わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

オタクとして老い、死ぬ事を考える~町田メガネ『下流オタク老後破綻論』から~

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C94で頒布されたコピ本Ver. 最新版はオフセット仕様があるみたいです。


正月は、無駄に意識やら心根を改める時期だ。これまでの自分の来し方を振り返り、そしてこれからの生き方を模索する。あぁ、これまでなんて膨大な時間を無駄に費やしてしまったのだろう・・・神妙な面持ちで考えるも、1年の計を既に寝正月で過ごした自分の今年を心配しちゃっていたり。とりあえず、今年も明るく生きていきたいものです。

 

前回記事に引き続き今回も、先日行われたコミックマーケットにおいて頒布された同人誌の中の1冊を取り上げてみたい。町田メガネ氏という著者/サークルが発刊する『下流オタク老後破綻論』だ。この本は、すでに昨年の夏のコミケで頒布されたコピー本の再販で、C95においてオフセット版となり装丁が奇麗になったとのこと。

タイトルからしても暗いことこの上ない本書。現在、社会的弱者からマジョリティになりかけているオタクが抱きうる「将来に対するただぼんやりとした不安」をそのまま、しかも更に具体化させて本にした姿勢はすごい。ちょっと個人的にも引っかかるところがあったりしたので、紹介させていただきたい。

 

・オタクはこの先どう死ぬのか

このサークル主、町田メガネ氏は過去にもここのブログで紹介したことがある通り、数々の職歴や遍歴から、偏りつつも鋭い同人誌を発刊することで知られている。

www.wagahaji.com

この記事内でも紹介しているが、町田メガネ氏の本はとかく「煽り」の強い本が見受けられる。自身の経験をもとにしながら、SNSでのコミュニケーション、実社会での生活、現代における働き方まで。自虐を基本にちょっと斜に構えた文体のため、それぞれに是非はあるが、スパイスの効いたネタハウツー本を発刊することで定評があるサークルだ。

 

今回『下流オタク老後破綻論』を手に取り。またいつものテイストか、と覗いてみたのだが色調がいつもとは違う。確かに計画的に貯蓄できないオタク故の自虐を込めた「煽り」口調は確認できる。だが、他の既刊より切迫したものを感じたのである。つまり冒頭でも触れたとおり、この先オタクってどう老いて、どう死んでいくんだろうね。という切々たる不安感を、けっこう明確な形で示すことに成功している。

 

なんていうか、日ごろオタクとしてSNSでわーわーやっている我々が見たくない所を的確に文章化した稀有な本だなと。毎回、過去の名作漫画をパロディにした挿絵が秀逸なこともあり、本書に関してもも多くの人が目にとめたことだろう。この本が突いてくる「認めたくない未来」に対して、読んだ人はそれぞれ「俺は収入があるから大丈夫」とマウントをとってみたり、あるいは「まさにその不安を感じている」と共感してみたり。それぞれ、読者の心境によって情報の意味が大きく左右するのではないだろうか。

 

・「ネット上の友人」と社会

本書では、ロスジェネ世代を基調にしているが、僕も就職時に苦しんだリーマンショックを含めたいわゆる「失われた20年」まで援用出来る内容になっている。昨今問題視される貧困やその連鎖については、既に書物からドキュメンタリーに至るまで、各媒体で取り上げられている。そして、こうした問題意識を「同人誌を買うような我々オタク」目線から見ることで、かなり身近なレベルの事案として突き付けているのがこの本のスタンスだ。

 

もちろん本書では、貯蓄や保険、年金といったような計画的な将来設計の話題が主軸ではあるものの、僕が最も関心したのは、ここの見出しに書いたいわゆるコミュニティの問題も明示したところにある。

 

つまるところ、僕らはいったい誰と悩みを共有し、誰を「仲間」と呼べばいいのか。という問いだ。昨今ツイッター等、オタク色の濃いSNSでは、その思想の潮流は個人主義に軸足があると言える。結婚などは社会に強要されるものでなく、稼いだ金や得た時間は自分の為に使うべき。雑に言えば「リベラル」的なこの手の発想は、それまでの昭和然とした社会観に対するカウンターの立場であるネットカルチャーにおいて馴染みやすいものであろう。

 

学校でも会社でもない、そしてリアルでもなく。我々特にネットに明るいオタク層は、90年代後半以降、趣味を媒介にしながらこれまでにないサードプレイスを得た。ただ、既に時代は平成を終えようとする中で。カウンターとして立ち上がった思想の、次のカウンターの波が来ている。自分たちでもうっすらと自覚している通り、血縁のない関係性、個人主義的な関係性の強度の問題だ。

 

この本の終章に【相談する力】と銘打たれた一段がある。その最後をちょっと引用してみたい。

下流老人で起こっている大問題の一つとして、自分で勝手に考え判断し決断し取り返しのつかない事態になっているケース。相談する人がいない、もしくは少ない、さらには「問題にふさわしい相談相手を見つけられない」等が今のオタクにもたくさん発生していると確信しています。」

勿論、この文での「相談相手」とはコンサルといった専門家という意味でも読めるが、より本質的な問いとしては、我々は本名まで曝け出して相談できる人をネット上で作ることができるのか。そんな問いにも繋がってくるようである。

 

・強度ある関係性と将来

 先の問い、ネットに親しい人ならこう答えるだろう。「ネットで信頼できる仲間は作れる」と。僕自身も実際にこれまで沢山の交流をしてきたし、そのように答えると思う。

 

ただ、この本は町田氏の自虐的目線、「下流オタク」目線から書かれている。要は、そんなネット上における綺麗ごとでは済まされていないということだ。今、趣味の面で楽しく過ごしている人が、生活面での壁に直面した際、どこまで「信頼のおける関係性」で在ることができるのか。

 

ふとそんな感情のもと、ツイッターでタイムラインを覗けば、マウント合戦が横行する日々で。様々な基準をもとに、自分のポジションを見つけては安心と虚栄を得、そして下を見下してみる。ネット上では、誰かの一挙手一投足がつぶさに確認できる状況だ。そのため常に、相対的に自らの位置を確かめ、同位置程度のコミュニティを作っては友人と考える。

 

町田氏は本書終盤から下流オタクが飛躍し、サバイブするための方法の一つに、信頼できる家族や結婚を作るという選択肢を挙げている。血縁という面倒さも含めて、生きる糧の一つになるのではという提示である。もちろん、これを読んだ際に抱く感情は人それぞれだろう。だからこそ、もし本書を読んで、その時に抱いた感情に注視すべきと僕は思う。

 

オタクとして、ネット社会に身を寄せて、老い、死んでいく。そして東京五輪後、不安要素を色濃く抱える経済状況の中、そんな際に、社会的地位だとかに左右されない仲間を作れているだろうか。あるいは一人で生きる覚悟を持っているだろうか。そして当然、リアル社会で生きる強さを身に着けられるだろうか。

 

 

読んでいて、金銭面をはじめとしながらも、様々な角度から「オタクとしての生」を問われる心地がした。これまでのシリーズ以上にハッとさせられる文も多い。各所委託などでも入手できるようなので、気が向いたら手に取ってみてもいいのかもしれない。

