わがはじ!

めんどいオタクのブログ。同人誌もやってるよ。

若者の同人離れと「自惚れ」についての考察

「若い人が同人製作に新規参入しにくい。」

 

この手の話は頷くところが多い。最近、この類のツイートやら発言をよくネットで見るようになった気がする。昨日もこんなツイートが流れてきた。

コミケも毎年多くの参加者を抱え、せっかくイベントとしての規模も大きくなっている中、そこを担う若手の作り手が減る傾向にあるとのこと。中堅30代不足にあえぐ弊社か。とツッコミを入れたくなるが、その要因、あるいはその先を考えるため、回想がてら自分が同人に足を踏み入れたころを思い出してみたくなった。

 

・覇権は『月姫Fate』『ひぐらし』『東方』

なんとなく言いたいこと、バレてる気がする。2000年代初頭から中盤にかけて、同人コンテンツでも筆頭を誇っていたこの御三家。同人界にこれら作品が登場した瞬間を知っている人なら、その熱量は理解いただけるだろう。そう、圧倒的な世界観、音楽、そしてテキスト量。いずれもモンスター級の作品だ。

 

ただ。敢えて誤解を恐れず言えば、それぞれ絵を見てると「あれ?俺も描けるんじゃ」当時そう思った御仁は少なくないはずである・・・はずである。先生、怒らないから正直に手を挙げなさい。

 

・・・はい。僕はそう思いました。ということで、なんだお前が性格悪いだけじゃんみたいな話になりそうだけど、続けてみよう。当時『月姫読本』やら『東方求聞史紀』(まだ目の前にあるけど)など資料を買い漁って延々模写を繰り返し、何とか本家並みに可愛い、そして評価を得られるキレイな絵を描きたいとの熱意に燃えた。マール社教則本もなけなしの金で何冊買ったことだろう・・・

 

そんなある日、スケッチブックに気合をいれてコピックで色まで付けて、一枚を描き上げる。そして思うのだ「あれ?俺、めっちゃ上手く描けてるのでは」そう思ってしまった、すくみづ少年は翌日学校でクラスのオタク数人に型月ヒロイン大集合みたいな絵を見せて回り、お互いに描いた絵を講評し合う。それによって悦に入ったり、ひいては「俺もいつか同人誌出すんだ」などと興奮気味に、すみません、もうこれ以上思い出すのやめていいですか。ちょっと吐きそう。

 

漆黒史なので以降は割愛するけども、如何せんすんごい己惚れてたって話。いやぁ、10代って恐ろしいよね。(今見るとほんとひどい)

 

ただ、その時に感じる「俺、すごくない?」「自分もしかして天才では?」みたいな、アレ。正直言えば、未だに評論同人などの企画考えているときに沸いてきたりする。そして、案外そんな思い違いがモチベーションになってくれたりする。(当然、しっぺ返しもあるんだけど)要は「自分ってすげえかも。」この勘違いを抱くことが、いま難しいのでは。という話だ。

 

・客観視スキルという「脆弱性

昨今の若者の同人製作離れ。僕個人としては、上で引用したツイートの「印刷代等の高騰」は一理あれども、直接的な要因ではないように思う。確かに値上げは各所で認められるものの「参入」という部分を考えれば、昔より少部数印刷は安価に済む。

 

直接的な要因はやはり「レベルの向上」だろう。ここ10年ほど、同人ショップに並ぶ同人誌の表紙も明らかにその質が上がっている。ネットでもCG定点観測の小さいアイコンカチカチしてた時期と比べると、今のタイムラインに流れてくるイラストの質は恐ろしい。

 

それでは、この「レベルの向上」これは一体何なのだろうか。

 

よく言われることだが、インターネットにおける資料の大量散布、そしてハイレベルなイラスト、アイデアの共有によるものと思われる。ネット上のアーカイブも一気に充実、情報も具体的な素材も手に入る。これがインフラ化した結果、今のような「ハイレベル」な絵師の増産に繋がったのでは。

 

ただ、今回の主題は書き手の話でない。同人の参入ハードルの問題、つまり受け手の話だ。新しく絵を描きだそうと思っても「TLの絵師のレベルの高さに萎縮するんじゃ」というのはよく見る意見だが、より本質的なことを言えば、むしろ読み手、受け手の「目が良くなっている」のではないだろうか。

 

日常生活においてスマホを持ったことにより、常に「完成された画像」を眺めている時間が増えた。これは二次元絵に限らない。例えばインスタでセンスのいい構図の写真を延々と1日何時間も眺めているだけでも写真レイアウトに対する感受性は異なるだろう。

 

つまり昨今において「自分の絵」を見て「俺すげーかも」と勘違いできないだけの目の良さを、絵を描きだす前からスキルとして得てしまっているのではないか。そう感じたのだ。

 

・本当の承認欲求を満たす為の「寂しさ」

上記で書いてきた客観視スキル。これは、インターネット時代の副産物として大きなものだ。創作に限った話ではなく、考えれば、SNSとは常に他者から見られる前提で振る舞い、そして共有をするツールだ。

 

インターネットの拡充した現代は、自分の行為を客観することに非常に長けた時代と言える。逆に、客観性を失った投稿や発言は、程度の差にもよるが炎上を招くケースすらある。

 

話を創作に戻す。つまるところ「こんな絵で、誰からも評価を得られない」などこの手の発想に行きつきやすいのが、このソーシャルネットな時代の特徴であり、ひいては同人参入や創作への意欲低減を招いている根源なのでは、と妄想気味に分析してみた。はっきり言えば僕もこうした被害妄想を抱えている。それでも、ここに。また同人誌に、文章を書き続けていたりする。

 

 

最後に僕なりの考えで終わろう。自分を客観視するというのは、他者からの承認を求めたいという願望の一端でもある。簡単に言えば、人からバカと思われたくない、とか、すげーと思われたいって話。では手軽にその願望を叶えるにはどうすればいいか。

 

例えば、動画でもスクショでも撮って、ツイッターでバカを叩けばいい。自分を客観視出来ないようなバカを断罪することで、自分の地位を守ればいいのだ。そうすれば客観的に見て「自分は正しく在れる」それは保証される。ただ、恐らくそこで満たされる感情は、きっと僅かなものだろう。

 

承認欲求には質がある。本当の意味の承認には、孤独が伴う。実際、自分のやっていることに本当に価値があるのか。という問いを自分にしなければならない。その段階で自分を客観する必要はまるでない。やるか否かは、自分の判断だ。その葛藤の末に完成したもの、成し遂げた事に、初めて承認欲求の重みが伴う。

