わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

オタクとデモクラシーの親和性 その2

今回についても、続けてしまった。昨晩同テーマにて書き終えたはいいものの、まだ脳内で燻るものがあった。また、日頃からツイッターなんかでネトウヨサヨクの無駄な攻防を見てて嫌気が差していたということもあり、以下のとおり懇々と吐き出していく所存である。

 

昨日の要旨としては「オタク」という人たちは徹底して好きなものがある人を指す言葉だ。なので、そうした愛好する対象物を守るという目的を政治に取り入れる行動を起こせる、そしてコミケなどを見ていると、組織体として行動する可能性も秘めている。その為、営利団体の利害という点に囚われずに自分達の権利の主張を行う「中間団体」の構成が可能であり、オタクという人種は日本において珍しいほど「デモクラシー」と相性のいい存在かもしれない。という話だった。

 

ちょっとそんな話を頭の片隅に置きつつ、別の話を進めていく。現在アメリカにおいて大統領候補を選ぶ各党内の選挙、いわゆる予備選挙が各地で行われている。民主党・共和党共にレースは熾烈を極め、様々な政治テーマの下で候補選びが行われているところだ。そうしたニュースを見る際に、ふと疑問に感じることはないだろうか。「候補はいいけど、なんで応援する人たちってこんなに熱狂してるんだろう」と。

 

日本人はせいぜい街頭演説などでの光景と言えば、妙齢の女性たちが候補に握手をしながら「頑張って下さい」と声をかけるのが関の山だろう。あの米国や欧州で見られる「Fuuuuuuuu」「Yeah!!!!!!!!」というような勢いと歓喜はなかなかわが国では見ることが出来ない。かなり前のこととなってしまったが2008年のオバマ当選演説の映像を今見てみても、その熱狂振りは圧倒される。

【大統領選挙】 2008/11/04 オバマ氏勝利演説 【字幕付き】 ‐ ニコニコ動画:GINZA

 

よくある話だが、なぜそこまでしてアメリカや欧州では、民衆がそこまで政治家に期待をするのか。学校の公民や世界史なんかで習う知識を思い返せば「歴史上、アメリカや欧州は古くから圧制に対して、民衆が革命等で抵抗し、自ら権利を勝ち取るという文化があるからだ」というような回答が浮かