わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

人の折れ目

最初に言っておくと自己啓発的文章ぽく、仕事の愚痴を書いている日記。

 

最近の若者は打たれ弱い。怒られ慣れていない。ここ最近というか、もう10年くらいは言われ続けている話である。日経やダイヤモンドなんかのネット記事をぼんやり見ていると1週間に1度はお目にかかる。切り口は「どのようにそうした部下を律するか」「上司の怒りとどう向き合うか」とか様々なんだけど、確かに自分を振り返ってみてもそういう面があることは認める。怒られるのはかなり嫌だし、極力波風立てずに生きていければとは思っている。出来る事なら上司の名前の判子をこっそりと持っていたい派だ。

まぁ、そもそも27歳が若いと言えるのか。という疑念はある。仮に若いとしても、一般的には社会人5年目。小生はダブってるので4年目。この手の話の対象になっているのか多少怪しいところではあるのだが、まだ若者扱いされたい。とにかく僕は打たれ弱いのだ。それでいいじゃないか。


ただ、そういう風潮に乗っかってなんでもかんでも「怒られて突飛な行動をする若者=打たれ弱い」カテゴリに若者を押し込むのはどうかと思う。

例えばこの前ネット記事で見たケース。「やる気がないなら帰れ」と言われ鵜呑みにして本当に帰っちゃう若手社員は怒られ慣れてない、打たれ弱い!みたいな論調だった気がするが、確実にそいつは打たれ弱くない。打たれ弱さの権化から言わせれば、鋼の心すぎて師事を仰ぎたいレベルである。僕であれば、デスクでひたすらうなだれてみて「まぁ、次から気をつけろよ」といわれるのをひたすらに待つか、とりあえず外出をして、ほとぼりを冷ましてから気まずそうに自席に戻る、くらいしか選択肢がない。本当に帰っちゃうとか翌日以降の気まずさを考えるとそれだけで胃痛で死ねる。

逆に言えば、そんな帰っちゃうレベルの破天荒社員は「若者に個性がなくなった」と無駄に嘆くおっさんたちが、求めるスタイルではないのだろうか。まぁ、今のおじ様方もかつて「新人類」など言われてきたわけで、批判しやすい若者風情に対して社会的な風当たりが強いというのはもはや仕方のない話なのでここらで割愛する。

そんな中で、打たれ弱さの話に戻るのだが。最近感じたこととして、人間「折れやすいポイント」があるのではないかということだ。こんな自分ですら「怒られる」事はとことん嫌だけれども、素直にミスを話し「ごめんなさい、次から気をつけます」と言える上長もいたりする。それは単に優しいとかでなく、厳しいのだけれど叱り方が適切なのか、僕に合っているのか、その叱るという行為の印象は人によって大きく違う。

 

一様に打たれ弱いというよりも「こう怒ると、めっちゃ凹む」という弱点みたいなものが誰にだってあるのではないかと思ったのである。言われればあたり前の話なのかもしれないが、それぞれ人間には育ってきた家庭環境や集団生活の中で「こういう風にものを言われたくない」という折れ目が付いている。

山折にした紙を想像して欲しい。折れ目に沿って力を加えれば、それは自然と折れ曲がる。でも、その折れ目に対して垂直に力を加えれば、逆に結構な負荷に耐えられる。なんか安っぽいハウツー記事みたいな例えで嫌なのだけれども、打たれ弱いと自覚している人は、恐らくその弱点を自分で把握する事により幾分かそれを改善の方向に動かせるのではないだろうか。

よく新書や自己啓発本の帯に「何事にも動じない自分を作る!」などと仰々しく書いてはいるけれど、実際人間なんだからいろんな事に動じるし、むしろサラリーマンの理想像こと島耕作シリーズ読んでると「こいつ不感症なんじゃねえか」とツッコミを入れたくなったりもする。むしろそれなら、自分の折れ目というかどういうシチュエーションに凹みやすいのか等を考え、自覚をした方がより人間的であり手っ取り早いように思える。

 

延々と自分の性格を卑下をするよりも、きっと多分、そういう弱点があるだけで、いいところもきっとあるよね。こころ、ほんとは強いんだよね!と自分を励ますつもりで書いた文章だったが、どうも胡散臭い感じが抜けない。自分を自分で騙そうとしても、なかなかうまいことはいかないものだ。

なんにせよ仕事は明日も続いていくのだから、いちいち怒られたことで凹んでいても仕方ない。とかく部下の折れ目を分からず、クリティカルを延々繰り出す上司が悪いのである。目の前の本棚に城山三郎先生の「打たれ強く生きる」という随筆集が置かれており、その境涯にはいうまでもなくまだまだ遠く、吐くため息も寒さで白く濁っている。やはり1階の部屋は底冷えが酷い。