わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

「曖昧さ」を絶望にしないための内省

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國分功一郎氏『中動態の世界 意志と責任の考古学』落合陽一氏『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』を読んで

冬のコミケの原稿に取りかかろうとしている今日この頃。天候も相まって気が重い。なにかしら思考を動かそうということで内省文でも書き出してみる。

 

ちょうど1年前ほどだろうか、國分功一郎氏の『中動態の世界 意志と責任の考古学』、落合陽一氏の『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』を続けて読んだ。それぞれ主題とすることは別個であるものの、その底流にあるものは比較的近似している印象を受けた。今回はこれら書籍を読んでふと思ったこと思い出しつつ、Twitterのアカウント運営もとうとう10年となってしまったので、そんなことを踏まえて書き留めていきたい。

 

まぁ、先に言ってしまえば、令和元年、普通に会社員やってる僕が「将来に対するただぼんやりとした不安」に対して、どうやって希望的に将来を見通すかウジウジ考えた文章だ。単純に考えれば「気の持ちよう」みたいな話である。梅雨空の中、案の定根暗ベースの考え事を滔々と書き始めている次第。

 

・言葉と未来の曖昧さ

まず國分氏の『中動態の世界』から見ていこう。今一般的に扱われている動詞の態は「能動態」と「受動態」であるが、かつて存在したその中間にある「中動態」という概念が哲学的な見地から見直されるべきではないかという本である。主眼として、人の責任論が起点になっており、そんな例示から本文は始まる。我々は何かしら物事を為す際、あるいは為してしまった際。「何をもって、その人の責任であると論じる事が出きるのだろう」という疑問だ。

 

例えば、学生が寝坊をして授業に間に合わなかったケース。方や夜中までゲームをしてしまい朝寝坊したというのであれば、大抵の場合当人が悪いとなる。しかし、両親が働けず、妹の学費を稼ぐ為に夜遅くまでアルバイトをしていたというストーリーが付与された途端、彼にかかる責任は「印象として」軽くなる。そこには、環境における能動性と受動性が関係している。自己選択による責任論だ。後者のケースではやむを得ず彼が家族の為に働かざるを得ない、という共通認識が生じる。そういう場合には、寝坊をした責任にはある程度免責事由が生じる。

 

これら例示が示すのは、どこまで人はその行為を能動的に行いうるのであろうという疑問だ。モノは言い様と捉えられるかもしれないが、寝坊ひとつをとっても、本人の体質が低血圧だったり、ゲーム依存という環境悪であったり、その他「免責事由」はいくらでもそこに横たわっている。うっすらと想像出きる通りこの話の延長にはアルコール依存症や薬物依存といった話に繋がる。本書自体、医学書院から発刊されており、國分氏も本書の着手のきっかけは「ダルク」での当事者との会話から始まっているという。何物にも縛られない本来の「能動」である「自由意思」というものは人間には、選び得ない選択肢ではないか。そうした着想から、動詞の「態」に着目し、過去に存在した「中動態」という存在に迫っていく。

 

また、落合氏の『デジタルネイチャー~』で語られるのは、計算機つまりPCから発展しAIが人間の感覚とマッチした時に、実際のリアルに位置付けされる「物質」とその当人が経験として知覚する「実質」の差異は限りなくゼロに近づいていき、それはもはや自然と見分けがつかないレベルにまで昇華された技術と感覚、そして社会に纏わる話だ。そうした環境やシステムが構築された社会を氏は「デジタルネイチャー」と呼ぶ。実際、氏の思想や試みは単なる思考実験にとどまらず具体的なイベントからプロダクツの域にまで及ぶ。

 

人と計算機が相克するものではなく、その対立をいずれは克服し、新たな関係性を構築するようなイメージを読む人に抱かせる。それは最早SFに近く、円城塔の『Self Reference Engine』が浮かぶ。それは人間と機械という二律の軸すら不要になるほど、機械が超自然的な存在となり、そして翻ってそれを元来設計した人間に回帰していく計算機の末路すらそこに見ることが出きるようである。

 

特に冒頭。暗がりの山中、ナビを頼りに車を走らせる描写は印象的だ。実際、外に街灯もなく周囲にあるのは闇ばかり、そして降っている雨の粒が窓に付着する。自らが移動しているという事実自体も、何に依拠しながらこの道を正しいと進んでいるのかも、全て発達した計算機による導きを信用しているからに他ならない。そうすると今車に乗って移動しているという体験がバーチャルなのか、リアルなのか。何が物質的な経験で、何が実質的な体験なのか。そうした境目にすらあまり意味を感じなくなる。落合氏は自律的な判断を得意とするAIの未来だけでなく、人間の身体性の拡張、あるいは気づけば自然と融和している計算機の可能性を、時に仏教の着想などと重ねながら、積極的に説明していく。

 

・意思とは関係なく進む時代で

触りだけだが、それぞれの本について書いてみた。冒頭掲げた相似点「曖昧さ」という言葉を挙げたが、よりそれを具体的に言えば「主体」という存在の曖昧さだという事が出きるだろう。あまりに多様になった現在という時代において。いまだに大きな力を誇ってはいるものの、人種や国家というくくりも古くさく、性差にすら疑問が呈されている状況である。それは意思の尊重というより、今までの主体を主体たらしめた「意思」への疑問であるように思える。自分の意思で多様な生き方を決められる、自己決定論が幅効かせると聞けば「意思」の存在の誇大化ととらえるのが自然かもしれないが、そうでないと思う。自己決定と自己責任、そして自分の主体。個の主張を叫べば叫ぶほど、その間で我々は徐々に右往左往している印象を受けている。

 

5月、オランダで安楽死を「人生に疲れた人にも適用する」法律が提出されたというニュースがネットで話題になった。当然、高齢者のみなど条件は多く存在するものの、日本のネットユーザーも多く反応をしていた。僕自身、なんとなく気になったのでアンケートツイートをはじめて使い、日本において安楽死合法化は認めるべきか、という投げ掛けを行った。

 結果としてはこの通り。質問にあえてバイアスをつけてはいたり、また回答者がそもそもこの問題に関心を抱いている時点で額面通り受け取れない、というご指摘はその通りなので甘んじて受けるが、それにしてもこの片寄りである。

 

宗教観の差はおおいにあるにしても、この死に関する自己決定を求める意思。僕は違和を感じた。理由をそれぞれに聞いて回れば、恐らくそこには様々な理由が存在することだろう。しかしながら、死に纏わる自己決定を望む時、表裏たる生にたいする「自己決定感」が希薄なのではないかと、そう思ったのである。生きているのが自分の意思だから、終わるときも。というより、生きている事が強いられているのだから、死ぬときくらい。そんなペシミスティックな心象がそこにはあるのではないか。

 

落合氏が指摘する計算機が自然化する状態、つまるところ実質と物質が融和し、本質的な部分にすら侵食する「デジタルネイチャー」という時代。その到来は自然なものに思えるし、決してSFとして消化すれば済むものでなく、今これからの眼前に現れるであろう世界観だ。そして、ぼんやりながら我々も、生きていてそれを意識的にしろ、無意識的にしろ「そうなるな」あるいはそう思わなくても、情報革命を経て、時代の大きな変革を意識せざるを得ないタイミングに差し掛かっている。

 

こうした過渡期のタイミングにおいて、僕を含めた人間が抱きやすい感情として、虚無主義というか「自分の意思とは関係なく世界が進む感覚」というものがあったりする。もちろん、それを主導する側に立とうとする殊勝なクリエイティブマインドをお持ちの方も多いだろうが、AIがここまで進歩した時代、職業によってはその存在価値すらあっさりと否定される可能性がある。誰が悪いと言うでもなく、ただただ時代の進歩が主体たる意思を否定する。そんな倦怠感、厭世をふと感じたりする。

 

・曖昧さという絶望の種

以上は僕自身が否定的な角度から今を見ている、という主観にすぎないが、共感に足らないともいいきれない。将来を見渡す際、ビジョンは明瞭であればあるほど、希望に繋がりやすい。それが例え明確な危機であってもだ。倒すべき敵や対処すべき事案ががはっきり決まっているということは、人の行動原理にとってこれ以上の原燃料はない。それに反して、人類の発展、技術の進歩であるにも関わらず、自らの価値が相対的に目減りしていくように感じるこの潮流に対して、我々には何ができるのだろうか。

 

