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わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

ゆるやかな全体主義社会の中で~城山三郎没後10年に想うこと~

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日本人で一番好きな作家は誰か。そう問われたら僕は確実に城山三郎と答える。

 

氏が亡くなったのは2007年。気づけば10年が経過してしまった。代表作を挙げるならば唯一文官でA級戦犯となった広田弘毅を取り上げた『落日燃ゆ』、金輸出解禁に奮闘をした浜口雄幸井上準之助にフォーカスを当てた『男子の本懐』、また当時通産省における高官たちの仕事や人事に纏わる姿を描いた『官僚たちの夏』、とある商社マンの企業組織における立ち振る舞いやビジネスマンとしての幸せは何かを考えさせる『毎日が日曜日』など。紹介しきれないほどの名作を残している。

 

そして今回、ちょうど没後10年に合わせて発刊された『よみがえる力はどこに』(新潮文庫)という講演や対談をまとめた本を読み終えたところだった。経済小説の第一人者として知られる城山氏だが、むしろその企業や国を動かす個を扱う情熱は計り知れない。やはり氏の発想が今の世においても、いかに生きるかを考える上で重要なヒントになると改めて実感した為、このような文章をぽつぽつと書き始めてしまった所存である。

 

・組織の中の個こそが希望

先に挙げた『よみがえる力はどこに』でも読むことができるが、基本的に「組織は信用ならない」というような発想が城山文学には貫かれている。それは戦時中、氏が海軍に志願して入団したものの、その内部の実情が惨憺たるものだった事が大きな要因となっている。リンチやしごきなど内部の腐敗が進み、戦争の大義以前に日本軍のこのような組織体や正体不明の権威という存在に強い違和感を感じたということである。

 

さらに、戦後。人々の価値観はそれまでの「鬼畜米英」から180度変わり、インテリの間では「戦争に行かなかった方が偉い」「軍隊なんかに志願したヤツはバカだ」というようなこれまでと全く逆の風潮が生じる結果となる。戦時においては称賛された行為が、終戦を境にまるで違う扱いを受けるという事も氏の感情にしこりを残すこととなった。

 

このような氏の原体験によってその作風は「組織とはなんなのか、個とはなんなのか」「組織の中での個の幸せとは何か」というテーマに収斂されていく。上段で挙げた各作品も然りで、国家、企業、省庁といった巨大な組織から各人物をピックアップし、その中でいかに自分の生きざまを貫いたのかが、それぞれに描かれている。

 

特に戦時下、時の首相にもなった広田弘毅の『落日燃ゆ』は伝記ながらも、城山氏としての考え、そして在り方が投影されている作品となっている。「みずから計らわず」と外交官としての道を選びながら出世コースには上らず、しかしながらも時の流れによって首相まで上り詰めてしまう。軍部先行の時代、文官として幣原外交が目指した協調外交路線の維持を模索したものの、結果軍の妨害により破綻。結局東京裁判ではA級戦犯として処刑されることとなる。本来であればその罪に対して反駁するものがあるはずのところ「その責任は私にもある」と戦争責任に対する抗弁を全くしなかったという姿が描かれた長編ノンフィクションである。

 

城山文学全般に貫かれているのは、先ほども言った通り「組織の中の個」という存在である。広田弘毅は結果だけ言えば、時代や軍政に巻き込まれ処刑となる。サクセスストーリーなどでは決してない。ただ、どのような状況下であれ、その自分の在り方を貫き通すこと。組織や風潮にブラされないその生きざまとしての強さを我々は氏の小説から学ぶことができる。

 

・負けることのない人生を歩むこととは

僕が城山作品に出合ったのは中学2年生、2003年頃だったはずだ。確か、かなり年上の地元の先輩から勧められたのがこの『落日燃ゆ』であった。確かにその年齢で読むには難しい部分もあったものの、城山文体とでも言おうか。淡々と語られるその時代の状況、そして広田の生き方、言葉。じっくりと読み込めばその意味は自然と理解出来たし、その後何回も読み返した。

 

当時は日本史の授業なんかで戦時のことを学ぶと単純に「軍も政治も一緒になって国民を騙して勝てるはずのない戦争に向かった」という愚かな失敗談として学んでしまう。そうした風潮がある中で読んだ『落日燃ゆ』は僕にとってのカルチャーショックのひとつだった。戦時下においても、何とか平和外交を行おうとした人間がいたこと。そして、その思いも虚しく結果戦犯として処刑されてしまったこと。世の中が単純かつ一辺倒な事実だけで構成されていないことに、この本で気づかされたと言ってよい。

 

そして徐々に僕自身も。当時学生の身分から大人になり。社会で働くようになってから城山文学の偉大さは増して理解できるようになってきている。会社という組織に所属し、賃金を頂く。そのためには淡々と仕事に励み、日々を回していく。社会の歯車とはよく言ったもので、先日の記事にも書いたとおり少しずつ自分という存在が会社の中で、あるいは社会の中で埋没してくるようなイメージを抱くことが増えてきている。どうも、こうした集団の中で行動を起こし、異端になるということはリスクでしかないし、そもそもその労力すら厭う自分もいる。

 

しかしながら、城山作品を見れば、それぞれの組織において自分の個を貫いた過去の偉人、あるいはそこで模索をする主人公たちが多くいる。『辛酸』という作品で描かれた田中正造という人物。足尾鉱山毒物事件において、代議士をやめてまで地元住民と戦い、そしてのたれ死にのような最期を迎えたが、結果以上にその信念や執念こそが最も重要な点であると城山氏は考える。

 

「軟着陸をしない人生を」と題打たれた講演の一部では、どうしても楽な方へと流れる人生だからこそ、自分の中で価値を定めそれに邁進をする。報われることの少ない人生でも、やるべき事を定めやり続けること。この姿勢が唯一人間として負けない姿勢であるし、また、その行動を取ることが出来るからこそ、人間は負けるようには造られてはいない。とヘミングウェイの言葉を引用しながら語っている。この一説こそ、城山三郎という人物が持っていた人間賛歌そのものであると僕は思う。

 

・緩やかな全体主義の風潮の中で

では、冒頭に述べたとおり。僕がなぜこの城山文学における精神が現代の日本に必要だと感じているか、という話に移る。今は戦時下でもない。特に平成の世となって29年が経ち、圧倒的な権威と呼べる存在もなく、核家族化が進み個々人がより自由な暮らしを選択することが出来るようになっている。そういう意味で、過去にないほど我々は自由な生活を享受出来ているのかもしれない。

 

しかしながら、その自由さはある種での残酷さと表裏一体である。なぜなら自らの幸せの定義を自らが行わなくてはならない。組織という存在はその幸福概念の決定という行為をある意味で代行してくれるものである。例えば、国家という存在がもっと求心力を持った存在だとして。経済的な発展こそが自分たちの幸せに直結しているという確信があれば、それはある意味で幸福なケースといえる。まさに昭和の高度経済成長期がこうしたパターンの時代だったとも捉えられる。

 

反対に「失われた20年」にまさに青春が重なった世代にとって、この発想はピンとこない。自国のGDPがどれだけ自分の幸福に直結しているのかもわからず、また家族という存在も多様化し、メディアに至るまで様々な手段と方法によって、それぞれが自分だけのオリジナルな幸福観念を探すような状況となっている。そんな時代だからこそ、今の世代というのはSNSといったぼんやりとしたつながり、家族や会社といった既存でないコミュニティというものの重要度が相対的に上がっているのだろう。やはり和辻哲郎が言うように「人間」と書く以上は人はどこかで組織を、社会を求めて生きてしまうのである。

 

要は、現代とは形式上は最大限の自由を宣揚しながらもその実、SNSをはじめとした色々な人間との複雑な関係性によって社会における自我が成立しており、それは今まで以上に「無意識下での」全体意識の形成につながりかねない。つまるところ、日々の「あの人はこう思っている」「こんなことを言っている」という内心の吐露が必要以上になされることによって、あるいは、それを見てしまうことによって、自分自身の「個」を持ち続けることの難易度は上がっていると感じられるのだ。

 

緩やかな全体主義社会、と書いたが誰もが内心をさらけ出すことによる内心の平均化リスクとでも言おうか。そうした事態がありうる時代において、城山文学で示される個を持つあり方というのはやはり輝くものがある。個は組織の為にあるのでなく、個の意思を貫くために組織がある。この発想というのはあくまでも、自らがどういった生き方を貫くのか、何をし続けるのか。という意思決定からスタートしている。何かと始まりの季節である春ももう既に晩春の気配が強いけれども、もう一度改めて城山文学に触れることで、自らの襟を正すがごとく自らの生の方向性を考える、というのも悪くないのかもしれない。

桜が散る季節の考え事

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今年も早いもので桜が散る季節となってしまった。年が明けたと思ったらもう4月も中ごろ。今日は東京でも25度を超え、夏日とのこと。わかっていてもこの寒暖の差には身体もなかなかついていかず。疲れやすい日が続いている。

 

そんな後ろ向きな話はさておいて、今年は案外天候にも花にも恵まれ各所でも桜を見ることが出来た。その中でも驚いたのは写真も上げた目黒川。都内でも江東墨田などの下町に住んでいると、桜の名所といえばやはり千鳥ヶ淵や上野公園かと思っていたが、気づけば目黒川もその地位をしっかりと上げていたようで。10年前程の記憶では、目黒川はどちらかといえば「隠れた名所」ではなかっただろうか。ゆっくりと桜を見るには適したスポットという印象を持って、会社終わりに桜でも見ようと中目黒駅から電車を降りようものなら、人の群れのすごいこと。出店もにぎやかでもはや祭りの様相。酒を片手に数十分ほど花を楽しんだら早々に切り上げてしまった。都内住まいでも山の手の東で生活を終えていると、なかなか新宿より西側の感覚にも疎くなる。たまにはそちらに顔を出すのも悪くないと思えた。

 

今日ふと書き出したのは、その時の花見の様子ではなく。ちょうど今の時分の桜の木のことである。花が散り、葉がしっかりと見え出すようになっている。僕個人としては、この葉桜と言われるピンクと緑のコントラストが楽しめる、この季節の桜に何か魅力を感じてしまうのである。むしろ、満開の時の桃色がかった白が一面に広がる光景よりも、この中途半端な状態の桜のほうが良いと思えるほどだ。昔からうっすらとそんなことは思っていたのだけど、どうも歳を重ねるごとにその思いが強くなっているように思う。花を落とし、葉が育つ。その在り方を僕はどのように見ているのだろうかと、1週間前までは人でにぎわっていた地元の桜並木を通りながらそんな内省を抱いてしまったのである。

 

そんなことを考えていると、昔読んだ小林秀雄という思想家の話が頭をよぎる。確か『学生との対話』だったか『考えるヒント』だったか。とかくその内容はソメイヨシノをこき下ろす話だったように記憶している。本居宣長の「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」という句に触れ、この国の桜は古来からソメイヨシノではなく、山桜だったはずだと。本来桜は、花と葉が同時に見られるから美しいのであり、今の桜の代名詞となっているソメイヨシノには趣すら感じない。という内容だったはずだ。その後も諸々、戦中の意識や古来の日本文学における桜に触れながら、ソメイヨシノを論破していくのだけれども、確かにすべての桜が満開を同じくし、数週の命で散っていく。その姿に我々見ている側としてはロマンを感じるのだろうけども、その潔しとされる風潮にも短絡的な思考が見えなくもない。

 

言ってしまえば、ソメイヨシノは花の満開の為にそこにある。毎年それを楽しみにし、人が寄ってくる。都度その1週間ほどの時期の為に桜という木が存在しているかのように。なんというか、僕としてはこの時期は人間でいえば幼い若い時を重ねてしまう。自分の存在意義を全面に押し出し、それに対して周囲も期待をしてくれる。疑問も少なく、これからの将来は開かれたものと信じている。しかし人も徐々に気付き出す。自分の花もいつか散ること、その散った先には周囲と比較しても大差がないこと、むしろ劣っていたり、あるいはそれに妬みを抱くのかもしれない。皆んな将来の夢を聞かれ、例えばプロ野球選手や芸能人、CAや社長になれるというようなぼんやりとした夢が醒めていき、少しずつ自分が稀有な存在であるという思い込みを放棄せねばならない。そんな時期がくると嫌でも思い知る。

 

僕はこのように、人が成長し、徐々に思考が大人になり始める時期をこの桜の花が散る頃になぞらえてしまう。花が散ったあと、自分に残るのは葉と幹。もはや、草木に詳しくない人が見れば桜であるというアイデンティティすら失っている、ただの樹木と化す。春に見るからこそ桜と呼ばれるその木々は、花を失い本当の自分自身と向き合わなければなくなるわけだ。

 

僕は徐々に夏を前にして、葉と幹だけになっていく最後の花を見るのが好きなのだ。好きという言葉に語弊があるなら、つい応援してしまうのだ。自分も常に感じている、先々におけるこの身の振り方。歳をとり視野が広がったからこそ、自分の個性というものも相対的に均されていく。子供の頃の夢なんかどうに忘れ、社会人の1人として仕事に埋没していく日々。果たしてそんな思いすらあったのだろうかと、失っていく記憶の数々。

 

しかしながら、桜の花が散り、その葉と混ざる時を眺めると。僕自身もまた、いつかその咲いていた花のことを思い出し、ただの没個性の人間となったとしても耐え忍ぶ勇気をもらう事が出来る。その中でもまず生きるということを選択せよと言われるような気がする。山桜はそういう意味でも、夢のような花と醒めた葉を本来的に双方持ち続けるからこそ、小林秀雄も美しいと言うのかもしれない。

