読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

批評と意図についての話

f:id:daizumi6315:20170322222539j:plain

©2017 ひるね姫製作委員会 出展・ワーナー公式サイトより

https://warnerbros.co.jp/movies/detail.php?title_id=51422

 

季節の変わり目ということもあって、なんだか意味もなくイライラしている。あまりストレスをため込むのも健康に良くないとは思いつつ、膣圧が強くなければ性交中射精すりゃできやしない。何が言いたいかっていうと、多少のイライラや抑圧があったほうが考え事はアウトプットされやすいってこと。もう最初からどうしようもないたとえなのだけど、最近何かを批評することについて考えていたことをまた漏らしていく。基本的には前回書いた記事の続きというか、ほぼ近しい感じの事ではある。

 

・面白いか面白くないかの前に考えるべきこと

ということで、タイトル下にも画像を掲げた通り。3月18日(土)に封切となった『ひるね姫~知らないワタシの物語~』を早速見てきた。『攻殻機動隊S.A.C』『東のエデン』といった作品で知られる神山監督の最新作。予告だけ見るとかなりファンシーな感じだが、これまでの経歴を鑑みるになかなか安心して観ることができない。さて、いざ勝負と意気込んで見てみたのだが、思いの他かなりふんわりとした印象を受けた。

 

簡単にストーリーを。主人公は至ってふつうの田舎女子高生、森川ココネ。昼寝が得意な彼女が見る夢と、現実におけるストーリーが徐々にリンクしていき、双方での冒険を通して自分の出生の秘密や家族の謎などが少しずつ明らかにされていくというファンタジー調ファミリー冒険活劇。とでも言おうか。個人的には『パプリカ』を『ジュブナイル』で割って『サマーウォーズ』で味を調えて『パシフィックリム』を隠し味に入れた、そんな感じの印象を受けた。

 

ぶっちゃけてしまうと、個人的には上記の通り雑多すぎてストーリーの奥行に物足りない感じを受けてしまったのだ。それはそもそも僕が神山監督の過去作に引っ張られたままの期待をしていたからという理由もあるのだが、もう少し各キャラクターの心理や過去に基づく描写や要素が欲しかったな・・・と感じつつ、TOHOシネマズ日本橋を後にしたのである。

 

んー、もうちょっとなぁ。そんな感情を抱きながら今朝。毎朝のNHKの『おはよう日本』を見ているのだけど、そのエンタメコーナー内で神山監督が本作を語っていたのである。その一部、記憶している限りではこんな感じだった。「3.11以降、それまで当然とされていた平和な日々が現実的なものでなくなった。逆に平穏無事な世界がファンタジーのような存在になってしまい、アニメ作品として描くのが難しくなっていた。今回はその上で自分の子供に見てほしいファンタジーを描いたつもり」という話だった。

 

この話を聞いた時に、なんていうか非常に納得できた。というより反省した。そもそもこの作品の向いている先は僕ら疲れたアラサーリーマンおっさんオタクではない、という話である。例えば今の10代が見て、この作品を新たなファンタジーと捉えられるかどうか。そんな意図と狙いに溢れた本作に対して「この映画には僕らにとってのカタルシスが足りない」と言うこと自体がナンセンスだったようにも感じる。朝から自分自身の観点が凝り固まっているという事に気づかされるようであった。それを踏まえてもう一度、心をリフレッシュして観てみたくなってきた。

 

・制作の意図を汲んでカテゴライズするのが「批評」

僕個人の意見を言えば、単純に自分の物差しでただ「面白い」か「面白くない」かを論じるというのは批評ではないと思っている。何の為に、誰を対象にして作品が作られるかを勘案し、その情報を然るべき人に提供する、リコメンドする。これが実益を伴った批評の在り方だと僕は思う。食べ物と同様にストーリーの好みなんて千差万別で、前回の記事でも書いた通りだが話に得手不得手もある。アレルギーを持っている人には逆にストップをかけてあげ、逆に食わず嫌いなら、どう克服させるかというのも、何かを批評することの醍醐味であると僕は思う。

 

ここまでくると実際、ビブリオバトルやプレゼンに近い。そんなものは批評の枠組みではないというお叱りも受けるかもしれない。ただ、何にせよ今回の本題として言いたいことは意図や狙いを考えよう、という事である。よくネット上にて、巷でヒットしている作品に対して噛みつく意見もよく見かけるが、こうした場合完全にただ自分のテリトリーの中に持ち込んで、ストーリーがなっていないとか技法がクソだとか該当するタイトルを叩いている場合が多い。何故そのような作品を作ろうと思ったのか、あるいは何故そうした技法になったのか、という部分から論ずる人が少ない気がする。

 

意図を汲むといっても、必ずしも正解である必要はない。その考える姿勢こそが作品を論じる上で最も重要なポイントだと思うのである。例えば今回アカデミー賞で話題となった『ラ・ラ・ランド』正直言えばストーリーはシンプルであり、あまり深みがないと言えばない。しかしそこだけで論じるべき作品だろうか、そうではない筈である。アカデミー作曲賞美術賞を受賞したように、高い芸術性にこそ演者や制作陣の意図は込められていると感じるし、ストーリーがシンプルだからこそ、演出が際立つという見方も出来る。

 

乱暴に言えば、B級映画を「クソ映画だ、面白くない」と本気で断じる人は、そもそも作品自体を批評出来ていないという話だ。そうした過去から連綿と流れるB級の文脈や制作側の意図を汲んでB級映画をちゃんと「B級映画」とカテゴライズをしてあげ、愛好するあるいはそうした同志に紹介できる。そうした深い懐こそがオタク的に作品を語る上では必要な姿勢であると思うのである。当然、救いようもないクソ映画も存在する訳だが、それはそれとして同様に深い部分から断罪してあげるべきだろう。

 

・「クソリプ」とは意図を無視したコミュニケーションである

冒頭から『ひるね姫』を引き合いに出して、言いたい事だけを言っている感が否めないが、結局はそういう事である。こうした意図と批評の関係性は、単純なコミュニケーションの話にまで昇華できたりする。ツイッターなんかでも古来よりクソリプという存在が後を絶たないわけだが、そのほとんどが発言者の意図を気にしない「返答」であると言える。例えば、ふざけたネタツイートに対して、本気でぶつかっていくそのクソリプとしてのあり方は、そのクソリプ主の自己発散でしかない。相手の発言やその意図はもうどうでもいい存在と化している。

 