勿論この先、自然や自らの身体の一部と化した計算機の存在を、無思考に受け入れることもできる。利便性など確実に向上するのであろうが、同時にディストピアの影を感じなくもない。この問いはこうも言い換えられる。我々は「生きている」のか「生かされている」のか。既に身の回りにもAIを使った技術が席巻している現在において、その主体としての自我を自ら問い直すことは、人として生きる上で思った以上に重要な位置を占めている発想であると感じる。

 

そして先に書いた通り、人の希望は将来の明瞭さに比例するという話。むしろこれは、逆の時の方がより真理をついているのかもしれない。要は「将来が不明瞭な時は、不安要素が増える」ということだ。時事でいえば、年金の問題やら老後貯蓄不安、災害リスクや国際社会の紛糾など。考えれば考えるだけ、不確かでありながら我々の生活を脅かすリスクは、全方位に偏在している。その上、身の回りを見ていてもAIのみならず情報セキュリティ技術も発展し、仮想通貨など自分の理解の範疇を超え作動する様々な仕組みが周辺にある。

 

ふと、考えると利便性は不安と隣り合わせであり、そして自分の「主体」も一体何に依拠している存在であるのか、より曖昧な時代に突入する。ここまであえて大きな主語を持ち出しつつ、全世界的な不安だという誇大妄想を広げてはきたが、正直な話で言えば僕自身の不安であり、また個人の小さな葛藤である。日常の愚痴と大して変わらず、そして以下はこれら「曖昧さ」に対する自分への処方として、冒頭掲げた2冊に戻りながら、また考えてみる。

 

・択の不自然さ、それを思考する強さと希望

諸々不安要素を列挙しながら、煽ってきたわけだが冒頭で書いた通り、僕がここで語るべきテーマはその状況をいかに希望的に考えるか、ただそれだけに帰着する。そうしてたどり着いたのは「曖昧さに絶望をしないこと」今日の主題はここにある。言葉にすれば陳腐なものだが。

 

國分氏の中動態にまつわる話に触れる。一様には言えないのだが、この中動態という思想は、その能動か受動か、その2択の間を取り持つ「状態としてある様」を考えるものだ。紹介の中でも書いた通り、「される」か「する」かの二者択一で考え詰めていくと、そこにはどうやっても無理が生じてくる。安楽死の話題に触れたのも、逆に生きることを考えるためだ。「生まれてきたこと」あるいは「生きる」ことは、どちらの態で説明しても、なんだか違和感がある。しっくりこない。文章にすれば「人は自分の意思で生きている」「人は大いなるものに生かされている」つまり「生きる」という動詞はこのように思想というゲタを履かせなければ「能動」「受動」には収まらなかったりする。

 

言葉は思考に直結する。こうした葛藤の中「中動」という状態を示す態の存在は、シンプルでありながら、的確な処方あるように思える。責任の所在をあえて求めない。そこにあること、そう存在すること。これを素直に捉え、見つめることは、今やこれからの「曖昧さ」に対して、重要な視座であると感じだ。「思考停止では」と感じるかもしれないが、半面結論がない分、絶えず思考し続ける意思がそこにはある。

 

また、落合氏の指摘する現在の社会あるいは未来図を想定することも、この「曖昧さ」に対抗する一助になる。恐らく落合氏の本を読んで感じるのは、未来における進んだ社会の希望的展望と同時に、自分不在で成り立っている社会、あるいは全く別次元で構成される社会に所属しているという不安だ。その乖離感覚は、今後より一層強まるように思う。「社会」は親族のような小さなコミュニティに端を発し「町」「市」「県」とフラクタル的にからが重なっていき「国」や「国際」まで最終的に大きな「社会」まで含む包括的なシステムだ。現在では個でありながら、手中にあるスマートフォンで簡単に大きな括りにまで思考が届いてしまう。

 

バーチャルでも体験できる「実質」と、本当に目の前に存在するという「物質」。その境界がファジーになればなるほど、それに対応できるだけの自我の強さが必要になる。大きな社会を思考しながら、自分の生を歩むことは、絶望による憤怒をかいくぐりつつ、脇では虚無を覗きながら縁石を歩くようなバランス感覚が必要になるだろう。今後、技術の発展によってなおのこと本質の所在が曖昧になっていく社会の中で、明確な自覚を持ってそこに挑むことは、現在という地点にいる僕らにとって必然の準備なのかもしれない。

 


ということで、長々と書いてみたわけだが、曖昧なものを語ると自分の主観の置き場すら曖昧になるので困る。あくまでも、自分個人の内省延長くらいの感覚で、あまり細かい精査を無視してしまったわけだが、そうでもしないと書き出せないくらいには、諸々が詰まっていたとご理解頂きたい。あまり人に読ませる話ではないけれども、たまには思考の除湿ということで。

 

清竜人ハーレムフェスタに行って、堀江由衣の話しかしないオタクの述懐

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清竜人10周年特設サイトトップ画像より http://www.kiyoshiryujin.com/kr10th/

ラノベタイトルな感じにしようと思ったのに、取調調書の概要みたいな題になってしまった。

 

ということで、5月25日(土)新木場コーストにて開催された「清竜人ハーレムフェスタ2019 10th ANNIVERSARY & 30th BIRTHDAY」に行ってきた。出演アーティストは、上坂すみれ佐々木彩夏ももクロ)、でんぱ組.inc、そして堀江由衣というその筋の人なら一瞬で分かる豪華さ。

清 竜人 10th ANNIVERSARY 特設サイト

 

僕としても、現在すみぺにのめり込んだ挙句FCにも加入、ももクロちゃんライブ映像をリピートしながら苦しかった就活時代を乗り越え、でんぱ組にはデビュー以来「これは沼」と確信し、ハマらないよう日々楽曲を聞いては気を付けており、堀江由衣に関しては「結婚したい!」と中学生時代に冬の海に叫んでいたわけで。そんな個人的な業じみたメンツとなったこのライブイベント。行かざるを得なかった。

 

どのアーティストに対しても上記の通り、元来思い入れがあり、やはり見た結果も素晴らしいパフォーマンスだった。しかし、今回に関してはタイトルのまんま。堀江由衣女史のライブアクトをメインに、というかそれだけについて滔々と書き連ねる。非常に偏った目線と、病んだ過去をねじ込んだため、かなり色んなブレーキが壊れている気がする。同志、もののふ、でんぱ勢各位。マジで堀江由衣の話しかしてない。先に謝る。ごめん。

 

・声豚、ふるさとに帰る

そもそもこの「清竜人ハーレムフェスタ」というイベント、シンガーソングライター兼作曲家として活躍する清竜人氏が、縁のある女性アーティストを招いて行うフェスイベントである。提供楽曲だけでなく、それぞれの持ち曲も聞け、なかなかにレアなパフォーマンスも拝むことができる。

 

もともと僕自身「メンバー全員、清竜人の嫁」というとち狂った設定の一夫多妻制アイドルユニット「清竜人25」のライブにも数回足を運んだことがあり、氏の独特な音楽センス自体にも惹かれていた。そして今回。清竜人氏も敬愛し、楽曲提供をしている堀江由衣御大がこのハーレムフェスタに参戦すると聞き、居てもたってもいられなくなった。

 

簡単に自分の経歴を漏らそう。過去には黒ネコ同盟(堀江由衣FC)に所属、当時声豚の限りを尽くすも、徐々に「オタクはみんな放送作家や声優イベント司会になれるわけではない」と高校卒業あたりで知り、大人になりゆく自我と金欠の狭間で揺れた結果、同盟継続を断念。同時に声豚も卒業・・・と思ってたら色々再発してしまい、昨年コルホーズの玉ねぎ畑(上坂すみれFC)に移籍してしまったという具合。

 

詳細については下記記事を参照。

堀江由衣がプリキュアを演じる事について(前編) - わがはじ!

この12月から上坂すみれのファンになってみた話 - わがはじ!

 

つまるところ、堀江由衣女史に対しては、過去からのトラウマ的ファンであり、現在は上坂すみれ現場を中心に声豚として生計を立てているという二枚舌な塩梅である。そんなダブスタな僕にイベントの入場の際、係員が「誰をお目当てに来ましたか?」と問う。単に集客力の確認なのだろうが、現在の信仰心を試されていると焦った結果「ほっ・・・・上坂すみれさんです・・・」と葛藤を漏らしてしまう。入場前から謎の「ほっ」、不審者感が隠せない。

 

中途半端な心を見透かされたようで、少し傷心気味の僕。「あぁ、どんなに時を経ようと結局のところ、俺は無意識に「ほっ」と言ってしまうのか・・・」僕は、ちょっとした罪悪感とともに、なんだか故郷に帰った心地がした。(そもそもほんとに新木場が地元)

 

・声豚、スピーカー前でむせび泣く

今回、このイベントに意気込んだのには理由があった。それは新木場コーストで行われる、つまりオールスタンディングで行われるということだ。通常、声優ライブイベントなどは観覧できる席が固定されているのが普通であり、席の良し悪しはFCに入らない限り(入っても)運ゲーだったりする。

 

半面、アイドル現場やロックバンドのライブのようなスタンディングのライブハウスでは、気合と体力次第で自分の配置場所はコントローラブルなのだ。要するにこうしたハコで、堀江女史のライブを見られるというのは、恐らくかなり珍しい。これは先を考えても数少ない機会になる・・・そんなチャンスを逃すまいと僕も入場するや否や、前線に陣取った。

 

しかし、30代に入って初となるオールスタンディングのライブ。長くなるであろうイベントを前に不吉な予感が過った。徐々にボルテージも上がる開始5分前、硬い床張り、すでに足腰がキツイ・・・あ、これ体力持たないかも。徐々に鈍痛と不安が増す。負の感情に支配されないよう、脳内で冷静さを取り戻すためシミュレーションを行う。

 

「確実に堀江由衣はゲストの中でも大御所枠。つまり順番は清竜人本人のライブ前・・・トリ前だ。そこまで体力を温存させるか・・・いや、現在推しである上坂すみれを目の前にその呵責は耐えられない・・・そもそも、生あーりんにも発狂する気がするし、でんぱ組初現場は正直めっちゃ嬉しいへへへh」

 

深刻な表情で考える僕。そんな中、いよいよフェスがスタート。そして冒頭司会から「それでは早速最初のアーティストを紹介します・・・堀江由衣さん!!」

 

え、うそ・・・なんだろうか、理性が飛ぶというか、水道管破裂して水吹き上がってるGIF。脳内にその映像が15画面くらい映って、ずっとリフレインしてた気がする。徐々にその脳内エラーも収まり、目の前にはいよいよ本物のほっちゃんが。距離感10mほど。気づけば「ほぁーーーー!!!」と叫ぶ自分。いや、もうそうなんだよ。人類、堀江由衣に近づくと自動的に叫ぶんだよ。嘘じゃないよ。やめろよ、そんな目で見るなよ。

 

そして、初っ端から人気曲『The♡World's♡End』からスタート。高速BPMを伴った複雑なメロディラインを音源のような正確さで歌い上げる御大・・・そしてライブハウスの醍醐味のひとつとして、あまりおススメできないが、舞台袖にある大きなスピーカーからの大音量を目の前で浴びる事が出来る。今回、そのあたりに陣取って御声を存分に浴びた。「・・・あぁ、堀江由衣やん・・・」謎のトランス状態に入る僕。会社での鬱憤、生活費の心配、それらがすべて消え、魂の浄化を感じ出す。

 

そして、2曲目。バラードとポップスのバランスが絶妙に気持ち良い『半永久的に愛してよ♡』では、その御声にリバーブがかかり、音波がより一層ドラマティックに耳朶を叩いているのが分かる。僕は恍惚としながらも、この曲の最後「なーんてね♡」というセリフ部分。とうとう我慢できず、むせび泣く。清竜人、なんていう職権濫用だ!バカ野郎!!ありがとう・・・ありがとう・・・

 

・声豚、人生のやり残し項目がだいぶ減る

そして3曲目には新曲『春夏秋冬』を披露し、会場のボルテージも上がり切ったまま堀江由衣パートの最後へ。ここで「他の色んなファンのみなさんがいる中ですが、できれば皆さんに応援してもらいたいと思っています。」というMC。一瞬で理解する黒ネコ勢。清竜人が初期に楽曲提供をし、未だにライブでも圧倒的人気を誇る名曲『CHILDISH♡LOVE♡WORLD』の予告である。

 

曲の間奏の中「フレーフレーほっちゃん、がんばれがんばれほっちゃん」と応援するパートが直接的に含まれており、清竜人個人のファン心理しかない作詞が根強い人気を集めるカオス曲となっている。ファンとの掛け合いも複雑ながら楽しい。ちょうど声豚活動を離れ、しばらくしてからこの曲が生まれ、僕自身今回はこれが聞きたくて、また応援がしたくて、今回のライブに参戦したと言っても過言ではない。

 

今見ることができるアニメ楽曲関連パフォーマンスで「LiSAの『Catch the Moment』、JAM Projectの『GONG』、そして堀江由衣の『CHILDISH♡LOVE♡WORLD』をライブで聴くまでは死ねない」と常日頃豪語していた自分。思ったより早く前の2つはクリアしてしまい、そして最終項目も今回果たした結果、今回死ねない理由が減ってしまった。

 

激しい掛け合い、そして全力での応援。その結果、やっぱり泣き出すオタク(2回目)半ば放心状態でその姿を見送り脳内で反芻をする。今回のライブ・・・これでもう満足では。十分に来た価値はあった・・・。序盤で精神が尽きかける。ただ本音を言えば、微妙に心残りがあった。

 

清竜人名義で堀江女史が参加している『CAN YOU SPEAK JAPANESE?』というこちらもとち狂った傑作がある。ほっちゃんが先生に扮し、清竜人含む6か国の男性に「愛している」という言葉をいかに伝えるのかを教えるというぶっとんだロールプレイ楽曲なのだが、その外国人勢も一緒に歌っているため、再現不可能と思われた。実際、2012年のEMI ROCKSで一度披露されただけにとどまっている。(このライブの先生役は堀江由衣ではなく、口パクで別の女優が演じている)

 

まぁ、この時点で十分満たされていたため、不満もなく納得。結局、その後のライブも結局、最後まで前線で叫び続けていた。(実際、全アーティスト分思い入れ書きたいけど、マジで文字数)

 

そして、迎える清竜人本人のライブパフォーマンス。何を演奏するのか全く想像がつかない中、幕が開く。すると、そこには学生服を着た6か国それぞれの生徒・・・そしてしばらく間を空けて登場する女教師姿の御大、堀江先生の姿・・・『CAN YOU SPEAK JAPANESE?』奇跡の本人登場の再演であった。あぁ・・なるほど冒頭での登場もこの為か・・・薄れる意識の中、そんな思惟を抱きつつ、その後の記憶があまり定かでないため細かい記載は避けたい。何はともあれ、清竜人の職権濫用ここに極まれりという楽曲。心から存分に楽しむことができた。

 

 

 

 

すべての演目が終わり、ツイッター上を眺めるとどうやら友人も参戦していたことを知り、一緒に打ち上げ、月島でもんじゃを頂きながらライブを振り返る。恍惚とした表情で「いやぁ、声豚はもう卒業していたつもりなんだけどなぁ」と漏らすも「いやいや、ていうか全然抜けてないでしょ」とバッサリ。実際、そんなツッコミに何も否定できず、思い出を残したい、と原稿用紙10枚以上のこんな記事まで書き出す始末である。

 

今回は御覧の通り、とかく堀江由衣祭りとなってしまったこと申し訳なく思いつつ、そろそろ月曜が目の前に控えている。夏に控えた、堀江由衣女史の新作アルバム楽しみだなぁ・・・と思いつつ終えようと思う。

堀江由衣の10thアルバム「文学少女の歌集」が7月10日発売決定! | アニメイトタイムズ

 

いや、ほんと他アーティストも好きな分罪悪感すごい。偏ってすみませんでした。

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権利と承認の幸福論~Twitter10年を考える②~

今年でTwitterのアカウントを作って10年になる。その中で、ネットの情報と触れ合いながら考えたことなどを取りまとめ、あくまでも根暗ベースで書いていくシリーズ第2弾。あくまでも持論です。今回はGW10連休の最終日に書き出したということもあって、いつもより2割増しくらい、暗い話を漏らしてみたい。

 

・「子供嫌い」という権利

今年に入って読んだ記事の中で、しばらく引っかかっていたものがあった。

president.jp

 

話題として特段新しいものではない。「NIMBY(Not In My Backyard)=うちの裏庭に~を建てるな」的発想に纏わるエッセイ的記事だ。ごみの焼却炉など、住民と自治体との間でいさかいになるような施設建築の話である。その中でも、最近ネットで往々にして炎上事案になるのが、この記事が取り上げるような「保育所問題」だ。

 

少子化にも関わらず、待機児童が問題となる今の時代。更に拍車をかけるような「近所に保育所を作らないで」という地元住民からの意見は、時たまネットニュースになり、色んな声が向けられやすい。本記事もバズっており「身勝手ではないか」「子供を地域で育てるという発想がない」などという反応を見かけた。

 

昨年末、青山で児童相談所建設に地元住民が反対したという記事も記憶に新しい。この手のニュースを見た際、普段そんなこと考えない僕でさえ住民に対して「子供のためだろ。身勝手なんじゃねえの」と憤りを感じていた。しかしながら、なんとなくクリティカルな反駁が出てこない。歯に何か挟まってるような感覚。「他人の子供のため我慢しろ」・・・果たしてそう言えば済むのか。

 

そんな違和感を抱えつつ。ここで、ちょっと違う話題を思い出してみたい。例えば、昨今の労働に纏わる話。昭和から続いてきた「24時間働けますか」的発想に対するカウンターは「サビ残必要なし」「飲みニケーションへの疑問」「ブラック企業は滅べ」という声が挙がっているように、もはやネット上では通念として定着しかけている。勿論、自分も含めた労働者にとっては良い潮流であり、働きやすい職場、そして生産性の向上という考え方は時代に適したものと言える。

 

では、こうした考えの本質は何か。端的に言えば、それらは権利意識の表れのひとつであろう。雇用関係において、労働者にも認められた権利がある。それを忖度なく行使できる雰囲気を作ることは、確実に悪いことではない。だって、職業選択もプライベートな時間も、れっきとした自分の権利なのだから。

 

そして、冒頭の話に戻ろう。保育所建設反対の意見だ。旧態依然とした「寄合的コミュニティ」を脱した都市部での生活。そこにおいて住む人が、忖度なく自らの権利を主張すること、それもなんら不自然ではないのではないか。

 

プライバシー権日照権など大学での憲法の授業のようだが、保育所拒否を訴える権利。それは、我々の感情論で一方的にはく奪されるべきものでない。いかに「自分勝手な」意見に見えても、彼ら住民が「フェア」なルールに則っているという前提で話を始めなければならない。そして、こうした住民の反対意見に憤っている自分こそ、さっきまで「労働者の権利を」と語っていたのに、その権利という視点を無視するような「ダブスタ」的スタンスにあったことを自覚しなければならないと思う。

 

・不快さを取り除くという幸福追求

苦手な人や嫌いなもの。そうしたものから遠ざかる、遠ざけるのは自然な行為だと思われており、その風潮は昨今強まっている。ブラックなら辞めればいい、いやな飲み会は無理に行く必要はない。そう声を挙げる傍らで、保育所は甘んじて受け入れろ、なのだ。僕がこの問題に反駁したいが、モヤっと感じていたのは、なんとなく「そうすべき」という感情のみで僕自身、自分の理屈を守っていたからだろう。

 

保育所問題から離れて、すこし根本的な話を考えてみたい。つまりは労働をはじめ自らの「権利」を主張する重要性に気付いたネット市民。その「権利」の主張を掲げた末、我々はどこに行こうとしているのかについて軽く語ってみよう。つまるところ、現代の幸福論だ。先日ツイッターで身の丈に合わない主語を使うヤツは信じるなと言っておきながら、これである。ということなので、あくまでも僕周辺の感覚をベースに考えたい。

 

唐突だが、GW久々に母方の叔父に会った。なかなか破天荒な人柄で、バブル期にシカゴで寿司屋を経営。破綻した後、結婚詐欺にあい、心臓を病み、今は近所で生活保護を受けながら過ごしている。その口癖は「とにかく面倒だ」というもの。いや、確かにそんだけの人生を送ってきたら、何かを始めることを厭う気持ちも分かる。

 

最近スマホを持ったものの、競馬情報を見るか電話の二択。何か新しい趣味でもと言えば「新しいことは不快な思いが付きまとうから」と言う。んー頑固なもんだ、と聞いていたが、その言葉からふと感じたことがある。普段、人間というものは趣味だったりそれこそ食欲だったり、基本的に「快楽」を求め、それを種々生活や活動の意欲にする生き物だとなんとなく思っていた。

 

しかしながら、むしろ叔父の発想のように「不快な状況をなくす」つまり「快適さ」を得たいという願望の方が、人としてはより自然な感情なのではないかと思ったのだ。思えば、自動車や家電の発明、種々テクノロジーの進歩はそうした不快さをなくすことを原動力にした営みである。そして一人一人の生活も、居住であれば、住まいがいかに駅から近いか、近くにスーパーはあるか、など「快適さ」が幸福値を表すバロメーターのひとつになっているのは確かだろう。

 

ひいては会社や家族、こうした組織体においても、上司との飲みや、ご近所の付き合いなど、面倒なしがらみをなるだけなくし、個の快適さを優先しようというのが今のトレンドではないだろうか。つまるところ、自分の人生。思うように生きた方がいいでしょ、という話で、この手の発想に頷く人は多い。

 

・承認というローカルブレーキの限界

では、そのように上司やご近所づきあいといった他から煩わされることない快適な生活こそが、現代の「幸福観」なのだろうか。

 

ここで、もう一つ大きな要因を占めるものがある。相反するようだが、それこそ他人から得る承認欲だ。この「権利的快適さ」と「他人からの承認」というセットこそが、今の幸福観に纏わるリアルな温度感ではないかと思う。

 

面白いのは、先に挙げた「権利的快適さ」は人との関係性を薄くしたほうが求めやすい代物だが、ブレーキのように「他からの承認」は存在する。一人でいれば好き勝手に振舞える。社会の中では規律が息苦しい。しかし、一人では得られない「人から承認される」感情を得ることが可能になる。わざわざ言い立てるほどのジレンマでもないが、このバランス感覚こそ、今という時代における人の幸福観と言っても差し支えない気がしている。もちろん、人によってその偏りは大きい。「快適さ」を優先させる人もいれば、「承認」に全振りする人もいる。

 

では、そろそろ本題に移る。何を言いたいかといえば、インターネットの時代において、この「個」と「承認」という対立軸に変化が生じているということだ。「個」における権利追及は先述の通り、加速している中で「承認」の場が、ローカルだけではなくむしろネットワーク上に移ってきているように感じる。会社の上司から承認をされなくても、フォロワーから認められる。家族が疎ましい時にはネット上の意見が自分を守ってくれる。という具合だ。

 

例えば、一人で好き勝手に振舞った反動は大抵、友人や家族など周辺の人のリアクションとして帰ってくる。周辺の人がそれを咎めた結果、承認を失わないよう行動を調整する。しかし、そうした言動をネットに呟けば、様々な第三者がいきさつに評価を与える。「自分の自由に振舞った行動のほうが正しいよ」「周囲を気にするな」など、意見が投げかけられる。

 

当然メリットもある。顕著な例としては、いじめや家庭内暴力が存在する閉鎖状況において。ネット上の第三者からの意見は、明らかに偏った環境に対して修正を行える力を持つ。また広く周知されることによって問題解決の可能性が生じるという意味では、ローカルを超える承認を得る過程は効果的だ。

 

反面。こうした構図に慣れ親しむと、ローカルにおける承認を気にしないで済むようになる。要は「個人の快適さ」の追求に対して、周辺のリアルな関係性に対する相対的な価値を下げてしまうということだ。親と折り合わなくとも、ご近所付き合いなどしなくても、ネットには自分の意見を認める人がいる、と。

 

・今ある快適さと、自覚と。

ネット上における実際の利害を伴わない、ゆるく繋がる承認の輪。自我や個の主張を守る上では有効だろうが、果たして本当にその輪が自分を救ってくれるのかという疑問が立ち上がる。「個の快適さを優先させる」人たちがそう主張し合い、同調する中、ここで醸成されるのは「自己責任」の感覚だ。

 

あくまでも、自分の人生は自分の人生だから。そして、自分を縛るローカルな関係性に重みはない。その主張を掲げながら、いざという時に面倒な人生の中で、本当にツライ状況に置かれた際、一体誰と在るべきなのか。はたまた一人で乗り越えられるのか。昨今の社会問題は往々にして、こうした空気感、あるいは諦観が横たわっている気がする。

 

労働の効率化、晩婚化、独り身での生活、少子化、そして保育所建設の拒絶。案外、これらの清濁双方を含む事象やそれに関連する発想は地続きだ。昨今、人それぞれの異なる幸福感は、それぞれに尊重されるべきという風潮の中、自らの不快さはなるだけ排してよいという発想が定着してきている。もちろん手放しに賛同出来るメリットもあれば、疑問も生じたりする。

 

権利を主張することは決して悪くない。ただ、僕らが得たいと望む幸福観の先に一体何があるのか。この問いを自覚的に自問しなければ、恐らく足元にあるローカルという土壌すら消失させている可能性もある。この保育所反対の問題についても、住民の感情は理解出来る。いや、誰であろうとまず「理解しなければならない」時代なのだ。

 

その上で、ようやく失われるものについて、何を犠牲にするのかについて。そこからようやく倫理観を含めてお互い考えていくべき対話のスタートが切れる。すべてがモラルの問題と捉える人、感情で反駁を行い続けていると、自分が欲しているものすらわからなくなる。

 

そんな不安を文字にしてみた、という具合でした。令和という年号を迎え、新しい時代の幕開けに。まぁ、案の定という暗い内省記事。まだ、このシリーズは続きます。

 

人生がわからなくなった時に読む個人的処方箋マンガ選

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気づけば令和。前回から続けようと思っていた話題は、プロットが大きくなりすぎて一旦お休み、お茶濁しと文章を書くリハビリを兼ねて、久々にサブカル系を中心に漫画レビュー記事でも書きたくなりました。各作品「処方箋」ということで短めです。

 

・「わからない」ことが「わからない」ときに読む漫画

学校の授業や勉強をする上で一番の末期症状がこれだ。「わからないところがわからない」果たしてどこから手を付けたらいいのか、そもそも何を聞かれているのかもイマイチぴんと来ない。ていうか「わかる」ってなんなんだ。僕も過去、高校時代の数学でこの沼に陥ったことを思い出しては、鼻の奥がツンとなるような心地がする。

 

そして現在。時代も平成から令和へ。僕自身も三十路に突入、増える白髪、遅くなる筋肉痛、随所に現れる老化現象を逐一見ないふりして日々を過ごしている。そんな中、最近再びこの「わからないところがわからない」現象に見舞われている。うん、そう、人生で。

 

経済的なひっ迫、現在の仕事、趣味、結婚、家族・・・油断すればユニコーンヒゲとボイン』の「仕事とはなんだ、人生とはなんだ」という一節が頭の中を延々ループしている。新時代、いったい何から手を付ければいいの。

 

まぁ、こんなことを考えだすということは大概暇なのであり、せっかくのGWだし、ぐーたら漫画でも読もうじゃないか。ということでそんな「人生のどうしたもんかなぁ」と思った時、僕が処方箋的に読んできた漫画を簡単に振り返って紹介してみたい。毎年、夏コミ作業詰めのGW。今年は、お休みしたことによりなんだか落ち着かない。そんな手持無沙汰さを、そんなレビューをもって共有させてほしい。

 

・『西洋骨董菓子店』(全4巻)よしながふみ 新書館

www.shinshokan.co.jp

ふと諸々、人生が重くなってきた時に読む安定剤みたいな漫画。思えば、前時代では椎名桔平藤木直人滝沢秀明阿部寛という豪華メンツでドラマ化もされた本作。イケメン4人が小さな洋菓子屋で働くよしながふみの真骨頂みたいな話。もちろん同性愛はのっけから物語の核心になってくる。

 

往々にしてよしながふみ作品は顔がいい前提で話が進むので、そこはご愛嬌なんだけど、それにしたって、登場人物各人の人生の機微を過去から現在まで、短いながらきっちり描いてしまうのはさすがの一言。基本線日常系でありつつ、それでいながら、本筋にはミステリの要素なんかも加えちゃって、とっちらかるかと思いきや、まとまりのある全4巻。

 

同性愛関連の話が非常にフラットに設置されていたり、登場人物の重たい過去が比較的軽妙に描かれていたり、オムニバスに近い展開もあって、いい意味でストーリーを押し付けられない感が心地よい。サラッと重い話が続出する度「そうだよな・・・人生の問題って案外悲劇としてでなく、オフビートに進むよね」と納得し、悩みが軽くなるような気がする。ほんと、よしながふみって人生何週目なんだろう。とはよく思う。

 

・『雑誌『ヨミ』』(『白い狸』収録)横山旬 エンターブレイン

www.kadokawa.co.jp

コミックビームで『変身!』を連載していた横山旬の短編集。表題の『白い狸』は、まさに筆者の得意分野という感じの読み切り伝奇ミステリ。こちらも好きなんだけど、これに収録されている「雑誌『ヨミ』」という短い漫画が僕にとってのカンフル剤的処方箋だ。

 

話の筋としては、中学3年の受験前。主人公と友人Aで雑誌制作を思いつく。学校の「一物抱えた」人間に声をかけ、原稿を募るという同人誌作成の話だ。最初は面白そうと進めてみたものの、編集から原稿集めなどに苦慮し、受験を控ながら「なんでこんなことしてんだろう」的葛藤を抱える。それでも最後、表紙を頼んだ知人から完成した絵を見せられた瞬間、その出来に感化を受け「本にしなければ」と思い新たにし、完成にまでつなげるというひと夏の青春群像。

 

見た通り単純ではあるものの、横山旬の独特な絵柄に完全に心を掴まれて仕方ない。そして、僕が続けてきた同人誌作成の流れとほとんど一緒で、僕自身「なんでこんなことしてんだろ」と沼にはまりそうな時、完成へのモチベーションを思い出させてくれたりする。集まってきた話や原稿を見つめなおし「あぁ、これ世に出したほうがいいな」と。結局、完全に一人よがりなんだけど、何かものづくりを行うことなんて詰まるところ一人のエゴで十分なんだなと、毎度教えてくれる貴重な作品。

 

・『変身のニュース』(短編集)宮崎夏次系 講談社

kc.kodansha.co.jp

当時気になる絵柄ということで、手に取ったら久々後頭部殴られたような衝撃を得た本作。他の作品も好きなのだけど、最初に読んだ宮崎夏次系作品ということでこの1冊を挙げたい。

 

処方箋、ということでピックアップしているが、結構強いオクスリという感じ。漫画や小説を読んでいて「これ書いてる作者、大丈夫かな」と心配することがたまにあるけれど、その筆頭。人間が生きていて、ふと感じる「もうイヤ」みたいな感情を、無表情なキャラに語らせ、その人生を捨てる瞬間を、あまりに軽く、ファンタジーとして描いちゃう。この短編集では、直接「死」という帰結には繋げないが、そんなおとぎ話的救いが逆に恐ろしいくも、儚い。

 

1冊通して、我々が日ごろの生活でふと抱く絶望の先を「はい、こんな感じ?」と示してくれているような印象を受ける。だいたいあってる。あっているが故に狂っているし、そしてその狂気には、希望だとか安心も宿っている。日常的に過ぎていく日々が、たまにあまりに不条理に感じる時。僕は改めてこの本を読みながら、ちょっとした安心感を得るのだと思う。

 

・『G戦場ヘブンズドア』(全3巻)日本橋ヨヲコ 小学館

csbs.shogakukan.co.jp

個人的に一番、即効性があり効果があった処方箋と言えるかもしれない。漫画家を目指す漫画は、いろいろ作品はあるのだろうけれども、3巻完結ということもあり、ここまで熱量の密度が高い作品も他にないだろう。何かが詰まると、粛々と読みだしてしまうほどにはお世話になっている。

 

こちらも短いゆえに話の筋はそこまで複雑でない。ただ、2人の主人公を置くことによって、創作に対するそれぞれのスタンスを書き分け、そして大団円では1本の線に紡いでいくその過程は何度読んでも鳥肌が立つ。そして、本作でのキーパーソン、漫画雑誌編集長、阿久田が言う「誰も生き急げなんて言ってはくれない」というセリフ。数々の漫画のセリフの中でも、人生訓としては、非常に重たく、またその通りな一言。

 

創作という道自体、普通に生きて得る幸せを放棄することと宣言しながらも、ラストでは様々な問題や葛藤を超えて、2人は漫画の道に至る。そこまでの覚悟がお前にあるのかと問われれば、めっそうもないです・・・と消沈するのが常なのだけど、趣味だとしても何かを作る、書く、発表する、その重たさと価値を感じさせてくれる作品。高校生とか、本当に読んでほしい。