 

完全に僕自身のエゴだけでモノを言っているのは重々理解できるのだけど。どうもセンチな考え事が捗ってしまい、あまり意味もない言葉を吐き出した次第である。結局明るい話をするつもりがどこか毎度のごとく暗さが伴う結果となってしまった。桜の木は花が散っても桜の木である。その事を覚悟する季節こそが今であり、僕としてもそこからこれからの30代、40代という時分に対して向かい合っていかなくては、と教えられたような感情である。

豊洲市場問題の「安心と安全の違い」から考える僕らが望んでいるモノ

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©小学館 日本橋ヨヲコ少女ファイト①』

 

豊洲市場問題である。都議会の百条委員会において、先月19日いよいよ元都知事の石原氏まで召喚しての質疑が行われた。今日に至るまで、こうした経緯を経ながら小池知事から現築地市場を改修するという案まで再燃していたり、なかなかに紛糾している。その際の石原氏の発言から、今回の問題について感じたことを書いてみる。

www.nikkei.com

 

・「「安全」であるから「安心」する」「「安全」とするから「安心」する」の違い

僕がこの時の石原氏の発言を眺めていて、一番印象に残ったのは小池現知事を批判したこの一文である。

 

「安心と安全を混同し、専門家の意見を信用せず余計な税金を使っている」

 

特に引っかかるのは冒頭の「安心と安全の混同」という一言である。TV、ネット各所でもここについての議論は行われているわけだが個人的にも非常に面白いと感じたのでついつい考え事をしてしまった。多分だけど、石原氏が現役の政治家であったらこの発言は絶対にしないだろうなと思う。石原氏もわざわざ自分から「安心」と「安全」の定義を分離するということは、政治家として面倒な仕事を増やすだけだということを理解しているはずである。

 

何が言いたいかっていうと、普通人は「安全」だから「安心」するものだろう。事実としての「安全」という状況があり、住む上での「安心」が訪れる。しかし、その理屈を抱いていると基本的に「安全はイコール安心」となってくるし、むしろその逆も成り立ちやすい。「今、安心だから安全なのだ」と。

 

僕も今回、百条委でこのように言われるまで、分かっているつもりで頭から外れていたわけだが「安心」の前提たる「安全」である状況は、所詮人間が決めることである。科学的な「安全」という事実だけが厳然とそこにあるのではなく、その事実や数値を認知し「安全」と認定する専門家の存在がそこには不可欠となる。そして、その専門家の発言を都民や国民が信じるか否かは、もはや政治家のプレゼンテーションの力量にかかっているとも言える。石原氏の小池知事への批判というのは「安全という信仰対象を疑いすぎている」という話にも聞こえる。

 

今朝もNHKの『あさイチ』でこの豊洲市場の安全問題が取り上げられ、ベンゼンの健康基準数値について改めて専門家がしゃべっていたが、出演者はじめ視聴者もキョトンとする空気。何言ってるのか正直よくわからん。数値が低いに越したことはないんだろうけど、この数値よか低ければ発がん性もなくなる。知識がないものにとっては「なるほど、そうなのだろうな。」と思うほかない。

 

・日々、一秒一秒に何を「信じる」かという話

もうある程度手垢のついた話になってきていることは理解いただけたと思う。この話というのは、日常生活すべてに通じる話である。言ってしまえばデカルトが大昔に自分の存在すら疑い、人間の実在証明をしようとして、最後に残ったのが自我だけであるという「我思う故に我在り」のようである。

 

僕も最近三十路近くになってきたわけで、多少の運動でもなかなか体脂肪が落ちない。体回りも気になるため、日常的に特定健康保険食品である「特茶」を1日1本飲むようにしている。果たしてこれは効果があるんだろうか。続けて2週間ほどになるわけだが、うーん。多少の違いはある気がする・・・でもこれを飲むついでに日常的に運動をしようと心がけた成果なのでは・・・どちらにしろ、日々健康に気を遣うようになるんだったら飲むほうがいいよね。というように、もはやまるで「特茶」自体の効果とは離れたところで、継続している。

 

いろいろなデータが手に入るようになった現代だが、残念ながらそれが果たして自分の身体にどのような結果を及ぼしているか分かる術は持ち得ていない。余りあるビッグデータに対する処理が追い付いていないのである。そのデータを処理する専門家が必要だし、我々はどこかでその専門家の発言を信じる必要がある。そして専門家にとっても、経験していない未来のことはやはりわからない。その世界に精通していない一般庶民からすれば「おいおい、正しいこと言ってんのは誰なのさ」状態である。

 

じゃあ、こんな状況下我々は何を基準に判断を行っているのだろうか。端的に言えば、知識や経験がこれにあたるだろう。

 

具体的な例を出して見よう。美味しい飲食店を知るためには「まず情報がないところから足を運ぶ」あるいは「口コミ情報を集める」基本的にこの二種類しか方法はないだろう。前者は、リスクがより多く伴う。一度ではあるがまずい飯を食う羽目になるかもしれない。しかし後者でもリスクがないとは言えない。80%の人が「美味しい」といっても、自分は20%である可能性もある。本当に確実に成功する判断をしたいのであれば「過去経験した大勢の人が100%美味しいと言ったお店に行く」というパターンを選ぶしかないだろう。

 

ただ、そんな中今回の豊洲の問題で行われているのは「この店の料理の旨味成分の数値は規定値以上だから美味い」という専門家の分析を信じるか否か、という議論に近い。素人からすれば、うーん、わからん。なのだ。

 

豊洲論争はさながら宗教論争のよう

上記は飲食店の話だったが、基本的に豊洲市場の問題でも本質は変わらない。そして「過去経験した大勢の人が100%美味しいと言った店」なんて選択肢はまずないに等しい。安全と安心という問題には基本的にリスクと判断が結びついているという話も既に多くの場面でなされている討論だ。

 

その上で、僕らが望む解を答えるならば、コスパの良い判断だと言えるだろう。低リスクかつ高い安全性。そんな施策をしてほしい。しかし、上記の飲食店の話の通り結局のところ、これを明確に指し示す正解なんてないわけで。リスクを測る定規も、安全性を測る定規も。それを決めるのに喧々諤々の議論が必要となってしまう。そうであればあるほど、詭弁でもいいから明確な理屈が必要になる。要は納得感である。みんなが見て「あぁ、そうなんだね」と思うこと。これが結果安心となる。

 

石原氏の批判はこうして考えると、クリティカルにも見える。安全であること、安心をイコールで結びつけると答えのない迷宮に入り込む。どこかで線引きをしなければ、先へ進むこともままならない。その線引き作業こそが政治そのものだと言える。ただ、石原氏の意見にそのまま頷いていると、ふたを開けたらグダグダみたいな。今回のような問題となる可能性も否定できない。

 

嘘をつくならバレない嘘を、とはよく言ったもので。しかし今回、石原氏がこの発言をしたおかげで、最早論点は「専門家と呼ばれる人達は信用できるか」という身もふたもない話になってきている。市場がどう、とか経済効果がどう、とか付随する筈の様々な論点が外され、とことんその一点にのみ集中しているように感じる。

 

色んな事柄は付随する利益を伴って、総合的に判断されるのが常套である。しかし、時間が経過し、この安心安全という議論に集中したことで「信じるか否か」というさながら宗教裁判のような様相を呈している。僕らはこの行く末をよくよく観察した方が良いと思った。今後、技術発展が加速し世の中のスピードが速くなる中、法整備も含めてこのような「信じるか否か」というシンプルかつドロ沼な政治議論は増えるように感じる。原発の是非もこれに近いが、経済性が議論に登場する為、まだ利害の均衡という点にある程度の整合性が保たれると考えられる。

 

今回のような純粋な殴り合い議論は、ある意味一般的な市民が知識ベースではカバー出来ずに、感情論だけを戦わせてしまいがちなモデルケースとして重要な議題かもしれない。その結論をメディアの反応含めて見ていきたい。

批評と意図についての話

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©2017 ひるね姫製作委員会 出展・ワーナー公式サイトより

https://warnerbros.co.jp/movies/detail.php?title_id=51422

 

季節の変わり目ということもあって、なんだか意味もなくイライラしている。あまりストレスをため込むのも健康に良くないとは思いつつ、膣圧が強くなければ性交中射精すりゃできやしない。何が言いたいかっていうと、多少のイライラや抑圧があったほうが考え事はアウトプットされやすいってこと。もう最初からどうしようもないたとえなのだけど、最近何かを批評することについて考えていたことをまた漏らしていく。基本的には前回書いた記事の続きというか、ほぼ近しい感じの事ではある。

 

・面白いか面白くないかの前に考えるべきこと

ということで、タイトル下にも画像を掲げた通り。3月18日(土)に封切となった『ひるね姫~知らないワタシの物語~』を早速見てきた。『攻殻機動隊S.A.C』『東のエデン』といった作品で知られる神山監督の最新作。予告だけ見るとかなりファンシーな感じだが、これまでの経歴を鑑みるになかなか安心して観ることができない。さて、いざ勝負と意気込んで見てみたのだが、思いの他かなりふんわりとした印象を受けた。

 

簡単にストーリーを。主人公は至ってふつうの田舎女子高生、森川ココネ。昼寝が得意な彼女が見る夢と、現実におけるストーリーが徐々にリンクしていき、双方での冒険を通して自分の出生の秘密や家族の謎などが少しずつ明らかにされていくというファンタジー調ファミリー冒険活劇。とでも言おうか。個人的には『パプリカ』を『ジュブナイル』で割って『サマーウォーズ』で味を調えて『パシフィックリム』を隠し味に入れた、そんな感じの印象を受けた。

 

ぶっちゃけてしまうと、個人的には上記の通り雑多すぎてストーリーの奥行に物足りない感じを受けてしまったのだ。それはそもそも僕が神山監督の過去作に引っ張られたままの期待をしていたからという理由もあるのだが、もう少し各キャラクターの心理や過去に基づく描写や要素が欲しかったな・・・と感じつつ、TOHOシネマズ日本橋を後にしたのである。

 

んー、もうちょっとなぁ。そんな感情を抱きながら今朝。毎朝のNHKの『おはよう日本』を見ているのだけど、そのエンタメコーナー内で神山監督が本作を語っていたのである。その一部、記憶している限りではこんな感じだった。「3.11以降、それまで当然とされていた平和な日々が現実的なものでなくなった。逆に平穏無事な世界がファンタジーのような存在になってしまい、アニメ作品として描くのが難しくなっていた。今回はその上で自分の子供に見てほしいファンタジーを描いたつもり」という話だった。

 

この話を聞いた時に、なんていうか非常に納得できた。というより反省した。そもそもこの作品の向いている先は僕ら疲れたアラサーリーマンおっさんオタクではない、という話である。例えば今の10代が見て、この作品を新たなファンタジーと捉えられるかどうか。そんな意図と狙いに溢れた本作に対して「この映画には僕らにとってのカタルシスが足りない」と言うこと自体がナンセンスだったようにも感じる。朝から自分自身の観点が凝り固まっているという事に気づかされるようであった。それを踏まえてもう一度、心をリフレッシュして観てみたくなってきた。

 

・制作の意図を汲んでカテゴライズするのが「批評」

僕個人の意見を言えば、単純に自分の物差しでただ「面白い」か「面白くない」かを論じるというのは批評ではないと思っている。何の為に、誰を対象にして作品が作られるかを勘案し、その情報を然るべき人に提供する、リコメンドする。これが実益を伴った批評の在り方だと僕は思う。食べ物と同様にストーリーの好みなんて千差万別で、前回の記事でも書いた通りだが話に得手不得手もある。アレルギーを持っている人には逆にストップをかけてあげ、逆に食わず嫌いなら、どう克服させるかというのも、何かを批評することの醍醐味であると僕は思う。

 

ここまでくると実際、ビブリオバトルやプレゼンに近い。そんなものは批評の枠組みではないというお叱りも受けるかもしれない。ただ、何にせよ今回の本題として言いたいことは意図や狙いを考えよう、という事である。よくネット上にて、巷でヒットしている作品に対して噛みつく意見もよく見かけるが、こうした場合完全にただ自分のテリトリーの中に持ち込んで、ストーリーがなっていないとか技法がクソだとか該当するタイトルを叩いている場合が多い。何故そのような作品を作ろうと思ったのか、あるいは何故そうした技法になったのか、という部分から論ずる人が少ない気がする。

 

意図を汲むといっても、必ずしも正解である必要はない。その考える姿勢こそが作品を論じる上で最も重要なポイントだと思うのである。例えば今回アカデミー賞で話題となった『ラ・ラ・ランド』正直言えばストーリーはシンプルであり、あまり深みがないと言えばない。しかしそこだけで論じるべき作品だろうか、そうではない筈である。アカデミー作曲賞美術賞を受賞したように、高い芸術性にこそ演者や制作陣の意図は込められていると感じるし、ストーリーがシンプルだからこそ、演出が際立つという見方も出来る。

 

乱暴に言えば、B級映画を「クソ映画だ、面白くない」と本気で断じる人は、そもそも作品自体を批評出来ていないという話だ。そうした過去から連綿と流れるB級の文脈や制作側の意図を汲んでB級映画をちゃんと「B級映画」とカテゴライズをしてあげ、愛好するあるいはそうした同志に紹介できる。そうした深い懐こそがオタク的に作品を語る上では必要な姿勢であると思うのである。当然、救いようもないクソ映画も存在する訳だが、それはそれとして同様に深い部分から断罪してあげるべきだろう。

 

・「クソリプ」とは意図を無視したコミュニケーションである

冒頭から『ひるね姫』を引き合いに出して、言いたい事だけを言っている感が否めないが、結局はそういう事である。こうした意図と批評の関係性は、単純なコミュニケーションの話にまで昇華できたりする。ツイッターなんかでも古来よりクソリプという存在が後を絶たないわけだが、そのほとんどが発言者の意図を気にしない「返答」であると言える。例えば、ふざけたネタツイートに対して、本気でぶつかっていくそのクソリプとしてのあり方は、そのクソリプ主の自己発散でしかない。相手の発言やその意図はもうどうでもいい存在と化している。

 

SNSにおけるこうした発言ややり取りを眺めていると、ちょっと不安になった。意図を無視する流れや風潮というのは、ネットにおける雑多なコミュニケーションの中で増長しているのではないかと。前からこういう話をしているが、批判をしている当人がアピールしたいのは「叩いている俺」であって、趣旨はその作品自体の落ち度ではなかったりする。逆もしかりで、作品を称賛していてもやはり誇示したいのは自分なのである。当然作品を好きになることで、ファンとしての自我を確立させることはあってもいいのだが、コンテンツの意図すら無視した自分ありきな「批評」の存在には違和感を感じていた。

 

そして、どうやらそうした嫌悪の対象として自分すら棚に上げきれなくなってきたのを、今朝感じたのである。客観的に「これは誰向けの作品」「どういった趣向なのか」という形で考えることを放棄して「なんとなく面白くない」と考えがちだった自分の観方と向かい合ったのである。無理して食べるということではなく、何故あまり美味しく感じないか。それを考えることは、作品を楽しむうえで決して無駄ではない。

 

「今を生きるオタクの価値観は、日々、毎時間更新されるべき。」そう先達に教わったことをふと思い出した。クソリプばっかの老害にならない為にも、また自分自身のものの観方を柔軟に保つ為にも、この意図を汲む姿勢というのは忘れないようにしたい、という自戒のめんどくさい日記でした。

「その映画面白い?」に対する正しい答えがわからない

今日は「人によって面白いと思う作品って違うよね」っていう当たり前のことをうだうだ考え始めてしまったので、それについてのぼやきです。

 

・「俺がその映画面白くないと思っているのは、俺に映画を見る素養がないから」

最近映画を見る本数が増えてきた。要因はいろいろある。TOHOシネマズ日本橋が会社から思った以上に近いと気づいたり、amazonで乳首責めグッズ注文したら「あれ・・・なんで送料無料になるんだろ」と、調べたらプライムに登録していると後から知ったり。劇場やら家のテレビ含めて、今年に入って見た映画の本数は10本程。

 

そりゃ映画通からしたら「なんだよたったのそれだけかよwwww」と一笑に付されるのはもう最初から分かっているので先に拗ねているのだが、元来「2時間も座って1作品見ている時間がもったいない」とか思ってた人間にとっては大きな進歩であろう。(アニメは一気見するくせにね)まぁ、単純に歳をとって時間感覚が変わっただけという言い方も出来る。

 

そしてそれだけ映画を見ていれば、毎度ブログに感想書いて細かくPVでも稼ごうかと思ったりする。しかしながら、語ろうとするほど「あれ・・本当に面白かったのか・・・この映画・・・」と自分の感覚が分からなくなってくる。見た直後「良かった」とか「イマイチだったな」とそんな印象は抱くのだけど、果たしてそのインプレッションが「あるべき批評」なのかが分からなくなってくるのだ。

 

「素人が何を評論家気取って悩んでんだ、書きたいこと書け!」そんな批判は既に左脳が延々繰り返しているので知ってる。しかし、例えば自分の感情論振り回して「物足りなかった!」と叫んでみても、それは自分にその物語を楽しむ素養や感受性が欠けていただけで、映画がクソなんじゃねえ、お前がクソなんだよみたいな、デカルト的思惟に至ってもう何も書けたもんじゃない。先日も『ラ・ラ・ランド』鑑賞後、思いの丈をブログにぶつけてみたが、後から読むと、客観主観が綯交ぜになり、例えもぐちゃぐちゃ。「高級すし屋でお任せ頼んだら最後に鯖が出てきて、ちょっとがっかりしたけど結局めっちゃ旨かったみたいな」と本作を見てない人でも語彙と感性の壊滅っぷりがご理解いただけるだろう。いたたまれなくなって、そっと下書きにぶち込んである次第である。

 

・2017年 おっさん同士の『ラブライブ!』討論

ふと先日の話だが2017年の今更、初期『ラブライブ!』の感想をアラサーおっさんである私と、友人であるアラフォーおっさんと討論。ちょっと酔っていたこともあり本格的な口論に発展。宅飲みの最中、本気で険悪な空気になった。振り返ればそれはそれで笑えるエピソードなのだけど、やはり人によって「作品を楽しむ素養」の相違があることに今更気づかされる。

 

僕はちなみに1期でキツイ。別の場所でも書いた気がするが穂乃果がことりの海外行きに対して反対を示すシーン。あそこで一気にチンコが萎えたのだ。いや、未来ある学生が母のコネでも海外経験を積めるチャンスだぞと。本人が行きたくないという意思はあれど、友人としては背中を押してやるのが筋じゃねえの?ただ、穂乃果が海外行きを応援したとして、その上でことり自身で「行きたくない」と決意を固めて日本に残るとしたなら僕は納得しただろう。あるいはアイマスみたいに、プロアイドルであれば海外行きを止めるメンバーの気持ちも理解できなくない。ただ、プロでもないスクールアイドルが大親友の将来を一時の感情で止めていいもんかね。とか。

 

そういう理屈だったのだけど「いや、そこそもそもラブライブ!の主題じゃなくねえ?そもそもことりは止めて欲しかったんだから」と一発でぶった切られた。あ、そうなのね。そういう作品か。確かにあれが添え物としてのエピソードなら、うな重の横の奈良漬けに憤慨してる自分が実に滑稽である。そっか、俺奈良漬けをまずいまずいって言ってたのか。そんなこともあり、冒頭からの葛藤の通り、何が面白い作品なのか分からなくなっていたわけだが。そこからむしろ自分が何をもって映画やアニメといった作品に対して「面白い」と断定しているのかに興味が湧いてきたのだ。俺の基準って一体。そもそも何が琴線なのだろうと、そんなことを暇つぶしに考え出していた。

 

・「その映画って面白い?」に対して

もうお分かりかと思うが、この問いに対する解は「自分で見てみれば?」である。だって面白いって思う事は本当に人それぞれなのだもの。僕にとってのうな重が、貴方にとっての肝吸いかもしれないし、その逆もまた然りなのだ。わっかるっかなぁ、わっかんねぇだろうなぁ、なのである。

 