SNSにおけるこうした発言ややり取りを眺めていると、ちょっと不安になった。意図を無視する流れや風潮というのは、ネットにおける雑多なコミュニケーションの中で増長しているのではないかと。前からこういう話をしているが、批判をしている当人がアピールしたいのは「叩いている俺」であって、趣旨はその作品自体の落ち度ではなかったりする。逆もしかりで、作品を称賛していてもやはり誇示したいのは自分なのである。当然作品を好きになることで、ファンとしての自我を確立させることはあってもいいのだが、コンテンツの意図すら無視した自分ありきな「批評」の存在には違和感を感じていた。

 

そして、どうやらそうした嫌悪の対象として自分すら棚に上げきれなくなってきたのを、今朝感じたのである。客観的に「これは誰向けの作品」「どういった趣向なのか」という形で考えることを放棄して「なんとなく面白くない」と考えがちだった自分の観方と向かい合ったのである。無理して食べるということではなく、何故あまり美味しく感じないか。それを考えることは、作品を楽しむうえで決して無駄ではない。

 

「今を生きるオタクの価値観は、日々、毎時間更新されるべき。」そう先達に教わったことをふと思い出した。クソリプばっかの老害にならない為にも、また自分自身のものの観方を柔軟に保つ為にも、この意図を汲む姿勢というのは忘れないようにしたい、という自戒のめんどくさい日記でした。

「その映画面白い?」に対する正しい答えがわからない

今日は「人によって面白いと思う作品って違うよね」っていう当たり前のことをうだうだ考え始めてしまったので、それについてのぼやきです。

 

・「俺がその映画面白くないと思っているのは、俺に映画を見る素養がないから」

最近映画を見る本数が増えてきた。要因はいろいろある。TOHOシネマズ日本橋が会社から思った以上に近いと気づいたり、amazonで乳首責めグッズ注文したら「あれ・・・なんで送料無料になるんだろ」と、調べたらプライムに登録していると後から知ったり。劇場やら家のテレビ含めて、今年に入って見た映画の本数は10本程。

 

そりゃ映画通からしたら「なんだよたったのそれだけかよwwww」と一笑に付されるのはもう最初から分かっているので先に拗ねているのだが、元来「2時間も座って1作品見ている時間がもったいない」とか思ってた人間にとっては大きな進歩であろう。(アニメは一気見するくせにね)まぁ、単純に歳をとって時間感覚が変わっただけという言い方も出来る。

 

そしてそれだけ映画を見ていれば、毎度ブログに感想書いて細かくPVでも稼ごうかと思ったりする。しかしながら、語ろうとするほど「あれ・・本当に面白かったのか・・・この映画・・・」と自分の感覚が分からなくなってくる。見た直後「良かった」とか「イマイチだったな」とそんな印象は抱くのだけど、果たしてそのインプレッションが「あるべき批評」なのかが分からなくなってくるのだ。

 

「素人が何を評論家気取って悩んでんだ、書きたいこと書け!」そんな批判は既に左脳が延々繰り返しているので知ってる。しかし、例えば自分の感情論振り回して「物足りなかった!」と叫んでみても、それは自分にその物語を楽しむ素養や感受性が欠けていただけで、映画がクソなんじゃねえ、お前がクソなんだよみたいな、デカルト的思惟に至ってもう何も書けたもんじゃない。先日も『ラ・ラ・ランド』鑑賞後、思いの丈をブログにぶつけてみたが、後から読むと、客観主観が綯交ぜになり、例えもぐちゃぐちゃ。「高級すし屋でお任せ頼んだら最後に鯖が出てきて、ちょっとがっかりしたけど結局めっちゃ旨かったみたいな」と本作を見てない人でも語彙と感性の壊滅っぷりがご理解いただけるだろう。いたたまれなくなって、そっと下書きにぶち込んである次第である。

 

・2017年 おっさん同士の『ラブライブ!』討論

ふと先日の話だが2017年の今更、初期『ラブライブ!』の感想をアラサーおっさんである私と、友人であるアラフォーおっさんと討論。ちょっと酔っていたこともあり本格的な口論に発展。宅飲みの最中、本気で険悪な空気になった。振り返ればそれはそれで笑えるエピソードなのだけど、やはり人によって「作品を楽しむ素養」の相違があることに今更気づかされる。

 

僕はちなみに1期でキツイ。別の場所でも書いた気がするが穂乃果がことりの海外行きに対して反対を示すシーン。あそこで一気にチンコが萎えたのだ。いや、未来ある学生が母のコネでも海外経験を積めるチャンスだぞと。本人が行きたくないという意思はあれど、友人としては背中を押してやるのが筋じゃねえの?ただ、穂乃果が海外行きを応援したとして、その上でことり自身で「行きたくない」と決意を固めて日本に残るとしたなら僕は納得しただろう。あるいはアイマスみたいに、プロアイドルであれば海外行きを止めるメンバーの気持ちも理解できなくない。ただ、プロでもないスクールアイドルが大親友の将来を一時の感情で止めていいもんかね。とか。

 

そういう理屈だったのだけど「いや、そこそもそもラブライブ!の主題じゃなくねえ?そもそもことりは止めて欲しかったんだから」と一発でぶった切られた。あ、そうなのね。そういう作品か。確かにあれが添え物としてのエピソードなら、うな重の横の奈良漬けに憤慨してる自分が実に滑稽である。そっか、俺奈良漬けをまずいまずいって言ってたのか。そんなこともあり、冒頭からの葛藤の通り、何が面白い作品なのか分からなくなっていたわけだが。そこからむしろ自分が何をもって映画やアニメといった作品に対して「面白い」と断定しているのかに興味が湧いてきたのだ。俺の基準って一体。そもそも何が琴線なのだろうと、そんなことを暇つぶしに考え出していた。

 

・「その映画って面白い?」に対して

もうお分かりかと思うが、この問いに対する解は「自分で見てみれば?」である。だって面白いって思う事は本当に人それぞれなのだもの。僕にとってのうな重が、貴方にとっての肝吸いかもしれないし、その逆もまた然りなのだ。わっかるっかなぁ、わっかんねぇだろうなぁ、なのである。

 

そして、先ほどの内省を経て、おそらく僕の場合「あぁ、この作品面白いなぁ」と感じる作品には「必然性」という要素があると感じる。つまり伏線の回収や過去との合致、そして作品のその先の世界が想像できるか、といった具合だ。逆にそれが薄かったり納得いかなかったりすると僕は「面白くねえ」となる。

 

よくクソ映画としてみなされる「投げっぱなし」タイプの話がある。「え、この後どうすんのよ」みたいな。たくさん候補はあるだろうが望月峯太郎氏の漫画を実写映画化した『ドラゴンヘッド』等は投げっぱなしジャーマンの代表作としても知られる。昔劇場で見た為、絶対忘れもしないが、EDを迎えた際にほぼ全観客から「「えっ?」」というざわつきが起きるレベルでのジャーマンである。

 

また書いていて思い出したが、そうした作品を忌諱するきっかけになったのが、水島新司氏の『ドカベンプロ野球編~』である。本来大好きな作品なのだが、プロ野球編も長くなると水島氏の悪癖、伏線張るだけ張ってその存在を忘れる「伏線張り投げ」という技が編み出されていく。特に酷かったのが明訓高校から巨人に入った微笑三太郎というスラッガーがいる。某シーズンの冬季自主トレで、彼の調子が思わしくないという話題が取り上げられ「そのトレードマークである微笑が彼の顔から消えた!!」みたいなコマがデカデカと掲載されたにも関わらず、なんの復調の描写もないままその年の年間MVPを取るのだ。え?微笑の顔から微笑消えたの過去初だよね?めっちゃ大事件だよね?それを普通に流すの?多感な巨人ファンの子供だった当時、僕はそのことに納得が全くできず全巻売ってしまったのも懐かしい。

(※その後のスーパースターズ編でもまた微笑、スランプで笑わなくなる)

 

自分でも何が言いたいのか分からなくなってきたのだけど「必然性」という要素はどういったものか。例えば僕の一番好きな映画は『ビッグフィッシュ』だ。見た人には分かるだろうがあの伏線回収の仕方である。それまで話中に散らばっていたものを、最後には綺麗に取りまとめるあの手法である。すべてが必然だったことに、やはり感動を覚えてしまう。

 

むしろ、たとえ内容が不可解でもバッドエンドでもその「必然性」さえあれば僕は良いのだということも分かる。もう1本、僕が好きな作品として。賛否が分かれる『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』などは、完全にその必然性に惹かれた作品だ。個人的にはこの作品があったから「まどか☆マギカ」全編を好きになれた程である。本編において僕が不服だったのは、ほむらがまどか救いたさのみでタイムリープを繰り返す事に対し、報いがそれまでなかったからである。そんな型月で言うところの第五魔法を何回も犯して彼女に代償がないはずなかろう、と。愛が憎しみと同化し悪に堕ちた彼女を見て、涙を流しながら納得したのも懐かしい。完全にものの見方が穿ってるのは自分でも分かってるので、石など投げないでほしい。

 

 

とかくまぁ、ブログでこういう真似事をしてみると映画評論家だったり文学評論家っていう人たちは本当に大変だなぁと思う。自分のエゴにどこまで自分の客観性を付与させるのか。そのバランスの駆け引きは難しい。正直言えば思った通り自分の納得いかない部分を晒し上げた方が人の目につくし、言葉は悪いが炎上商法みたいな記事も書けたりする。むしろ言葉には「勢い」というものがある。客観性は調味料くらいのほうが、味が伝わるものなのだろう。ただ、その分、感情論を勢いよく繰り出すと脚が浮く。ネット社会とは怖いところで、誰かの上がった脚をやれ武将の首のように取りたがる足軽が多いこと。

 

今回はコミケ原稿の合間に、気を紛らす為考えたことが長くなってきて文章にしてしまったが、たまにはこういう考え事も面白いものである。なんとなく自分の性質を知るという意味でも「コンテンツや作品の好き嫌いの基準」を自分で考えるという営みは無駄じゃないのかもしれない。きっと好きな映画やアニメに出会える機会も増えたらいいなと思う

FGOが僕に思い出させてくれたこと

f:id:daizumi6315:20170306222412p:plain

あんだけ「おい、Fateばっかりにかまけやがって!お前らに課せられた本当のグランドオーダーは月姫リメイクの完成だろ!!」とか延々悪態ついていた僕も気づけば人理修復完了。いやぁ、ほんとごめんなさい。アメリカ編以降「バカ・・・最高かよ・・・」という言葉しか出てこず、更に終盤キャメロットからバビロニア、そしてソロモンなんて泣きすぎてティッシュ3箱切らすわ、しまいにゃ電車内でやってて泣けてくるのを必死に花粉症の体にして誤魔化すとか、「ソシャゲなんてやらない」と貞淑気取ってた自分が股ガバガバもいいとこ。今回は新章『Epic of Remnant』も好況の『Fate/GO』をようやく一旦クリアできた面倒な型月厨が好き勝手言い散らかすよ。

 

・見返りもなくゲームをしてたあのころ

僕はもともとそんなにゲームをやる子供ではなかった。いや、格ゲーに幼少からハマってたので確実に好きだったのは認めるのだけど、事の発端は今から17年前の3月。2000年のPS2の発売だった。当時末端価格で4万もした記憶が残っている。その価格に見合う128ビットという圧倒的な表現力、そして魅力的なタイトルにくぎ付けになり、誕生日・サンタじじい・お年玉、すべてを総動員、総攻撃を仕掛けるも結局貧しい我が家には手が届かず。まぁ、今思えば一番経済苦が酷かった時期で、おかずにめざし3匹なんていう昭和のマンガでしか見たことない夕飯も経験した頃だ。

 

周囲の友人がゲームにうつつを抜かすなか、どんどん捻くれていった僕は、野球やギター、勉強に熱中。「ゲームなんか現実に有用でなく、そんなことに時間を消費するなんて無意味だ」と子どもながらに自分に納得させ、次第にゲームをプレイすることから遠ざかっていく。クソマセガキである。しかしながら、前にも触れたがこうした頑なな姿勢は、一度ヒビが入ると全崩壊を起こす。中学以降徐々にオタク文化に染まっていく中で、ついに自分の城たるPCを高校時代に購入。(当然親に買ってもらえないので、奨学金をすべてぶち込んだ)

 

即いくつかエロゲを貪るようにプレイ。なるほど、こういうものなのかと理解していく中で、とうとう出会ってしまったのが『月姫』という作品だった。コミケで知り合った友人から面白いよと『月箱』を貸してもらう。それまでのエロゲは名前の通りエロ目的でプレイしていたが、どうも純粋にテキストを進める手が止まらない。なんだこのうざったい文体、そして完全な中二展開にシンプルながらもキャラが心をつかむことつかむこと。初めてストーリーに「持っていかれた」作品だった。

 

そして、そのころ既に『Fate/stay night』も発売されていた為、『月姫』をプレイし終わった僕は翌日部活を「病院行ってきます」と休んで秋葉原ソフマップに急行。なけなしのお年玉をはたいて購入。もうそりゃ、没頭もいいとこ。登校中でもセイバーのこと考えてるし、授業中でも桜のこと考えてるし、野球のノック中も遠坂のこと考えてるしでほんと生活にならない。当時結構本格的な野球部だったので朝練も当然あり、家を出るのは5時半。『Fate』のプレイは朝4時までと決め、ギリギリの体力で日々を乗り切っていた。早朝起きてきた母親が、PCを前に感動の涙を流す僕を見て「あんた気狂ってるんじゃないの!?」とブチ切れられたのも懐かしい。いやぁ、うん。気狂ってたわ。

 

更に高校時代。周囲には男オタクも少なかったため、布教活動にも精を出した。自分が書いたキャラ絵なんかをあえて晒して隠れオタクを引っ張りだし、そこから『Fate』を勧める。またゲーム文化になじみのないやつには『空の境界』を「面白かったよこの本」と無理やり読ませてみる、などもう今思えば自分を殺すしかないような鬼畜な所業を繰り返していたわけで。その熱量たるや、若気の至りで言い訳できるレベルでもない気がしている。ほんとにごめんなさい。

 

・コンテンツを消費するのは何のため?

ただ、そうした熱量が続くかというと正直厳しかった。熱量のピークは『ひぐらしのなく頃に』や『Fate』のFD『Hollow ataraxia』をプレイしていた頃のように思える。その後、大学へ進学すると、徐々にバイトなどを始めたり、同人活動にも手を出した。そこで受け手のみでなく「何かをアウトプットする楽しみ」に気づきだしてくる。当時はバンドも組んでいたし、漫画も結構真剣に書いていみたりと、これまで散々ため込んできたオタクとしての経験値を少しずつ表出することに陶酔を覚えていたのかもしれない。

 

そして、コミケをはじめとした同人イベントにも参加してみると、やはりより良いものを作りたい、周囲から評価をされたいと感じるようになる。そうした感情が湧いてくるのは致し方がないことだと思う。更に上を目指す為には、なるほどいろんな作品を見たり、プレイすることは自分のアウトプットにもつながるんだ。そうした実感を徐々に得ていく。意識的にTSUTAYAに通ってアニメを一気に借りたり、何か表現したいことをベースにエロゲをチョイスしてみたりと、どことなく自分の地盤を作るために各作品を享受する事を覚えだした。いや、そのおかげで様々いまだに忘れられない素晴らしい作品と出会うことも出来たし、確かに絵を描く、楽器を弾くモチベーションに繋がったのも間違いない。

 

ただ、社会人になると。その時間の確保すら難しくなる。これまでの要領で何かを作ろうとすると壁にぶち当たる。インプットが足りない。ただ、そのインプットもアウトプットを無理やり生み出したいが為の仕入れでしかなくなる。つまるところ当初と比較すると、目的と手段が逆になってきて素直に作品を楽しめない。そして周囲を見ればソシャゲが盛隆。課金で儲けるその姿が一時のマネーロンダリングにしか見えなくなってくる。ゲームってこんなんなのか?いや、そこを受け入れられない自分が悪いのか・・・などと疑心暗鬼になったりもした。

 

とかく、何を見ても「これは自分の糧になるのだろうか」とか「このゲームをプレイする時間は有用なのだろうか」と結局、マセたガキだった嫌な小学生の頃の自分に少しずつ戻りかけていたのかもしれない。

 

・やはり、好きなものはすきだからしょうがない

実を言うと、非常にここのところも精神状況がこんな感じであり、何をしても楽しめないというような感に追い詰められていた。何か見なくては。枯渇してるだけだ。とamazon プライムを探ってもピンとこず。ただの同人作家リーマンが何をそんな焦ってるのだと自分でも笑いたくなるのだけど、こればかりは性なので仕方ない。

 

もうダメだ。諦めてFGOでも腰を据えてプレイするか。そんな境地の中でようやくクリアを目指してちゃんとプレイしてみた。過去にないほど、もうできる限りの時間を費やした。電車の移動、布団に入って、半身浴をしながら。ここまで来て初めて気づく。頑張ってゲームを続けたというのは嘘だ。ただただ、面白くて。うれしくて。やめられなかったのだ。

 

様々なサーヴァントが登場する中でも、過去の作品の伏線を拾ったり、今回プレイする中で改めて合点がいったりと、この10年以上の時を経て再度『Fate』が設定から動きだしている事に感動を禁じえなかった。特に7章バビロニア。本作では悪道を尽くしたラスボス、ギルガメッシュが、人の道を救う王として描かれる。聖杯戦争ではないからこその表現であり、彼が数ある宝物庫から「エア(エヌマエリシュ)」をなぜ宝具としているのか。そんな事にも合点がいったりと、いやぁ。ほんとやられたよね。また、当初は女神イシュタルが遠坂のデザインを模しているのを見て「媚びてるなぁ・・・」と思っていたけど、プレイすればそこの必然性にも少しずつ近づけていける。つまるところ、やられっぱなしなのである。

 

このFGOにはこういう感動がいくつも点在している。過去のことに固執する面倒なオタクだったからこそ、いちいち小さな発言が嬉しく、そしてちょっとしたセリフでも号泣したりする。これをプレイしたからどうだとか、何の糧になったとか。そんなことはまるで関係なく、ゲームとして一つのテキストを読み進める事がこんなに幸せだったのは久しぶりだったかもしれない。最終的に冒頭掲げた人理修復を果たしたのも結局は朝の4時。この歳になって・・・バカだなぁ・・・と思いながらもゲームを無心でプレイし、そこから得られる感動にただただ染み入る。この独り至高の時間こそオタクの特権だよなと。やはり好きなものは好きだから、しょうがないのである。

 

いやぁ、新宿編も楽しい。でも、月姫も待ってるんだからね!ということで明日は出張なのでそろそろ寝ようと思う。まとまりがマジでないけどこのへんで。

今朝、夢で見た話。

季節も変わり目。しばらく、色んなエネルギーが枯渇していて何もしたくなくなっていた。それでも、今日キングスーパーライブに行ったこと、FGOをようやくクリアしたこと、結構書きたいことが徐々にたまってきた気がする。

 

ただ、ちょっと今回は今朝見た夢があまりに鮮明だったので。その話をしようと思う。そもそも夢の出来事をはっきり覚えているということはあまり多くあるものではない。折角なので夢で見たことと、それについて考えたことを書き散らしていく。あまり内容がある話ではないので暇つぶし程度に。

 

 