 

・『ファミリー・アフェア』(『おかえりピアニカ』収録)衿沢世衣子 イーストプレス

www.eastpress.co.jp

短編集を主に主軸に活動している衿沢世衣子という漫画家。どの作品も瑞々しい感受性で描かれており、しがらみながらも、嫌味のない人間関係は彼女にしか描けない独特な空気感がある。そんな中で、本作もカンフル剤的に、自分の歩く方向を確かめる際に読む1本がこの作品である。

 

原作はよしもとよしともだが、衿沢世衣子の作品集にキレイに収まっているあたり、話の筋としても親和性が高かったと想像がつく。ごく普通の家庭が、父親の会社の倒産を機に過渡期を迎える。引きこもりの兄、女子高生の姉、主人公は小学生女子で「こどもだから分からない」と家族の問題にも目を背けている。ただ、両親の関係含めて少しずつ、家族が自分の道を歩み始める。その過程が丁寧に描かれている。

 

その中でも「何かに夢中になっていれば他のことなんてどうでもよくなる」「一番大事なのは自分で決めるってことさ」というセリフが象徴的に使われるが、日ごろのノイズが多い生活の中で、迷わない指針がここにあると読み返すごとに痛感する。本作品集通して、大人になりかける子供の話が多い。我々がとうに忘れた「大人になる自分に何を感じていたか」ふと思い起こさせられるようで、背筋が伸ばされる心地になる。

 

 

 

ということで、とりあえず簡単に挙げてみた5冊ほど。こういうレビューテイストは、まぁ、ふとした感情で書けるのでたまにはいいもんだなと思う次第。ということで、自身も挙げた漫画を読みつつ、徐々にやりたいことに向けて頑張っていかねばと気合を入れ始めたい。季節の変わり目に体をやられないよう気を付けなければ。

 

 

正しさの限界と未完成な自分~Twitter10年を考える①~

今年でTwitterを使い始めて10年になってしまう。便所の落書きも、10年続けば立派な病気である。そんなわけで、その10年を振り返りつつ、ちょっといくつかの論点から数回に分けて連続的に思いついたことを書いていくつもりだ。ネットやらそこらへんと自我の話だったりいつも通り、基本根暗ベースなのであまり面白い話ではない気がするけど、自分が今書けるネット総論として、残してみたい。

 

・ネットとデモクラシーという関係性から

大学時代、政策やら政治をかじっていた僕が卒論に選んだテーマは「eデモクラシー」というものだった。2008~10年当時、オバマ氏がFBを使って不利と言われた米大統領選に勝利したり、アラブ諸国ではSNSを使った民主化運動が過熱、日本でも民主党がいよいよ政権を奪取。長きにわたった自民政権が終わりを迎えるなど変化の時期にあって「ネットって民意反映にとって面白いツールなのでは」と選んだテーマだったように思う。

 

電子投票の議論も相まって、当時はそこそこ熱のある話題だった。それから約10年。広くスマホが普及し、SNSのアカウントは一部のネットユーザーから老若男女一般層にまで拡大。その結果、マスコミを中心とした情報流通の仕組みが変わり、アメリカ大統領さえも日々Twitterを駆使、それによって世界情勢が大きく振り回されるようになった。

 

こう見ると、ネットによる民主政治は加速しているように見える。ただ、どちらかと言えば、チャーチルが言った「民主制は最悪な政治形態」という言葉がより鮮明になっただけかもしれない。日々流れてくるクソリプの応酬を見れば、民主政治の主体たる市民さま方の発言にゲンナリする毎日だし、そうした衆愚に加担したくない頭良き方々の主張合戦も、結果自分の肯定のために吐かれている言葉がほとんどのように見受けられる。

 

と、斜に構えてそう言ってる自分も、結局はTwitterで10年を過ごし、ここで好き勝手物を言いながら、自分の足場を確かめるだけという作業を延々行ってきたにすぎない。そんな時間を過ごしているうちに、ネット社会において「正しさ」という概念自体が、ある種限界を迎えているように思えてきた。

 

・この時代が提示できる正しさの姿

数年前に「正義」について語り、ベストセラーになった本があったけれども、結局それを読んだところで、モヤっとした気持ちは消えずにいる。むしろSEKAI NO OWARIだって歌っている通り、人にはそれぞれ正義があるんだから、定義するのもおこがましいというのが最近の定説くさい。

 

そもそも普く人に与えられた「正しさ」は本当にあるのだろうか。一見、確実そうな定義として「正しいこと」=「嘘でないこと」という定義を考えたい。最近のはやりで言えば「デマ」でなければ「正しい」ということだ。こう見てみると、白か黒かという認知はしやすそうである。ただ、これも正直「であること」と「とすること」の境は、案外類推に任せることが多かったりする。

 

例えばツイッターにおいて。ある情報がデマでないかどうかの判断をいかに行うだろうか。その発言についてくるリアクションを確認し、別の識者がデマと断定していたり、あるいは発言者の普段の言動が怪しさなどで判別をつけたりする。つまるところ、その話題に対して自分が明白な答えを持ち合わせていなければ、白か黒かの判断も、結局自分のバイアスによって変化してしまうわけだ。

 

昨今。いわゆる道徳的、歴史的にみて「正しい」とされる観念はSNSの個別意見によって分解され、むしろ個人個人が何を「正しいとするのか」という判断に委ねられる存在にまで降りてきたといえるのかもしれない。

 

例えば校則。いわゆる「ルールがあるから守られるべき」正しさの典型だろう。ただ、最近では、髪の色議論なども記憶に新しく、時代にそぐわない校則に関する対応などもネット議論の対象になっている。現代において「正しさ」というものは天賦的に与えられるものでなく、僕らが作り出すもの。むしろ共有されて生じる合意のようなフラットな「正しさ」のイメージは、このネット社会における議論の本質を感じさせるものだと思う。

 

・「自己肯定」から生じる歪み

そう考えると、今の時代。「正しさ」を生成するうえで、非常に重要な存在が浮かび上がってくる。それが「自己肯定感」だといえる。正しさを作るのが個々であるならば、逆説的に「自分は間違えていない」と考えなければ、そこに正義は生じない。あの対応は今の時代に反している。そんな批判は、自分が正しい陸地に立っているという自己肯定からスタートしている。

 

正しくあるためには、自分が間違ってはいけない。僕が勝手に一人で感じているだけかもしれないが、昨今のネット社会に感じる窮屈さ、なんとなく流れている強迫観念。そうしたものの根底には、この思想があるのではないかと思う。

 

今のネット社会における自己肯定の姿は、承認欲とも密接に結びついている。多く賛同があったから自分は正しい。社会を動かす影響力が数字として見える分だけ、自分は正しい。反対意見は、当然のことながらそれを受け入れれば、自己否定にも繋がってしまう。人としての価値を賭け、それら反駁に対して、同意見者の連帯をもって烈火のごとく反発をする。SNSで日々見受けられる日常的な攻防である。

 

見てわかる通り、ネット上における正しさにはキリがない。どうしたって、自分と意見が合わない人間は星の数ほどいて、逆に自分に賛同する人も数多くいる。それぞれがコミュニティを形成しながら、自己肯定を相互に承認し、自陣の掲げる「正しさ」を生成し続ける。はっきり言えば、この構図を見ていていい気分ではないし、結局のところこうした対立軸、あるいは自己肯定の沼とも言える状況に、僕は冒頭掲げた「正しさ」の限界を見てしまったという具合だ。

 

・未完を受け入れること

 「正しさ」という概念を見出すことに無理がある。それは確かにそうかもしれない。ただ、今回の最後は、ちょっと飛躍するが大乗仏教にまつわるこんな話を引っ張って終わりたい。

 

大乗仏教は成立した年代から考えても、釈尊の教えを直接的に伝えたものではない。それでは、仏教として後付けで作られた「偽の劣った教え」なのだろうか。そんな古典的な問いがある。

 

この問いに対しては多くの回答が用意されているが、その中でも大竹晋氏『大乗非仏説をこえて』(国書刊行会)という本において、数ある「大乗仏教は非仏説(釈尊の教えではない)」に対する反駁として、非常にクリティカルな回答が用意されていた。

 

簡単に記すため語弊覚悟で書くが、大乗経典をもとに、その僧が修行をし、徳を積んだところに得られる「大乗仏教は正しい」という確信、あるいは体験が多く残されているからこそ、大乗仏教は仏説である。という回答だ。これだけ読むと「はぁ?」という感もあるだろうし、強引さもわかる。なんなら先に挙げた昨今の「正しさは我々が作り出す」という現代の思想に近いような気さえする。

 

では何が違うというのか。その差こそ、修行によって仏説だと確信しながら、まだ決して完成には至らない、自らが未完だという自覚、境地にあると思った。我々がネット上の議論で見かけるのは「正しい」か「正しくないか」という今存在する自分自身の肯定に纏わる衝突である。今の自らの知識が、そこで完成されている前提で殴り合っている。

 

対して、そうした修行僧らが得た境地はといえば、未完ながらも正しい道を歩む、という過程的な自己肯定感と言える。先の言い方になぞるならば「正しくあろうとするか」という、生き方の話である。その生き方自体が周囲の人に感化を与え「正しい在り方」を伝播させることで、結果大乗仏教の本質たる衆生の救済という大願へつながっていく。

 

徳を積む、という言い方は過度に仏教的かもしれないが、瞬間的に正しいか否かということでなしに、先々を見て「正しさに至ろうとしているか」という事を、各人が自らに問うべきなのだろう。今、ネットを見ていると、あまりに即時的な「正しさ」またはそれに基づく「自己肯定」に依存しすぎているような気がした。今、自分自身が正しくなかったとしても、そこに至ろうという未完成を受け入れる姿勢こそが、より健全な知恵と、より大きなものを包括する議論につながるんじゃないかなと。

 

ツイッター10年を振り返る第一夜、こんな説教、というか説法くさい話で終わろうと思う。また思いついたらぼちぼち書いてみたい。

 

格ゲーは「観戦」に耐えうるか

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格ゲー観戦も悪くないもんですよ。はい。

春真っ盛りすぎて、正直暑い。このままだと予定より早く桜も咲いてしまう・・・人間ってわがままだよなぁって思いつつ、昨今にわかに熱を帯びてきた「e-sports」関連の話題を書いてみようと思う。ちなみに花見予定はないです。

 

今日のテーマは対戦格闘ゲーム、いわゆる格ゲーである。本日、秋葉原UDXにて行われたCAPCON主催「ストリートファイターリーグ pwoered by RAGE」のグランドファイナルが開催され、僕も観戦に出かけてみた。

streetfighterleague.capcom-s.com

 

実際見てみるまでは、はっきり言って「生で観衆が見にいく格ゲーの大会」という感覚がイマひとつつかめず、またチケット代¥3,000という価格が適正かも疑っていた。ただ、モノは試しにと思い切って行ってみた結果、興味深い点がいくつかあった。今回はこのグランドファイナルを見て思った「e-sports」の可能性について考えてみたい。

 

・格ゲーの「わかりにくさ」をどう乗り越える

格ゲー。過去から根強いファンも多く、昨今では世界で活躍するプロプレイヤーも多い。僕もかなり熱を上げている。しかしながら、ファンはいいとしてもそのプロの凄さを人に伝えようとしても非常に伝わりにくい。実際にプレイしていない人からしたら「これ、何がすごいの?」となるのは当然だろう。

 

今回「ストリートファイターリーグ powered byRAGE」では、そのような層に訴求力を持たせるため一風変わったことを行った。それは「レベル別チーム制」である。格ゲーに初めて触る若手タレントからオーディションした「ビギナークラス」、20歳前後の若手実力者プレイヤーから募った「ハイクラス」、そして世界で活躍する筆頭プロプレイヤーから選出した「エクストリームクラス」、それぞれ異なるレベルの3人がそれぞれチームになり、約2か月にわたるリーグ戦を闘うというレギュレーションだ。

 

対戦はクラスごとに分けられており、ビギナー同士の対戦は1ポイント、ハイクラス同士は2ポイント、エクストリームは3ポイントという具合にポイント制でリーグ戦の順位を決定。上位3チームがグランドファイナル出場となる仕組み。

 

つまるところ、このゲームを極めた人は何がすごいのか。初心者プレイヤーとの差異を見て、初めてなるほどこれはすげえという認識に繋がるのは分かりやすい狙いである。超人を紹介するバラエティ番組などでもよくある手段だ。この企画はチーム編成が始まったところから、abema TVで配信されており、僕も「面白い発想だな」と関心していたのだけど。

 

実際に見て、湧きあがった感情はまた更に異なっていた。

 

・推しの化学反応

ビジュアル系エアーバンドとして人気の「ゴールデンボンバー」。そのメンバー歌広場淳氏が格ゲーにかなり精通していることは一部で有名である。いや、普通に強い。今回もそんな氏がスペシャルゲストとして呼ばれ、解説やトークを担当することとなっていた。

 

そして入場待機列に並んでみると、確実にこの女性・・・格ゲーじゃなくて歌広場目当てでは・・・という女性が目に付く。チケットは完売と聞いていたが、これ格ゲーの盛り上がりじゃなくて、金爆効果・・・という疑惑が頭を掠める。実際、歌広場登場と共に盛り上がる女性陣。しかし試合が始まるとその不安は、思わぬ方向で解消されることになる。

 

今日、最も観衆の声援を受けたのは、ネモが率いる「NEMO AURORA」に所属するビギナークラス奥村茉実(浅井企画)だったのは間違いないだろう。今回企画、紅一点の女性選手でチームはリーグ2位で本戦を通過したが、本人の戦績は0勝10敗。一度も勝てていなかった。

 

このグランドファイナルにおいても、初勝利を狙い、健闘したが勝てなかった。しかしながら、彼女の操るブランカが、ビギナークラス最強を誇った国定涼介から1Rを取った場面、会場は今日一番の盛り上がりを見せ、かく言う僕も声をあげて応援してしまった。その際、横を見れば先の女性観客からも、奮闘する奥村に熱い応援が飛んでいたのである。

 

これはあくまで憶測だが、もしかしたら本当に。歌広場目当てで来場した人も多かったかもしれない。格ゲーにそこまで強い興味はなかったかもしれない。しかし、大会の最後、勝てなかった事を涙ながらにチームと観客に対し、謝る彼女のコメントは、恐らく見ている人の胸を打っていたことだと思う。そして「今後も格ゲーを続けたい」と語った言葉に僕はちょっと泣いてしまった。

 

格ゲーは正直言って地味である。スポーツと違って身体性はバーチャルであり、その人間的な凄さは想像しにくい。ただ、そこにひょんなことから共感に足るストーリー性が付与されると、思った以上の訴求力が生じ、会場にも一体感が生まれる。はっきり言って、今日もスポーツ観戦のような盛り上がりは生じないだろうな。と思っていた。ただ、やはり現場は違う。何かが起こるものだと、改めて実感させられた。

 

・ビギナーとプロがあっての「文化」

板橋ザンギエフ率いる「ITAZAN OCEAN」の優勝をもって大会が終わり、カプコン小野義徳プロデューサーが総括の際こんなことを言っていた。「ビギナークラスの戦いでは想像をしていなかったような結果が見えた」その通り、このリーグではビギナークラスの存在、そしてハイクラスの中間層を設けたことに大きな戦果があったのだろうと思う。

 

これまで格ゲー周辺は、どちらかと言えば強さ一辺倒なカルチャーであり、新規参入は他の文化と比較すると厳しい世界だった感がある。今回、目に見える形でプロに対して「育成」を義務とした企画を開催したことによって、これまでの「強いからすごい」という見方から「強くなる面白さ」を提示出来たのは大きいことだと思う。

 

また大会中「ITAZAN OCEAN」のハイクラス・もっちゃんの個性の強さなども見どころとなり、やはり今後、格ゲーがスポーツとして受容されるには、そのプレイヤーの魅力や、ストーリーの共有という部分への注力が重要視されるべきなのだろうと感じる。

 

当然、ある程度上の世代、つまりゲーセン世代からすると格ゲーがいよいよオープン化することに対して、戸惑う気持ちも理解できる。しかしながら、最近ネット対戦をすれば中国勢、韓国勢、また東南アジア、アメリカ勢、各国の猛者とマッチアップすることも日常となった。現状、すでにすごい時代になったものだ、と思っていたが。今日の大会を経て、もっと格ゲーがスポーツへと深化し、そしてプレイしても、見ていても面白くなるような気がした。

 

日々、夜な夜なネット対戦をしては負け、もう嫌だ・・・と折れそうな気持ちになるものの、今日の奥村茉実の言葉で少し前向きになれた気がした。また今後も様々な仕組みをカプコンは企んでいるらしく、引き続きその続報を待ちたいところである。

 

格ゲー本筋のことは、詳しい人に聞いてくださいってことで。暖かい1日の格ゲーファンの独り言でした。

 

 

 

『カメ止め』がつまらない、のは何故か考えてみた話。

春眠マジで暁を覚えなくなってきたこの頃。花粉も飛んで、仕事に身が入るわけもなく、月曜から生産性のない考え事をしていた。今回はめずらしくサブカル論評みたいな話題になりそうなので、各位は優しい心で受け止めてほしい所存です。

 

・『カメ止め』好き?