そして、先ほどの内省を経て、おそらく僕の場合「あぁ、この作品面白いなぁ」と感じる作品には「必然性」という要素があると感じる。つまり伏線の回収や過去との合致、そして作品のその先の世界が想像できるか、といった具合だ。逆にそれが薄かったり納得いかなかったりすると僕は「面白くねえ」となる。

 

よくクソ映画としてみなされる「投げっぱなし」タイプの話がある。「え、この後どうすんのよ」みたいな。たくさん候補はあるだろうが望月峯太郎氏の漫画を実写映画化した『ドラゴンヘッド』等は投げっぱなしジャーマンの代表作としても知られる。昔劇場で見た為、絶対忘れもしないが、EDを迎えた際にほぼ全観客から「「えっ?」」というざわつきが起きるレベルでのジャーマンである。

 

また書いていて思い出したが、そうした作品を忌諱するきっかけになったのが、水島新司氏の『ドカベンプロ野球編~』である。本来大好きな作品なのだが、プロ野球編も長くなると水島氏の悪癖、伏線張るだけ張ってその存在を忘れる「伏線張り投げ」という技が編み出されていく。特に酷かったのが明訓高校から巨人に入った微笑三太郎というスラッガーがいる。某シーズンの冬季自主トレで、彼の調子が思わしくないという話題が取り上げられ「そのトレードマークである微笑が彼の顔から消えた!!」みたいなコマがデカデカと掲載されたにも関わらず、なんの復調の描写もないままその年の年間MVPを取るのだ。え?微笑の顔から微笑消えたの過去初だよね?めっちゃ大事件だよね?それを普通に流すの?多感な巨人ファンの子供だった当時、僕はそのことに納得が全くできず全巻売ってしまったのも懐かしい。

(※その後のスーパースターズ編でもまた微笑、スランプで笑わなくなる)

 

自分でも何が言いたいのか分からなくなってきたのだけど「必然性」という要素はどういったものか。例えば僕の一番好きな映画は『ビッグフィッシュ』だ。見た人には分かるだろうがあの伏線回収の仕方である。それまで話中に散らばっていたものを、最後には綺麗に取りまとめるあの手法である。すべてが必然だったことに、やはり感動を覚えてしまう。

 

むしろ、たとえ内容が不可解でもバッドエンドでもその「必然性」さえあれば僕は良いのだということも分かる。もう1本、僕が好きな作品として。賛否が分かれる『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』などは、完全にその必然性に惹かれた作品だ。個人的にはこの作品があったから「まどか☆マギカ」全編を好きになれた程である。本編において僕が不服だったのは、ほむらがまどか救いたさのみでタイムリープを繰り返す事に対し、報いがそれまでなかったからである。そんな型月で言うところの第五魔法を何回も犯して彼女に代償がないはずなかろう、と。愛が憎しみと同化し悪に堕ちた彼女を見て、涙を流しながら納得したのも懐かしい。完全にものの見方が穿ってるのは自分でも分かってるので、石など投げないでほしい。

 

 

とかくまぁ、ブログでこういう真似事をしてみると映画評論家だったり文学評論家っていう人たちは本当に大変だなぁと思う。自分のエゴにどこまで自分の客観性を付与させるのか。そのバランスの駆け引きは難しい。正直言えば思った通り自分の納得いかない部分を晒し上げた方が人の目につくし、言葉は悪いが炎上商法みたいな記事も書けたりする。むしろ言葉には「勢い」というものがある。客観性は調味料くらいのほうが、味が伝わるものなのだろう。ただ、その分、感情論を勢いよく繰り出すと脚が浮く。ネット社会とは怖いところで、誰かの上がった脚をやれ武将の首のように取りたがる足軽が多いこと。

 

今回はコミケ原稿の合間に、気を紛らす為考えたことが長くなってきて文章にしてしまったが、たまにはこういう考え事も面白いものである。なんとなく自分の性質を知るという意味でも「コンテンツや作品の好き嫌いの基準」を自分で考えるという営みは無駄じゃないのかもしれない。きっと好きな映画やアニメに出会える機会も増えたらいいなと思う

FGOが僕に思い出させてくれたこと

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あんだけ「おい、Fateばっかりにかまけやがって!お前らに課せられた本当のグランドオーダーは月姫リメイクの完成だろ!!」とか延々悪態ついていた僕も気づけば人理修復完了。いやぁ、ほんとごめんなさい。アメリカ編以降「バカ・・・最高かよ・・・」という言葉しか出てこず、更に終盤キャメロットからバビロニア、そしてソロモンなんて泣きすぎてティッシュ3箱切らすわ、しまいにゃ電車内でやってて泣けてくるのを必死に花粉症の体にして誤魔化すとか、「ソシャゲなんてやらない」と貞淑気取ってた自分が股ガバガバもいいとこ。今回は新章『Epic of Remnant』も好況の『Fate/GO』をようやく一旦クリアできた面倒な型月厨が好き勝手言い散らかすよ。

 

・見返りもなくゲームをしてたあのころ

僕はもともとそんなにゲームをやる子供ではなかった。いや、格ゲーに幼少からハマってたので確実に好きだったのは認めるのだけど、事の発端は今から17年前の3月。2000年のPS2の発売だった。当時末端価格で4万もした記憶が残っている。その価格に見合う128ビットという圧倒的な表現力、そして魅力的なタイトルにくぎ付けになり、誕生日・サンタじじい・お年玉、すべてを総動員、総攻撃を仕掛けるも結局貧しい我が家には手が届かず。まぁ、今思えば一番経済苦が酷かった時期で、おかずにめざし3匹なんていう昭和のマンガでしか見たことない夕飯も経験した頃だ。

 

周囲の友人がゲームにうつつを抜かすなか、どんどん捻くれていった僕は、野球やギター、勉強に熱中。「ゲームなんか現実に有用でなく、そんなことに時間を消費するなんて無意味だ」と子どもながらに自分に納得させ、次第にゲームをプレイすることから遠ざかっていく。クソマセガキである。しかしながら、前にも触れたがこうした頑なな姿勢は、一度ヒビが入ると全崩壊を起こす。中学以降徐々にオタク文化に染まっていく中で、ついに自分の城たるPCを高校時代に購入。(当然親に買ってもらえないので、奨学金をすべてぶち込んだ)

 

即いくつかエロゲを貪るようにプレイ。なるほど、こういうものなのかと理解していく中で、とうとう出会ってしまったのが『月姫』という作品だった。コミケで知り合った友人から面白いよと『月箱』を貸してもらう。それまでのエロゲは名前の通りエロ目的でプレイしていたが、どうも純粋にテキストを進める手が止まらない。なんだこのうざったい文体、そして完全な中二展開にシンプルながらもキャラが心をつかむことつかむこと。初めてストーリーに「持っていかれた」作品だった。

 