 

当然、その行為や創作が本当に凄いのか、面白いかどうか、というのは客観スキルが必要となるけれども。ただ、今回はその根にある「衝動」のお話。今、何かをする前から、客観する癖が本当につきやすい時代だと思う。ただただ、独りの自分として。バカな事のように思えても、客観を敢えて遮断して、独りになる。己惚れる。

 

自らの意思を見直す時間や隙間を作ってもいいのではないか、という説教臭いお話でした。

一旦、コミケ参加をお休みしようと思いました。

画像クリックで既刊アーカイブページ「わがはじの!」にとびます

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もう3月。「え、早い。うそでしょ」とSiriに何回聞いてみても「今日は3月」と言い張るし、「歳をとりたくない」と言ってみれば冷淡に「そうですか」と帰ってくる。ダメだ、現代のAIには情緒ってもんがない。もっとこう、冷却水漏らしながら「はわわ~」とか言える愛のあるAI(cv.堀江由衣)を、シリコンバレーでも深圳でも、太平洋ベルトのどこでもいいので、早いところ作ってほしい。

 

ということで、世間はすっかり冬物クリアランスも終わりに近づき、花粉で苦しむ人がチラホラ。または、場所によっては桜の開花予報まで聞こえてきた。春、卒業の季節である。僕自身、先月末に仕事関連の資格試験があって、久方ぶりに真面目ぶって勉強などしていたら、完全にこちらの更新も止まっていた。そろそろ、行儀よく真面目なんてクソくらえとなんとなく思ったり、俺たちの怒りどこへ向かうべきなのかとふと疑問に感じたので、こちらの更新も再開である。

 

・夏コミお休みします

当方、こちらのブログでもたまに宣伝している通り、雑誌やらエロ漫画など自費出版をして、その本を人に売りつける同人活動なる怪しいアクティビティを趣味にしている。今回、メロンブックスさんにおいて電子書籍化なども進めた関係で、これまでの既刊アーカイブのページを久々に更新したので、ぜひ見てみていただきたい。そして気になったらぜひポチってみてね。エロ漫画もまだDL販売してるよ。

わがはじの! http://sukumizumi.tumblr.com/

 

こういうアーカイブの整理みたいな作業をしていると、どの本をいつ頃出したのか、ということを改めて思い知らされる。するとどうだろう。2013年末に創作エロ着ぐるみ漫画『めたこい!』を発刊して以降、夏と冬のコミケには2018年末発刊のコピー本まで、毎度新刊を出し続けていたらしい。その期間、丸5年。

 

考えれば、弊サークルの本って案外準備期間に時間がかかっている。漫画ならキャラ創作からネーム、そして下書き、線入れ。雑誌なら企画立案からアポイント、対談、文字起しからデザインなどなど。何が言いたいかっていうと、実質、20代の後半5年間、お前仕事と同人活動しかしてねえんじゃねえか?ということだ。ちょっと自分で引いた。

 

まだ、企画としてはやりたい事もあるし、雑誌シリーズ「'00/25」シリーズの第10弾も、既に構想はある。ただ、そろそろ僕も一旦時間をとって、インテリジェンスな人脈をレバレッジしてみたり、アンビバレントな環境に自身をアジャストしてみたり、上坂すみれの現場に行ったり、ゆっくりスト5AEしたい。

 

ていうか、久々コミケ一般参加でプリキュアのレズエッチ本とか評論本、メカミリ本とか自分で見て回って、たくさん買いたい。三十路の夏、そう固く決意したのである。

 

同人活動をやっててよかったこと

いや、同人活動終えるわけではないんだけど、この5年間いろんな方法で本を作り続けてたら、案外いいことがあったりした。是非「作りたいけど・・・」とか悩んでる人いたら、やっちゃえニッサンって感じで手を付けてみてほしいという話を簡単にしてみたい。

 

まず、スキル的によかったなと思ったのはAdobe系ソフトがなんとなく使えるようになってたこと。文系生まれ文系育ちなので、どこで習ったわけでもないのだが、やはり人間なんて必要に駆られたらやるようになるもので。

 

「こんなものが作りたい!」と最初にイメージを固めてから、方法論を考えると「ページものは写真屋じゃ無理だな・・・イラレかー」「100P超えるとさすがにイラレ諦めてインデザだよね・・・」と絶望と共に新ツールへ手を出さざるを得なくなる。

 

当然、本職ではないので、それぞれ簡単な作業にとどまるものの、やはり明確な目的があってから、手段としてツールに手を出すと把握も早い。そして締め切りがあると、案の定、尚早い。

 

また、雑誌を作る中でメインが対談企画だったので、本来話をするはずのない人と交流を持てたのは一番面白かったと感じる。事前にとっかかりがなければ、突然のDMやメール、あるいは飲みの席で紹介してもらって、なんてことも。根暗かつ人見知りな性格ながらも、こういう類の思い切りだけはよくなった気がする。

 

対談自体もいろいろあった。大阪なんばでAM2:00待ち合わせアポイント、ゲイバーで録音しながら飲み明かして、そのまま始発の新幹線で帰宅とか。某氏との対談録音の際には、お互い飲みすぎて完全に記憶をなくし、気づけば朝4時の自由が丘。タクシーでなんとか這いずり帰るも、やはり音源ではお互い何言ってるのか分からなくなっていて後日再戦とか。あるいは1週間ぶっ続けで大怪獣サロンに通い倒し、飼育されてる亀(ブリュレちゃん)の動向を学んだり、Youtubeでうじ虫動画見させられてトラウマになったり。

 

楽しかったのは確かだけど、あまり同人活動のおススメにはなっていない気がする。

 

・一度、止まって物事を想うこと

なんだか脈絡がなくなってきたが、話を戻そう。どこでも言われることだが、やはりアウトプットというのはインプットがないと成り立たない。燃料もなく、何かを延々吐き出し続けるというのはよほどの天啓でもない限り無理がある。

 

僕なんか本職でもないので、今回のように「とりあえず同人一旦お休みしよう」などと堰き止められるけれども、そのアウトプットできっちり銭を稼いでいる人はそうもいかない。日々ツイッターなどに流れてくる様々なクリエイターを見ては尊敬を禁じ得ない思いである。

 

そして、僕ら趣味者は年齢を重ねてくると、色んなものや事が目に入るようになる。仕事に私事、やりたかった思いも分散化、行動への圧が減少していくのも、目に見えてわかるようになる。

