも僕は胃カメラで興奮するタイプの人間ではなかったようです。そのご報告とともに、そういう人がいたら、面白そうなので同人誌で取材でもしてみたいなぁと思いました。

 

あなたが10秒黙れば世界はだいぶマシになる

今日はできるだけ短めに。ふと最近思っているネットでの発言だったり、そういうことについて愚痴まじりに。

 

ネット上において、多少なりともSNSを活用する人なら理解できるかと思うが、自分の発言を読む人に対して、その短い内容から「本意」や「文脈」を伝えるというのは案外骨が折れる仕事である。ある事象を皮肉っぽくいってみたところで、その真意が伝わるのは恐らく読む人の6~7割がいいところ。その発言が広範囲に広まってしまったのならば、残りの3割ほどの方々から非常に面倒なコメントを招く結果となる。

 

自分の発言の真意は、その批判してきている人と同じこと言ってるはずなのに、なんか、めっちゃ怒られてる。え、これどう弁解すればいいの。しかも、すげー権幕。話聞いてくれなさそう。なんていうか、文章の内容とか以前に、もうマウント取ることしか考えてないよね、この人。みたいな。そんな人災は各所で頻発している。彼らを心の中で「マウント族」と個人的に呼んでいるのだけど、とかく議論に勝ちたい人って古くはBBSや2ちゃんの頃からネットには跋扈していた。しかし、SNSがこれまでにないほど拡充した昨今では、その「マウント族」の数は圧倒的に飛躍し「炎上」という手法を持って、厄介な勢力となり始めている。彼らはどのように発生し、そしてどう対処したらいいのだろうか。

 

・便所スマホ文化

少し話題がそれるが、先日NHKのニュースでO-157が流行しているという話題に触れていた。暑い日が続くし、手洗いを励行するなどして食中毒には注意せねばならない。そこで思わぬ落とし穴があるとのこと。それはトイレでスマホを弄る行為だというのだ。要は、事をなしている間にスマホを触る。その後、手をしっかり洗っても、トイレ内でスマホを触ったことによって雑菌がスマホに残っているという。

 

なるほど。確かに言われてみれば。いや、その前に便所でスマホを触るのってやっぱしそんなにスタンダードな行為だったんだなと気づかされる。確かに小生も仕事が嫌になると会社のトイレにこもってスマホを弄る。エロ記事を読みそうになり、ちょっと頭の中で天使と悪魔が葛藤する。でも、みんなきっとそうなんだな・・・とか思うとこの国やっぱし病んでる気がしてくる。

 

そんなことはどうでもよくて、詰まるところスマホで文章を読む、SNSの発言を見るというのはそのくらいの時間内で行われる行為だということだ。トイレで用を為している間、待ち合わせの時間、電車のちょっとした移動、時々によるだろうが長くて5分、短くて1分くらいがスマホの文章と向かいあう時間だということだ。

 

そうなると、文章から得られる情報は嫌でも断片的になる。ニュース全体の意味合いから単語のみをピックアップし、そこから大まかな意訳を得たりする。それはそれで人間の素晴らしい特技なんだけど、大抵そういうことをすると情報を見誤る。お前ら、マスコミに対して「全文でなしに、一部を抜粋して意味合いを変えているじゃねえか、何が報〇ステーションだ!!偏向ステーションじゃねえか」と憤っているあれを、自ら遂行しているのだ。なんつーか、人間だもの。みたいな事案なのだけど、自分を棚に上げすぎだし、ブーメランが側頭部刺さって、血まみれですけどみたいな人って往々にしてツイッターで見かけたりする。

 

先日の真木よう子氏のCF事案の時も、なぜあそこまでの炎上事案につながったのかという話題が盛り上がった。その中でも、特にコミケという特異な文化や、それを支えてきたオタクの自意識、その点を見過ごした真木よう子企画サイドの失点など、懇切丁寧に解説してくれていた記事があった。「これは熱があるな・・・」と感心して読み進めていたところ、ラストのコメント欄に愕然とした。「長すぎる」「三行でまとめてほしい」「読む気が失せる」

 

こいつら、もう誰が悪いかとか、馬鹿だとか。一瞬でそういうのが欲しいだけなんだなと感じた。自分でも叩ける材料が欲しいだけ。わずか30秒足らずで得た情報で、マウントがとりたい。強気になりたい。そういう状況が昨今のネットのヤバさだと痛感する。

