わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

「着ぐるみ」という趣味について久々考えさせられる

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全国的に灼熱とも言える日々が続く今日この頃。私事ではあるが、ようやく夏コミ新刊が脱稿した。もう何度目か。こんな焦燥とひっ迫感を毎度味わうなら、そろそろやめればいいんじゃないか、とも冷静な自分が思うんだけれども。まぁ結局生粋のマゾにとっては、その恐怖感すら快楽に近づいてくるもので。快楽と苦痛は紙一重。そんな思いを毎度味わいながらまたその夏コミ新刊の宣伝は次回あたりにするとして。今回は相も変わらずなこんな話。

 

ちょっと趣味的内省になりますので、まぁ、興味ある方向けということで。

 

・「着ぐるみ」についてまた考えさせられる

お前のその特殊性癖の話、もう何度目だよ。とお叱りを受けそうな話題なのだけど、ちょっと久々に考えなくてはならない機会があり、こんな文章にしている次第で。

 

「着ぐるみ」というものがどのようなものなのか。ざっくり冒頭掲げた写真を見ていただければ、その例の一つとしては把握いただけるのではないだろうか。わかりやすい例では、テーマパークにいるようなアレであり、キャラクターショーなどを演じているアレである。マスクを被り、体全体を覆うコスチュームによって「キャラクター」いわゆる「人ではないもの」を、その場において演出する存在だ。

 

弊サークルの偏った評論同人シリーズ「'00/25(にじゅうごぶんのぜろねんだい)」でも「Vol.3/着ぐるみという趣味」や上記の表紙で掲げた「Vol.8/造詣から見る着ぐるみという系譜」という具合に、この「着ぐるみ」について扱った雑誌を弊サークルでは過去に2冊作った。僕自身も、ここまで固執するテーマなのかと正直首をかしげたくなるのだが、やはり覗いてみる度、面白い世界であることは間違いないと思う。(下記リンクから既刊は確認できるので見てみてね)

わがはじの!

 

何をかしこまってこんな話を突如始めたのかと言えば。上記「Vol.8」でもお世話になった着ぐるみ面工房「RINS FACTORY」さんの主催イベント「RINFES 2」がこの秋口、11月24日(土)に開催する予定とのこと。詳細について開示はこれからだが、単なる「着ぐるみコスイベ」にとどまらないパフォーマンスや、ショーを画策しているらしい。下がツイッターアカウントと開催場所、さらに先日配信されたその告知ツイキャスのログを置いておく。

あぁ、なんて献身的なんだろう。

RINS (@FACTORYRINS) | Twitter

ハーモニーホール | 浦安音楽ホール

twitcasting.tv

 

そこまではいい。そして僕自身、この告知キャスを見ていなかったのだけど、どうやらその中の催し、トークショーなるもので司会をやる羽目になっている。あーマジか。内容については具体的な事がほぼ出ていなかったが、おそらくRIN氏や造型工房∑代表をはじめとした数人を前にして、そこで何か話を仕切れということなのだろう。しかも尺も1時間ある・・・これ、ちゃんと組み立て考えないと確実にグダるよね・・・

 

ということでこういう場でスベるのは死ぬよか嫌なので、幾分か焦りつつ、自分の作った同人誌を読み返しながら、イベントの宣伝ついでに久々「着ぐるみ」という存在について考えをまとめてみようという思惑で書き始めている。

 

・多くの「趣味」を取り込む存在

手前みそばかりで恐縮なのだけれども。「着ぐるみ」について考える上で、上記に触れた2014年作成「'00/25 Vol.3/着ぐるみという趣味」という同人誌の冒頭、僕はこんな文章を書いたことを思い出した。

 

「着ぐるみとは端的に言えば人を別の「モノ」に変える装置である。そこに傾倒する人は実に多様だ。着ぐるみは彼ら、彼女らにとって自己表現の形でもあり、はたまた獣への羨望でもあり、異性への倒錯でもあり、人形への擬態でもあり、更には注目への衝動でもあり、情愛の異形でもある」

 

表現だけ見ると中二感漂ってて痛々しいが、本筋は未だに合っていると思える。このように「着ぐるみ」を愛好する人というのは、現実における自分や他人の身体から、別の何かに離脱することに対して、何らかの憧憬を抱いてしまう人だ。そして共通項はあれど、その動機は人それぞれである。僕はその多様性にこの趣味の面白さを感じた。

 

今回、トークショーということで。やはりテーマの本質はここに帰ってくるだろう。同じような趣味者であっても、人それぞれ「着ぐるみ」に対する思い入れのベクトルは全く異なる。そして、結果として「着ぐるみ」を使って行う行為にも違いが出てくる。我々は自らの身体を捨て、何を所望するのか。要するに「着ぐるみ」という媒介を使って何をするか。何ができるのか、という点だと思う。

 

「いや、お前過去にあんなひどい着ぐるみエロ漫画(※ 【20%OFF】めたこい!2 [わがはじ!] | DLsite 同人 - R18)なんて描いておいて高尚なこと言って逃げるつもりじゃねえだろうな?」というツッコミはまさにその通りで、ていうか僕個人としては、そうした多様な動機がある「着ぐるみ」という趣味においても、超偏ったフェティシズムサイドにいる人間なので、そもそもが人選ミスじゃねえの?とは正直思う。「すくみづ」なんて名前の人に普通司会とか頼まないでしょ。

 

ただ、逆にだからこそ。真正面からちゃんと、この「多様性」に向かい合えると思う。だって、所詮は性癖じゃん。僕個人としてはそうも突き放せるからこそ、耳障りの良い「高尚なこと」だけでは丸め込みたくはないなと感じる。僕らは何をもって「着ぐるみ」に楽しみを、そして美しさを、趣味としての自己実現を見出すのか。

 

実際堅苦しくならない程度に、そうした類の話をできればいいかなと思っている。またイベントとして、こういう形で文章にもならないので、恐らく結構ぶっちゃけた話も出るんじゃないかと思う。朝から酒とか飲んでいない保証ないしね。

 

・「着ぐるみ」が拡張する自我

更に言えば。そのベースにある趣味の土壌はこの10年間ではるかに広がってきている。過去は「たか〜い買い物」だった美少女着ぐるみ面や、「むずかし〜自作創作物」だったケモノ着ぐるみも、工房の増加、そして海外勢との交流、そしてコミッションやSNSによるノウハウの広がりにより、確実にその敷居は下がっていることだろう。その結果僕らが昔、ネット黎明期に思っていた以上に、それは「文化」としての広がりを見せてきている。

 

そして、これだけ多様な思いを含んだ文化である。それぞれの趣味活動には何らかのストーリーが生じ、面白いことが各所で起きていることだろう。

 

例えば小沢団子氏の単眼面のキャラクター化、みはし氏のドール面に纏わるハイレベルな表現、海外を見れば日本国内以上に発想豊かなフェティシズムにあふれる表現が広まりを見せ、また高い技術に基づく写真撮影や自撮りなども各所で見るようになった。

 

よく「2.5次元」などと呼ばれたものだが、今ではその2次元を3次元に起こすだけにとどまらず、自らの身体性や自己同一性を拡張する試みとしても「着ぐるみ」は着目されているのではないか。つまり、現実の自分というキャラクターをアバターにそのまま移し替えたり、あるいはその自我を増幅させたり。

 

現存する自分自身に縛られない、次のステップの自己表現の在り方がそこにはある気がする。最近ではSNSに動画もアップロード可能となったことにより、そこで自在に動く「自分でない自分」あるいは「その人でないその人」という観点は、これまでになかった表現の可能性を十分に秘めているのではないだろうか。

 

とか。さんざんそれぽいことをまくし立ててきましたが、最近ネットを見ていても今更ながら「着ぐるみ」に纏わる表現や創作物がまた面白くなってきたなと感じていたので、長々かいてしまいました。イベント当日はもうちょっと緩やかな話が出来ればいいかななんて。秋口までまだもう少しあるので、もうちょっと考えてみようかなと。

 

何はともあれ「RINFES 2」来てね!ぜひ会場でお会いしましょう!!とかく滑りたくない!!