 

なんだか、悔しいけどおススメな1冊でした。

twitter.com

 

 

 

声に出して読みたい射精『抜いた記録』で迎える新年

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おそらく全国的に謹賀新年、年明けを迎えたようである。本年も引き続きしょうもないテキストを垂れ流しながら、また同人活動に変態的生活にと、それぞれ精進して参る所存なので宜しくお願いいたします。

 

そして、新年を迎えたということは、同時に冬のコミックマーケットを終えたということでもある。当方も相変わらずサークル参加させて頂き、わざわざ足を運んでくださった皆様、本当にありがとうございました。今回の記事ではタイトルにある通り、コミケにて頒布されていた1冊の同人誌を取り上げ、新年らしいフレッシュな清々しい記事にしていこうと思う。

 

・DIY精神が詰まった暴力的同人誌

今回取り上げるのは、画像にも示したオタクと性を扱う新進気鋭のサークルLPOP(エルポップ)さんの新刊『抜いた記録』である。これだけ見て「え、抜いたって何を?」と思った方、即座に下のURLに飛び、これ以上読まないで、その綺麗な心をこんな場末ブログで汚さないでお願いだから。

kids.yahoo.co.jp

 

twitter.com こちらがLPOPさんの公式ツイッター

 

ということで、露払いも終わったので先に進むが。本書の帯にある説明文をそのまま引用すると「二次元を愛するオタク達の自慰記録1年間分+αと統計分析を完全収録。すべての人類に送る「オタク」と「性」の解体新書」とある。つまるところ、サークル構成員3人が1年間にわたって「何のオカズで抜いたか」「どこで抜いたか」「手淫かオナホか(オナホならどの銘柄を使用したか)」を記録し続け、1冊の本にまとめたという本である。

 

昨今、オシャレな企画に装丁、旅やグルメといった実用的な知識に溢れ、徐々にその市場を広げてきた評論ジャンル同人。そんなある種「評論バブル」とも言える時勢に、コミケの評論島に落とされた核弾頭。そして思い出せば、帯にあった「すべての人類に送る」って記述、なんていうか送られた人類側の気持ちを考えてほしい。人類サイド、なんも言うことねえよ。

 

そして、何が圧倒的ってそのボリュームだ。ページにして300ページ超。しかも表紙は限定で虹色箔加工までなされているバージョンもある。(通常盤でも銀箔加工)正直初見で引いた。それにしても、ここまで「要らない情報」を、熱量と射精量でデザインし、このような読み応えある同人誌にまで昇華できるとは。回数と質など自分のオナニーに対してよほどの自信がないと出来ない芸当だろう。見上げたDIY精神と言える。

 

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同じサイズ・厚みの本を探したら『Fate/zero』最終巻が該当。早速比較画像を撮ってみたが、表紙のセイバーが血の涙を流している理由が違って見える。

・声に出して読みたい射精

また、この本の最大の魅力といえるのが、毎度使ったオカズを丁寧に記録したことで、現代におけるオタクのための抜きネタタイトルアーカイブと化している点にある。そのジャンル幅は広く、静止画から音声、漫画、AV、エロゲなどに及ぶ。

 

予定表のようなレイアウトに丁寧に並べられた射精記録。そして書き込まれるネタの数々。そのタイトルを文字列を延々読んでいるうちに、謎の面白みが湧いてくるのが面白い。その圧倒的な文字の力はぜひ本書で楽しんでいただきたいのだけど、エッセンスだけ置いておこう。

 

『抜きゲーみたいな島に住んでいる貧乳(わたし)はどうすりゃいいですか?』『にとりさんなら土下座すればやさしくいじめてくれる』『ゲーセン姫とDT男のイチャイチャ小作りラブセックス』・・・このようなタイトルが300ページにわたり延々並ぶわけである。片頭痛と共に、なんだか笑えてくる。是非、新年だからこそ声に出して読んでみたい。もういっそ、かるたとか作りたい。

 

僕の学生時代の話になるが、地元のTSUTAYAで毎年「パロタイトルAV大賞」を友人と2人で決めていたという過去がある。そのような経験からも、やはりこうしたエロ作品のタイトルというのは日本語文化のある意味で進化を示していると感じる。何か、人のバカらしい温かみというか、AIに負けない人間としての意地を見ることが出来る気分だ。

 

・自ら恥を晒し、何を作るのか

こうした同人誌という文化は昨今の出版不況ということもあって、逆説的に注目を浴びつつある。つまるところ、全国流通させることを前提とした大量生産・販売がキツくなっている中で、各個人が本当に面白いと思ったものを作り、それが受け入れられる土壌が出来上がってきている。地産地消というか、需給が非常にタイトな仕組みが今の時代にマッチしているのかもしれない。

 

当然に編集や文章に練度の差があり、未だに本職の出版社から出る本には相応の力がある。それでも、本当に尖った本というのはこうした同人誌から立ち上がるという認識が、少しずつでも一般的になってきているのではないだろうか。今回取り上げた『抜いた記録』などは、多分というか絶対に、普通の出版社から出る代物ではない。何なら、自らの射精記録なんて本が、メロンブックスさん辺りで流通しているという事態すらすごい状況だと思う。

 

このサークルLPOPさんとは、多少の縁がある。LPOPさんがコミケに初参加されたC93の際、僕も僕で『’00/25 Vol.7 これからの「性器」の話をしよう』という下ネタ全開の雑誌を作っており、そんなジャンル設定も功を奏してか、サークルがお隣に配置されたのである。その際に、同人誌やサークル活動のコンセプトを伺い、共感を覚えたのも懐かしい。そこから1年が経ち、今回のような恐ろしい新刊を引っ提げて、ありがたいことに当方スペースに挨拶にも来てくださった。

 

なんていうか、この本によって、僕自身も同人活動を継続する中で忘れていたものを呼び起こしてくれた気がする。(ずっと忘れていた方がよかったかもしれないけど)

 

当ブログタイトルの「わがはじ!」もわが恥を晒す、という文を短縮させたものだ。徐々にアラウンドからジャストサーティになり、自分の身の周りなどを気にするようになってきた中でだんだんと「あまり無理はせず」という意識が強くなっていた。それでもやはり、同人活動やらモノづくりというものは、どこかで自分の恥を晒す行為なのだ。このような暴力的なまでに自らの性生活を晒した怪作を目の前に、僕もまた何を作るのか問われた気分である。メロンブックスさんの通販URLを置いておこう。

t.co

 

同人誌という場で、あくまでも自分が作りたいものを作る。そんな基本的な気概を、この壮大な下ネタクロニクルから教わったような。大人になる中で、また1年間、真面目にバカな事をしないとなと自戒することとなった年始でした。引き続き、今後もこのような形でおすすめ同人誌紹介なんかも続けていければいいなって思います。

 

 

「面白さ」が分からなくなって。

まさに年末。C95サークル参加を翌日に控え、久々にここに文章を書いている。振り返ると、このはてなブログに移行してから、1か月以上更新を空けたことがなかったらしい。自分でもマメなもんだと驚いてはいるが、それほどにここ最近文字が書けなくなっていた。確かに年末進行ということで本職の仕事が忙しかったのはあるのだが、やはりそこは根暗な筆者。案の定ベタな葛藤を抱えてしまい、モチベを見失っていたわけだ。

 

今日は、そんなあまり表に出すべきではなさそうな内省的な記事。実際、明日の宣伝なんかをして、サクッと寝た方が遥かに生産性があるんだろうけど。まぁ平成最後の年の瀬だからウジウジしたっていいよね。

 

・面白いってなんだろ

どうだろうか、このなんだか気分がウキウキするべき年の瀬に最悪の類の悩みを抱えだしたということが一瞬で伝わったのではないだろうか。こんな、どこにでもいるような普通のサラリーマンが、何を10年目を迎え、若手なのか中堅なのかわからなくなってきて色々悩みだした芸人みたいな考え事をしなきゃならんのだろうか。

 

まぁ、こんな事を考えるのも、恐らくこういう場で日々ブログを書いたり、同人誌を作ってコミケで頒布したりしているからで。そんな事をしていたら、どうしたって「面白い」ものを作りたいっていう願望はなくせるものではない。というより、そんな熱量があったからそうした事を続けてこられたんだと思う。

 

ただ同人活動もある程度長くなってきて、作った本は10冊を超えた。継続すれば、毎回いいことばかりではない。「これは絶対に面白い!」と思っても、実際のイベントを迎えると「売上はこんなもんだよな」とか、そういう実感を得る事がむしろ多かったりする。そして、イベントが終わると、次の企画検討も含めた脳内会議が始まる。PDCAで言えば「C」のところ。

 

毎度会議の進行は同じだ。「面白さは売り上げに比例しない!」とか言い出す編集部強硬派と「そうは言っても閲覧者やフォロワーがあっての面白さでしょ」みたいな営業兼広告代理店チックな発言者が小競り合いを繰り返す。弊社(脳内)では、大体前者が実権を握っているので、そこの部長クラスが「自社で面白さを発信することが重要!」と言い切って終わるのだけれども。多分、徐々にその編集部強硬派がネットの見過ぎで疲れてきたんだろうと思う。

 

・「数」と「時代」と面白さ

日々、ツイッターやらネットニュースを眺めていて。様々な話題にはその注目度を示す「数」が付随する。コメント数、いいね!数、拡散数、PV数。つまるところ、それがどれほど注目を浴び、そして見ている人がどういった評価を下しているのか、即時に掴むことができるわけだ。

 

すると、こんなことがある。ツイッターで回ってくる漫画。つけられる画像数が4枚までという制限もあって短いモノが多くを占める。確かにその4枚で物語が完成されていて「これは!」と思うものもある。逆に「いや、さすがにもう少し深めないと面白くないのでは」と感じたそのツイートを流してみると、物凄いリアクション数がついていたりする。そして、リプライ欄を眺めれば「尊い」「神か」といった拾い物画像が連なる。

 

また、某短い動画アプリ。正直まるで面白さが分からないものが多いのだが、そういう動画に限って凄いリアクション数だったり。ただ面白くないと感じたものを「面白くない」と批判はできるかもしれないけど、これ、まさか単純に時代についていけていないだけ?あ、もしかして、老害ってやつ?と齢30を迎えたところで一気に不安が勝ってきた、という具合である。

 

比較的文字数も多く、そして説教くさい論調の本ブログ。アニメ感想にしても時事論評にしても、言いたい事を言ってきた感がある。ただ、上段のような不安を抱えてみると、書けるものも書けなくなってくる。「社会はこうあるべき・・・え、自分が思ってるだけ?」とか「面白さをより追及すべき・・・って、時代の変遷だから自分が言っても意味ないのでは」とか。

 

様々な場面で即時的に見えてしまう周囲の評価。当初は「おかしいだろ!」とか思っていたものの、それが続くと「時代なのか」となり、そして「こっちの感受性の問題か」と口を紡ぐような気分になっていたという次第だ。まぁ、大層ベタな話である。

 

・臆病さが面白さを迷わせる

そしてこの年末。久々にモノづくりを職業にしている友人と忘年会を行った。週末には会社ゴルフ、そして接待では水割りを作るみたいな、昭和然としたふつうのサラリーマンにとって、あまり上記のような話を打ち明けられる場所はない。折角の機会ということもあって、その友人に打ち明けた。

 

出てきた答えは、面白さなんてものは自分が感じるものがすべてだということ。当たり前といえば当たり前なのだけれども、彼曰く、誰かの評価を基準にした瞬間、それは「何かを「面白い」とするコミュニティに属したい自分の欲」という別モノになり果てる。要するに僕が「老害かも」と恐れたのは「時代」というコミュニティから外れたくないという僕の臆病さだったわけだ。確かに時流には乗った方がよい。でもそれは、疎外を恐れる気持ちからではなく単純な好奇心からであるべきだ。うっすらと分かっていた解ではあったけれど、貴重な言葉だった。

 

先日、漫才コンテスト「M-1グランプリ」で審査員の在り方を巡って松本人志が番組で言っていた事がある。「審査内容を巡って、いろんな声や評判があるのは知っていて。じゃあ一般のお客さんに審査を預けるという手段もあるかもしれないが、長期的に見れば確実にそれは面白くないものになるので、プロが審査するという緊張感は持ち続けたい」と。

 

並大抵の意志じゃない言葉だなと思った。面白さを判別するプロであり続けるという覚悟。そこには、いくらネットにおいて即時的に評価を下せるシステムが出来上がっても、またユーザー同士のインタラクティブな意見の交換が可能になっても、それに左右されない自分の価値観を作り続けるという矜持を見た気がした。

 

何か面白いものがしたい。多くの人がそう言うけれども、その根底にはコミュニティや人の多さに負けないだけの信念と、自分が何者かを理解する冷静さ、そして次の何かに食いつく好奇心だとか。また、そんな考え事を経てちょっとずつ文字を書きたいな、と思えてきた年末の1日でした。

 

 

以上完全に自分の手記でやってろ、というような内容でしたが、思いのほか結構脱出に時間がかかってしまったため、こちらで処理させていただきました。そして明日は、いよいよコミケ3日目!当方も参加いたしますので、遊びに来てくれる人はツイッターをチェックしてね!!