 

今回、夏のコミケも申し込みを続ければ、恐らくきっと何かしらは作れた事だろう。実際、本作るの楽しいし。ただ、子曰く「三十にして立つ」という一節があるが、個人的には「立つ」と同音で「絶つ」という文字をそこに据えてみようと思った。年号すら移り変わる時期に、今の流れを止めて、物事を考える時間を取る。四十になってもどうせ惑うのはほぼ間違いないのだけども、先々を思えば仕入に重点を置く時期を作るのも悪くはないだろう。

 

再三言っている通り、今回は同人活動をやめるという話ではなく、仕入れる期間を敢えて作ってみようと考えた具合である。このブログの更新自体は継続しようと思うし、色々読みたい本も溜まっている。昨今、世の中のスピードが速い時代だからこそ、少し留まるにも勇気がいる気がする。ただ、すべて所詮は言い訳でしかない気がするものの、それは次回に発刊する自分の同人誌を見て、改めて判断することにしようと思う。

 

春直前、氷雨の日の内省日記でした。

 

 

間桐慎二くんから見たFateが案の定ツラすぎる件

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キャプションに使うわかめ画像探したら「カットわかめ」っていうあからさまな商品名だったので、ちょっと自重しました。


今年に入りひとつ楽しみがあった。それは劇場版『Fate/stay night Heaven's Feel Ⅱ.lost butterfly』の公開である。時間は少々経ってしまったが、見れば本当に圧倒的。感想やらを書こうとしている手前、あまり言いたくないけど、語彙が要らない。あえて言うなら、バーサーカー~十二の試練とガイナックスエクスカリバーを添えて~、桜ちゃんのひとりエッチ&指ちゅぱがマジで快楽天表紙、慎二君ツラい!かわいい!でも斬首!!の3本でお送りして、以上終了である。

 

そして、そんな映画公開にも関連させて、先日『Fate /stay night』原作のPCゲームが発売されて先日で15周年を迎えたということらしい。僕もわざわざ仕事終わりに秋葉原まで出向き、UDXビジョンに浮かんだ奈須きのこ氏の15周年記念メッセージを群衆の中眺めた。なんともカルトくさい。そもそも僕とFateとの15年という期間自体、マイブルースプリングを全力でパススルーするため、正直目も向けたくない闇歴史なのは確かだが、覆水何があっても盆には決して返らねえのである。

 

ただふとそこで。今回の劇場版を見た僕の感情と当時とを比較してみると。やたら相違点があったので、ふとここに文章を置いてみたくなった。

 

・歳をとったら間桐慎二くんが鮮明になってきた

タイトルにもある通り。『HF』2作目鑑賞後、ワカメ王こと間桐慎二くんについて考える事がとても増えたのだ。思えば、登場人物と同い年くらいだったときにFate本作をプレイしていたわけだけど、慎二くんが登場するたび「はいはい胸糞悪演出乙」みたいな感じだった気がする。圧倒的強者願望、魔術ワナビー、女子勢への露骨なセクハラ等々、マルチEDも相まって数々の余罪で脳内再逮捕祭りだったと言える。

 

ただ、何度もここで宣っている通り僕も気づけば三十路。慎二が抱いたコンプレックスや過去の生い立ちなどが想像できるようになり、その15年の間には『Fate/zero』なんていう絶望コンテンツが登場。より間桐家の過去がはっきり描かれ、慎二のおかれていた周辺環境を見ることが出来るようになってきたわけだ。

 

すると、まぁツラいのなんの。間桐家についての具体的知識については沢山関連資料があるし、TYPE-MOON Wikiでも眺めてもらった方が早い。ともあれ、魔術師一家に生まれたけれども、素質もなく(すでに何代か前より没落していたと見られるので慎二が原因ではない)ジジイが実権握りすぎてて家族関係は冷え込み、本来家族から満たされるべき承認もなく、そしてトドメに感情を失った魔術師名家の妹養子が間桐の当主へ、桜へ過酷な調教を強いた親父はアル中に・・・・老舗企業で老害が延々トップにいるとロクなことになんねえな、という分かりやすい証左のような血筋である。

 

さらに親父兄弟含めて「魔術」が彼らの人生をメチャクチャにしているが故に、魔術師、あるいは魔術そのものに対する強いコンプレックスがあったのは確かだろう。今回の劇場版『HF』では、そこがより緻密に描かれている。強化魔術を使った士郎に我を忘れるシーンや、魔術回路試験キット(光る小瓶)を何度も試すくだり。そして何より最後、桜をレイプするシーンで自分が泣いちゃう慎二くん「自負を保つことができる関係性」と「間桐家における自分の存在価値」双方を守る方法が、桜への(疑似)魔力補給であるセックスしかなかった、というあまりにも切ない事実を描いている。ほんとエグイ・・・

 

・普通の悪意、異常な正義

今回の映画パンフレットでもそうだったが、間桐慎二を演じることについて聞かれた際、声優の神谷浩史氏が冒頭に言うことがある。それは「士郎よりも慎二のほうがスタンダードな人間」ということだ。これは慎二を演じるにあたって、ディーン版『stay night』の音響監督、辻谷耕史氏から言われた指導だという。

 

上記の通り、慎二が置かれていた家庭環境というのは残酷だ。『stay night』の第五次聖杯戦争において、ようやく間桐家の嫡男として、コンプレックスだった魔術師として、自分に日の目が当たろうとしている事を待ち焦がれていた慎二くん。そりゃあ、テンションも上がるってものである。いよいよ自分が主人公のストーリーが始まる。そして、本作を見て久々に『HF』の成り行きを眺めると。あまりにも数々の慎二の悪態が「自然」なことに気が付くのである。ある意味で言えば、人間らしい悪意の発散である。

 

では、それに対する主人公、衛宮士郎の歪さはどこにあるのだろうか。作中でも、様々な角度から論じられるわけだが、詰まるところその根底には「過去のなさ」がある。これもTYPE-MOON Wikiを見るのが理解に早いが本作に「衛宮」以前の描写はない。第四次聖杯戦争以前の士郎は、どこにも存在しないのだ。つまるところ、慎二がさんざんこじれた原因である、幼少からの承認というステ値がそもそも壊れている。

 

自分が家族をはじめとする社会から認められるか、否かというのは人として生きていく上で重要な行動指針となる。士郎の場合、本来の両親や生家というバックボーンが皆無になった結果、自己定義に繋がるモノを失い、借り物的かつ最大公約数的に「正義の味方」という指針を補ったと言える。