 

僕らはもう一度「自分探し」してもいいんじゃないかという話~『宇宙よりも遠い場所』感想~

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すっかり梅雨らしい天気となり、雨が延々降ったりやんだりしている。そんな最中、語りたいアニメがある。ちょっと時期はズレてるかもしれないが、今更そんなことを気にする場でもない。

 

・テレビアニメでここまですごい作品が出来る時代

久々、オリジナルのテレビアニメシリーズで心底面白いと思えるものに出会った。タイトルにも掲げている通りなので、今さらいうまでもないが『宇宙よりも遠い場所』である。見た人なら同意いただけるであろう。ただ、それがどれほど「心底」な感情だったのか。まず、なんとかそれをお伝えしたい。

 

個人的にこれまでアニメ原作で琴線に触れたラインナップを挙げてみる。今年で齢30歳。そんな世代としてはやはり『機動戦艦ナデシコ』(遊撃は別扱いとして・・)『カウボービバップ』『天元突破グレンラガン』『SHIROBAKO』・・・などなど偏りはあるが、そうした所謂これまでの傑作と言われる作品群の中にぶちこんでもまるで遜色ないものだったと確信している。

 

そして、更にこれら名作を凌駕する点として挙げたいのは『よりもい』は1クールアニメだったということだ。上で挙げた作品はどれも2クール。今後続編や劇場版が作成されれば別だが、とかく1クールでここまで語りきれる構成は圧巻の一言。短いが故に隙がない。以前も評したが端的に『よりもい』を表すと「なんていうか、神回をただただ13回重ねたら、案の定神アニメが出来上がった」という一言に尽きる。まるで捨て回がないのだ。おっさんも毎話毎話、泣いていた。なんていうか、原作から作るアニメ作品で、ここまで凄いものが出来る時代になったのだと、ただただ驚いた。

 

そして今回、当該作品を見てからしばらく時間が経ってしまった。何かしらここに書きたい思いはあったものの、整理がつかなかったのだ。そして、ここで一迅社より発刊されているアニメ雑誌『Febri』6月号において『宇宙よりも遠い場所』特集がなされていた。書店で購入、早速それを読むと次第に自分の言いたかったこと、思った心象がまとまってきた。その思いをもとに今回もおっさんがただただ「よかった」と感じた点、また改めて自分の人生にも響いた点をピックアップしてみたい。

 

・「自分探し」ってどうなのよ

この作品の大筋は、ワケアリ女子高生が4人で南極に行く話だ。これだけ言ってしまうとなんのこっちゃなのだけど、簡単に話を振り返りたい。この話の主人公・玉木マリ(キマリ)は超凡庸な女子高生だ。高校生になったら「何か青春する」と漠然と考えていたキマリだが、気づいたらもう2年生に。何もしないまま、受験が近づいてくるこの「日常すぎる日常」に絶望していた、というありがちな設定である。

 

そんな中で、南極探検隊として南極に出向きそこで消息を絶った母を持つ同級生、小淵沢報瀬と出会う。彼女は「母に会いに行くため」と南極に行くと固く決意している。友達関係を無視してまでバイトに明け暮れ、その資金を集めていた。周囲からは「南極に行けるはずがない」とバカにされながらも、何とかその方法を探っている浮いた存在である。そんな折。大切に貯めた100万円を駅で落とし、キマリが拾うところからこの話はスタートする。

 

事情を聴いたキマリは「ここではないどこかへ行きたい」と一緒に行くことを申し出る。最初はお互いに本気なのか、あるいは「青春ごっこ」がしたいだけなのか、ギクシャクするも次第にその熱が同じ方向を向いていく。また更にキマリと同じバイトをしていた三宅日向や、アイドルの白石結月と出会い、少しずつ「南極」という目標が定まっていく。

 

ここまであらすじを書いたわけだが、これだけ読むとすげえ普通の女子高生ロードムービーである。片田舎の女子高生という、思い描いていた青春とはかけ離れたところから「自分探しの旅」を通して、親友が出来、本人も成長していく。正直言えば、昨今「自分探し」なんて流行らないものだろう。意識高い系学生がよくFacebookで「海外に来て、自分を知った!!」みたいな書き込みをしているのを見ていて辟易するばかりである。足元の生活を見ろ、とついつい小言を言いたくなったりもする。

 

そんな夢もないアラサーおっさんになり「自分探し」なんて、と思っていたわけだが。このキマリたちの冒険譚を見ていると「ここではないどこか」へ行くことが決して「逃避行」でないことに気づかされたりする。

 

・日常にない「辛酸」を舐めること

この4人の南極冒険譚は、何も「南極へ行った」ことのみが重要な話ではない。成り行きでも、自分たちが「なぜ南極へいくのか」「南極に行くためには何をしなければならないのか」そして「なぜこの4人なのか」を確かめ合いながら前に進むところが、毎話毎話、丁寧に鮮明に描かれている。

 

報瀬は南極へ一番行きたいと思っているにも関わらず、どこか短絡的で思慮に欠けている。キマリはそもそも、目的意識として「どこかへ行きたい」ほどのレベルしか持っていない。大人びた日向は人を思い遣る代わりに自分を殺してしまう。そして結月は友達の作り方が分からない。食い違っていた4人は一話一話「南極へなんで行きたいのか」という問いを介して、徐々に自分をさらけ出す事を覚えていく。

 

ただ、正直ここまでは、すれ違い⇒相互理解という他のアニメでも見ることができる友情譚である。では『よりもい』が圧倒的なのはなんなのだろうか。それは「今ここにいること」つまり日常からの「拒絶」もキッチリ描き切っている点であるように思える。それを如実に表していたのは、キマリの親友「めぐみ」のポジションである。めぐみは、キマリの幼馴染で昔から「一歩踏み出す勇気のない」「深く物事を考えない」キマリの性格を熟知していた。そんな彼女に常に手を貸し、助言を与えてきた。

 

そんなキマリが少しずつ「南極」を目指し、自分の元から巣立っていく。そこに湧き上がる妬み、支配欲。「南極なんて行って何するんだよ」「実際、いけるわけないだろ」そんな事を言うめぐみの感情は分からなくない。今この場で何もできない人間が、どこに行けるわけもない。上段でSNSに毒づいていた僕の発想と同じである。ここではないどこか?自分探し?馬鹿じゃないのか。と。