そして、そのころ既に『Fate/stay night』も発売されていた為、『月姫』をプレイし終わった僕は翌日部活を「病院行ってきます」と休んで秋葉原ソフマップに急行。なけなしのお年玉をはたいて購入。もうそりゃ、没頭もいいとこ。登校中でもセイバーのこと考えてるし、授業中でも桜のこと考えてるし、野球のノック中も遠坂のこと考えてるしでほんと生活にならない。当時結構本格的な野球部だったので朝練も当然あり、家を出るのは5時半。『Fate』のプレイは朝4時までと決め、ギリギリの体力で日々を乗り切っていた。早朝起きてきた母親が、PCを前に感動の涙を流す僕を見て「あんた気狂ってるんじゃないの!?」とブチ切れられたのも懐かしい。いやぁ、うん。気狂ってたわ。

 

更に高校時代。周囲には男オタクも少なかったため、布教活動にも精を出した。自分が書いたキャラ絵なんかをあえて晒して隠れオタクを引っ張りだし、そこから『Fate』を勧める。またゲーム文化になじみのないやつには『空の境界』を「面白かったよこの本」と無理やり読ませてみる、などもう今思えば自分を殺すしかないような鬼畜な所業を繰り返していたわけで。その熱量たるや、若気の至りで言い訳できるレベルでもない気がしている。ほんとにごめんなさい。

 

・コンテンツを消費するのは何のため?

ただ、そうした熱量が続くかというと正直厳しかった。熱量のピークは『ひぐらしのなく頃に』や『Fate』のFD『Hollow ataraxia』をプレイしていた頃のように思える。その後、大学へ進学すると、徐々にバイトなどを始めたり、同人活動にも手を出した。そこで受け手のみでなく「何かをアウトプットする楽しみ」に気づきだしてくる。当時はバンドも組んでいたし、漫画も結構真剣に書いていみたりと、これまで散々ため込んできたオタクとしての経験値を少しずつ表出することに陶酔を覚えていたのかもしれない。

 

そして、コミケをはじめとした同人イベントにも参加してみると、やはりより良いものを作りたい、周囲から評価をされたいと感じるようになる。そうした感情が湧いてくるのは致し方がないことだと思う。更に上を目指す為には、なるほどいろんな作品を見たり、プレイすることは自分のアウトプットにもつながるんだ。そうした実感を徐々に得ていく。意識的にTSUTAYAに通ってアニメを一気に借りたり、何か表現したいことをベースにエロゲをチョイスしてみたりと、どことなく自分の地盤を作るために各作品を享受する事を覚えだした。いや、そのおかげで様々いまだに忘れられない素晴らしい作品と出会うことも出来たし、確かに絵を描く、楽器を弾くモチベーションに繋がったのも間違いない。

 

ただ、社会人になると。その時間の確保すら難しくなる。これまでの要領で何かを作ろうとすると壁にぶち当たる。インプットが足りない。ただ、そのインプットもアウトプットを無理やり生み出したいが為の仕入れでしかなくなる。つまるところ当初と比較すると、目的と手段が逆になってきて素直に作品を楽しめない。そして周囲を見ればソシャゲが盛隆。課金で儲けるその姿が一時のマネーロンダリングにしか見えなくなってくる。ゲームってこんなんなのか?いや、そこを受け入れられない自分が悪いのか・・・などと疑心暗鬼になったりもした。

 

とかく、何を見ても「これは自分の糧になるのだろうか」とか「このゲームをプレイする時間は有用なのだろうか」と結局、マセたガキだった嫌な小学生の頃の自分に少しずつ戻りかけていたのかもしれない。

 

・やはり、好きなものはすきだからしょうがない

実を言うと、非常にここのところも精神状況がこんな感じであり、何をしても楽しめないというような感に追い詰められていた。何か見なくては。枯渇してるだけだ。とamazon プライムを探ってもピンとこず。ただの同人作家リーマンが何をそんな焦ってるのだと自分でも笑いたくなるのだけど、こればかりは性なので仕方ない。

 

もうダメだ。諦めてFGOでも腰を据えてプレイするか。そんな境地の中でようやくクリアを目指してちゃんとプレイしてみた。過去にないほど、もうできる限りの時間を費やした。電車の移動、布団に入って、半身浴をしながら。ここまで来て初めて気づく。頑張ってゲームを続けたというのは嘘だ。ただただ、面白くて。うれしくて。やめられなかったのだ。

 

様々なサーヴァントが登場する中でも、過去の作品の伏線を拾ったり、今回プレイする中で改めて合点がいったりと、この10年以上の時を経て再度『Fate』が設定から動きだしている事に感動を禁じえなかった。特に7章バビロニア。本作では悪道を尽くしたラスボス、ギルガメッシュが、人の道を救う王として描かれる。聖杯戦争ではないからこその表現であり、彼が数ある宝物庫から「エア(エヌマエリシュ)」をなぜ宝具としているのか。そんな事にも合点がいったりと、いやぁ。ほんとやられたよね。また、当初は女神イシュタルが遠坂のデザインを模しているのを見て「媚びてるなぁ・・・」と思っていたけど、プレイすればそこの必然性にも少しずつ近づけていける。つまるところ、やられっぱなしなのである。

 

このFGOにはこういう感動がいくつも点在している。過去のことに固執する面倒なオタクだったからこそ、いちいち小さな発言が嬉しく、そしてちょっとしたセリフでも号泣したりする。これをプレイしたからどうだとか、何の糧になったとか。そんなことはまるで関係なく、ゲームとして一つのテキストを読み進める事がこんなに幸せだったのは久しぶりだったかもしれない。最終的に冒頭掲げた人理修復を果たしたのも結局は朝の4時。この歳になって・・・バカだなぁ・・・と思いながらもゲームを無心でプレイし、そこから得られる感動にただただ染み入る。この独り至高の時間こそオタクの特権だよなと。やはり好きなものは好きだから、しょうがないのである。

 

いやぁ、新宿編も楽しい。でも、月姫も待ってるんだからね!ということで明日は出張なのでそろそろ寝ようと思う。まとまりがマジでないけどこのへんで。

今朝、夢で見た話。

季節も変わり目。しばらく、色んなエネルギーが枯渇していて何もしたくなくなっていた。それでも、今日キングスーパーライブに行ったこと、FGOをようやくクリアしたこと、結構書きたいことが徐々にたまってきた気がする。

 

ただ、ちょっと今回は今朝見た夢があまりに鮮明だったので。その話をしようと思う。そもそも夢の出来事をはっきり覚えているということはあまり多くあるものではない。折角なので夢で見たことと、それについて考えたことを書き散らしていく。あまり内容がある話ではないので暇つぶし程度に。

 

 

ふと気づくと、昔からのTという友人が僕のアパートの部屋。その玄関前に立っている。彼とは小学校時代からの付き合いで、今は何年も会っていない。そうだ、忘れていた。久々に会う約束をしていたんだった。そんなアポイントの記憶がどこからともなく湧いてくる。

 

彼とは、小学生から中学時代まで学業を共にしたが、常に成績トップという秀才。全国模試でもランクインするほどである。有名大学に入りさぞ立派な就職先でも見つけるのだろうと思っていたら、バンド活動に専念した。中学時代、ギターを彼に教えたのは僕だ。何時間もストーンズビートルズ、クイーンやニルヴァーナ、尽きることのない音楽談義をした時間が蘇る。そうした意味では、ぼんやりとした罪悪感を彼に対しては抱いていた。たまに僕も彼のバンドのライブには顔を出してはいたが、現実はそう甘くなく。最近ではどうやら、そちらの活動も一息つけて、また一種違った職に就いて奮闘しているという知らせをどこかで聞いた。

 

久々にTと話ができる。今これを書き記しながら考えれば、旧友との語らい。本来であればリラックスした時間を過ごす事に期待を抱くべきなのだけど、彼を迎える僕の心は何かに緊張していた。どうも何かを覚悟していたような感じがする。

 

そして、ようやく彼は口を開く。すると謝りながら「アポイントの時間を少しずらしてほしい」と言う。わざわざ家まで来て律儀なものだが、夢なのだから仕方ない。自分も予定を確認するとその日(夢の中での感覚)は特段することもなく「また改めてくればいい」と僕は伝える。ただ、そういいつつ、多分「改めて」の機会はやってこないと思った。何故かは分からないけれど、彼とはそこでお別れになるということを知っていた。

 

すると藪から棒にTは「これからの時代、ソールドが大事だ」なんてことを言う。はて、ソールドとは何のことか。[Sold] 売れた、という単語が真っ先に浮かぶも、ここではなんら意味合いが合わない。表情が読み取れない彼の顔を眺めつつ、何のことか考えあぐねていたが、少しして僕はふと自然に「あぁ、Souledね」と「魂魄」の名詞[soul]の動詞形だと納得をした。冷静になれば[soul]という単語に本来動詞形などある筈がない。そんな造語も知らない。それにも関わらずさもこれまで聴いたことがある風に浮かんだのは不思議なことだった。彼は満足そうな顔をして「そうだ」と言った。そして当たり前のように「また来る」と続けたものの、次はない。そのことを、お互いにやはり分かっている。

 

 

僕の夢の記憶はそこで途切れる。ふと目を開ける。いつも通りアパート一階の底冷え甚だしい我が部屋の天井。充満している冷たい空気に身震いをさせ、布団に再度潜り込む。あまりに鮮明な夢に、違和感を感じ目を瞑りながら友人Tの言葉から連想される単語を反芻する。ソールド。魂。感化。人。まどろみながらも、そもそも[soul]という単語に動詞形が本当にあるのか気になってきた。こういう時、やはりインターネットは便利なものでiPhoneを取り出し、ブラウザを立ち上げる。[soul]と打ち込み辞書ツールを覗く。

 

結論から言えば動詞形はあった。[soul]は他動詞で「人に魂、心を賦与する」と言った意味合いである。ソールドはその[ed]だから「魂を与えられる」という事と捉えられる。さらに分詞の形容詞用法として「魂を持った~」という意味合いにも使える。ただ、冒頭に「あった」という書いているのは、現代は使われていない「廃れている」ことを指す[obsolete]という単語もセットでそこにあったからである。夢で見た過去にあった言葉。そのことに少しロマンを感じ始める。

 

どうやら[soul]の動詞形の出典は1913年版ウェブスター辞典から引っ張ってきているようだ。ウェブスター辞典と言えば、19世紀以降アメリカにおける英語の歴史が詰まっている英英辞典であり、今でも研究対象としても名高い辞典である。詳しい話は専門外なので置いておくことにするが、何はともあれ1913年の時点、そしてアメリカでは、何かしらの意味合いで「soul」が動詞形として使われていた事を意味する。それが文学なのか論評なのか、あるいは宗教的標語か。今では定かにはならないが、そうした言葉はあった。ということだけは確かだ。

 

夢の話から、飛びに飛んで今度は1913年のアメリカに思いを馳せる。調べればどうもFRB、アメリカの中央銀行の仕組みである連邦準備制度が出来上がった年だ。それ自体1907年の大規模恐慌の影響であり、金融システムが様々な利権の中調整を迎えていた時代である。そして翌年には第一次世界大戦が開戦する。直接アメリカにその影響が及ぶのはもう少し先の話ではあるが、金融システムの混乱、自国内での資本主義経済の行き詰まり、そして帝国主義的価値観が広まっている最中と考えると、なかなかに興味深い。

 

ひとつの言葉には、その時代の価値が詰まっていると思う。例えば一つの単語が生まれたのなら、それが世に求められていたのだろう。そして廃れたのなら、それは不要になったということで。その時代、確かに一度[souled]という単語が一部でも使われた時があった。それは「魂を持った」何かが求められたということではないだろうか。単なるシステムでは決してない、人としての在り方、矜持が求められたということではないだろうか。そんなのは、後の時代のましてや異邦人の勝手な妄想だとは分かっている。それでもその時代と言葉には密接な関係があると僕は思うし「魂」という意味が問い直させられるような、そんな時代だったのかなと。寝ぼけた頭で思ったりした。

 

気づけば、もう昼近く。まだまだ寝ぼけている頭に濃いめのコーヒーを入れ、少しずつ覚醒させる。なんでこんな遠大なことを考えてしまったのかと思い返す。果たして夢の中で友人のTが満足そうに僕に言った「これからソールドということが大事になる」とは、どういうことだったのだろうか。

 

個人としてあまり神秘的発想は信じない質なので、単語自体そもそも僕の無意識化にあったものだろうと考える。ただ、聞いた話では必要な記憶とそうでない記憶を整理する際、不要な記憶についての夢を見るという。その見た夢と一緒に要らないデータや考えを忘れる為である。PCで言えばデフラグみたいなものだろうか。しかしながら、今回のケースではその逆が起きたわけで。いわば記憶の逆流とでもいおうか。不要だと思っていたものが、印象的な友人の一言によって掘り起こされたのである。そんなことがあるのだろうか。

 

何か神秘的な意味をそこに求めれば、自分の身の回りのこと、社会のこと、世界情勢のこと、と様々な言いがかりをつけて語ることが出来る。しかし、それをする必要はないだろう。「この為に友人Tが教えてくれた」と喚くのはあまりにロマンティシズムに傾倒し過ぎて逆に野暮だし、暑苦しいことこの上ない。むしろ僕がその友人の立場だったら、ちょっと気持ち悪い。あくまでもただただ偶然に、掃除中棚から落ちてきた古い漫画のように、この言葉を取り扱おうと思った。

 

それでも、そうした偶然のちょっとした必要性に、いつか気づく機会があればいいななんて期待もしてしまうわけで。やらなきゃいけないことはたくさんあるのに、出てきた漫画を読見始めてしまい頭の片づけが一向に進まない。あいも変わらず言葉遊びが好きな自分に嫌気がさす、そんな日曜日の午前中でした。