ふと気づくと、昔からのTという友人が僕のアパートの部屋。その玄関前に立っている。彼とは小学校時代からの付き合いで、今は何年も会っていない。そうだ、忘れていた。久々に会う約束をしていたんだった。そんなアポイントの記憶がどこからともなく湧いてくる。

 

彼とは、小学生から中学時代まで学業を共にしたが、常に成績トップという秀才。全国模試でもランクインするほどである。有名大学に入りさぞ立派な就職先でも見つけるのだろうと思っていたら、バンド活動に専念した。中学時代、ギターを彼に教えたのは僕だ。何時間もストーンズビートルズ、クイーンやニルヴァーナ、尽きることのない音楽談義をした時間が蘇る。そうした意味では、ぼんやりとした罪悪感を彼に対しては抱いていた。たまに僕も彼のバンドのライブには顔を出してはいたが、現実はそう甘くなく。最近ではどうやら、そちらの活動も一息つけて、また一種違った職に就いて奮闘しているという知らせをどこかで聞いた。

 

久々にTと話ができる。今これを書き記しながら考えれば、旧友との語らい。本来であればリラックスした時間を過ごす事に期待を抱くべきなのだけど、彼を迎える僕の心は何かに緊張していた。どうも何かを覚悟していたような感じがする。

 

そして、ようやく彼は口を開く。すると謝りながら「アポイントの時間を少しずらしてほしい」と言う。わざわざ家まで来て律儀なものだが、夢なのだから仕方ない。自分も予定を確認するとその日(夢の中での感覚)は特段することもなく「また改めてくればいい」と僕は伝える。ただ、そういいつつ、多分「改めて」の機会はやってこないと思った。何故かは分からないけれど、彼とはそこでお別れになるということを知っていた。

 

すると藪から棒にTは「これからの時代、ソールドが大事だ」なんてことを言う。はて、ソールドとは何のことか。[Sold] 売れた、という単語が真っ先に浮かぶも、ここではなんら意味合いが合わない。表情が読み取れない彼の顔を眺めつつ、何のことか考えあぐねていたが、少しして僕はふと自然に「あぁ、Souledね」と「魂魄」の名詞[soul]の動詞形だと納得をした。冷静になれば[soul]という単語に本来動詞形などある筈がない。そんな造語も知らない。それにも関わらずさもこれまで聴いたことがある風に浮かんだのは不思議なことだった。彼は満足そうな顔をして「そうだ」と言った。そして当たり前のように「また来る」と続けたものの、次はない。そのことを、お互いにやはり分かっている。

 

 

僕の夢の記憶はそこで途切れる。ふと目を開ける。いつも通りアパート一階の底冷え甚だしい我が部屋の天井。充満している冷たい空気に身震いをさせ、布団に再度潜り込む。あまりに鮮明な夢に、違和感を感じ目を瞑りながら友人Tの言葉から連想される単語を反芻する。ソールド。魂。感化。人。まどろみながらも、そもそも[soul]という単語に動詞形が本当にあるのか気になってきた。こういう時、やはりインターネットは便利なものでiPhoneを取り出し、ブラウザを立ち上げる。[soul]と打ち込み辞書ツールを覗く。

 

結論から言えば動詞形はあった。[soul]は他動詞で「人に魂、心を賦与する」と言った意味合いである。ソールドはその[ed]だから「魂を与えられる」という事と捉えられる。さらに分詞の形容詞用法として「魂を持った~」という意味合いにも使える。ただ、冒頭に「あった」という書いているのは、現代は使われていない「廃れている」ことを指す[obsolete]という単語もセットでそこにあったからである。夢で見た過去にあった言葉。そのことに少しロマンを感じ始める。

 

どうやら[soul]の動詞形の出典は1913年版ウェブスター辞典から引っ張ってきているようだ。ウェブスター辞典と言えば、19世紀以降アメリカにおける英語の歴史が詰まっている英英辞典であり、今でも研究対象としても名高い辞典である。詳しい話は専門外なので置いておくことにするが、何はともあれ1913年の時点、そしてアメリカでは、何かしらの意味合いで「soul」が動詞形として使われていた事を意味する。それが文学なのか論評なのか、あるいは宗教的標語か。今では定かにはならないが、そうした言葉はあった。ということだけは確かだ。

 

夢の話から、飛びに飛んで今度は1913年のアメリカに思いを馳せる。調べればどうもFRB、アメリカの中央銀行の仕組みである連邦準備制度が出来上がった年だ。それ自体1907年の大規模恐慌の影響であり、金融システムが様々な利権の中調整を迎えていた時代である。そして翌年には第一次世界大戦が開戦する。直接アメリカにその影響が及ぶのはもう少し先の話ではあるが、金融システムの混乱、自国内での資本主義経済の行き詰まり、そして帝国主義的価値観が広まっている最中と考えると、なかなかに興味深い。

 

ひとつの言葉には、その時代の価値が詰まっていると思う。例えば一つの単語が生まれたのなら、それが世に求められていたのだろう。そして廃れたのなら、それは不要になったということで。その時代、確かに一度[souled]という単語が一部でも使われた時があった。それは「魂を持った」何かが求められたということではないだろうか。単なるシステムでは決してない、人としての在り方、矜持が求められたということではないだろうか。そんなのは、後の時代のましてや異邦人の勝手な妄想だとは分かっている。それでもその時代と言葉には密接な関係があると僕は思うし「魂」という意味が問い直させられるような、そんな時代だったのかなと。寝ぼけた頭で思ったりした。

 

気づけば、もう昼近く。まだまだ寝ぼけている頭に濃いめのコーヒーを入れ、少しずつ覚醒させる。なんでこんな遠大なことを考えてしまったのかと思い返す。果たして夢の中で友人のTが満足そうに僕に言った「これからソールドということが大事になる」とは、どういうことだったのだろうか。

 

個人としてあまり神秘的発想は信じない質なので、単語自体そもそも僕の無意識化にあったものだろうと考える。ただ、聞いた話では必要な記憶とそうでない記憶を整理する際、不要な記憶についての夢を見るという。その見た夢と一緒に要らないデータや考えを忘れる為である。PCで言えばデフラグみたいなものだろうか。しかしながら、今回のケースではその逆が起きたわけで。いわば記憶の逆流とでもいおうか。不要だと思っていたものが、印象的な友人の一言によって掘り起こされたのである。そんなことがあるのだろうか。

 