 

そういいながら、めぐみは徐々にキマリが恐れていた「何もない日常」に飲み込まれていく。自分は一体何をしているんだと。この作品の前半は報瀬の過去とともに、このキマリとめぐみ「日常からの分離」が大きなテーマになっている。

 

当然めぐみの言い分も正しい。その後、彼女たち4人は散々な目に遭う。海外でのパスポート紛失、圧倒的な船酔いから悲しい過去との対峙。その場に留まっていれば、何も味わうことのない辛酸ばかりである。ただ、やはりそうした「辛酸」を味わうことで、人が感じた「辛酸」にも共感できる。そしてそのようにして得た辛酸は必要なものである、と自覚することこそが「自分探し」という行為の本質のように思う。

 

身の回りにあふれるものが、自分にとって必要なものとそうでないものを仕分けること。本作でも中核をなすテーマに思える。学校へ行かなくなった日向の過去のエピソードもそうした意味で痛烈だ。中途半端に許しあう友情なんか要らない。自分だけが楽になる和解なんか嘘だ。不器用ながらもお互いに感じる痛みに対して、敏感に正面から、本当に必要な「関係性」を選び取る彼女たちの邂逅には頷くほかなかった。

 

・「夢中になると必要なものとそうでないものが分かってくる」

衿沢世衣子『おかえりピアニカ』というオムニバス漫画単行本に入っている『ファミリーアフェア』(よしもとよしもと原作)という作品の中のセリフだ。その後「一番大事なのは自分で決めるってことさ」と続く。昔から僕はこのセリフが好きで、毎度何かがあるたび頭の中に浮かべているわけだけども。『よりもい』を見ていて感じられたのは、こうした自分の価値観を知り、取捨選択をする難しさと重要性だと思う。

 

終盤。報瀬は南極に初めて降り立った時「ざまあみろ!!」と叫んだ。それはこれまでバカにしてきた、学友や周囲の人に対する心からの叫びであったに違いない。しかし、本来「母に会いに来た」はずの彼女は徐々に虚無を抱えることになる。南極到達は達成した。しかし、もうそこにはいない母親。終盤から最終話にかけて、報瀬は自分の過去と固執と戦う。そして周りの3人とともに「今自分が夢中になっているもの」に目を向けだす。

 

ラストシーン。報瀬はオーロラの下、本当に大切な何かは、今自分の目の前にあるものだという気づきを得るように見える。それは文面だけ見れば「自分探し」を否定した「日常賛歌」の言葉と同じである。ここではないどこかなんてあるはずがない。今目の前を見ろ、と。

 

しかしながら、日常から離れた場所での「今、そこにあるもの」は恐らく、違う。まったく異なる次元での日常が目の前に広がる。それを見るためにはやはり「ここではないどこかへ」行かなくてはならないのかもしれない。恥も外聞も保身も捨てて、最後のシーンのめぐみのように。ちょっとしたことから「どこかへ」踏み出すことの重要さを、教えてくれた傑作アニメだった。

 

 

また平日夜から長々と書いてしまったが、おっさん風情がこんな中二全開な文章書くのも正直恥ずかしいものである。それでも、過去好きだった作品なんて、大抵そんなものだしちゃんと好きなものには好きと言い続けたいなと、そう思わせてくれる良作だったことは確かです。見てないひとは是非見てみてくださいな。

 

プリキュアが真正面からジェンダーを扱う時代に

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すっかり季節は梅雨。コミケの当落も発表され、弊サークルも無事通過。取り急ぎ作業をしなければと思いながらも、今朝みた『HUGっと!プリキュア』のシーンが過り、日曜夜仕事を前日に控えた切ない時間に一人事を書き出すことにする。

 

プリキュアが切り取る現実

今シーズン通算で15作目となる『HUGっと!プリキュア』今年は特に、あの田村ゆかりが悪役からの追加プリキュア枠に参戦ということで、声豚勢としても否応なしに高まりを見せている。今作の特徴としては赤ちゃんの「はぐたん」がプリキュアたちを引き寄せる形をとり、育児をフューチャーしたり、各話に職業体験のエピソードを活用したり、敵である「クライアス社」が企業の形式をとるなど「現実」のメタファーを多分に盛り込んでいる。

 

そもそも今年で30歳を迎えるおっさんが、幼女向けアニメを見ながら「なんだか現実的だ・・・」と呟くのも、世紀末な構図であるのは確かなのだけれども。幼女向けでありながらも「自分の人生を輝かせるってどういうことなんだろう」と人生の本質を毎度しっかり描く姿勢は「プリキュア」シリーズのファンにとっては頷かざるを得ないプリキュアの魅力の一つであると言える。

 

そして本日放映した第19話「ワクワク!憧れのランウェイデビュー!」ではもう一歩現実に切り込んだ演出がなされていた。それがタイトルにも掲載した「ジェンダー論」である。今回若宮アンリという美形ロシア男子が登場している。フィギュアスケート選手であり、ほまれとのエピソード(第7話)で登場。1回のみのゲストキャラと思いきや、はな達が通うラヴェニエール学園に突如転入。はな達をプリキュアと認識するなど、明確に話の本質に食い込んでくるキャラとなった。もはや女装男子的なスタイルを明示させるなど、物語における立ち位置も絶妙だ。

 

そして今回。毎度憑依されることで同じみファッションデザイナーの吉見リタが主催するファッションショーが開催されることになる。タイトルは「女の子だってヒーローになれる!」そのランウェイに、プリキュア+えみるとルールーも参加することになるのだが、なんと若宮アンリも女性向けドレスのモデルとして参加するのだ。

 

ちなみに愛崎えみるの兄・正人は若宮アンリと同級生であり、アンリのことを「男のくせに女みたいな恰好をしている」と蔑んでいる。そして、今回のファッションショーに参加しようとする妹に対しても「女がなるのはヒロインであって、ヒーローじゃない」と連れ戻しにかかり、アンリと口論になる。このあたりが今日のエピソードの肝だ。

 

・「なんにでもなれる!」を応援する勇気

「自分の心に制約をかける、それこそ時間、人生の無駄」その際、アンリが正人に言い放ったセリフがこれだ。布団の中「なんだか今日のエピソード、穏やかじゃないな・・・」と思っていた矢先にこの言葉である。怠惰な休日を過ごそうとしていたアラサー社会人にも刺さる刺さる。

 

そして、その後。正人は案の定心の闇を付かれオシマイダー(怪人)化。オシマイダーとなった正人にさらわれたアンリがプリキュア達に助けられる際「これじゃあお姫さまみたいだ」と自嘲気味に言うと、キュアエールが一言「いいんだよ!男の子だってお姫様になれる!!」と一喝。はっきり言おう、その瞬間鳥肌が立った。

 

これまでプリキュアのキャッチコピーとして有名だったのは「女の子なら誰でもプリキュアになれる!」というものだった。そのコピーにおける法の隙間をどう突けばおっさんでもプリキュアになれるのか、なんならキュアゴリラしかないのか。あるいは四葉財閥の力か。とか周囲のプリキュア好きおっさんたちも身勝手な冗談言っていたわけだが。