先に言っとく。僕は好きです。昨年秋口から口コミで大ヒットとなり、社会現象にまでなった『カメラを止めるな!』。最近ネットやCMで見る企業や自治体との安易なコラボ広告にはちょっと閉口モノだけれども、個人的には面白かったと思う。ていうか、それが乗じてこんなめんどいレビュー記事まで書いたほどだ。

www.wagahaji.com

 

この作品。もちろん大ヒットになったということで、絶賛する人がいる反面で叩く人も案外多い。実際、僕も上映当時一度見た後、友人から感想を聞かれ「面白かったので見に行こう」と誘ったところ、見事に彼にはダダすべり。最終的には「いや、なんか誘ってごめん・・・」「いやいや、面白く感じない俺が悪いから・・・」と2時間ほど非常に気まずい感想合戦となった。

 

それ以降、タイトルにある通り「あの惨劇は避けられなかったのか」「『カメ止め』が面白くない人ってどういう目線で物語を見ているのか」と考えるきっかけになったのだった。そして先日、テレビ放映を終えたら案の定「カメ止め つまらない」という組み合わせがトレンド上位にもなっていた。おお、やはりいるもんですな。

 

今日はそんな「叩く人」の目線から『カメ止め』の物語の仕組みを確認、そして、話を広げてそもそも人によって感じる面白さの違い、つまり人にとっての「物語の向き不向き」についてそのエッセンスだけ、考えてみたいというお話でございます。

 

・好き嫌いが分かれる珍味「メタ作品」

アニメや映画のレビューを読む際「メタ」という言葉が濫用されているのを見たことはないだろうか。僕もゼロ年代サブカルクソオタとして、大して意味もないのにこの言葉を安易に使いたがる。しかし、この「メタ」。実際、何ぞやと聞かれると、ちゃんと説明するのが難しい。

 

よし、これを枕にブログ書き出せばある程度の取れ高が、と思ってたらこちらのサイトでよくまとまっていたので貼っておく。そうそう、こういうこと。うん、分かってたし。
storymaker.click

 

つまるところ、物語の世界観から「超越」する表現方法、それが「メタ」と呼ばれる手法である。『カメ止め』では、冒頭の『ONE CUT OF THE DEAD』という「ホラー映画」の世界観を後半で自ら壊し、舞台裏を物語の本筋に置く。その作中劇スタイルは、上記ページに説明がある典型的な「メタフィクション」の要素であり『カメ止め』がメタ的だ。と言われる所以がここにある。

 

ただ、ぶっちゃけて言えばメタ的作品は、物語としては王道ではない。ふと逆の王道作品を思い出せば話が早い。例としてジャンプ漫画など『DB』から『ONE PIECE』『スラダン』などなど。主人公がストーリーの中で成長し、苦難を乗り越える。読者はその苦闘に共感し、キャラのセリフに自らを重ねる。このマンガに感動した!勇気をもらった!と語る人は、大抵この「王道」作品を列挙する場合が多い。

 

それを考えるとメタ作品がいかに亜流な存在であることが分かるだろう。物語を自分で壊しにかかり、その壊した先で「衝撃」を与える。同じジャンプの鳥山明作品でも『Dr.スランプ』は、かなりメタ的だ。キャラが突如、読者に話しかけてきたりする。そういう「想定外」の混乱を物語に招き、読者に笑いや驚きを与えたりする。つまり「メタ的な作品が好き」などと自分で言っちゃう人は、正直ちょっとひねくれてるのが常だ。

 

・向き不向きは「メタ」との距離感

少しずつ冒頭の問いに答えていこう。つまるところこの「メタ表現」への許容性があるかどうか。これが『カメ止め』の評価に繋がっているのではないか、ということである。恐らく、上世代のオタクからは「何をわかりきったことを」という反応が予想される。

 

その要因として1984年公開の『うる星やつらビューティフルドリーマー』の存在が挙げられる。高橋留美子すら「別作品です」とコメントしたほど、原作世界をある意味壊しにかっかった劇場版2作目。「虚構」を「虚構」として自覚するという手法は、当時のリアルタイムオタクたちに衝撃を与え、傑作あるいは問題作として名を馳せた押井監督初期の名作である。

 

そして当然のことながら、当時もこれが許せないファンがいた。つまるところ「メタ」は純粋に「物語」本筋を楽しむ人に対する挑戦、あるいは挑発にも受け止められる。

 

『カメ止め』で考えれば『ONE CUT OF THE DEAD』という作品をまず楽しみにしてしまった結果、後半の「はい、あれはウソでしたー」というネタバらしを見た途端、映画としてシラケちゃったという帰結は容易に想像がつく。いやいや、あそこまで「ネタバレ禁止」って言ってて、これ?という落胆は、レビューでも結構見受けられた。

 

ただ『カメ止め』がミニシアターにとどまらず、社会的ブームになったのは、単にメタ作品による驚きや笑いがあっただけではないだろう。本筋は亜流であるメタの形をとりながらも、後半で家族の絆を扱った「王道ホームコメディ」としての体裁を取り返しに来たのが大きい。つまり、一作品の中にも様々な要素がある。メタな部分と王道な部分、普通それぞれが共存しながら物語は紡がれていく。

 

そして、もちろんそこから何を受け取るかは人それぞれである。序盤のゾンビ映画を「くせえぞ」と怪しみながら見たメタ作品ファンもいれば、ホラーに期待をした結果30分後の転換にシラケた人、あるいはそこからの父と娘の王道ホームコメディに胸を熱くした人、自分が『カメ止め』のどこに何を感じたのか。

 

クソだと思った人も、面白いと感じた人も、本作を見た上でこれを考えてみると、一体自分が「何に面白みを感じるのか」という自己理解への一助になるだろう。

 

・流血沙汰の「作品論」をなくすために

そして、最後の結論はここに繋がる。冒頭僕自身が友人とやらかした感想戦。どちらも得をせず、なんならちょっと険悪にもなった。そして『カメラを止めるな!』だけにとどまらず、ネット上における「あれはツマラナイ」「いや面白さを理解でいないお前がクソ」という悲しい言い合いは、インターネット史以来の風物詩となっている。

 

正直、根絶はできないまでも減らすことはできないもんかと常々思っていて。今回の『カメ止め』を巡る考察が多少なりとも和平工作へ寄与できるのではないか、というのが本記事の主たる目的だ。

 

古来、オタクたちはこのような「メタが与える衝撃派」か「純粋に物語を楽しむ派」か自覚的に把握しながら殴り合いをしてきた、クソめんどくさい人種である。(ぶっちゃけ綺麗には不可分なので、結果泥沼なのだけど)だからこそ、対立はあくまでもディベートのそれであった。お前の言い分もわかる、だが、俺の理屈でねじ伏せる!的な。

 

昨今、そうした「メタ」という作風が広く一般化した結果「メタ」か「アンチメタ」かという作品へのスタンス論でなく、単純に「人生観」「感受性」での殴り合いとなってしまっているケースが結構見受けられる。いやぁ、それで殴ったらアンタ心から血がでるよ・・・と思わずにはいられなかったりする。

 

人によって、それぞれの得手不得手なストーリーがあり、そして配信サービスが群雄割拠し、過去にないほど多くの作品群に我々は囲まれている。あの人の批評は、恐らくこういう視点からでは。僕はこの目線から面白くないと思う。こうした自分の感情の言語化をもっと丁寧にすれば、もう少し心穏やかにインターネットの海を泳げるんじゃないかなと。

 

そんなことを思いながら、適当に働いてた暖かな1日でした。