何か神秘的な意味をそこに求めれば、自分の身の回りのこと、社会のこと、世界情勢のこと、と様々な言いがかりをつけて語ることが出来る。しかし、それをする必要はないだろう。「この為に友人Tが教えてくれた」と喚くのはあまりにロマンティシズムに傾倒し過ぎて逆に野暮だし、暑苦しいことこの上ない。むしろ僕がその友人の立場だったら、ちょっと気持ち悪い。あくまでもただただ偶然に、掃除中棚から落ちてきた古い漫画のように、この言葉を取り扱おうと思った。

 

それでも、そうした偶然のちょっとした必要性に、いつか気づく機会があればいいななんて期待もしてしまうわけで。やらなきゃいけないことはたくさんあるのに、出てきた漫画を読見始めてしまい頭の片づけが一向に進まない。あいも変わらず言葉遊びが好きな自分に嫌気がさす、そんな日曜日の午前中でした。

休まない兎としぶとい亀

ふとこんなツイートを眺めていて思った事をば。つらつらと。

TAKUMI™画集発売中 on Twitter: "プロになれるかどうかは別としても、必死に努力しても上達しない人はしないし、何の苦もなく人より上手くできる人はどの業界にもいる。それが才能。「努力すれば誰でも論」は生まれ持った要素が大きいという事実から目を背けて不向きな道を進もうとする者を勘違いさせて時間を浪費させる残酷な理論。"

 

TAKUMI™画集発売中 on Twitter: "遅くてもコツコツ努力を続ければ「兎と亀」みたいに怠けてる天才に追い着く事はできると考えがちだけど、実際には努力を努力と思っていない事こそ才能ある人の特徴だから、彼らは総じて走るのをやめない眠らぬ兎。だから先天的な速度が勝っていない限り才能ある先人を追い越す事はできないとよく感じる"

 

・少年よ 大志を抱け ワナビー

早速身もふたもない一句を詠んでしまった。「ワンピース」に空目しそうなのがなんとも罪深い。のっけから言い切るのもアレな気がするけど、こんなところで長文を吹聴気味に書き散らしている時点で僕もいわゆる「ワナビー」ってヤツの一種なのだろうと思った。確かこのワナビーという単語。小説家とか文筆家辺りになりたい、けど才能や実力が伴っていない人を嘲笑するネットスラングだったはずである。まさに「こんな独りよがりな文章ばっか書いてwwワナビー乙ww」って感じだ。また、広義に捉えれば例えば漫画家やイラストレーター、バンドマンといった、クリエイター全般に「なりたい」という人たちを包括して、そう呼称しているとも捉えられる。


それを踏まえて言うが、上で掲載したこのツイートで言われる指摘は実に正しいと思う。才能、天才は確実に存在する。それを否定する人はまずいない。メディアなんかでも「稀代の天才」とか「才能を持った若手」とかそんな文章をよく使う。しかし、その割には「誰にも才能はあるもの」とか「努力すれば必ず叶う」とかそんな言葉も好きなようである。とかく「天賦の才」という存在は選民的な発想に繋がりやすい。そうした非平等な文脈に反発を抱く人もいるのは容易に想像が付く。その為、ドリームズカムトゥルーみたいなエクスキューズが必要になり、結局「天才は確かにいる、でも努力し続ければ必ず成功する」という耳障りだけ良いジレンマお題目が一般論としてはびこるようになった。という訳であろう。

既にこのブログでも表明している話だが、僕自身過去にはバンドマンを夢見たり、オリジナルの漫画を描いてみたり、高校時代には甲子園を目指していた。その経験によって一番感じた事はやはり「諦めなければ夢は叶う」なんて綺麗ごとでは決してなく「天才はマジで天才」という事実である。いや、当然やってみて良かったなと思えたことは沢山あったわけだけど、そうした「上を目指す」という意識でやり始めると、当たり前だが「上」の存在に出会う事になる。それぞれ10年近くは続けたわけだが、そうした人に会うたび努力だけでは超えられない何かがあると感じてしまう。

特に一番ギターに熱中していた頃。1日10時間練習しているのは当たり前で、とかく弾き続けた時期があった。そのおかげである程度の技量が身につきバンド活動なんかもプロを目指して本格的にやってみたいと思っていた。そんな中当時、僕にいろいろ教えてくれていた師匠みたいな人がいて、その人に言われた言葉が未だに忘れられない。

 

君は多分このまま努力を続ければトップアマにはなれる。ただプロの世界は全く話が別だ。」

 

その後、僕が音楽でトップアマになったかと言えば、そんなこともなく努力も途絶え平然と今を過ごしているわけだけれども。その世界で金を稼ぐ、あるいは高みを目指す事自体が別次元の話だと思い知らされた言葉だ。現に今、プロとして周囲で活躍している人間を身近にしてみるとその技量はもう努力という言葉一つで片付けられるものでないと一瞬にしてわかる。都度「すげえ」って純粋に思うのであった。

兎と亀の話に戻せば、詰まるところどの世界でも結局は亀なんか眼中になく「サボらない兎たち」同士のストイックな争いなのである。ワナビーならば、こうした世界に身を置く事を理解すべきだ。そして自分の力量を客観的に見定めるというのは、プロになるとかそうした職業意識がなかったとしても、何かを作ろうとする人には最低限必要な作業と思う。

 

・亀は亀の歩き方を考える

それでは、そんな勝負の眼中にも入れない亀は歩む事を止めるべきなのだろうか。という話になる。僕自身も今回の話の通り「才能のない人間の固執は時間の無駄」という発想は良く理解が出来るし、実際僕もそう思っていた。例えば、コツのつかみが早い、勤勉、まじめといった要素を兼ねそろえた秀才は、しっかりと頑張ればきっと「A」は取れる。しかし天才はそもそも「S」を取る方法を知っている。いや、その方法を持ってると言った方が適切か。その差は僅差のように見えて限りなく大きい。そして人々が金を払ったり賞賛をするのは「S」ランクのモノが常である。

しかし、ワナビーでも徐々にこの年齢になってくると自分の身の程が分かってくる。どうやら自分は天才なんかでは決してない。作れないもの、出来ない事の方が遥かに多い。

 

ただそこで諦めたくない凡人は、何とか生成した「A」「B」ランクのモノを使って、いかに立ち回るか。こういう思考が徐々に芽生えてくる。詭弁だが、兎と亀は競争しているように見えてその実全く違う歩み方をしているだけとも思える。弱者擁護のように捉えられたらそれはそれで仕方ないのだけど、歩みがのろければその間に何を観察し、何を判断し、何を得ながら歩くかを考えればよい。