 

このキュアエールの言葉は明確に、ジェンダーによる観念を壊しにかかった。当然「若宮アンリ程の美少年だからこそ、そうした振る舞いが許されるんだろう」というコメントも散見された。ルッキズムがベースとなりやすい異性装文化において、こうした反応は致し方ない。

 

しかし、今回『HUGっと!プリキュア』ではOPでの口上「なんでもできる!なんでもなれる!」それを明確な形で応援した。この回を見るまで、この「なんでもなれる!」という言葉は「みなさん将来の夢を持ちましょう」「夢はかなうよ」的なよくある先生たちの情操教育上の言葉と思っていた。

 

違った。「なんでもなれる!」それを「フレーフレー!」と応援する『HUGっと!プリキュア』の姿勢は、はっきりとした子供の自我の尊重だった。この手の番組としては非常に進んだ、また勇気ある判断を成したんだと思う。だって、当然こういう発想に対して嫌悪感を抱く親御さんもいるだろう。今も現実にクレームすら入っていると思う。でも、子供はもう、自我を持っている。生きる道を選び始めている。悩んでいる。そして、周囲には悩んでいる友達がいる。それをはっきりとセリフで伝えた。僕はその過程に、かつてないほど、いや個人的には『GO!プリンセスプリキュア』以来の感動を覚えた。

 

・おっさんにも響く本当の「夢」という考え方

子供のころ、将来なりたい職業を「夢」として書かされた。ほかにも色んな人が言うように、僕もはっきりとした「答え」など持ち合わせておらず、周りの友人が書いた内容を見ながら「プロ野球選手」と書いた。今思えば呪いに近かったのかもしれない。その後、高校まで好きで野球を続けたものの「甲子園」「プロ」という目線にまるで興味がないことに、後から気づいた。実際、部活の上下関係等で体と心がボロボロになった後だった。

 

「書かされる夢」は思いのほか、当人の自我を形成する。そして、人格すら歪めたりする。僕はこれまでもここで書いてきた通り、女装癖がたまにある。どうしても、男性という性から逃げ出したくなると、そういう願望が湧き出す。アンリ君とは違って汚い女装だろう。しかしながら、どうしたって過去の反動から性別と離れたところに身を置きたくなったりする。

 

今日キュアエールが言った「男の子だって、お姫様になれる」という言葉。これは、多くの人を解き放つ言葉だったように思える。こう物好きがたたって、毎週プリキュアを一人で見ている女装おっさんにすら響いたわけだ。「君は君でいい」自分がどう生きるかを決めるのであれば、それ以上の何物も「君」を縛るものはない。そういう宣言、あるいは免罪にすら思えた。

 

今日のエピソードは多分『HUGっと!プリキュア』のコア部分をよく示した回だったように思える。正直、はな、さあや、ほまれのメイン3人はプリキュア然としたプリキュアだ。しかし、えみるのような「変人」、「アンドロイド」のルールー、そして「男」の若宮アンリ。今回、これまでにない層すら「プリキュア」の可能性を持ち出す姿勢は、見る人に本当の意味の「夢」を考えさせるシリーズなのかもしれない。

 

「夢」とは、職業や肩書でなく、自分がどう生きるか。それを見定めて一歩一歩自分を作っていく過程だと思う。僕らおっさんもまた、幼女先輩たちほど将来残されてはないものの、今の自分がどう在りたいのか、しっかりと考えなければと思ってしまった次第だ。また今年もプリキュアから大切な事を学んでしまったと、ちょっと切ない気持ちながらも、キュアアムール・キュアマシェリが登場する来週もまた楽しみに待ちたい。

高田馬場のなんだか異質な中華飲み屋「餃子荘ムロ」

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突如、始める飲み屋放浪の話。

 

いつもなんだか暗い話ばかりで、ちょっと自分でも気がめいってきていた今日この頃。いや、気晴らしに文章書いてるんだから、方向性に固執しないでいいんじゃないかということで、気に入った飲み屋あったらその紹介記事でも書いてみることにする。第一回からストロングスタイルな馬場の名店、餃子荘ムロを薦めたい。

 

・注文は一度だけ、他に類を見ないストロングスタイル

高田馬場と言えば、学生街。降りる瞬間早大生の群れ&群れ。ワイワイガヤガヤうるさいだけの街だろ、と昔は思っていたけれどもそんな喧噪もアラサーとなってはちょっと愛おしく感じるようになってきたりもして。そんな高田馬場の中心地、BIGBOXの脇を抜け、大久保方面の坂を上って少し。さらに路地に入ったところ、この餃子荘ムロがある。

 

引き戸を開けると、そこはカウンターのみ。店内は非常に狭く週末には待たずに入店できれば幸運。なかなか初見で赴くことすらちょっと勇気がいる。ただ、そんなことに驚いている場合でもなく、この店の最大の特徴は「食べ物のオーダーは最初の一度きり」というなんとも強硬な方針。最初に渡される紙にオーダーを書いたらそれきり。餃子の種類も「ふつう」から丸まるニンニクが入った「にんにく」や「チーズ」など、実際バリエーションは6種類ほど。見て確かめてほしいのだが、どれも拘りの一品。もう、迷って仕方がない。

 

また本格的な中華の炒め物各種や、メニューの下を見ればそこには締めのラーメンや焼きそばまで。最初でここまで計算しなければならないのである。なんていうか、初見でこの店をクリアするのは無理だろう。だって、どれ頼んでも本当においしい。1度では後悔が過り、2度では欲に溺れる。緻密な計画と空腹をもってして、ようやくムロを堪能できるのではないだろうか。今回の締めは野菜そば(上司と分けてハーフにしてくれました)。薄味ながら、めちゃくちゃ優しい味。キャラの濃い炒め物の後には最高の締め。

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個人的にはこの店の春巻きに心を奪われた。いやほんと都内随一ではないだろうか。「箸で食べると滑るので紙で包んで食べてください」と指示を受け、まるで中華街の屋台で買ってそのままいただくようにして、噛り付く。辛みのあるソースとの相性も抜群で、具もそこまで奇抜でなく春雨をベースにいい塩梅の食感がもう堪らない。2本で500円というリーズナブルさも光る。

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・飲んでも楽しい「薬酒」の数々

やはり中華屋ということで、最初は瓶ビールをいただく。ビールのラインナップも渋い。プレモルとエビスの黒ビール、しかも小瓶のみ。大抵、それら一本ずつを頼み、ブレンドしながら飲むのも楽しい。料理のバリエーションが豊かだからこそ、ビール一つとっても味を変えながら対応させると案外料理の幅が広がるのでは、とか素人が勝手に勘繰りながら飲む。

 

飲み物のオーダーは、食べ物と違って何度でもOK。そして2杯目。ここで今回は変わり種を狙うことにした。連れの上司は「人参酒」をチョイス。漢方にも使うであろう人参がそのまま瓶に詰められていて、なんとも体に良さそう。おちょこ一杯でも、結構アルコールが強くこの気候の変化で疲れ気味な体に効きそうである。