 

・とりあえずお前ら10秒黙ってろ

そこで提案したい。とりあえず「10秒黙れルール」。とかく何か記事を読む、画像を見る。そうした時に自分の感情をそのまま文章にたたきつけるのでなしに、10秒黙るのだ。例えばネトウヨの煽り記事があったとする。中国人や韓国人をあからさまにdisる記事を見た。なるほど、チュンチョンクソじゃねえかと2秒で食いつかない。ソースはどこ。いつの発言。この人の普段の発言の傾向はどういうったものか。もう何年も前から言われてるネットにおけるリテラシーの基本のきである。

 

ただ、ソースをわざわざ探すというのも骨が折れる。だからこそ、10秒黙れ。なのだ。心をいったんフラットに持っていく。なんか煽情的な情報に対して「そうだ!!おかしいじゃねえか!!」と即沸騰しない。拡散もしない。まずこの発言をしている人の本意を伺う。少しだけ我慢をする。僕のこの発言でさえじっくりと吟味をする。その上でなら「クソじゃねえか」と思ってくれて何も問題ない。

 

大抵、本ブログでコメントをくれる人の中でも、やけに叩いてくる人って、ほぼ最後まで読んでない。触れてくる論旨が「起承」で終わってる。もうー、頑張ってそこから転んで、結論だすのに。確かに「前半で読み手をつかめ!」みたいなわかりやすいブロガー講座的発想もわかるけど、グーグルアドセンスに、申請後2分で「不適格」とか言われたブログがそんなこと今更気にしていないのだ。

 

ちょっと話は飛躍するが。先日、雨の中川の側溝に落ちた犬を助ける動画がツイッターでめっちゃ拡散されていた。明らかにマイルドなヤンキーぽい人のアカウントで各所から絶賛の嵐だった。いやぁ、確かに動画を見たけど感動のシーン。コメントも「こんな日本人が増えてほしい」「最近の若者を見直した」ただ、ちょっと待てよと。なんでそもそもカメラ回ってるんだ。めっちゃフォロワー増えてるけど、そこんとこどうなんだ。てかお前ら『こち亀』の「ヤンキーが更生したら手のひら返す世の中おかしいだろ!」って画像大好きなのに、いざ実例見たら賞賛なのかよ。

 

いや、そんなこと疑うとかお前性格絶対歪んでるだろっていう指摘は甘んじて受ける。だけど、ネットはそれほどに善意と承認と下心と悪意やらが交じり合った世界だっていうこと。それは確かだと思っている。誰が何を狙って、何を本意に発言してるか。その判別はとても難しいのだ。

 

・「マウント族」はどこから来て、どこへ行くのか

最後に。何かにつけて攻撃的な事を言ってくるマウント族。自分の琴線に触れるいろんな単語をサーチしては、とりあえず殴る。それをまた電車や町中、家で特段普通の人と同じように無表情で発言していることを想像すると、マジで怖かったりする。

 

そうした彼らの発言やフォロー数、フォロワー数を見ていると、ふと思うことがある。なんていうか、SNSを見る限り失うものがなさそうなのだ。先日ネット記事でも話題になった黒子のバスケ脅迫事件で逮捕された渡邊受刑者の「無敵の人」という言葉が過る。それは、定職もなく、恋人や家族とも疎遠。つまり、犯罪を犯したところで失うものがない。そうした何も社会的なダメージに繋がらない「無敵の人」と日本の社会は向き合わなければならない。というものだった。

 

「マウント族」と彼は、たぶん地続きな気がして仕方がない。本来、名前や素性を出しての誰かへの攻撃はある種のリスクを伴う。当然違う意見の人との関係はこじれる。友人に違う意見の人がいるかもしれない。そういうバランスの中、自制をしながら人は生きていく。しかしながら、ネット弁慶というか、匿名でFF数が少なかったり、もう主義主張が偏りまくりの人しか見てない、ただひたすら文句やヘイトを垂れ流しているアカウントがあったりする。それらは、もうアカウントという隠れ蓑を使って、リスクもなく捨て身の攻撃をするだけの存在である。昨今話題の凍結マンもその一種だろう。

 

こうしたとことん攻撃したい人というのは、一種の病を抱えているように見える。嫉妬や怨嫉、社会全般への不満。SNS自体が自分のうっ憤をまき散らすだけの道具なのだ。それだからこそ、それについつい乗っかってしまう人はちょっと落ち着いてほしい。一旦、そうしたヘイトやアジテーションを見た際に自分のスタンスを見直す。その発言だけでなく、アカウントを覗いてみる。拡散や安易にコメントするのは楽だけれども。ちょっと10秒黙る。そんなことを気にすれば色んな事が多少は変わるんじゃないかなと。

 

インスタントに情報を得て、インスタントに発言する。マスゴミとメディアを批判するあなたのリテラシーはそれでいいの?とついつい思ったりする機会があったので適当まき散らしました。結局、長めになってしまった。涼しいので風邪には気を付けたい。

 

『Wake Up,Girls!』を見て思った「アイドルを愛する」という事について

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Wake Up, Girls! 総合公式サイト|WUG!ポータル より

🄫Green Leaves / Wake Up,Girls!製作委員会

昨日、ようやく『Wake Up,Girls!』を全話見終えたので、その思いを好き勝手語っていく。薦めたいので、ネタバレ少な目でエッセンスだけ書けるよう頑張ります。てかマジでみんな良い娘だからみて。

 

 

僕は正直言えばもともと「アイドル」という仕組み自体が好きではなかったのかもしれない。

 

アイドルになろうという当事者は、承認欲求の権化というか。自分自身が美男美女であることをいいことに、それが自己発露だ社会貢献だといわんばかりの顔でパフォーマンスをする。アイドルを追っかけるファンは、当人たちの裏表も考えず、また例のサッカーサポーターを煽った議員の発言でないが「自分の人生を人の人生に乗っけてる」ような感じを受けてしまう。そしてそれを取り巻く音楽業界も、そうしたアイドル志望の人やファンたちをひとつの道具として捉え、経済の循環を作ろうとするだけの世界。

 

こうして書くと単純に、非モテの陰キャなクソ中二の発想じゃねえかと受け取られるのも理解できる。なんていうんだろう。昔から僕はアイドルという存在をとりまくすべてに、何かこう穿った見方をしていたのは確かだ。自分の周囲のアイドルオタの方々や、またアイドルを扱ったコンテンツにどうしても馴染むことができず、その理由を自分の中で武装していった結果、このような感情を抱くに至ったのではないかと自分の事ながら推論している。

 

しかし、かなり前にそんな感情の一部を知人に漏らすと「それならWUGが好きなんじゃないかな」と言われたことがあった。僕も一介のオタではあるので、コンテンツ開始当初から外装の知識だけはあった。確かavexとヤマカンがコラボして、震災以降の東北復興を念頭に置いて立ち上がった声優アイドルユニット兼アニメ作品『Wake Up,Girls!』。当時の印象は、キャラも地味だし、avexが絡んでいるという時点で引き気味だったのは間違いない。

 

おススメを受けながら、そのまま作品に触れることはなく2年ほどが経った。そんな折、知人から今年のアニメロサマーライブの3日目へ誘っていただき、そこにどうやらWUGが出ると知る。登録していたApple Musicを探すと案の定WUGの楽曲も入っていた。とりあえず、ライブを楽しみたいから。そんな思いで軽く聞き始めることにした。

 

・衝撃の『Beyond the Bottom

久々にアニソンで鳥肌が立った。いや、正直泣いていたと思う。Apple Musicには「初めてのWUG」のように各アルバムから、何曲かをピックアップしてくれる機能がある。それを流しながら聞いていると、僕の琴線に触れるどころか、そのまま乗っかってきた曲があった。それがこの『Beyond the Bottom』である。構成からしても確実に単なるアイドル楽曲のそれではなく、メロディ・歌詞ともに美しく、また壮大なアレンジからは「原作を見ろ」という意思がひしひしと曲から感じられる曲である。

 

調べれば、アニメ版『Wake Up,Girls!』の構成はプロローグ的劇場版『七人のアイドル』から始まり、TVアニメシリーズに続く。そして更に前後編の劇場版が挿入され、そこでひとまずの幕を下ろす形となっている。その最後の劇場版後編タイトルこそが『Beyond the Bottom』なのだ。その明らかに「逆境に打ち勝つ」という意味合いのタイトルにも一瞬で惹かれたし、作品のラストを飾るのがこの曲と知り、徐々に「見るしかないのでは」という気持ちになる。

 

しかも、関連楽曲の作曲はすべて音楽集団「MONACA」の田中秀和氏と神前暁氏コンビ。双方『デレステ』や『物語シリーズ』の楽曲を手掛けた天才である。他の楽曲も含めてこれはクオリティに間違いないかも・・・アイドルアニメだからとか、見ない理由が徐々になくなっていった。

 

・『ふたりはプリキュア(無印)』の8話までを想起させる空気感

最初の劇場版『七人のアイドル』を見始めて驚いた。物語は女社長・丹下と社員・松田しかいない仙台の弱小芸能プロダクションが思い付きでアイドルプロデュースを行うというところから始まる。そのオーディションに集まる女の子たちも、全員が「こんな事務所で大丈夫なのか」という疑心暗鬼を抱きながら活動をスタートし、序盤は本当にツライ仕事や営業回りばかりが目に入る。そう、他のアイドル作品になかなか見られないレベルの「ツラさ」がふんだんに盛り込まれているのだ。

 

それでも徐々に共通の目的を共有しながら、夢に向かって打ち解けていくように映る。しかし、本当の意味で彼女たちが打ち解けるのは、かなり先の事だ。TVアニメ版、そして後期劇場版でようやく自分の気持ちを吐露し、邂逅するキャラもいる。その間ずっと視聴者である我々は一抹の不安というか、やきもきした微妙な気分を味わい続けることになる。

 

ここで個人的に『ふたりはプリキュア』8話を思い出したのである。この8話では、初めてお互いが本音をぶつけ合い、それぞれのことを「なぎさ」「ほのか」と下の名前で呼び合う関係になるという神回である。それまでの7話分は、突然伝説の戦士プリキュアになってしまったお互いが、単に逆境を通じて「仲良くなろうとする」ぎこちなさが見て取れる。喧嘩はしない、仲良くしていたい、でも本当の気持ちが分からない。これをモノローグでなしに、空気として描くのは思った以上に骨が折れる仕事である。

 

このWUGという作品の凄さは、それをほぼ全編通してやってしまう。上に書いた通り、それぞれの邂逅までの話が非常に長く、またWUGのメンバーだけでなく、社長の丹下、マネージャーの松田、楽曲提供をするプロデューサーの早坂といった周囲の人間にもこのやり取りが当てはまる。誰が本当に信じられるのか。心の底から相手に期待できるのか。それぞれの本音と建前が浮き沈みする状況下において、当然人間関係も交錯する。そして、それら一つ一つの壁を乗り越えるWUGのメンバー達の描写にはどうしたって心を引き付けられてしまう。

 

・大人の世界の「アイドル」を愛するという事

そして、この作品において注目すべきはファンの「大田」の存在である。本作を知らなくてもこの画像で知っているという人は多いことだろう。

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TVアニメシリーズ『Wake Up,Girls!』12話『この一瞬に悔いなし』より

 

アイドルアニメにおいて、ファンを描くというのはなかなかに難しい手法だと思う。作中ドルオタを描きづらい理由は、エロゲに明確な主人公を登場させないのと同じ理由だ。だって、それは視聴者にとって鏡になってしまうから。例えばエロゲで自己投影するべき主人公が、イケメンすぎたら「いや俺そこまでイケメンじゃないし」となり、またキモオタなら冷静に自分を見返してしまうというリスクを孕んでいる。

 

それでもキモオタ然とした大田は本作の中で、WUGを愛し続け、応援を続ける。元スターの島田真夢を擁するという事で掲示板で叩かれまくるWUGに期待の目を持ち続ける。そして、私設ファンクラブを立ち上げたり、最後まで応援を続ける。この作品の大田の姿から、われわれは一体どんな感情を得るのだろうか。

 

僕らは本作でWUGというアイドルグループを俯瞰的な目線で見ることになる。どれだけツライ仕事があった。内部でのいざこざがあった。それらを嫌でも見させられる。それはあくまで憶測だが、大田もそのくらいのことは分かっている、と思えてくるのだ。スキャンダルで叩かれる、嫌な仕事をさせられる、楽曲に恵まれない、内部紛争だってある。それでもファンは、その語源「ファナティック」の名の通り、そのアイドルという存在の性善を信じ続ける。ツライ世界を生き残る彼女たちを信じること。彼から「人はなぜアイドルを愛するのか」という教科書をまざまざと見せつけられる気分になった。