ネット上では既に有名な話になったが故・水木しげる先生の「幸福の七か条」というものがある。その中にある一説「しないではいられないことをし続けなさい」という一文。そこらの「楽しいことをしたい」というレベルとも違うのだろう。自分がせねばならないと感じた事ならば、やはり才能の有無に関わらず実直にそれと向き合うべきなのだ、というある種の覚悟を伴った至言ではないだろうか。そして、この言葉は「特別なオンリーワンになればよい」「いつか夢は叶うはず」という安易な慰めなんかではないように聞こえる。

 

少しでも「何かをすべきだ」と感じたのならば、才能を言い訳にせず抗えと。才能がないなら、才能のないヤツなりの努力をしろと。亀なら亀なりにしぶとく歩けと、そう言われているような気がしてならない。


冒頭から言っている通り、才能の有無の差はどの世界にも残酷なまでに存在している。以上の戯言が身勝手なワナビー感情の表出だという事も分かっている。それでもフランクルも言った通り。人生の意味を問うのでなく、人生に期待されてる事を考えよ、だ。自分の身の程を踏まえた上で、出来る事を積み上げるしかないのである。才能のない人間の悪あがきが時間の無駄だと言われたところで、所詮人生など大いなる時間の無駄遣いではないだろうか。

 

確かにツイートでの指摘の通り。耳障りの良い「努力すれば誰でも」という言葉は残酷なだけである。「誰でも」になりたいのであれば、才能という存在に立ち向かう覚悟が、そこには必須の条件となることだろう。

今回このツイートを見ながら、普段思っている才能や努力、そんな事についてぼんやりと考え事が捗ってしまった。毎度青臭くて自分でも嫌になってくるわけだが、夏コミに向けての制作が既に始まっており、少しはモチベ維持に努めなければと、こんな内容をまき散らした次第である。まぁ、僕が言いたいことは全部日本橋ヨヲコ先生の『G線上ヘブンズドア』に書かれてるので読んでねって話である。

ふと自らの同人活動を客観視して

f:id:daizumi6315:20170213233933j:plain

 撮影:林先生 半身のおっさん:僕

 

前々からここでも書いていた通り去る2月12日。コミティアにサークル参加してきた。遊びに来てくださった方々、本当にありがとうございました。

 

あまりに売れなかった前回コミティアに対してリベンジを掲げた今回。幣サークルに委託で来てくださった林先生の陽子加速器施設写真集『PROTON』には遠く及ばなかったものの、こちらの既刊も「前回実績3部」に比べれば、それなりに数も捌けた気がする。むしろその写真集目当てで来たお客さんに、下ネタ満載の『3K歌集』を押し売りするなど非人道的な振る舞いもしたような気がするが、何はともあれなんとか今回売上で今月の電気代・ガス代辺りは賄えそうだ。また本が捌けたおかげで帰りも宅急便を使わずにキャリーを引いて家まで帰ることが出来た。いやほんと有難い限りである。

 

これが林先生のとこの写真集。やっぱすごい。ビレバンでも買えるみたい。

 

 

と、そんな中で今更ではあるのだけど、昨日のコミティアという場所で。ふと自分のサークルを客観視することが出来たのでそんな感慨をここに書洩らしておこうと思う。

 

これがコミケの場合案外難しい。行軍のような人の群れ、極寒と灼熱という過酷な環境、そして盆暮れという日本の心を逆手に取った開催日程。毎度参加してもバタバタしてしまい、気づけば「終わった・・・疲れた・・・」という言葉に尽きてしまう。最近アフターなんて行ったところで大抵寝落ちしてる。いつかレイヤーさんと楽しく談笑、更には夜もワンチャンとか夢見てみても、体力が足りない、コミュ力が足りない、結局のところ自分が足りない。てかそれ以前に、そもそもうちのサークル、コスプレイヤーとまるで関係がなかった。長くなったが何が言いたいかっていうと、コミケって落ち着いてイベントや同人活動自体を省みれないなぁ、と思ったのである。

 

それに対して、比較的よい頃合いに開催してくれるコミティアそして、会場もいい塩梅の人ごみ、そして落ち着いた雰囲気。今回はいい機会だったのでちょっと冷静になって、自分のサークルを諸々眺めてみたという訳だ。

 

・そもそも、うちの本って

そこでふと思った事としては、買ってくれた人にも、協力いただいた方にも失礼な気もするが「うちの本を買っていってくれるような人って、どんな人なんだろう」って事だった。それが顔見知りであれば義理人情も含めて、ありがとうございますって感じなのだけど、とにもかくにも偏ったテーマにこの文章量。まず初見で「ちょっと見てみてもいいですか」と言う人はまず買っていかないというジンクスまである。いや、ジンクスというか、ただの自明の理かもしれない。

 

思えば、これまで発刊してきた「'00/25」シリーズは所謂、傍から「こんな人たちと会話してみましたよ!」というおもしろカルチャー紹介本では、まずない。どちらかと言えば「当事者」向けの本に近い。オタクだったりフェティシズムだったり、そうした「一物抱えた人」の心理を文章化してみたい、なぜそうした趣向を抱くようになったのか、ということを考えるのが根源的な目的の本となる。そりゃあ「ちょっと気になるぞ」って人が買える代物ではないかもしれない。自身の編集・デザインスキルの不足も当然あるのだけど。

 

また今回、売り子するでもなくぼんやり突っ立ってると、スペース前を通る人が「女装だってよ」「フェチって」とヒソヒソ話して通っていくのにも案外気づけた。結構いた。なるほど、扱っているジャンルもやはり文化として全然アウトローにいるのは間違いないようである。そうした周囲のリアクションを見てみて、やっとその実感が出来た。アホである。いや分かってはいたが「分かる」のと「実感」では雲泥の差がある。

 

まぁ、まずジャンルとして。ご飯とかペット等よか明らかに数字が取れない分野を扱っているってのは理解できる。イヤらしい妬みという話ではなく、当然のこととして一般的なジャンル、あるいは手に取りやすい切り口に設定すれば「欲しい」と感じる人は増えはしないでも、一定層いるわけで、その逆を地で行けばそもそも手にする人も減少するはずだ。

 

昨日はなんだか、そんなことを考えながら。減少したはずの需要層の方々が、目の前で本を買ってくれている事に不思議な気持ちになったのである。この人一体何を抱えているんだろうと。その前にてめーは、何を作ってるんだというツッコミもしかるべきながら、余り需要を考えずに毎回走り出す為、やはりそうしたモノに興味を抱く人もいるのだと、他人事のように改めて実感してしまったのである。

 