絶望に対するプリキュアという処方

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いやぁ、めっちゃ良かった・・・

街並みもすっかり冬支度を始め、道行く人もつられるように徐々に装いを厚くするそんな晩秋。プリキュアシリーズ15周年記念の秋映画『HUGっと!プリキュアふたりはプリキュア オールスターメモリーズ』を見に行くことが出来た。

 

僕自身、一応ある程度の過去シリーズには目を通したプリキュアファンのつもりだ。だが所詮は女児向け映画。ストーリーはそこそこ、過去シリーズ勢に思い出補正でもかけながら楽しめればいいなと思っていた。そう、思っていた。

 

そして上映終わり、金曜夜の新宿バルト9から新宿の街へ出る。少し冷たい夜風のせいなのか、涙が止まらない。僕はずぶ濡れの眼鏡をはずし、ぼやけた視界で頭上にそびえる摩天楼を仰ぐ。虚空に向かい「プリキュア・・・やっぱ尊いやん・・・」とだけ呟き、無駄にファンシーなパンフレットを小脇に抱えながら、こんな文章を考えていた。

 

・75分に詰めこまれた15年

プリキュアの映画は年2回ある。秋口は現行放送中シリーズがメインに扱われ、そして改変期の春口は過去作からのプリキュアが一挙登場するようなオールスターモノが例年の流れだ。今年は15周年記念という事で、秋口映画にも関わらず、異例の初代と現行プリキュアのコラボ、そして更に先輩プリキュア達も物語に追加、という豪華な仕様となった。

 

ファンからは「現行作だけの映画も見たかった」という声も上がるなど、賛否あったのは確かだ。しかしながら、鑑賞した後だから言う。15周年、本気だわこれ。

 

早速、本筋のネタバレになってしまうが、今回のボス敵は宮野真守演じるフィルムカメラの霊「ミデン」だ。彼は、フィルムカメラとして生まれたものの、一度もフィルムを入れられる事もなく怨霊化した存在で、その自分の役割の空虚を埋めるためプリキュア達の記憶を奪おうとする。物語序盤、すでに初代とHUG勢以外のプリキュアは記憶を奪われている。

 

更に記憶を奪ったことで技も使えるというカービィ的設定のミデン。端的に言えば歴代プリキュア技を絶叫するマモに対し、為すすべなくピンチを迎える初代+HUG勢。そこまでも見所沢山なのだけど、やはり劇場版プリキュアと言えば「ミラクルライト応援」であろう。プリキュアが作中最大のピンチになると、大抵、妖精キャラが観客に呼びかけ、小さなお友達限定に配られるミラクルライトを振ってプリキュアを応援しよう!という演出だ。いわゆる一つの「がんばえ、ぷいきゅあー!」である。

 

往々にして過去、劇場でこのシーンを見ると「あぁ、おっさんですみません」「非ミラクルライト勢」「子供欲しい」とかなんとも痛々しい気持ちになっていた。今回も案の定ハリーが「みんな!プリキュアを応援してや!」と言う。はいはい、と思って聞いていたら、なんだか演出が違う。

 

「誰でもいい、自分が好きな、今までTVの前で応援していたプリキュアを思い出して、応援するんや!」と。そして、過去の15年に及ぶ放映映像のキャプチャーを使いながら流しだしたのだ。え、ちょっと待って。ごめん、あぁ、これ俺、完全に泣いてる。まさかのミラクルライト演出によって泣いた。しかも、本当にツラかった時期、キュアトゥインクルを本気で応援し、そして生きる希望を貰った事を思い出してしまった。

 

プリキュアと社会人生活

多少映画から離れる。僕がプリキュアシリーズをちゃんとマメに捕捉しだしたのは、社会人になった7年前である。はっきり言えば後発組だ。当時シリーズは『スイート』から『スマイル』への移行時期で、社会人になったことで、比較的生活習慣も定まり、日曜の朝も早い時間に目が覚めるようになった。すると、自然にプリキュアを欠かさず視聴するルーチンが出来上がったという具合である。

 

最初は「プリキュアなんて見てる俺どうなの」と思っているうちに『スマイル』で不意を突かれ『ドキプリ』にドキドキし『ハピチャ』で神に憤り・・・そうこうしていたら、TSUTAYAで過去作も捕捉。伝説の無印8話から、絶望ドリームや、せつなやいつきに恋しかけたり、ラバースーツ小学生に興奮したりと。まぁ、4字で言えば「ハマった」のである。

 

そんな中でも、どうしても忘れられない作品が『GO!プリンセスプリキュア』である。『マリみて』的雰囲気を讃えていた本作は、女性として凛として生きる事を軸にしながら、他作以上に自分の夢との対峙に重点を置いていた印象が強い。

 

先に挙げたキュアトゥインクルこと天ノ川きららは中学生ながらモデルの仕事もこなす「兼業プリキュア」の一人で、天真爛漫な彼女はすでにその地位を確立していた。しかしながら、仕事とプリキュアを並行して行う中で折り合いがつかなくなり、徐々に双方が中途半端になっている自分の気持ちに気づく。終盤には2話をかけ、プリキュアとして周囲を救うことと、自分の夢である仕事を天秤にかけ葛藤をする。

 

そんなストーリーを追いかけつつ。僕自身、当時営業職として嫌々ながらも関東を駆けずり回り、残業代のなさに嫌気が差し仕事の合間に転職活動を始めるもうまくいかず。更にはその影響からまた自分本来のやりたいはずの同人活動も思うようにならない。完全に空回り、疲弊しきっていた時期だった。寝ても疲れが取れない日曜朝。何も選び取りたくなくなっていた僕は多分、すがる先が欲しかっただけかもしれない。天ノ川きららはどうするのだろう。心の中でぼんやりと応援しながら、彼女の選択を眺めていた。

 

そして、忘れもしない43話。一度、夢を諦めプリキュアに専念した彼女を、はるかたちがファッションショーを企画、仲間たちの助けもあり、再度夢を持つことを決意。そしていよいよ強大化してきた敵を目の前に彼女が放った一言「なんでもいいよ。絶対負けないから」僕は、その彼女の圧倒的な信念の強さに、自分の弱さを見透かされたようでボロボロ泣いた。

 

このセリフは未だに僕を支えている。簡素な一言だけれども、一分の隙もない覚悟がそこにはあった。なんでもいいのだ。負けなければ。確かに、具体的な指南ではない。ただ、それだけあれば十分戦える言葉だと思う。夢とか、将来に対するニヒリズムを抱えながら。最後は負けなければいい。その教訓を女児アニメから得て、そして今回映画で思い出してしまった。

 

・「無敵の人」さえ救おうとするプリキュアという「記憶」

 冒頭でも書いたが、この劇場版の敵、ミデンは「何も記録されることのなかったカメラ」といういわゆる「虚無が意思を持って暴走した」という設定だ。これは昨今話題の「無敵の人」を想起させる。家族や友人、仕事など社会的に守るものもがなければ、犯罪すら容易に犯せてしまう。そうした「記憶のないカメラ」という無価値的なモチーフを使い、現代社会におけるひとつの「絶望」として、ミデンを描いているように思えた。

 

ではその「絶望」に対する処方箋はいかなるものか。本作のラストではミデンを倒すのではなく、キュアエールが最後にミデンと邂逅し、その虚無から生じる苦痛を取り除く描写がある。誰かから奪った記憶でなく、自分自身が作っていく記憶によって幸せを掴んでいこうと説得。一緒にプリキュアたちと思い出を新たに作っていく。そんな提示がなされている。

 

しかし、大きな目線に立てば、本作、いやプリキュアシリーズはこれまでに溜まった15年という「記憶」を使って、この「絶望」への処方箋としているように思えた。僕自身が上記の通り『Go!プリ』に救われたように。この累積したプリキュアのシリーズは、既に「虚無」に対抗できるだけの「記憶」を、「思い出」を、そして「希望」を紡いでいる。

 

物語が世の中に対して希望を提示し続けるには、累積したものをキッチリと歴史にする他ない。今回のようにある種記念作品ということでオールスター扱いにし、15周年にわたる歴史をアーカイブとして示すことは、一面的に見れば単なる古参ファンへのサービスとも捉えられるだろう。