 

少し話がそれるが、慎二と士郎のあり方の差異は『ゾンビランドサガ』の主人公源さくらを見ていると分かりやすい。ストーリー開始時、源さくらは自分が死ぬ前の記憶を失いながらも、巽幸太郎の強制的な指導の下アイドルを目指す。そして、終盤過去の自分を思い出してしまい、虚無に堕ちる。最終話ではその虚無すら乗り越えるのだが、あえて言えば、前者が士郎的、後者が慎二的と言える。キャラにおける「過去」は、ストーリーやその行動を鎖で止める役割を持つ。慎二が「何にもなれなかった」ことは、自分が「何者であるかを知っていたから」という事が非常に大きな要因と思える。そして、それは普通に、人生においてよくあることである。

 

・『FGO』で描かれる「持ってない」モノの抵抗(カウンター)

慎二くんがこの作品において、かくも悲しき存在であり、そして何なら、視聴者たる僕らに近い存在は士郎なんかよりも慎二くんだよなぁと今再認識してしまったのが、今回言いたかった型月おじさんメランコリー話である。いやぁ、これまで無碍にあしらってきてごめん。でも悪いのは、菌糸類と一部虚淵さんだから。

 

しかし、この「持っていない」ことへの述懐は、今回の『HF』回顧だけで終われそうにない。そう、『プリヤ』復刻イベなのに美游もイリヤも全く出ず、関係ないはずの茨木童子を3体も引いて僕が絶望したことであまりに有名なソシャゲ『Fate/Grand Order』でも同様の話が言える。いや、茨木好きだよ、好きだけどさ。あ、金色じゃん?え?これ来た?茨木かーい、っての3回よ。

 

1部が終了し、現在進行中の『Cosmos in the Lostbelt』に入って久しいが、ストーリーを想起すればこちらは「人理修復」という偉業を成し遂げるはずだった「持ってない」主人公たちの反抗録でもある。

 

当然、その奥底にはより深い思想がチラついているものの、基本的な格子は「持ってた藤丸vs持ってなかったクリプター」のそれだろう。言ってしまえば主人公、藤丸立香も士郎と同様、カルデア以前があまりにも空白に近い。勿論、感情移入という意味で、過去を省いた方がいいのはゲームの性質上仕方ない。しかし、そうであるからこそその異聞帯における対立軸は「士郎vs魔術使えてた慎二」という『EXTRA』的構図と被る。

 

実際に、『永久凍土帝国アナスタシア』でのカドック、『無間氷焔世紀ゲッテルデメルング』でのオフェリアなどを見ていると、主人公と対峙する中、名門魔術家系故の過去のツラさが本人の自我を蝕んでいることが垣間見える。(芥さんはちょっと別次元)そしてこの2部異聞帯編では、人理修復後、主人公すら自分らの正当性を疑問視しながらの旅路だ。異聞帯編は、案外この主人公たる所以である「過去なく、持ってる」のスタイルに対して、慎二くんやら古くはシキさん辺りからの怨念を受けて、一矢報いる弔い合戦となるのかもしれない。個人的には生き残った「カドックくんがんばれ!」と思ってしまったりする。

 

 

型月作品は、往々にしてこうした「表裏」を複雑に絡ませて描くことが多い。姉と妹、親と子、過去と未来、そして、大抵その関係性は「持ってる/持っていない」に判別可能であるが、同時に補完関係でもあるのがなんとも憎い。劇場版『HF Ⅱ.lost butterfly』において妹にスパッとやられ天寿を全うされた、そんな相関関係の筆頭被害者である間桐慎二くんを今回を偲ぶ意味でも記事を書いてはみたものの、なんだか無駄に長くなってきた気がする。うーん。やらたむやみに文章に吐き出すとあまりロクなことにならないなぁ、紫式部まだかなぁ、とぼんやり過ごす氷雨の有給消化日でした。

 

 

大人になった平成に思うこと

昔、何かで読んだ覚えがある。「人は弱気になると、過去を振り返りたくなる」そんなこと言われたら、日々過去の自分のツイートを眺めてみて「案外俺、面白いこと言ってるじゃん」など自分に対するフォローを続けてしまうのも、やはり弱気な性が原因か。まぁ、多分それはまた違う病理な気もする。

 

テレビやらネットやら、既にいたるところでも「平成」「平成」と振り返られているのは、周知のとおり。ということで、せっかくなので当ブログでも「平成」が終わるなぁって話を一つしてみたかった。また今年2019年は平成が終わるだけでなく、先日活動休止を宣言した嵐の結成20周年、またこの僕がツイッターアカウントを作成して10周年など、ある種記念碑的なイベントが並ぶ1年と言える。

 

国民的アイドルと根暗性癖おじさんのツイッター歴など並べたところで、何があるわけでもないのだけれども、そういうものは心の持ちよう。平成が終わるということが重大事なのであって、アラシックの皆様方におかれましては、僕も案外嵐ファンなのでそこは一つ暖かく見守ってやってくださいという意も込めつつ、先に進めることにする。

 

ということで本筋。おそらくここでも過去に個人情報を何度か書いているが、僕は昭和63年生まれである。つまり年齢が平成と同い年になる世代なのだ。年号と自分の年齢が一緒というのは、案外便利なもので、自分の歳を忘れたりすると年号を思い出せばよい。逆もまた然り。どちらも忘れてたら、その時にはもっと大切なものを失ってるだろうから気にならない。

 

そんな同い年である「平成」という時代に対して、僕はこれまで何となく「同年代の友達」感を抱いていた。こんなことを言ってはアホと思われる、というかすでに思われているだろうからいいんだけど、自分の年齢とともに年号も推移し、時代の様相も変わりながら、自分の立場も幼児から学生、社会人へと変化する。ある意味、時代と共に同じスピード感で年齢を重ねる感覚に近い。時代と共にって、当たり前なんだけどね。

 

そしていよいよ人生の節目ともいえる30歳を迎えた時、その旧知の友人からふと別れを告げられたような。突如一緒に進んできた時代が終わる。それは何とも言えない感じであった。実態は、ただ年号が変わるだけであって、確かにその通りなのだけれども。そこに意味がないとも言い切れないではないか。そう、当方、人よりちょっとだけセンチメンタルなおっさんなのである。

 

昨年、平成も僕も30歳の節目を迎えた。なってみて思うけど、三十路ってのはなんだかんだ結構大人だ。今現在、こんな根暗一徹な僕も社会に出て働き始め、驚くことに少しずつ会社の中で「中堅社員」みたいな事になってきた。そうなると将来のためと、色んな人から「シサンウンヨウ」とかいう南蛮由来の啓蒙思想を聞かされたり、もやしが沢山乗ってるタイプのラーメンが急に食べられなくなったり、いざというときに息子が全然活躍しなくて本当に凹んだりと、公私共に忙しくなってくる。

 

そして思えば片方の平成さんも30歳を迎え「大人」になってきたように思える。社会を見れば、サラリーマンたちは24時間戦えないと宣言をし、タバコなんか御法度、健康によくないのでその存在意義すら否定され、経済成長も程よく、将来も持続可能なラインで大人しく、グローバルな利害を見ながら丁寧にやっていきましょうという具合で、まさに平成、「平に成る」という名の通り。

 

 正直そんな社会というか時代を僕はあまり好んではいなかった。生まれた頃から、バブル崩壊、失われたなんちゃら、「ゆとり」やら「悟り」やらと好き勝手呼ばれ、将来は時代としても社会としても、より大人しく一辺倒な時代になるのではという実感があった。そんな中で、僕も必死に尖ってみようということで、オールドでマッシブなロックを聴いてみたり、徹夜でエロゲ三昧の日々を通して俺はオタクだなどと、わめいてみたりと色々やってみたものの、最近、この平成っていう時代と一緒に、僕自身も角が丸くなってきたような気がするわけだ。

 

自分はさておき、時代が徐々に「大人」になってきているのは間違いないことだろう。えらい学者さんによれば滅亡まで2分らしいけど、ネットによってだれもが発言権と炎上による抑止力を持ち、ポリコレなんかも声高々に叫ばれてはいる中で、誰かと誰かの利害衡量が続く。大人ってのは、安定や公平を得るため、難しい判断にさらされるもんである。

 

思えば、学生時代だったろうか。バンド活動なんかをしながら「俺は70年代に生まれたかった」などと考えていたことを思い出す。あの時代のエネルギーを享受できれば、何か大きなことが出来たんじゃないかとかほざいていたような気がする。まぁ、時代の差は確かにあれど、そんな「たられば」や世迷い事を言ったところで仕方のない話なのは、全世界時代共通であり、今思えばこっぱずかしい。

 

しかもよくよく考えれば、僕らの青春はインターネット黎明期だった。何か面白い事をするエネルギーなんてものはそこら中に溢れていたのだろうし、多分きっと今もそうなのだろう。時代を停滞ととらえるのはあくまでも自分の主観だし、そしてそれを打破できるのも自分の主観でしかない。楽しいおもちゃは案外、時代時代に、そして思ったより身近に色々あるものだ。

 

今年で平成が終わる。同い年同士、社会人生活の中で徐々に角が取れてきた自分と「何かでっかいこと」ではなく「持続可能な成長」に舵を切り替えた平成という時代。おそらくその潮流というのは、今後も続くんだろうけれども。年号という時代の変わり目において、やはりまた新しい面白さを再度探さねばなるまいと。結局、これもまた主観であり、ひとり息巻いている次第である。

 

あまり意味がある内容の文章ではなかったが、平成という時代から次へステップする今の期間。短いながらも時代を冷静に見つつ、また身勝手に面白い事なんかないかなと彷徨っている冬の一人言でした。

COMIC ZIN振込の件から現在の「サブカル書店」の在り方について考える

新しい年となり半月ほど。すっかり2019年の空気に身体も慣れてきた頃かと思ったら、突然38度の熱を出し、お腹から色んなものが射出された先週。朦朧とする意識の中「このまま死んだら、ゾンビになってアイドルになる」などと譫言を一人言っていたものの、なんとか生還。佐賀に行くのはまたの機会にしようと思いました。

 

そんな折、自分が呟いた案件から多少議論となった件について、ここでちょっと考えをまとめたくなった。それはCOMIC ZINの振込問題である。詳細は、こちらtogetterにて纏めてくださっている。それにしても真面目な話題なのに「すくみづさん」という呼称、自分でもどうかと思う。

togetter.com

ニッチなジャンルの同人誌取り扱いで知られるサブカル書店であるCOMIC ZINさんに、当方も数年前より委託販売をお願いしている。しかし、昨年度夏以来、同社システム障害の影響から、売上金額の振込がなされないという事態となっていた。諸々、周囲の同人作家あたりに話を持ち掛ければ、対応に差はあるものの、どうも自分だけではないようで。先方からの事情説明もなく、しばらく猶予期間として待っていたものの、さすがに新年にもなったということでツイートや先方への問い合わせなどアクションを起こしてみた、という具合であった。

 

早々に先方からは、謝罪や今後の対応、全面的なシステムの復旧の連絡、そして懸案だった振込もされた。おそらく今後については状態が回復したものと見られ、本件としては落ち着きつつある。

 

ただ、個人的にこのツイートを行ったのには、債権回収以外にも目的がある。なんなら諸々のツイートでは「債権」と仰々しい言い方をしたが、それほどの金額でもなかったため逆に罪悪感すら沸いていたり。まぁ、実際未払いだったから仕方ないんだけど。そんなわけで、この一連のツイート目的とそれに纏わる考え事を今日は、好き勝手漏らしていきたい。

 

・みんな「COMIC ZIN」をどう見ているか

今回のツイートが拡散される事で、期待したものは2点ある。まず1点はそのまま文章にも書いた通り、COMIC ZINに委託している同人作家で「振込がなされないのは自分だけ?」と戸惑っている人の炙り出しだ。問題の大枠を把握し、状況について当事者間で共有できればという考えである。

 

そしてもう1点。それはCOMIC ZINという書店について各位どう思っているのか、今回の件を引き金にそれを確かめてみたかったという思いがある。togetterでも見られる通り、未払いやそれに対する説明がないため信用をなくした、取引を中止したという人もいた。勿論、金銭を扱う当事者間としてそれは正しいアクションだ。ただ反面、これだけ一方的と思われる炎上事案にも関わらず「COMIC ZINを応援する人」というのが一定数現れた。お分かり頂けるだろうが、僕もその一人である。

 

今回、未払いという状況もあり、COMIC ZINの経営状況を心配する声が多く挙がった。その際、一緒に聞かれるのは「あそこでしか買えないものがあるから、なんとか頑張ってほしい」「かつて消えていった同人書店の二の舞にはなってほしくない」「ZINの平積みのラインナップが好き」など。やはり、書店そのものに付いたファンの声というものは確かに存在していた。