 

冒頭に掲げた通り、僕はアイドルという仕組み自体を信じられていない。単純に発想がガキで人間不信という話なのかもしれない。しかしながら、本作で見た光景はその「信じられない汚れた大人の世界」というとエッセンスをしっかりと残しておいて、それを乗り越えるアイドルたち、そしてそれを信じられるファンという、僕が正直欲しがっていた感情すべてが『Wake Up,Girls!』には詰まっていたのである。

 

アイドルなんてものは、浮き沈みのある稼業だ。当然本人たちの年齢もあるだろうし、世の中の流行なんて一瞬ですげ変わる儚いものである。しかしながら逆にファンの一念とアイドル達の必死さで、その世の中を変えることもできるのだ。我々の世代での女性アイドルで言えば、モー娘。AKB、パフューム、ももクロ、でんぱ組などなど。それぞれのグループの歴史を垣間見ると、それは「大人の世界」で本人たちとファン達が足掻き続けた物語そのものだろう。

 

一歩引いて二次元のアイドルコンテンツも同様だ。今や最大手である『アイドルマスター』は当時窮地のナムコがアーケード筐体としてある種の博打に出たと言われた作品だ。ポリゴンかつCG技術が未発達の頃から、それらキャラクターを愛し続け、作品自体にこだわり続ける人がいたからこその現在の地位であるし、また『ラブライブ!』も同様に『電撃g's magazine』の誌面企画として打ち出された当時は「アイマスのパクリ」「キャラがパッとしない」などと言われ続け、一向に芽の出る気配すらなかったコンテンツだった。

 

僕らが愛好する、という事は信じることだ。どれだけ利権が動いていようと、汚い発想が渦巻いていようと。それを乗り越えられると、ファンは応援し、そしてそれを受けてアイドルは乗り越える。これまで僕がぼんやりドルオタに対して感じていた「裏のある世界に対して何盲目的に愛を抱いてるんだ」という揶揄すら乗り越える「汚い世界すら乗り越えるエネルギーを信じること」それをこの『Wake Up,Girls!』からは学べた気がするし、その過程こそ『Beyond the Bottom』まさにどん底を乗り越えることそのものだと感じた。

 

 

 

長くなったが、当然、以上書いてきたことは僕の独りよがりな考えだし、いろんなドルオタがいれば、いろんなアイドルだっていることだろう。それでもいわば「アイドル版SHIROBAKO」とも呼べるような本作を見たことで、多少なりともポジティブな発想でアイドルコンテンツを見られるようになったと思う。中居くんが某CMで言う「アイドルはやめられない」というその複雑ながらも前向きな意味合いも、感じることができた。

 

とかく楽曲、ストーリーと申し分ない出来だったし、TVアニメシリーズの各話タイトルが黒澤明作品を捩っていたりとか、まだまだ魅力について言い足りないことはあれど、とかくこれから10月新章もスタートする。期待をもって待ちたいところである。

 

 

僕らは「自分を守るため」に正しさに堕ちていく

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『人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか?自我を形作る「意識」と「無意識」の並行システム』

竹書房 著:エリエザー・J・スタンバーグ 訳:水野涼 2017/7/6発刊

 

つい先週くらいまで、うだるような暑さに体も心もやられていたのだけど、気づけば徐々に涼しさの気配も見え隠れする時期となってしまった。小中学生は、もう夏休みも終わって、学校が始まるところもあるらしいし、NHKを見ていれば夏の甲子園も終わり、いよいよ晩夏に差し掛かっている知らせを至る所で感じる。

 

そんな折、時間は多少かかってしまったのだけど、冒頭掲げた本をようやく読み終えた。自分が前々から関心を抱いていた分野というか、不思議に思っていた事にひとつの解が与えられたようで非常に面白かった。なので、毎度のごとく懲りずにその感想やら、それに纏わる所感などを、根暗前提で書いていこうと思う。いや、ほんとおススメなので読んでみて。

 

 ・なぜ人は幻を見聞きし、それを信じるのか

本書のタイトルの通り『人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか?』という問いは、なぜ人は幻を見て、それを現実と捉えるのか、をキャッチーにしたものだ。無意識下での人間の思考は、自分で思っている以上に多様な役割を演じ、そして自分の認識すら大きく塗り替える力を持つ。それは例えば、錯視や錯覚、そして幻聴や幻覚、そして嘘だったり作り話に至るまで。自分の脳は、どのような理屈のもとで物事を考え、そして現実を認知するのか。そんな話が脳科学や心理学の分野から延々語られている本である。

