わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

来年の卒論について

今、私は大学3年生。

就活真っ盛りではあるのだけれど、

たまには学問的なこと考えないと頭腐りそうだから、

卒論関連のことでも書こう。需要なんてないことはわかっている。

それでも男には供給しなきゃいけないときだってあるんだ。多分。

久々に書く日記がこんなんで、自分自身が絶望している。

責めないこと。

ざっくりとしたテーマは「インターネットと民主主義の関係性」。

つまりは今巷で言われるところの(?)「eデモクラシー」というやつである。

おととしのアメリカ民主党候補選や、去年の衆院選なんかでも

結構インターネット上での選挙活動が話題になっていた。

ツイッターしかり、SNSしかり、各IT大手の政治関連サービスしかりである。

まぁ、つまるところはIT化した今の社会では、これまでと世論形成に変化はあるのか?ということだ。

ゼミでの中間発表は、データなんかも使いながら結構首尾よく終えられた。

ダール氏の著作あたりを読み解きながら、現在のIT事情を絡めたところが評価されたと思う。

しかし、当然。これからが正念場なわけで。

恐らく、今考えるにとてつもなく厄介な問題に手を出してしまったといわざるを得ない。

その問題点をいくつか挙げることで、自分自身の今後に警鐘を鳴らしておきたい。

まずは、求められるデモクラシーの定義自体が曖昧としているという点だ。

ルソーやトクヴィル、ダールを読む中でも、今の社会に適用可能な結論は確定しない。

それこそがデモクラシーなのだと言われればそれでお終いではあるのだが、

研究している以上、何かしらの結論を導き出さなければならない。

あるべきデモクラシーを設定すること。ここでまず暗礁に乗り上げる確立は非常に高い。

恐らくは、やはり中間団体が民意に密着するようなシステム作りという方向性には帰結するだろうが

一応、ゼミの専攻が公共政策である以上は、政策的な還元しなくてはならない。

ある一定度、具体的な施策としてのビジョンがなければ、デモクラシーというシステムを

とても抽象的な論で包みこんでしまうことになり、結論は弱くなる。

そこで、中間団体の新しい形としてのウェッブ上でのコミュニティ創出ということが、一応主眼にはなるのだが、

ゼミで突っ込まれたとおり、ウェブ上のコミュニティに公共性がどこまで付随するのか、

というのが強い懸念材料として挙がっている。

ハンナアーレントも読まなくてはいけないことになりそうで、今から憔悴し始めているのだが

パブリシティの問題から目をそらすわけにはいかないのである。

形はあっても、そのコンテンツに問題があれば全く機能は望めない。

デモクラシー研究の厄介な点は、それを施行されたときの逆作用が、遥かにメリットを上回るという点にある。

それは歴史を見ていただければ、明らかなようにデモクラシーが世界の脅威になった例は簡単に挙げられる。

衆愚という言葉は嫌いだが、デモクラシーを掲げる国家において

現象としての「衆愚」は実際にリスクとして常に存在しているのである。

その上で、ウェブをデモクラシーの道具として使うとなったときに問題となるのは

上でも、前回の日記でも触れた公共性の問題なのである。

そもそもSNSのウェッブ上のコミュニティ空間は、パブリックなのかプライベートなのか?

という問題があり、それは実際個人の認識に任されている部分がとても強い。

もし、ウェッブをパブリックであると仮定するならば、

その公共空間はこれまでの公共空間とは、まるで違った様相を呈す。

そもそも、ウェッブ上の公共空間にコミットする上で実感としては、

仮想化された人とのコミュニケーションを軸にしているのであり、通常のコミュニケーションより

画面、更にはブラウザ、アカウントというようなフィルターが多い。

上のように、公共性を肯定的に仮定したとしても、

ウェッブ上においてその公共性は弱まってると考えたほうが自然である。

先ほど挙げたフィルターによってコミットするコミュニティとの距離が開き、

SNSなどに公共性を求めても、所詮はPC上における仮想化された自己を操るくらいの感覚しかないはずである。

更にまた感覚の差を考えるならば、逆にSNSなどを

自分が完全に編集可能なコミュニティであるという認識も存在する。

マイアカウントというものを、コミュニティの中心軸に捉えている人にとっては

ある一定の情報は邪魔なだけであり、欲しいと思わない情報とは遭遇しないように

コミュニティをエディットすることも可能だ。

これは前々からウェッブ社会に対して行われる批判についてまわるものの類型ではあるが

自分の知りたいと思う情報にしかありつけないところに、果たして公共性は生まれるのか?という問題である。

前回の日記では、こういったコミュニティへの個々人の距離感の差が基点になって起こる問題に触れた。

実際にデモクラシーという大規模なシステムを、ウェッブを利用して動かそうとしたときに起こるのも

こうしたウェブと人との距離感の齟齬に関わる問題が発端になるはずだ。

そのウェブ上の公共性とは何か?という部分も明らかにしなければいけないし

そのためには通常の公共性の理論を無視するわけにはいかないのでハンナアーレントを読むほかはないのだろう。

就活もしんどい中で、こんなこと考えたらやっぱし余計しんどくなってきた。

例大祭も結局、K談社の筆記試験を受けるために行けなくなるし。

これは崇敬祭かなと考えている今日この頃。

ここのところの選考試験の手ごたえがひど過ぎて病んできた。

またガジェットについてはネタを貯めながら、

ツイッターは一休みしてましたが、そろそろ再開してる感じ。

また、がんまりまする。ではでは。