 

つまるところ、現在のオタク関連小売店において、同人誌に限らずサブカルをきっちりサブカルとして扱える店舗というのは非常に貴重なのだ。秋葉原の街並み一つ見ればわかる通り、今同人誌を扱っているお店と言えば最早大所の「とらのあな」か「メロンブックス」「まんだらけ」あたりが主たる小売店と言える。それ以外で何とかサブカル的な意地を保っているのがCOMIC ZINだろう。今回の件によってその価値は、ユーザーも認知するところであると逆説的に確認することができた。

 

・市場原理を意識すること

昨夏、秋葉原を題材にした同人誌を作った。僕はその中で「市場原理が支配するこの街だからこそ、文化の推移も激しく、それがこの街の面白さに繋がっている」と書いた。ただ、その通りに考えながらも、心のどこかで多少のニヒリズムを抱いていたのが正直なところだ。

 

同人誌に限った話で言えば、秋葉原には10年前ほどまで多くの同人ショップがあった。現在に至る中で淘汰が進み、ここまで集約されたと言っていいだろう。当然のことながら、店舗や企業経営というのは資本主義のルールの中で行われていることであり、上手くいけば継続・拡大となり、下手をすれば撤退となる。自分をはじめとする消費者は、そうした世の中の流れを作りながらも、同時に翻弄され続けている感を受ける。

 

そして、そろそろ思ったりするのだ。その神の見えざる手による剪定に、抗っても良いのではないかと。僕ら消費者が残したいものを残す、そんな選択をとれないものかと徐々に考え出していたという具合だ。

 

COMIC ZINから振込がなされない間、同人仲間でも未払いの件は話題に挙がったが、案外「いやぁ、大変そうだからね。待ってみるよ。」という声には何度か出会った。世代差はあるだろうが、どうしてもオタクという存在は、何かを購入するという行為に普通以上の重みを見出したりする。その購入を支える実店舗という価値は、ネット通販やデータ扱いが主流になっている現代だからこそ、反対に輝くところがあるのかもしれない。

 

・オタクならではの共助という発想

何を一介の書店にそこまで熱くなってるんだ。という反応も想像できるものの、僕がその先にみているものは、なにも一つの書店の処遇だけでない。先日、コミケスタッフに長年参加する友人と、コミケの在り方について幾つかリプライを交わす中、彼からこんな言葉が出てきた。

場を維持するってことは存外に難しく そして大事なことっす。

あまりにシンプルで、短い一言。ただ、そこに詰まった思いというものは、簡単に流せるものでは決してない。よくよく考えれば、例年開催が当たり前になっているコミックマーケットも、オタク趣味という緩い繋がりがベースにあるものの、たくさんのボランティアの存在や、参加者の意識の上に成り立っているイベントである。

 

昨今、一面的に経済効果やら参加者数など、そうした数字が持て囃されるのは当たり前かもしれないが、その根底には数字だけではない、その場を必死に残そうとするオタクらの意思が存在するのではないだろうか。

 

そして話を書店に戻そう。今回の問題や、それにまつわるリアクションを見る中で、市場原理と突き放すのは簡単だけれども、いかにそうした店や場を維持するのか、という難しさに向かい合った思いである。

 

それにあたり、まさにCOMIC ZINの同人担当、金田氏のインタビューが興味深い。

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音楽についても、配信がもはや当たり前となり、CDやメディアの保有という文化からライブへ足を運ぶこと、フェスで盛り上がることが重要視されて久しい。オタク文化についても、電子書籍がより一般化したことなど同様の事が言える状況である。では、その中で書店が果たすべき役割とは何かという事になる。先から「残したい場を残す」と宣っているが、何も保護主義的になれというわけでは決してない。

 

ここからは運営のコアコーポレーションさんとまるで関係なく、身勝手かつ個人の思い付きということで付き合ってほしい。例えば言われる通り、人手不足であるならば。棚卸といった業務について、委託している同人作家に対して、コミケ同様ボランティアを募ったりするのはどうだろうか。社会人なのでバイトをするわけにはいかない人が多いだろう。案外、別途書籍購入の値引きといったインセンティブを設ければ手を挙げる人もいるかもしれない。またその際に打ち上げでも機会を設ければ同人作家同士の出会いの場にもなったり。

 

多分だが、先のライブ感という話も含め、いかにコミケを始めとする「イベントに近い空気感」を店舗として提供できるのかという事が、ネットと対峙する小売としても今後の課題になるのではないか。そういう意味において、とらのあなが趣味を媒介にした婚活事業に手を出したというのは斬新と言える。

 

また、先のとおりCOMIC ZINという立ち位置の書店だからこそ出来ることは案外あるように思える。情報系・評論系を強く扱うその姿勢は、他店と違い「そこだけでしか買えない」まさにイベントらしさを体現するコンセプトである。同時に我々も、周囲から単純に「あの企業は」と揶揄するのではなく、自ら手足を動かす面倒さをもって、店舗や大切な場を維持していく時代に入ってきているように、今回の件から切に感じてしまった次第である。

 

 

本音を言えば、昨年度からこの手のニヒリズムとどう対峙すべきか、という話は考えていて。具体的な案など出せるような頭ではないものの、飲食店や書店など「自分の好きな場所」とどのように共存していくべきなのか。そんなことを引き続き、考えていきたいと思います。長々と失礼しました。

オタクとして老い、死ぬ事を考える~町田メガネ『下流オタク老後破綻論』から~

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C94で頒布されたコピ本Ver. 最新版はオフセット仕様があるみたいです。


正月は、無駄に意識やら心根を改める時期だ。これまでの自分の来し方を振り返り、そしてこれからの生き方を模索する。あぁ、これまでなんて膨大な時間を無駄に費やしてしまったのだろう・・・神妙な面持ちで考えるも、1年の計を既に寝正月で過ごした自分の今年を心配しちゃっていたり。とりあえず、今年も明るく生きていきたいものです。

 

前回記事に引き続き今回も、先日行われたコミックマーケットにおいて頒布された同人誌の中の1冊を取り上げてみたい。町田メガネ氏という著者/サークルが発刊する『下流オタク老後破綻論』だ。この本は、すでに昨年の夏のコミケで頒布されたコピー本の再販で、C95においてオフセット版となり装丁が奇麗になったとのこと。