・同人誌って、やっぱ面白いなぁって思った

小学3年生レベル国語苦手なヤツの感想文みたいな見出しで申し訳ない限りだが、こういう本を出せるというのはやはり同人誌の魅力なんだなというありきたりな結論に帰ってきた。だって需要考えてないんだもの。僕が聞きたい話を聞き、そして読んでみたい本を作る。そんな勢いだけで本当に作ってるんだなと、改めて実感したのである。逆に言えば、そんな本でも手に取ってくれる人がいる。その事実に改めて励まされた。

 

そう思ってみてから、こんな独りよがりなオナニー大会に巻き込んでしまった方の多さに恐縮している。今回、改めて過去にこのシリーズに対談や寄稿、写真等によって協力頂いた方の人数を数えたら総勢25人に上った。いやはや、ほんと申し訳ないやら、ありがたいやら。ここまでいると、どの方向を向いて寝てもたぶん誰かしらに脚は向くから立って寝るしかない。特にオチがあるわけではない。それにしたって、自分だけでは出来ない企画ばかり。本当に文字通り皆様のおかげ、というよりむしろ皆様が「陽」に立って完成する本だなとも痛感した。

 

そして、こんな文章を書いてると、このシリーズも次回がラストなような気持ちに自分がなってくるが、もうしばらくは続けようと思う。今日はそのモチベーションを改めて見直したいという、いわば自分励まし記事である。「そんなんアナログ日記でやれ」と言われそうなので、事前にやってみたら「無意味」「虚無」「結婚」とかネガティブ単語の羅列大会になったので公開記事で気勢を張ることにした。いやぁ、独りよくない、死ぬねほんとに。

 

次回夏コミ。一応テーマは定まっている。追々公開していきたいが、多分またバカだと思われるテーマを真剣に文字化してみたい。その根底は何なのかと自問すれば、多分人が好きなんだなぁとたまに思う。面倒なことを考え、主張し、ちょっとした違いを騒ぎ立てる。多分本質的に考えれば人間の営みって、動物として考えるとかなり無駄が多い。でもせっかく人に生まれたんだし、そういう無駄も楽しまないと損だよなと。そんな無駄に仰々しい本をまたしばらくは作っていければと思う。と、こんな壮大なこと言ってると、僕まで「宇宙キタ――(゚∀゚)――!!」と出家した感じになりそうなのでここらへんでやめておくが、コミティアに参加してそんな事を改めてぼんやりと思った所存である。

 

あと会場で。『3K歌集』読んでくれた人が「下ネタが星野源みたいですね!」と言ってくれたので、今年は頑張って星野源らしく生きていきます。そう言ってくれた人の目の前で、なんだか嬉しくなって恋ダンス歌いながら踊りかけました。

 

今週末、コミティアでリベンジです。

f:id:daizumi6315:20170206222354j:plain

ということで、読んで字のごとく。なぜリベンジなのかは後述するが、今回は今週末の2月12日(日)に開催されるコミティア119にサークル参加するよというお知らせと、ちょっとしたお話。

 

コミティアと言えば、創作ジャンルオンリーの同人誌即売会。同人誌を買うにもコミケともちょっと違った雰囲気が味わえる為、漫画好きで行ったことない人はぜひ行ってみるべきだろう。コミティアのことを紹介したこんなエントリを以前書いたので参考にしてみてほしい。

www.wagahaji.com

 

・前回の販売実績 3部

正直に言えば当初、今回のコミティアに出る気は毛頭なかった。だって、前回参加したら3部しか売れなかったから。「同人活動は金じゃねえ!」という正論も分かるのだけど、そりゃ結構凹む。しかも、そのうち1冊は身内売りだから、実質2冊。久々に「こんな売れないことってあるのね」とか思いつつ開場から3時間ほどで心が折れて撤収、下町江東の羅生門こと門前仲町へ向かい昼から酒を浴びるように飲んだ。運営に見本誌を献上しに行っただけな気分になり、荒んだ心でひたすら黒ホッピーを煽る。

 

僕が同人活動始めた当初、2007年に出した東方ギャグマンガのコピ本ですら6部売れたよ。いやぁ、やっぱしあれかな。本来、創作漫画を出すべき世界にこの評論ジャンル、しかも完全にとっつきにくい「フェチ」「オタク」趣味全開な対談集。やはり場違いだったのか。みんなが待ってるコミケに帰ろう・・・と同じビッグサイトなのにホームシックを抱く始末。とそんな感じで、サークル活動としては完全離別を決めたコミティアだったが、そこに運営から一通メールが届く。

 

「見本誌読んだけど、カタログ兼入場証のティアズマガジンで紹介レビュー載せるからまた出ない?(雑な要約)」

 

あんだけ売れなかった事を「ぐぬぬぬぬ」と思っていた気持ちが見事に反転「はい出ます!!」と超素直に即答。すぐさま参加費を振り込む僕。なんだか、普段は無碍にされても、少しでも優しさを見せられるとすぐ惚れる駄目男の気持ちがすげえ分かった。まぁ、ということなので『ティアズマガジン』の威を借りてリベンジである。いやらしいけど、せめて月の電気代くらいは稼ぎたいぞ。

 

※『ティアズマガジン』プッシュ&レビューの「情報ジャンル」のコーナーで本当に取り上げてくださってます。嘘じゃないです。 買った人は見てみてください。ありがとうございます。

 

・以下、やっとちゃんとした宣伝

ということでこれがお品書き。とりあえず参加スペースは「なー08a」お誕生席です。

f:id:daizumi6315:20170206225310j:plain

f:id:daizumi6315:20170206225324j:plain

 ということで、冬のコミケで完売した自分の黒歴史だけで作った『3K歌集』も恥を忍んで今回再販。コミティア行く予定だよって方は是非遊びに来てね。そして今回は更に委託商材として、あの「スク水着用割引」というキチガイ制度を引き継いでくださった林先生の冬コミ新刊も販売予定。当日遊びに来て頂けるようなので、多分ご本人もいます。スク水着てるかは分かりません。普通にすげえ写真集なので僕も欲しい。詳細は下記ツイートから。

 

 

配置場所は入り口からわかりやすい感じですので、まぁ、ふらついたついでにでも覗いてみてください。展示やってる大通りの並びにいます。ね、超わかりやすい。

f:id:daizumi6315:20170206231815j:plain

 

ということで、主役の創作マンガの陰で、情報ジャンルも結構しっかりおります。周りも今カタログ見てみたら面白そうなサークルさん多いので、ぜひ「コミティアはあくまでマンガの祭典!」と思ってる方も、たまには趣向を変えた本をつまんでみてもよいのではないでしょうか。当日はよろしくおねがいいたします~