 

この本の中でも特に興味深いのは「作話」の話である。それは重度の記憶障害や認知障害を負った人が、ありもしない話を作り出すのはなぜかという事を論じた個所である。大きな記憶障害を抱えた人は、当然のことながら自分の成り立ちに大きな空白部分を抱える。自分がだれかわからない、家族がだれかわからない。仕事や家庭、自分というアイデンティティの成立や、これまでに知り合った人たちなどなど。そうしたデータが欠落した状態では、自分の自意識が危機にさらされる。

 

それに対する危機管理として脳が勝手に働くというのである。つまり、相手や自分から持ち掛けられた問いに対して、辻褄があってなかったとしても詭弁としてある種の整合性のある答えが勝手に用意されるという現象だ。本書内で紹介される医者と患者のコミュニケーションにこのようなものがある。

 

医者「あなたの名前はわかりますか」

患者「当然です。ただ、今ここで知り合いでもないあなたに打ち明ける必要はないでしょう。」

医者「今あなたが精神病院にいる理由はなんでしょうか」

 患者「膝を悪くして昨日手術したばかりなのです。そのリハビリの一環です」

 

詰まるところ、自分の回答を持ち得ていないにも関わらず、まったく別のロジックで答えが発せられる。それが作話という現象である。しかも、そこからは嘘をついているという自覚が微塵も感じられない。本当に本人が信じ切っているのである。そして、その嘘と自覚されない嘘は、タイトルである「なぜ人は宇宙人に誘拐されるか」という問いにもつながっていく。

 

・信じていれば、嘘でない

次に語られるのが「宇宙人に誘拐された」つまりエイリアンアブダクションに遭遇したと信じる人である。そうした人は、必ずしも記憶障害や精神疾患を持った人だけではないというのが興味深い。この本では、睡眠麻痺いわゆる金縛りという現象からその体験を解説しようと試みる。

 

金縛りというのは、脳は働いているが、身体が眠っている状態といわれる通り、その身心のギャップに原因が見いだされる。目は覚めていると感じているのに身体は寝ているからこそ、自由が利かない。まさにエイリアンアブダクションの状況に酷似している。そして、そうした睡眠に近い状況は夢や幻覚を見やすい。もし、そうした宇宙人の誘拐というような発想が普段から根付いているのだとすれば、その無意識下のイメージがいわゆる宇宙人による接触という解釈を促すのも自然であるという。

 

脳は自分のイメージに対して自然な理解を促す。そこにないはずのロジックを生み出してしまうのだ。前者の記憶障害を抱えた患者の例でいえば「名前を思い出せない」のではなく「ここで名前を言う必要がない」という形に転換し病院にいる理由も作り出したりする。記憶の消失という事実から自分を守る。またエイリアンアブダクションのケースでは、記憶ははっきりするものの睡眠麻痺つまりは金縛りという現象に対する自分への説明がつかず、その状況に相似した「宇宙人からの誘拐」という解を導き出す。

 

それらは、本人が嘘をつきたいから嘘をついているのではなく。あくまで自分の理解の範疇を守るための脳の営み、つまり機能だというのだ。現実の現象が、自我を超えるとき。それは人の心的余裕を失わせ、結果「新たなロジック」をそこに作りだす。経験があるかもしれないが、嘘だと分かっていても、それを自分の中に刷り込むことによって、人はそれが現実だという認識を持つことは可能だ。そして自分の作話なのかすら分別不可能になる。詰まるところ、信じていることは「嘘をついていることにならない」というのである。

 

・人は「正しさ」以上に自分を守ることを追求する

人は精神疾患や脳の損傷のあるなしにかかわらず「作話」つまり自分の中でのロジック展開を行う習性がある。その発想に立つと、昨今のツイッターなどネット界隈での発言を垣間見てみると面白い。正直「この人何言ってんだろう・・・」っていう事案に出会うことは少なくないのではなかろうか。

 

例えば、ネトウヨネトサヨの政治議論。彼らはお互い政治議論などを毛頭する気もなく、イデオロギーの打ち合いに終始している。「正しさ」をそれぞれが別に持ち、まったく違った歴史・事実認識から主張を展開する様子などは、冷静に眺めているとなかなかに不思議である。また、例えば何か熱狂的なファンなどの発言も興味深い。