 

僕が選んだのは「ススメバチ酒S」。正直な話、スズメバチ酒が結局なんなのかはわからないまま頂いたけれども、名前に反して口当たりはさっぱり。なんだ、飲みやすいじゃないか。と思ってから、30秒後。体の芯からなんだか熱と独特な味が口の中に広がる。ちなみに通常の「スズメバチ酒」と「スズメバチ酒S」と二種類があり、後者は「エキス強め」とのこと。ちょっと飲んだ後、錦糸町辺りが頭に過る。果たしてプラシーボ効果なのか、餃子のにんにくもあいまって少し元気になれた気がした。

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・圧倒的なDJSumirockの存在

そしてなにより女将さんの存在感である。純子さんことDJSumirockは1935年生まれ、御年83歳、EDMをメインにフロアを盛り上げ皿を回す現役DJである。

woman-type.jp

 

帰り際「今日もこれから回すんです」とフライヤーをいただく。歌舞伎町のど真ん中で開かれる「OPPARADise」というイベント。いやぁ、だいぶバーレスクですけど、え、ていうか今、今日って言った?馬場の中華屋で働いて、そしてオールナイトイベントへ向かう83歳。圧巻である。なんだか「最近疲れたから家に早く帰って寝たい」と漏らす僕がただのバカみたいに思えてくる。

 

餃子荘ムロは、料理も勿論おいしいが、店の雰囲気もよい。古い店だからといって気取ってるわけでもなく、客も理解しながらその空気を楽しんでいる。それぞれ変わり餃子を食べながら、肘が付きそうなほど狭い店内では、となりの客とも会話になりやすい。「にんにく丸まる入ってましたね笑」「いや、これほんと美味しいのでお勧めです、でも頼めないので次回以降に笑」とか。

 

高田馬場という学生の街。日々仕事に追いやられて忘れていた学生の姿を横目に。やはり人は美味しいものを食べると元気になるものである。確かな味の料理に、バリエーション豊かなお酒に、そしてSumirockに。食べてる間によく分からない元気をもらえる家庭的な老舗である。また今度はどう攻めて、どう締めるか。戦略を持って臨まなければきっとまた悔恨を残すことだろう。

 

餃子荘ムロ 03-3209-1856

東京都新宿区高田馬場1-33-2

17:00~22:00(L.O.21:30)

日曜定休 予約は金曜以外なら可 

カード払い不可

フェイクニュースが暴く我々の中にいる「正義の味方」の本性

気候の変化に体の疲れも最高潮。寒かったり暑かったりと、五月病どころの騒ぎではない。普通に風邪ひいている始末である。そんな最中、一昨日ほどだろうか。ネット上で面白いニュースが話題になった。ほとぼりも冷めてきただろうし、この件について思ったことを書いてみたい。

 

 

出来事はこのツイートがすべて説明してくれているので割愛するが、要は昨今よくある「やらかし系ネット炎上」の応酬がすべてウソネタだったという事案である。案の定このネタに乗せられ架空の大学への非難、誹謗中傷が相次ぎ、結局は暖簾に腕押し、何もないところでSNSユーザーだけが騒いでいた、という一連の流れが話題になった。

 

この件を受けて、タイムラインでのリアクションは結構割れていて。「誰も傷ついていないし、古き良きネットのネタらしい」という見方から「人の心配や気遣いを煽るだけの悪質な行為」と批難が及んだり。あるいは有名なひろゆき氏の発言を引き合いに出し「フェイクニュースを見破れないネットユーザーってww」という嘲笑的な意見も見られた。

 

この件。これまでの単なるフェイクニュースと異なるのは、複数アカウントを使ってあたかもそこにコミュニケーションが生じているように見せかけたのが巧い。やらかしの当事者=「架空の大学」、やらかされた被害者=「架空の飲食店」、当事者の関係者=「架空の生徒」という具合に、ロール割がきっちりとされている。確かにこの会話を見てしまうと、そこだけからこの件が嘘だと見抜くのは難しいだろう。

 

SNSでのツイートひとつを見るにしても「本当のことなのか?」と検索をしたり、一度裏を取る姿勢が重要なのではないかという声が各所で上がっている。

 

・自分の中にいる「正義の味方」の存在

ただ、この件の本質は「嘘を見破るリテラシーをしっかり持ちましょうね」ということに留まらないと僕は思った。はっきり言えば、ネット上におけるウソをウソと見抜くリテラシーなど、この先人間が完璧に持ち合わせることなど不可能だと思う。

 

端的な例を挙げる。先日、オバマ大統領の表情をマッピングし、あたかも本人がしゃべっているかのような印象を与える「ディープフェイク」動画というのが話題となった。

www.itmedia.co.jp

 

動画で確認できる通り、これもう見抜くの無理じゃね。と感じてしまったほどである。まだ多少違和感を感じることはあれど、今後「実写の映像」すら本物かどうかが疑わしい時代が来てしまったというわけである。こんなものを目の前にして「フェイクニュースを見破るリテラシーを」と叫んだところで、無意味のように思える。フェイクニュースを考えるには、もう一段階深いところで思索をする必要がありそうだ。

 

冒頭の話に戻ろう。架空の「国際信州学院大学」を叩きに叩いた人たち。簡単に言えば嘘に踊らされた人たちなわけであるが、そうした人はどういった思いから「叩いた」のだろうか。これを考えてみたい。

 

このフェイクニュース批判の中に「人の心配や気遣いを馬鹿にした行為だ」という声が上がっていたのを思い出してほしい。確かに「やられた飲食店」側の立場に立てば、悪行をなした「国際信州大学」を懲らしめてやろうという感情は、世間的に見れば「善」なる感情であり、コメントを寄せた多くの人が抱いていたモノではないだろうか。こうした「悪を懲らしめる」という発想や、苦しんだ飲食店に同情する、という感情は道徳を重んじる人間の美徳の一つである。

 

我々はこの情報過多の時代。数々のネットニュースを見ながら、こうした案件を日々見つけだしている。政治与党のスキャンダル、連休ドライバーの交通マナーの悪さ、街中での老害的発言、職場でのパワハラ上司などなど。「是正すべき」事案がいたるところに転がっており、そうした内容を見ながら憤りを感じ、そして批難を繰り返す。まるで自分の「正しさ」を確認するかのように。

 

・「正しさ」は憎悪の言い訳となる

そして往々にして、その正しさは過剰防衛となる。「悪いことをしているから何をしてもよい」「懲らしめるならとことんやれ」こうしたネットの風潮が炎上に繋がる。勧善懲悪が、とうとう死体蹴りすら容認する空気感となり果ててしまう。

 

今回の件では「フェイク」と分かった後。その件が「嘘」だったことに憤りを見せるユーザーも一定数いた。ただ、よくよく考えれば、彼らが本来寄り添うべきは「キャンセルされた飲食店」だったはずだ。この悲劇が結局「なかった」のだから、本来傍観者であるネットユーザーは安堵すれば、それで済む話だろう。

 