タイトルからしても暗いことこの上ない本書。現在、社会的弱者からマジョリティになりかけているオタクが抱きうる「将来に対するただぼんやりとした不安」をそのまま、しかも更に具体化させて本にした姿勢はすごい。ちょっと個人的にも引っかかるところがあったりしたので、紹介させていただきたい。

 

・オタクはこの先どう死ぬのか

このサークル主、町田メガネ氏は過去にもここのブログで紹介したことがある通り、数々の職歴や遍歴から、偏りつつも鋭い同人誌を発刊することで知られている。

www.wagahaji.com

この記事内でも紹介しているが、町田メガネ氏の本はとかく「煽り」の強い本が見受けられる。自身の経験をもとにしながら、SNSでのコミュニケーション、実社会での生活、現代における働き方まで。自虐を基本にちょっと斜に構えた文体のため、それぞれに是非はあるが、スパイスの効いたネタハウツー本を発刊することで定評があるサークルだ。

 

今回『下流オタク老後破綻論』を手に取り。またいつものテイストか、と覗いてみたのだが色調がいつもとは違う。確かに計画的に貯蓄できないオタク故の自虐を込めた「煽り」口調は確認できる。だが、他の既刊より切迫したものを感じたのである。つまり冒頭でも触れたとおり、この先オタクってどう老いて、どう死んでいくんだろうね。という切々たる不安感を、けっこう明確な形で示すことに成功している。

 

なんていうか、日ごろオタクとしてSNSでわーわーやっている我々が見たくない所を的確に文章化した稀有な本だなと。毎回、過去の名作漫画をパロディにした挿絵が秀逸なこともあり、本書に関してもも多くの人が目にとめたことだろう。この本が突いてくる「認めたくない未来」に対して、読んだ人はそれぞれ「俺は収入があるから大丈夫」とマウントをとってみたり、あるいは「まさにその不安を感じている」と共感してみたり。それぞれ、読者の心境によって情報の意味が大きく左右するのではないだろうか。

 

・「ネット上の友人」と社会

本書では、ロスジェネ世代を基調にしているが、僕も就職時に苦しんだリーマンショックを含めたいわゆる「失われた20年」まで援用出来る内容になっている。昨今問題視される貧困やその連鎖については、既に書物からドキュメンタリーに至るまで、各媒体で取り上げられている。そして、こうした問題意識を「同人誌を買うような我々オタク」目線から見ることで、かなり身近なレベルの事案として突き付けているのがこの本のスタンスだ。

 

もちろん本書では、貯蓄や保険、年金といったような計画的な将来設計の話題が主軸ではあるものの、僕が最も関心したのは、ここの見出しに書いたいわゆるコミュニティの問題も明示したところにある。

 

つまるところ、僕らはいったい誰と悩みを共有し、誰を「仲間」と呼べばいいのか。という問いだ。昨今ツイッター等、オタク色の濃いSNSでは、その思想の潮流は個人主義に軸足があると言える。結婚などは社会に強要されるものでなく、稼いだ金や得た時間は自分の為に使うべき。雑に言えば「リベラル」的なこの手の発想は、それまでの昭和然とした社会観に対するカウンターの立場であるネットカルチャーにおいて馴染みやすいものであろう。

 

学校でも会社でもない、そしてリアルでもなく。我々特にネットに明るいオタク層は、90年代後半以降、趣味を媒介にしながらこれまでにないサードプレイスを得た。ただ、既に時代は平成を終えようとする中で。カウンターとして立ち上がった思想の、次のカウンターの波が来ている。自分たちでもうっすらと自覚している通り、血縁のない関係性、個人主義的な関係性の強度の問題だ。

 

この本の終章に【相談する力】と銘打たれた一段がある。その最後をちょっと引用してみたい。

下流老人で起こっている大問題の一つとして、自分で勝手に考え判断し決断し取り返しのつかない事態になっているケース。相談する人がいない、もしくは少ない、さらには「問題にふさわしい相談相手を見つけられない」等が今のオタクにもたくさん発生していると確信しています。」

勿論、この文での「相談相手」とはコンサルといった専門家という意味でも読めるが、より本質的な問いとしては、我々は本名まで曝け出して相談できる人をネット上で作ることができるのか。そんな問いにも繋がってくるようである。

 

・強度ある関係性と将来

 先の問い、ネットに親しい人ならこう答えるだろう。「ネットで信頼できる仲間は作れる」と。僕自身も実際にこれまで沢山の交流をしてきたし、そのように答えると思う。

 

ただ、この本は町田氏の自虐的目線、「下流オタク」目線から書かれている。要は、そんなネット上における綺麗ごとでは済まされていないということだ。今、趣味の面で楽しく過ごしている人が、生活面での壁に直面した際、どこまで「信頼のおける関係性」で在ることができるのか。

 

ふとそんな感情のもと、ツイッターでタイムラインを覗けば、マウント合戦が横行する日々で。様々な基準をもとに、自分のポジションを見つけては安心と虚栄を得、そして下を見下してみる。ネット上では、誰かの一挙手一投足がつぶさに確認できる状況だ。そのため常に、相対的に自らの位置を確かめ、同位置程度のコミュニティを作っては友人と考える。

 

町田氏は本書終盤から下流オタクが飛躍し、サバイブするための方法の一つに、信頼できる家族や結婚を作るという選択肢を挙げている。血縁という面倒さも含めて、生きる糧の一つになるのではという提示である。もちろん、これを読んだ際に抱く感情は人それぞれだろう。だからこそ、もし本書を読んで、その時に抱いた感情に注視すべきと僕は思う。

 

オタクとして、ネット社会に身を寄せて、老い、死んでいく。そして東京五輪後、不安要素を色濃く抱える経済状況の中、そんな際に、社会的地位だとかに左右されない仲間を作れているだろうか。あるいは一人で生きる覚悟を持っているだろうか。そして当然、リアル社会で生きる強さを身に着けられるだろうか。

 

 

読んでいて、金銭面をはじめとしながらも、様々な角度から「オタクとしての生」を問われる心地がした。これまでのシリーズ以上にハッとさせられる文も多い。各所委託などでも入手できるようなので、気が向いたら手に取ってみてもいいのかもしれない。

 

なんだか、悔しいけどおススメな1冊でした。

twitter.com

 

 

 

声に出して読みたい射精『抜いた記録』で迎える新年

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おそらく全国的に謹賀新年、年明けを迎えたようである。本年も引き続きしょうもないテキストを垂れ流しながら、また同人活動に変態的生活にと、それぞれ精進して参る所存なので宜しくお願いいたします。