 

ただ、現行シリーズの『HUGっと!プリキュア』を見ていればわかる通り、ジェンダー論に始まり、育児疲れ、労働問題など、かなり社会派ともいえるテーマ性に踏み込んでいるのは確かだ。今回の敵をミデンに設定したことは「無敵の人」に対して、このプリキュアという世界観が答えを出そうとしている、いわば使命感のようなものを感じてしまった。そしてこれまで15年という期間にわたり、プリキュア達が乗り越えてきた葛藤は、誰かの虚無を打ち壊すだけの力がある。この映画そのものが、そんな宣言のようにも思えた。

 

 

 

ということで、いやぁ。こんだけ女児アニメ語ってますが、来週三十路なんですけどね。正直、過去作補正はあれど今年一番良かった映画にしてしまいそうで怖い。細かいセリフ使いでも全然涙腺に来ますので、ぜひ、プリキュアファンは見に行くべき映画だと思いました。いやほんと。見てよかった。

 

台北を女装して歩いて感じたこと~初めての台湾旅行記~

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案内してくれたウェンさんと僕

更新が1か月空いてしまった。いや、ちゃんと書こうと思っていたことはあるのだけれども。その中でも台湾旅行については書こうと思っていて。アジア最大級と謳われるLGBTのイベント「台湾同士遊行(台湾レインボーフェスティバル)」をぜひ一度生で見てみたく。そんなちょっと普通とは違った目的のもと、20代のうちに台湾へ旅立ってきました。

 

台北行ってきました

10/26~10/28の2泊3日。短い期間ではあったが、実は自身初めての海外旅行だったりした。台湾に行く、と知人らに伝えると「台湾なんて近いから国内旅行と一緒だよ」と多くの人から言われ、それらに対しては「あぁ、らしいね」「あぁ、みたいだね」とかちょっと知った感じで応じていた。だが、流石に海外である。英語で言うならアブロードだ。舐めていいはずがない。

 

イミグレなんかで「お前なんでこの国に来たんだ」とか英語で詰められてどもったり、変なものもっていけば税関で止められたりして警察犬に脅されたり、あのトムハンクスなんか空港に幽閉されて大変な目にあっていたのを映画で見たことがある。

 

知人とは現地台北で待ち合わせだったので、なんと飛行機から宿の予約まですべて一人でこなす。そこは流石の三十路である。LCCはバニラエアを選択したら、漢字で書くと「香草空港」と知る。なんだか昨今話題のカナダに行きそうな感も否めないが、そこは金を払ったので台湾行きを信頼することに。そして心配していたイミグレは、Webで事前に入力が可能。実際、何もしゃべることなく指紋採取だけで通されてしまった。超便利である。

https://oa1.immigration.gov.tw/nia_acard/acardAddAction.action

台湾オンライン入国カード

 

しかしまだまだ試練は続く。両替だ。ウェブでどうやら現地空港のカードキャッシングのレートが一番いいという記事を読み「それなら僕も」と意気揚々とATMへ。中文から英語へ切り替え、解説通りに画面を操作し、最後のキャッシング画面を華麗にプッシュ・・・するとどうだろう。レシートだけで現金出てこない・・・え、なに書いてあんの?あ、後ろめっちゃ並んでるからとりあえず退けよう・・・恥はかきたくない的日本人気質が仇となり、呆然とする僕。とりあえず落ち着くことを最優先させる。これは・・・やられた・・・?

 

少しずつ自分を落ち着かせると、そもそもカードキャッシングを可能にする手続きをしていないことに気づく。つまり、日本国内でもキャッシングできる状態にはない。なぜそんな状況で突如海外でキャッシングなどしようと思ったのか。海外旅行の恐ろしさを実感する。仕方なく現金をいそいそと窓口にもっていく。動揺そのまま「ジャパニーズ¥、to タイワンドル OK?」と、レベルの低いコミュニケーションを投げかけると「あぁ、日本円ね」と返され、心がさらに折れる。

 

桃園空港から何とか高速鉄道MRTの乗り換えにも成功し台北駅へ。チェックインしたホテルでは英語しか通じなかったのでとりあえず「アーハン」を連発しているうちに、鍵が貰えた。この時点でメンタルヘルスに対するダメージは無視できるものではなかったが、人間何とかなるものである。

 

・台湾レインボーフェスティバルの凄み

到着したら、先に到着していた秋葉原の飲み屋A-buttonのマスター、しんいちさん夫妻と案内をしてくださったウェンさんと合流。西門(渋谷みたいなとこ)でご飯を頂いた。海鮮居酒屋のようなところで、出るもの出るもの全て旨い・・・中華でもない、南国テイストな味の付け方はやはり日本人には合うように思えた。

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なんかわからんが、だいたい旨いというのが凄い。

そして、お腹も膨れ、酔った足取りの一行をウェンさんはそのままゲイカルチャーで有名な広場・西門紅楼に連れて行ってくれた。なんていうか、圧巻の一言。もう圧倒的オスみ。広場一面見渡す限りがほとんどマイノリティ。いや、そもそもマイノリティ?マジョリティ?・・・そんな多数とか少数とかそんな定義すら意味がないようにも思えてしまう。

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マイノリティって言葉が本当に無意味に感じる瞬間が凄い。

 そもそも台湾の同性愛事情は、他国と比較しても進んでいる。台湾ではすでに2003年には同性愛に関する法制度の試みがなされるなど、その活動も積極的であり、法整備も目前とされる。詳しくはこの記事参照ということで。

https://www.taipeirainbowfestival.com/jp-abouttprf

 

翌日27日土曜日が本番の台湾同士遊行(レインボーフェスティバル)こともあり、街中が一種異様な盛り上がりを見せていた。そんな自由な気風なら、僕だって女装してもいいんじゃないかと思いあがってみたという具合だ。

 

はっきり言えば、性的嗜好において僕はバイセクシャル寄りではあるものの、社会的に見れば当事者とは言えないだろう。A面だけで生活を強いられているほどTSでもなく、女装癖も必須ではない。そんなことしていると享楽的女装者と叩かれることもある。それでも、そんな「悲劇的当事者による区分」すら無意味に思えるほどの個の強さと自由さを、この台湾のカルチャーには見ることが出来た。

 

・朝っぱらから女装で台北散歩

翌朝。どうも最近、長く眠れない。旅行先ならなおさらである。日々起きている6時過ぎには目が覚めてしまう。たまに言われる「ジジイかよ」という揶揄も笑えないほど。そして、本番のフェスティバルは14:00から。もてあますどころの話ではない。

 

そんな早起きと貧乏性がたたり「旅先で時間を無為に過ごすのは勿体ないのでは」とさらにソワソワするジジイ。テレビを付けても、中文の報道のテンションの高さに煽られ疲れだす。もういっそ待ち合わせ時間よりも数時間早く身支度をし、台北の街並みを歩いてみることにした。

 