しかしながら「自分の憤りを返せ」という論調の方も少なからずいる。「正義の味方には敵が必要だろう」とは『Fate』シリーズでおなじみ言峰神父の名言だが、その巨悪が幻となったときに「自分が正義」となれないことに対してフラストレーションを抱く人も一定数いるわけだ。そこには、是正すべき事案もなく、救うべき人間もいない。ただただ個の「正義」に溺れ、本来の目的を見失った感情が残るだけである。

 

正直、ここまで情報の真偽を見抜くことが難しい時代。先に挙げたディープフェイクを始め、人がテクノロジーに騙されるのはもう仕方のない時期に入っている。それよりも、そうした「騙されたとき」あるいは「騙されたと分かったとき」、自分がその情報によってどのように動いていたのか。あるいは動かされていたのか。つまり「自分がどのような正義を抱いているのかを知ること」は今後、情報が複雑化する中で非常に重要な視点だと感じた。

 

・正義の味方を飼いならす為に

はっきり言えば、人間悪の根源は「正しさ」という観念にある。「正しさ」があれば「不正」があり、自分が正しければ、不正をした人間は報いを受けるべきという発想が大なり小なり人全般に備わっている。ただ、その正しさというものは、ここで言うまでもなく多種多様な文化に基づいており、正しさの違いで争いが起き、また、その正しさによって人間はどこまでも残酷になれる。

 

こんなことは目新しい話ではなく国内外問わず、現実を始め数多くの小説でもこうしたテーマを扱っているわけで。しかしそれでも。電車で席を譲ったり、あるいは道に迷った人を案内したり、ふと募金なんかしてみたり。こうした慈善的行為もその人が持っている「正しさ」に起因するものであり、冒頭のフェイクニュースに憤る、その心も間違いなく「正しい」ものである。ただ、誰の為の正しさなのか。何のための正しさなのか。それを自覚することがより重要になっていると感じる。

 

ちゃんと自身の中にいる「正義の味方」を飼いならさなければ、人はいつでも正義の飼い犬となる危険性がある。自戒も含めて、今回感じたことがこれである。

 

こうしたフェイクニュースは今後より一層増えるだろう。そして、その質も今回と比べ物にならないほど緻密なものになることが想定される。僕らは前提としてそれら真偽を見抜く努力をしなくてはならない。そして、同時にどういう感情をもって、そうした情報に触れるのかも考えなくてはならない。有象無象の情報に対して、単に自分の正しさを保つ為に、非難や中傷を繰り返していると「自分」すら見失ってしまう。

 

単なるフェイクニュースの真偽以上に、まずあらゆる情報に対する自己のスタンスを考えたほうが建設的なんじゃないかなと思ったお話でした。

 

「大人」の定義って何なのだろう。

気づけば僕も20代最後の年となり。視力弱化、白髪の増加、代謝や体力の低下など、老化の発端を次々に見せつけられる年代。そうなれば、やはり同世代と飲んでもこんな話がいつでも持ち上がる。

 

「いやぁ、30歳だって。子供のころはこんな30歳になるなんて想像していなかったよね。」

「子どもやら結婚とか言っているけれど、まだ10代の気持ちを持ったままな気がする。」

 

こんな会話をしていてふと思うことがある。「大人」って何だろう、ということだ。サッポロビールのCMで妻夫木聡がそんな話題を人生の先輩に聞く、という企画も見かける。そんなこともあって、日ごろからなんとなしに「大人」という言葉を頭の中でなぞったりもしていた。実際問題、何をもって僕らは「大人になった」と言うことが出来るのだろうか。GWを終えて、空模様もまるで僕ら労働者の心を映しているような雨の日に少しアンニュイな考え事をしてしまった。

 

・大人という「幻想」

子供のころ、僕らは「大人」とある意味で相対していた。なんだか生き物として別の存在と感じていた気がする。何せ、うんことか言わない、ちゃんとしている、自分より体力がある、仕事をしている、お酒を飲む、お金を持っている、そして自分にとって重要な事を決める権限を持っている。これらの印象というのは親を筆頭にして、子供である時分には誰もがぼんやりと抱いていたモノではないだろうか。

 

しかしながら、いざ自分がその「大人」の年齢になるにつれて、実際の脳内が見えてくる。すると、考えている事は自分の苦しい生活についてだったり、しょうもない色恋沙汰だったり、とことん追い求めたい社会に何の役にもたたない趣味についてだったり。毎年誕生日を重ねるたび、当時、別の生き物と信じていた「大人」像に届いている気すらしない。やはり、どこかしら過去抱いた「大人」という存在と今の自分に対するギャップを抱き、悩んだりするわけである。

 

ここで先に結論を言ってしまうのだが、そのように「こんな大人になると思っていなかった」と感じた時点で、その人は「大人」だと僕は思った。詰まるところ、子供の頃に抱いてた「大人という幻想」を自分で打ち破ってしまった瞬間こそ、その人が大人になる瞬間なのではないかということだ。

 

なんでそんな事を考えたのかと言えば、先日古い友人と飲んでいた際、それぞれの両親の話になった。お互いどうしようもない父親同士を持ち、金に対する分別もなく、幼少から今に至るまで苦労をしたよね、なんて暗い話で盛り上がったのだが。そんな折「いくら自分の親父だったとしても、所詮はただのおっさんの1人で、クズの可能性もあるんだよな」と改めて納得し。それと同時に「大人はちゃんとしている」「大人は自分を守ってくれる」という、そんな幻想が壊れたんだなと、ふと思ったのだ。

 

まだ僕が学生の頃だったろうか。家族の問題や本人の弱さから、僕の親父がボロボロだった時期があり、僕は「親はやはりちゃんとしているもの」ということが幻想だと理解した。ただ、その時点ではその幻想が捨てられずに蔑んだ。「親として、いやその前に人としてクソじゃねえか」と。

 

それから10年余りが経ち。自分も含めて同じ「ダメな大人」になった。地元でたまにグズグズになるまで一緒に飲んだりしながら。今では良い関係が築けていると思う。親でも大人でも、所詮は女と男なのである。事情や情事、色んな事があったり、なかったりしながら生きている。

 

・幻想を捨てられない「子供っぽさ」

また少し話を変えて「大人」という角度から今度は逆に「子供っぽさ」という話をしてみたい。前段で、大人になるとは様々な「大人はかくあるべき」という幻想を、自分の年齢や感情をもって捨て去ることと書いた。それは言い換えれば同時に、人を、そして歳をとりゆく自分を許すことである。

 

ふと過去在籍していた学校などを思い浮かべてほしい。イジメが今でも社会問題になる通り、子供という存在は時として大人と比較しても残酷な存在になる場合がある。仲間外れや容赦のない暴力。そうした事例は全国津々浦々にて散見される。なぜ、大人と違ってこのような露骨な事態が起こりやすいのかと言えば、そこには「幻想」の問題が大きく横たわっているように思う。

 

「幻想」とは「かくあるべき」という思いである。それはつまりその「幻想」に適合しない人を許さない、除外してもいい、という思考に繋がってしまったりする。例えば「お父さんがこういうヤツは無視していいと言っていた」イジメの理由としてドラマなんかでも見そうな案件だが、子は親に対して大抵「無謬性という幻想」を抱いている。