 

そして、新年を迎えたということは、同時に冬のコミックマーケットを終えたということでもある。当方も相変わらずサークル参加させて頂き、わざわざ足を運んでくださった皆様、本当にありがとうございました。今回の記事ではタイトルにある通り、コミケにて頒布されていた1冊の同人誌を取り上げ、新年らしいフレッシュな清々しい記事にしていこうと思う。

 

・DIY精神が詰まった暴力的同人誌

今回取り上げるのは、画像にも示したオタクと性を扱う新進気鋭のサークルLPOP(エルポップ)さんの新刊『抜いた記録』である。これだけ見て「え、抜いたって何を?」と思った方、即座に下のURLに飛び、これ以上読まないで、その綺麗な心をこんな場末ブログで汚さないでお願いだから。

kids.yahoo.co.jp

 

twitter.com こちらがLPOPさんの公式ツイッター

 

ということで、露払いも終わったので先に進むが。本書の帯にある説明文をそのまま引用すると「二次元を愛するオタク達の自慰記録1年間分+αと統計分析を完全収録。すべての人類に送る「オタク」と「性」の解体新書」とある。つまるところ、サークル構成員3人が1年間にわたって「何のオカズで抜いたか」「どこで抜いたか」「手淫かオナホか(オナホならどの銘柄を使用したか)」を記録し続け、1冊の本にまとめたという本である。

 

昨今、オシャレな企画に装丁、旅やグルメといった実用的な知識に溢れ、徐々にその市場を広げてきた評論ジャンル同人。そんなある種「評論バブル」とも言える時勢に、コミケの評論島に落とされた核弾頭。そして思い出せば、帯にあった「すべての人類に送る」って記述、なんていうか送られた人類側の気持ちを考えてほしい。人類サイド、なんも言うことねえよ。

 

そして、何が圧倒的ってそのボリュームだ。ページにして300ページ超。しかも表紙は限定で虹色箔加工までなされているバージョンもある。(通常盤でも銀箔加工)正直初見で引いた。それにしても、ここまで「要らない情報」を、熱量と射精量でデザインし、このような読み応えある同人誌にまで昇華できるとは。回数と質など自分のオナニーに対してよほどの自信がないと出来ない芸当だろう。見上げたDIY精神と言える。

 

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同じサイズ・厚みの本を探したら『Fate/zero』最終巻が該当。早速比較画像を撮ってみたが、表紙のセイバーが血の涙を流している理由が違って見える。

・声に出して読みたい射精

また、この本の最大の魅力といえるのが、毎度使ったオカズを丁寧に記録したことで、現代におけるオタクのための抜きネタタイトルアーカイブと化している点にある。そのジャンル幅は広く、静止画から音声、漫画、AV、エロゲなどに及ぶ。

 

予定表のようなレイアウトに丁寧に並べられた射精記録。そして書き込まれるネタの数々。そのタイトルを文字列を延々読んでいるうちに、謎の面白みが湧いてくるのが面白い。その圧倒的な文字の力はぜひ本書で楽しんでいただきたいのだけど、エッセンスだけ置いておこう。

 

『抜きゲーみたいな島に住んでいる貧乳(わたし)はどうすりゃいいですか?』『にとりさんなら土下座すればやさしくいじめてくれる』『ゲーセン姫とDT男のイチャイチャ小作りラブセックス』・・・このようなタイトルが300ページにわたり延々並ぶわけである。片頭痛と共に、なんだか笑えてくる。是非、新年だからこそ声に出して読んでみたい。もういっそ、かるたとか作りたい。

 

僕の学生時代の話になるが、地元のTSUTAYAで毎年「パロタイトルAV大賞」を友人と2人で決めていたという過去がある。そのような経験からも、やはりこうしたエロ作品のタイトルというのは日本語文化のある意味で進化を示していると感じる。何か、人のバカらしい温かみというか、AIに負けない人間としての意地を見ることが出来る気分だ。

 

・自ら恥を晒し、何を作るのか

こうした同人誌という文化は昨今の出版不況ということもあって、逆説的に注目を浴びつつある。つまるところ、全国流通させることを前提とした大量生産・販売がキツくなっている中で、各個人が本当に面白いと思ったものを作り、それが受け入れられる土壌が出来上がってきている。地産地消というか、需給が非常にタイトな仕組みが今の時代にマッチしているのかもしれない。

 

当然に編集や文章に練度の差があり、未だに本職の出版社から出る本には相応の力がある。それでも、本当に尖った本というのはこうした同人誌から立ち上がるという認識が、少しずつでも一般的になってきているのではないだろうか。今回取り上げた『抜いた記録』などは、多分というか絶対に、普通の出版社から出る代物ではない。何なら、自らの射精記録なんて本が、メロンブックスさん辺りで流通しているという事態すらすごい状況だと思う。

 

このサークルLPOPさんとは、多少の縁がある。LPOPさんがコミケに初参加されたC93の際、僕も僕で『’00/25 Vol.7 これからの「性器」の話をしよう』という下ネタ全開の雑誌を作っており、そんなジャンル設定も功を奏してか、サークルがお隣に配置されたのである。その際に、同人誌やサークル活動のコンセプトを伺い、共感を覚えたのも懐かしい。そこから1年が経ち、今回のような恐ろしい新刊を引っ提げて、ありがたいことに当方スペースに挨拶にも来てくださった。

 

なんていうか、この本によって、僕自身も同人活動を継続する中で忘れていたものを呼び起こしてくれた気がする。(ずっと忘れていた方がよかったかもしれないけど)

 

当ブログタイトルの「わがはじ!」もわが恥を晒す、という文を短縮させたものだ。徐々にアラウンドからジャストサーティになり、自分の身の周りなどを気にするようになってきた中でだんだんと「あまり無理はせず」という意識が強くなっていた。それでもやはり、同人活動やらモノづくりというものは、どこかで自分の恥を晒す行為なのだ。このような暴力的なまでに自らの性生活を晒した怪作を目の前に、僕もまた何を作るのか問われた気分である。メロンブックスさんの通販URLを置いておこう。

t.co

 

同人誌という場で、あくまでも自分が作りたいものを作る。そんな基本的な気概を、この壮大な下ネタクロニクルから教わったような。大人になる中で、また1年間、真面目にバカな事をしないとなと自戒することとなった年始でした。引き続き、今後もこのような形でおすすめ同人誌紹介なんかも続けていければいいなって思います。