昼のパレードも女装で歩く予定だったので、当然朝から女装である。軽く書いているが、正直僕からすればめちゃくちゃ大英断である。日本では女装で通常外出などまずしない。過去数回やってみたことがあるが、なんとも言えない周囲からの目線などで心が持たない。特に都会はダメだ。昔、デパートメントHへ出向いた際、深夜の山手線に女装して乗車したときは罰ゲームにしか思えなかった。

 

そんな記憶を頭の片隅に、ホテルからドキドキで出発。やはりコンパクトに纏まった市街地、午前中から人通りは多い。周囲を気にしていない風を装いながらも、何とか気を張って街中を歩き続ける。当然、女装勢でよく言われる「パス(見た目から女装と気づかれないこと)」などは望むべくもない外観。化粧はしているが、一見して女装しているとバレる見た目なのは否定するつもりもない。(冒頭の写真参照)

 

だが、なんだろうか。日本に感じられる目線の感覚はそこになかった。「旅の恥はかき捨て」とはよく言うが、そんなプラシーボ的安心では決してない、確かに「あんま気にしてない」という感覚がそこにあった。勿論、その後パレードが始まってしまえば、そんな人たちが大量に練り歩くので周囲の目線など気になるはずもない。しかし、あえて一人で。パレードとしてでなく淡々とひとりそんな姿で街を歩けたからこそ、あぁ、これがこの国で同性愛カルチャーが根付く空気なのか、と心から感じることが出来た。

 

ちなみに台北の街並みは、僕みたいな「ちょっとレトロな建造物・路地裏ファン」には堪らない風情で、いちいちビルの外壁に取り付けられた数多くの室外機を見つけては興奮しながらシャッターを下ろしていた。むしろ、女装なんかよりもそっちのほうが怪しまれていたのではないかと思う。

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わかる人にはわかるこの壁の魅力。

 

・南国という空気、自立した雰囲気に考えること

その後の台湾同士遊行も、ものすごいエネルギーだった。圧倒的な参加人数、そして見渡す限りのゲイカップルやレズビアン。先にも書いた通り、マジョリティ・マイノリティという区分に意味が見いだせなくなるほどだ。

 

このフェスティバルに参加したことで、このイベントが台湾における同性愛カルチャーの一つの大きな波であることは十分に理解できた。しかしそれ以上に、その前後に街を歩いたことで、そんな大波が起こる海の性質、つまり台湾という国の気質を理解できたことは非常に面白かった。

 

例えばコンビニでの買い物ひとつとっても空気が違う。イートインコーナーがほぼ必ずあり、店員と客が適当に会話しながらほかの客を接客したり、あるいは品出しをしたり。店舗も日本と同じセブンイレブンファミリーマートなのが、余計に国の間のコントラストを強調させる。

 

更に街を見ていて目につくのが道を走る圧倒的なバイクの数である。台北周辺は、日本でいえば京都・名古屋ほどの鉄道網が広がっている。通勤や移動に関して、想像レベルでは鉄道を使えばそこまでの不便はなさそうだが、信号待ちをしているバイクを見ているとまず圧倒される。またこれに関連するのは、街並みの個人商店の多さだ。台北の街の面白さはこの個人商店に支えられていると言っても過言ではないだろう。古いビルに入った個人商店の多くは日本における「あの頃の商店街」を思わせる、街の強さを見せてくれる。

 

詰まるところ、大資本や公共交通機関に頼るよりも、まだまだ個で動くという気概の強さを感じた。個という意識が強いからこそ、他を気にしない。ここまで同性愛文化が根付く寛容さとは、人を気遣う以上に自己の確立を優先させる空気なのだとふと学ばされた思いである。

 

ただ、ここで台湾の歴史について細かく論じることは避けるが、おそらくこの国も過渡期なのかもしれない。MRTに乗り桃園空港へ向かう間には、郊外に行くに従い高層マンションやショッピングモールが確認できた。中間富裕層の住宅エリアが鉄道に沿って広がり、そこに大手資本の商店が構えだしている。また今回は台北のみをうろついただけだった為、他のエリアを覗けば違う側面が見えるだろう。

 

 

ということで、何はともあれ2泊3日の初海外・初滞在旅行者が何を語っても片腹痛いというものだろう。いやぁ・・・メシもうまいし、空気はいいし。もっとゆっくりしたかった・・・一緒に回ったしんいちさんご夫妻、案内してくださったウェンさん、そして突発ながらも、こんなわけわからんおっさん相手に夜市を一緒に回ってくださったセズ奈さん、ほむらさん、本当にありがとうございました。

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夜市で臭豆腐デビュー。普通に旨いけど、匂いはやっぱすごい。

 

いやぁ。いいとこですよ。台湾。また行きたいです。

 

 

ギルティ始めて昇竜コマンドから人生を考えだすオタク

格ゲーにハマっている。自分でも多少驚くくらいハマっている。しばらくこのブログの更新頻度も下がっているが、確実のその一つの原因がこれだ。

 

先日、というか今年も最初の頃にこんな記事を書いた。家庭用格ゲーの世界大会「EVO」が日本で開催されたことを受け、あ、なんだか格ゲーやりたい。という熱量を文字にした内容だった。

www.wagahaji.com

 

もともと家に据え置きゲーム機などなく、そんな人間が突如PS4と周辺機器なんか一式揃えるには、多少ハードルが高かったわけで。取り急ぎ、中古のPS3アケコンを1万ほどで買い揃え「ま、すぐ飽きるっしょ」くらいのノリで『GUILTY GEAR Xrd REV2』にチャレンジ。型落ち機でもゲーセン稼働の最新タイトルが遊べるじゃん、くらいの動機だった気がする。

 

また持ちキャラ選択に関しても、性能など二の次。もともと「アルよ系中国っ子」フェチなのと、積極的なパンチラエフェクト。あと「そんなバンドが昔いたな」ってのを理由に、蔵土縁紗夢(くらうどべりじゃむ)を選んだわけである。

蔵土縁紗夢 - Google 検索

いや、確かに今見てもかわいいけどね。

 

・人の素性がさらされる格闘ゲームという罠

先の記事でも書いてはいるが、格闘ゲームは好きな方である。『スト2』は家庭用で初期からやっているし、アーケードでも様々なタイトルをプレイした。思えば、最後に多少のめりこんだのは『MELTY BLOOD』だろうか。原作『月姫』に人生を狂わされたこともあって、とりあえず手を付けてみたが。CPU対戦はそりゃクリアしたけども、結局コンボゲーのスピード感に付いていけずゲーセンでボコされ離れていった。

 

約10年ほどのブランクからの「出戻り」である。コマンドなんか覚えているものか、と思ったが、やはり一時期やりこんだ手の記憶は残っているもので。格ゲーにおいて基礎的な「波動・昇竜・竜巻」あたりのコマンドはそつなくこなせる。更に購入した『GUILTY GEAR Xrd REV2』では初心者向けのコンボ練習など手厚いカバーがなされており、なかなかに良心的だと感心していた。

 

というわけで、こんな感じで僕はPS3を買った際も一定の距離を保ちながら「あぁ、今の格ゲーってこういう感じなのね」と触れる程度のはずだった。仕事も、資格勉強も、同人誌作成もあるし、ハマったらマズい。絶対によくない。半ば決意を抱えながら遊んでいたわけだ。

 

しかしながら。案の定というか。淡々とこなすべきはずのコンボ練習がうまいこと決まらないとすげー悔しい。なんなら、CPUに負けるのすら憤怒している。あ、マズい。直感は危機を伝えていたけど、やはりそこはゲーム好きのいちオタク。気づけば、買ったその日に午前2時までプレイ。クソみたいに眠たい翌日、ため息交じりに出勤した。翌日の出勤すら後回しになるこの感覚を久々に味わってしまい、半年たった今でも後悔半分である。

 

・自分の「限界」を格ゲーから学ぶ

こうなってしまったら仕方ない。とりあえず自分の満足いくところまでは行こうと、最初僕に『GUILTY GEAR Xrd REV2』を勧めてくれた友人を倒す事を目標に練習を始めた。

 

実際に本作のプレイヤーは分かるかと思うが、非常にコンボの見た目が派手で爽快感があり、半面ゲームとしてのギミックも細かい。それぞれ特性を理解すればした分だけ、出来る事が増えるという仕様だ。僕がノリだけで選んだ紗夢に関しても、飛び道具はないが、派手な演出、そして高速で展開される連続技など、鍛えた分隙がなくなるという直球ながらテクニカルなキャラである。

 

そして彼女を代表する技に「竜刃(↓↘→+K)」「逆鱗(↓↙←+K)」「劔楼閣(→↓↘+K)」という三種の必殺技がある。この動画参照ね。

www.youtube.com

 

格ゲーファンなら言うまでもないが、まさに僕が上段で触れた「波動・竜巻・昇竜」コマンドの3つそのままである(キックだけど)そして、紗夢のこれら技は、3回までそれぞれ連続して放つ事が可能で、大きなダメージに繋がる重要な連携技だ。確かに連続して出すタイミングは結構シビアだが、コマンド自体は基礎中の基礎。逆を返すと、これくらいこなせないと「え?紗夢を使ってる意味ある?ww」みたいな妄想煽りを受けている気持ちになる。

 

そして、何が言いたいのかっていうと、昔から1P側(画面向かって左にいる状態)から出す「昇竜コマンド」(→↓↘+P)が苦手で仕方なかった事を思い出した。

 

これは「格ゲーにハマるか否か」の分水量的なポイントであり、ギターで言えば「Fコードが弾けるか」みたいな感覚だろうか。初心者が通る最初のヤマ、格ゲーにおいてはそれが「昇竜コマンド」と言える。これまで多少格ゲーを齧った身としては「ある程度の精度」そして「家のコントローラー」なら余裕で出せていた。

 

しかし、今回はアーケードコントローラーかつ確実な精度、それら条件下において、基礎が固まっていない自分の力量と技量に、今更十何年越しに本格的な悔しさを覚えたわけだ。

 

・人生と昇竜拳

ちょっと話は飛ぶし、嫌らしいのだけど。自分自身どちらかと言えば器用なほうだと自認している。スポーツゲーや格ゲーやら音ゲーなど、例えば全く触れたことのない同士で対戦すればある程度の確立で勝つ自信がある。また、その他スポーツや楽器も苦手意識はあまりない。

 

ただ却って、こういう性格というか変な自信と器用貧乏さが災いし、一定以上のレベルから先、深く突き詰める事がとことん苦手だとも感じる。まぁいいよね。趣味だし。他の時間がもったいないし。

 

確かに今年で齢30にもなる身としては、会社勤めも日々あって。資格の取得を目指し、ほかにやることもあるので、ひとつの事にのめり込むことをなるだけ抑え、手広く触れた方が賢いというものだ。正直そういう選択が間違っているとも思わない。

 

しかしながら。

 

ああ、劔楼閣(昇竜)が出ない。クソほど出ないのだ。リバでも、連携でも、エリアルでも。ここで欲しいところで出ない。関節の動かし方すら考える。第一関節だけ使って・・・いや、手のひらで押して、下に中指だけで引いた方が・・・というかこんな思考、対人や動く対CPU戦で出来るはずがない。そう考えているうちに、他の安全なコンボすら迷いが生じてくる・・・

 

今やYoutubeで様々な情報が確認できる時代である。こういうコンボがあるのか、なるほどなるほどと思う一方で、淡々と→↓↘+Kを繰り返す。あ、出た。出ない。出た。出ない。花占いか。この作業を深夜まで続けていると、ふと自分の人生の行き詰まりに似たようなものに感じられてくる。

 

やはり格ゲーだけでなく基礎をおろそかにして手癖だけでなんでもこなしていると、恋愛や人間関係や取引先との関係すら上手くいかないのではないか。劔楼閣が出ない紗夢と自分のうだつの上がらなさがダブって感じられて、切ない気持ちになる。このコマンドが綺麗に入力できれば、きっと人生も・・・そう考えだしたのが昨日の深夜3時。

 

結論、あまりゲームにハマり過ぎるのも考え物というもの。何を言いたいのかわからなくなってきたけど、今日の文章の意図としては久々に頭を使い、修練を経て、格闘ゲームを楽しめているよ。という事が言いたかっただけだった気がする。いやほんと楽しいです。はい。

 

そろそろCPUにボコされ続けるのもアレなので、PS4にグレードアップさせて、オンライン通信で対人からボコされたくなってきたなと感じた台風直撃の夜でした。

 

ネット上「叩き」の危うさの本質はどこに

風邪っぽい。頭痛がする。鼻水が黄色い。既に確定フラグな感じもするけど、せっかくバカみたいに暑い季節を乗り越えて、これからまた美味しいお酒飲むぜ!という時期になって、そんなことで足枷つけられたくない。自由気ままに生きていたい。ネットで周囲の目なんて気にせず発言したい。今日はそんなお話。

 

・なんで叩くの

インターネットと「叩き」、つまり何かを批判する言動というのは、古今東西切っても切れない縁にある。過去には掲示板、そして今ではSNSで。気軽に自分の意見を社会や世界に発信できる仕組みを使って、人は色んな感情を吐露するようになった。昨今ではその匿名性は薄くなってきたものの、やはり愚痴や不満、批判というのはその発言におけるメインテーマの一つである。

 

日々ツイッターのTLを見ていて。やはり毎日のようにいろいろな「叩き」が流れてくるわけで。やれ、国会議員の不可解発言だったり、はたまた自分のクソ上司の失態だとか、町で見かけたヤバイ倫理基準のおっさんとか。あるいはフェミニンな女性論客の暴走などなど。挙げればキリがないわけだけども、こうした種々の対象を「叩く」発言。そこにはどんな意思があるんだろうなとぼんやり考えてみた。

 

「叩く」、人を批判するという行為。ネット上でなくても人を非難するときには、そこには二次的に「自分が持っている正しさ」が内包されている。どうでもいい話題には、特段言うこともないだろう。「今朝の朝食はサンドウィッチでした!」という発言にブチ切れてる人がいたら、それは確実に何かヤッてるに違いない。つまりどうでもいい事に批判は起きない。

 