 

例えば昨今では歌い手やYoutuberが炎上した際には「法律よりもその人のが偉い」という持論を持ち出す。某フェミニストは過去の自分の行動からはかけ離れた「ポルノ批判」を展開するし、その言動については周囲の人も戸惑うばかりである。延々誰かを叩き続けたり、あるいは自分の信念をぶつけてマウントを取ろうとする人。そういう人は正直ネット上には珍しくない。

 

僕は前々から何かに対して過激な発言や、一方的な非難中傷をする方を見て「この人らってどのような思考回路で生きているんだろう」とか疑問に思っていたりもしたが、今回の本を読んでその答えに近い発想を与えてもらった気がした。詰まるところ、作話や幻聴、幻覚、錯視、それら人が生み出すエラーに共通している概念は「自分を守る」という点である。記憶障害を患った人が、その空白を無理やり脳の理屈でカバーするのと同様。自覚的についた小さな嘘だって、結局は自分の自我を守るためにあるものなのだ。一つ一つの考えが、過去から積み上げた自分を守るために自動的に生成されたものと考えると、頷けてしまう場面が多い。

 

・人との意見の違い、その前に知るべきその本当の意図

以上みてきた通り、本書が指し示すのはこの「とことんエゴイストな脳」の存在である。自我を守るため、本人の意識とは別次元の箇所で嘘も構成する。事実という概念は無視をして、ただただ理屈に合うことを勝手に醸成する。無意識下で僕らはどれだけの「作り話」をしているのかわからない。

 

そうすると、とかくネット上にてみられるような、寄り添う余地もないような言い争いにも徐々に理解が及んでくる。そう、彼ら、彼女ら、そして僕らも。結局何かを主張するという事はそれ自体の正しさそのものよりも「自分」を守っているのだと。そう自覚してふとこのような発言たちを眺めることで「正しさ」の相違というか、時間の消耗にしかならない議論がなくなることを祈るばかりだ。

 

伝わっているだろうが、これは議論や対話という人とのコミュニケーションに対するニヒリズム的意見ではない。違った思想や意見をぶつけ合うことは重要だし、人として実に生産的な営みである事は確かだ。人は人と話し合ってこそ、アイデアが醸成されるというのも真なる話だろう。しかし、その一方で不毛な意見の殴り合いが存在することも間違いない。これ言い合ってても意味あるんだろうか?とか。そういうときには往々にして「何がとられるべき対策か」「正しい選択肢はなにか」という問題軸がズレ、結局「自分の信念だけを守る」という議論になり果てる。ただし、それは脳の機能としては非常に自然なことであり、自我を守るというのは、整合性よりもはるかに大事なことなのである。

 

結局何が言いたかったのかって、人が意見を述べたり、自分の信条を語るときって、案外自分を守っている。その自覚や相手への認識があるだけでもだいぶ無駄な時間が減らせるのではないかと感じたのだ。これは、障害を負った人たちだけの話でない。日頃社会に出て、またネット上でやりとりしている中でも、多分にみられる脳の営みそのものであろう。

 

だって、様々な意見はそれを発した本人の為の話なのだから。信じることは、自我を守る第一歩である。それがたとえ支離滅裂だろうと。あるいは他者との常識に差を感じたとしても。僕らは誰だって、たとえ障害があったとしても、自分という存在を守るために脳は動き、自分という存在を落ち着けるのだ。三つ子の魂百までというか。自分の生き方を守る為に、僕らは何かを信じ、そして言葉を発する。自分の発言もきっと「保身」の意図がいたるところに見える。それに注意しなければならないのは当然なのだけど、周囲のそんな主張にいちいち自分の心を惑わせる必要もない。

 

それら意見は、所詮自分の意思やこれまで生きてきた中で見つけた何かを守るためにあるのだから。今回良書からそんなことを気づかされ、なんとなくネットの意見もそれぞれが、エゴに基づいていると思うと、逆に愛おしくなったり。結局正しさの主張なんて、自分を守りたい結果なのだなとか考えたらちょっと楽になった。酔いながらも長々書き続けたが、適当にここら辺で終えようと思う。冒頭にも書いたけど、この本おススメです。