 

親が言っているのだから、間違っているはずがない。そして、クラスメートにもその「かくあるべき」基準を当てはめる。除外すべき対象が生じてしまうという具合だ。そして、個人が言っているだけならいいが、そうした「幻想」は往々にして共鳴する。皆がその「かくあるべき」という空間になれば、確実にそこは「幻想」が支配する空間となる。イジメはその空気感によって醸成されていく。

 

イジメる側を守るわけでないが、この雰囲気というのは子供社会において非常に起こりやすいと感じる。あくまでも大人と子供という単純な対立軸である為、安易な対比なのは理解いただきたいが、子供のように経験則が薄く、想像力も不足している状況において、そうした「幻想」は幅を利かせやすい。自分が独善的に持っている価値判断基準が全面に出てしまうという意味だ。

 

そして、ここからが本題である。小題にも掲げた「子供っぽさ」である。実際の年齢にかかわらず、こうした「幻想」を捨てられず「かくあるべき」という思いに支配されやすい人格を、ここでは「子供っぽい」と呼ぶ。そしてこの類の人は案外多い。当然、人が寄り集まって社会生活をする中で道徳規範は重要である。人として基本的な振る舞いを指して「かくあるべき」ルールを定めたいというのは自然な感情である。

 

しかし、ふと社会に出たりネットなどで。その「かくあるべき」が暴走し、人に対してただひたすら強く当たり散らす人を見かけたりする。例えばスーパーのレジで。僕の地元の治安の問題もあるけど、結構な頻度でいい年齢のおっさんがレジ打ちしている人に「遅い!」「そんなことも出来ないのか」と怒鳴っているのを見かける。方やネットでも、芸能人のスキャンダル、政治家の発言に対して、ひたすら烈火の如く罵倒する人がいる。

 

確かに批判というのはすべきタイミングがある。しかしながら、往々にしてその目的が自分自身の「幻想」を守りたいだけなのでは?と疑問に思う口ぶりも非常に多い。

 

・大人として「子供らしくある」こと

そうした「幻想」つまり自分の世界を守ろうとだけする人はやはり「子供っぽい」。イジメで見受けられたような、狭い価値判断基準で人を推し量り罵倒する姿。しかしながら、そうした「幻想」というものは人生経験によって大抵解消されるものである。

 

例えば、野球をしたことがないファンが、守備でエラーをした選手を罵倒する。しかしながら、野球経験があれば「ファンブルしたのか」「人工芝の境目だったのでは」とその事由に想像がつく。また、選手と友人であれば「緊張していたのかな」「そんな失敗に負けるな」と違った感情が沸く。経験則と想像力とは、このように人の感情を左右する。

 

大人になるということは、人が生きていて一つ一つ何かを経験をしていく中で「人生って安易に判断出来ないものばかりなんだな」と理解することだと思う。仕事を探す、結婚をする、子供を育てる、お金を借りる、家を買う、手術をする・・・生きているとなんだか一朝一夕では決断のつかないことばかりが襲ってくる。大人ってツラい。え、生きててもそんな感情しか沸かないのなら、大人になりたくない。まぁ思うよね、普通。小生も日々そう思いながら仕事に出かけたりしている。

 

しかし、そんな感情に対して一周回って「子供らしさ」を持つことが必要だと僕は思う。先に挙げた「子供っぽさ」とは違う概念であると定義したい。

 

まず「ぽさ」は無意識的、つまりは単純に「かくあるべき」と喚いているだけである。短絡的というかそこには経験則や寄り添う想像力がない。それに対して「らしさ」とは、情事も事情も経験したしょうもない大人であると自覚しながらも「かくあるべき」をもう一度掲げるスタンスである。自分の人生に対して、子供のような指針を立てる。臭い言葉で言えば夢を持つみたいな。言いたくなかったけど。

 

「大人として子供らしく」そうしたダブルスタンダードが、この時代あって然るべきではと感じる。

 

昨年末、冬コミで作った弊サークルの同人誌において、中野の「大怪獣サロン」というお店を特集した。「<おとな>が正しく<こども>な居場所」とはその特集におけるキーワードであった。特撮や怪獣というテーマを掲げながらも、色々な趣味、時代、価値観、国籍を吸収して成り立つその空間は、まさに清濁併せのむ強さを持った大人として、バカが出来る子供らしさを掲げたスポットであると思う。昨今ジョークも分からないようなネット民や、自分の意志だけで騒ぐ老体を前にして。大人であることの意味を再度考えてしまった次第である。

 

平日から長々と文章を書いてしまったが、寒い初夏の根暗な独り言ということで大目に見てほしい。早く僕もちゃんとした大人になりたいものである。

 

あの日、教室の隅で読んでたサブカル雑誌の面白さを

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ゴールデンウィークもすっかり終わりを迎え。毎年毎回の事だが連休の終わりというのは独特の虚脱感に包まれる。仕事が嫌と言ってみたところで、そもそもその仕事が目の前に控えている現実味すらない。毎度「とりあえず明日起きてから考えるか」というのが最適解で、案外寝てしまえば人間どうとでもなるものである。

 

愚痴で始まるのが弊ブログの平常運行なのでもう気にも留めないが、今日GWの最終日、東京流通センターで開催された「文学フリマ東京」に足を運んできた。そこで買った一冊の本の話から、出版に関するところまで考えを広げてみたい。

 

・「架空映画批評」というちょっとしたアイデア

文学フリマ」は名の通り文学・批評がメインの同人イベントであり、そこでしか買えない通な作品も多い。特に今年は他のイベントにも行けず、同人イベント自体、昨年末のコミケ以来とあって否応なしに気分は高まる。目の前に広がる規則的に並べられた机、そこに佇むどこか暗さがある参加者の面々、そして企画や内容も想像がつかない有象無象の同人誌たち。その光景だけでゾクゾクする。もうフェティシズムの一種なんだろうと思う。救えない中毒患者である。

 

お世話になっているサークルさんに挨拶を終え、懐具合の寒々しさもあり早々に退散するつもりだった。まぁ、そうは言っても好みのジャンルが並ぶ同人イベントである。そんな事は不可能で。毎度の通り、気づけば腕に収まる紙の束は増えること増えること。スペースを舐めるように見まわしながら、気になる文言があれば手を伸ばしてしまう。

 

その中でも、今回最も引っ掛かりを覚えた文言が「架空映画批評」という6文字だった。見た瞬間に「やられた」と思った。「批評」なのに対象が「架空」。思わず二度見、『ビク』と銘打たれた簡素なコピー本ではあったものの、気になったので買ってしまった。100円だったし。

 

「批評」というモノ自体、何か対象を論じる事である。なのでその対象に興味があれば気になるし、あるいは批評している人自体が論客として知られていればその一家言に注目がいく。むしろ正直な話、それが「批評」をやって本が売れるストロングポイントでもある。人気作を論じればそれだけ注目は上がるわけだ。ただ、今回手にした『ビク』の清々しいところは、それを逆手にとって一次創作活動している、ということだ。

 

一次創作をしてから、批評する。なんだ二度手間のように思われるかもしれない。ただ、面白いのは「批評」という文体は前提として「実際に存在する事象を対象にする」ので、そのフォーマットを使うと急にリアリティが増す。ニュース番組のテロップ風に嘘画像を作ると説得力が増すようなイメージである。ただ、よくよく考えれば映画の場合「レビューを見てから見る映画を決める」という人にとって「自分が知らない映画」の話題を読んでいるのだから、そこで起きている現象は「架空映画批評」と同様なのだ。

 

実際に中身を読んでみたが、その映画が本当に架空なのかちょっと疑いだしてタイトルをググってしまった。読者として完全に負けている。多分、書いている本人の現実を少し混ぜながら、架空映画の批評を展開するのでやけにリアリティが生まれている。そして、きっちりと映画批評になっており、読者はそのシーンすら想像出来る。あっさりとしたボリュームながら、整った文体ですっきり読めた。「架空映画」を批評するという逆手なアプローチに驚きを覚えてしまった。

 

・同人誌の価値が際立つ今

今回紹介した本以外にも、先日ブログにも上げた「金腐川宴游会」さんの新刊『二級河川19』も密度たっぷりで「ファミコンソフトのカセット形状比べ」特集とか本気で感動したし、それぞれ着眼点という意味で非常に尖っている。特に前者『ビク』はコピ本でもあり、編集後記を読めば日ごろのアイデアを取り急ぎ本にしてみたという一冊だ。それでもその「アイデア」レベルの本が驚きを与えないと言い切れない。

 

そして、話は多少飛ぶが商業出版が苦境に立たされている昨今において、同人誌という媒体の価値は増しているように思えてしまう。

 

当然ながら今なお、全国流通を前提とした大量生産およびプロモーションで売れる作品も確かにある。需要喚起のための文学賞など有効な手立ても多い。むしろ、そうした仕組み作りが出版社の役割である。しかし、Amazonの台頭などから出版社の力も相対的に下がり、そして全国的に流通させるメディアとして紙媒体を選択するメリットも目減りしている中で。より効率的なコンテンツ消費方法を模索・提案しなければならなくなっているのが出版社の現状だろう。

 

そうした状況下において。同人誌はやはり「面白い」のだ。上記の通り、出版社が生き残りをかけて効率的になればなるほど、相対的に同人誌は面白くなる。

 

宝島にしても、徳間にしても、三才にしても。かつて、そうした規模の出版社が請け負っていた、ニッチな雑誌による情報提示は少しずつ同人誌の土壌となっているように思える。昨今のグルメ系同人誌ブームやダムや団地、廃墟といった建築物写真集、また特殊な企画の評論同人にフォーカスが当たっているのは、まさにその流れの一端ではないだろうか。そして、上記のような「ちょっとしたアイデアが光る」という小回りの効く作品がきっちりと評価を受けるのも同人というサイズ感ならではと思う。(当然マネタライズの問題はあるが、今出版社がそのサイズ感のマネタライズを請け負えるとは思えない)

 

そして、もはや全国流通というシステム自体が厳しい現実を突きつけられている。電子書籍なんて言ってる場合でなく、各種映像配信やVtuberといった新たな対戦相手も数多くいる。娯楽や教養が地域や年齢、性別にかかわらず個別化し、そこに大量生産を前提とした現物流通という形でコミットすること自体がナンセンスに近い状況に陥っている。むしろ先の小規模に同人誌を作る形以上にマネタライズに難が生じる事も考えられる。(印刷会社の受注額、作者の印税収入、広告費etc)

 

何か発信したいと思った際、当然同人誌じゃなくてもブログでもオウンドメディアでもなんでもいいのだけど。ただ、案外バズることを前提にすると、ネットメディアは詰まらなくなるし、炎上やら怨嗟やら無駄なリスクがある。「儲かりたい」ってストレートに言われたら勧めはしないが「面白いことをやりたい」という意味では、クローズドでありながら自分の意思を表出出来る、そして小さいながらも確かなコミュニティを形成出来るという意味で、同人誌という古臭いメディアは無駄に底堅いんじゃないかと改めて感じ始めている。

 

・「独りよがりの面白さ」の破壊力

先にも言ったが、同人なんて所詮は趣味である。同人誌という媒体をいわゆる「メディア論」に組み込むと、ビジネスやらマネタライズが前提となったりして。そこと同列に見てしまうと「いや、同人を同列に語るのはおかしいでしょ」というツッコミが入り、その指摘はそれ以上ないほど正しい。稼ぎたい人がやるもんではないと思う。そもそも前提が違うし。

 

ただ、逆に。「面白いことやりたい」って人はあえて同人から何かを起こすのは今アリだと思う。「遅いメディア」なんて言葉もどこかで聞いた気がするけれど、そういう意味で同人誌はめちゃくちゃ遅い。自分の意思で「面白い」と思ったものを紙やらメディアにして、せっせせっせと自分で売るのだ。地道な作業だしリアクションも遅い。自分でも「何してんだろう」って思うのも日常茶飯事である。

 

ただ、スティーブジョブスの有名な言葉として「消費者は何が欲しいのか、見せられるまで分からない」というモノがあった気がするけれど、まさに需要を見て作られたものよか「これ面白いだろう」と、全力で殴られたモノが好みにハマったとき、恐ろしい程の訴求力を持ったりする。そして、僕個人としてはついついそうした「独りよがりの破壊力」にどうしても期待してしまう。現にこれまで10年以上同人誌という媒体にハマってきた淵源はそれである。

 

本という媒体はこれまで、全国流通でも非常にニッチなジャンルの本を扱ってくれた。それが出来ていたのも、一人ひとりの編集者の熱や、作者、営業の思いが比較的小さな規模で回っていたりして、それを伝達する方法も印刷して製本して全国流通させることが、ネットワークの全てだったからだ。

 

それが今、崩れようとしている。僕らが教室の隅で読み漁っていたしょうもないサブカル本やファミコン雑誌、ホビーカルチャー雑誌、マイナーな漫画雑誌・・・皆にはイマイチ伝わらなかったけど、どれもやはり面白かった。正直、メジャーな面白さではないのは認める。小さな物語に過ぎない。ただ、多分作っていた方は、それが「面白い」「熱い」と信じて全国流通させていたんだろうし、案の定それに震え、共感した人間はいるのだ。

 

そうした、教室の隅で感じた、街の本屋の隅で感じた、独りよがりなあのワクワクを維持出来るのは今、同人誌しかないんじゃないかと遠大な独り言として文章にしてしまった次第である。

 

 

今日、「文学フリマ」に行き「あぁ、面白いな」と思える同人誌を買えた裏で、ツイッター上のタイムラインには漫画家さんが「印税の低さ」に嘆き、また電子書籍媒体の各社の足並みの揃わなさを糾弾する記事が流れ。なんていうか、ちょっとしたサブカル気質だったり視点の根暗さ、オタクの執念が生み出すような面白さをどう活かすべきか、考え出してしまい。

 

当然に同人誌から延長させて電子書籍化だったり、マネタライズを考える方法もあるとは思う。ただ、それ以前に「面白い」モノをという気概も一緒に論じられてもいいのかなと感じた。