自分が持っている正しい価値観や正常な感性を脅かされた際、それを守る方法として「叩き」は発生する。例えば「黒人は差別すべきだ」この発言に多くの人が反応するのは、倫理的価値観として「人種によって人は差別されるべきではない」という通念があるのと同時に、日本人なら黄色人種として「自分たちも差別される恐れがある」という当事者意識が働く。自分を守る為、そして自分が生きている社会の通念を守る為、「ヤバイだろこの発想」という対象に批判をするというのが通常の仕組みだろう。

 

・ロマンはそこにあるのだろうか

しかし「叩き」の本質として、もうひとつの効能がある。非難することは前半で、自分の正しさを守るというのが基本的な動機にあると書いた。ただ、逆流的に「正しさ」や「意味」を自分の中に形成するために「叩く」という、手段と目的が反転したパターンも確実に存在する。要は「仮想敵国」「倒すべき政権」「唾棄すべき思想」を作ることで、自分の人生にロマンだとかストーリーを付与させる事が出来るという具合だ。

 

考えても見てほしい。過去に見た多くの小説や映画を振り返っても、その半数以上は「倒すべき敵」がいるか「乗り越えるべき障壁」がある。要は、人間を満足させるロマンを得るには、そうした物語的凹凸が必要になる。ふと自分の日常を振り返れば、仕事と生活、ちょっとした娯楽の繰り返し。あまりにも凪いでいて、それでいて大きな快楽もない。対して「敵」の存在というのはある種の蠱惑さをもって、我々を手招いている。

 

ここでは「敵」と書いてしまったので、大きな話になっているかもしれないが、何もそんなおおそれたものではない。陰険な上司、嫌な同僚、規則だらけの学校、頭の固い教員、ヤラセばかりのマスコミ、ハラスメントが横行する体育会部活などなど。日々、ムカつくレベルだったり、違和感を感じるレベルの事に対して、文字化をして発信してみると、SNSではなんと共感がついてくる。

 

この「共感」、往々にして人に「意味」を与えるもので、そんな正直チラウラレベルの「愚痴」にも、共同戦線が生まれ、「正しさ」が生じ、そして結局その人は怒りや不満にロマンを得る。そんな会社はつぶれるべき!上司は左遷されるべき!あんな番組は終わるべき!日常において沸々と溜まっていた感情に「物語」が与えられた結果、叩きが逆流的にその人の正しさを形成していく事になる。

 

嫌味たらしく書いてみたが、はっきり言えばこういうことってよくあるし、なんなら「怒り」から「共感」を生み、大事業を成し遂げた偉人だって沢山いる。各国の革命はこういう圧制に対する日常の怒りが盛り上がって爆発しているだろうし、こと周囲に目を移せば市民活動によって仲間や生きがいを得たおっさんが健康寿命伸ばして、働き続けられるというのも美談の一つだろう。

 

・本質を見失う「叩き」の本質

じゃあ、何が言いたいのかという結論に入っていく。怒りと違和感を元手に共感を集め、正しさや意味に昇華させるこの「叩き」の逆流プロセス。何がヤバイか。2点あって、ひとつは「理屈が要らない」こと。そしてもうひとつは「癖になる」ことだ。

 

例えば、書店で売っているラノベ表紙でも見て。理屈でもなんでもない「表紙が気持ち悪い」という感情から、それは「敵」認定される。画像をアップすれば、普段からなんとなく思っていた人や、画像を見ただけの人が「共感」をし、倒すべき敵と意味が生じる。一大ムーブメントになれば、そこには聖少女的ロマンが発生する。結局、その戦いが不発に終わっても、戦いの起こし方は覚えている。

 

このようにちょっとした怒りや違和感からでも、簡単に人生における醍醐味が得られてしまうという中毒性と怖さが「叩き」にはある。そして、それは人の思考力すら曖昧にしていく。

 

最近ネットで感じるところがあったので具体的に書いてみよう。以前、モチベーション・アップ㈱という会社が作ったポスターがネットで炎上した。具体的にはググってみてほしいのだけど、見た感じ昨今の「働き方改革」よろしくな風潮には合わない啓発ポスターである。

 

「今ある得意先は創業時にはなかったもの、すべてに感謝しよう」「頑張るのは当たり前!そこから結果をどう出すかだよ」とか、なんていうか「会社でそれ上司に言われたら絶対イラっとするよなぁ」という言葉のオンパレード。「そもそもの発想が気持ち悪い」とか「そういう旧態依然な発想が重宝されるから平成以後日本の生産性は下がったとか」散々な炎上をしていた。

 

確かに僕自身が見ていても「うへぇ」って思うし、このワークライフバランスの重要性が叫ばれて10年以上経つ時代にそれはねえんでないの?とどれも感じさせるハイクオリティ。またイラストやデザインも相まって不快感を覚える人が続出したという事案である。

 

それと対照的に、こんな記事が話題になった。ゲーム業界、デザイナーとして働く女性の自問自答を描いた漫画が共感を呼んでいるということだ。

nlab.itmedia.co.jp

読んでみると分かるんだけど、短いだけに至ってシンプル。仕事の意味を見いだせずにダウナーになる女性主人公。それとは反面、結果を出せるのになぜそこに邁進しないの?と純粋に聞く同僚。そして、頑張った結果得られた「周囲の評価」からまた自分の仕事の意味を再発見していく・・・という感じ。うん、いい話だし仕事頑張ろうって思える。

 

ただこれ、モチベーション・アップさんとこのポスターの趣旨をストーリー化させて、読んだ人が共感しやすいように、ゲーム業界・デザイナー・女性・漫画という要素にはめ込んだ形にも思えてしまった。僕だけの穿った見方だという可能性も多分にあるんだけど、逆にだ。

 

問題になったモチベーション・アップ㈱が漫画事業に手を出して、ポスター的思想をもとに、いい感じのサクセスストーリービジネス漫画を出版したら。多分、共感は得られるんじゃないかと思う。モチベアップ云々の発想がかみ砕かれて、きっちりとデザインされ、キャッチコピーがハマったら。

 

頷く人は絶対に増えるだろう。要は見え方、見せ方次第だけで「叩き」のベクトルは一気に変わる。「共感」は罠に近い。ネットで簡単に集まったそれに「叩き」の本質である守るべき「自分の正しさ」はない。その軸がないまま「共感」を求めて何かを「叩きだす」と確実にその先に待っているものは、理不尽な差別的観点だ。

 

最後に話は飛ぶが大戦時、ナチスドイツが民意を集める上で政党として優れていた点はファッションやデザインだったと言われる。なんかの番組でオリラジの中田さんなんかもプレゼンしてた気がするけど、当時の若者に共感を与える見栄え、そしてそこから得られる先進的なイメージ。

 

こうした点から言っても、人は所詮本質における観念の正邪よりも、印象から与えられる感受性によって動いてしまう。そして、印象が言葉となり共感があつまると、それは次第に大きな意義に振り替えられていく。その結果は言うまでもない話である。

 

 

 

今、ネット上を流れていく数々の「叩き」を見て。自分自身も簡単に流される危うさを感じるし、そしてまずは自分自身がどういう軸を持つか。その重要性を感じたという話でした。ツイート見て5秒で得られる自分の感情というものは、やはり疑ってかかった方がいいと僕は思います。秋なので気候の変化と体調には気を付けましょうね。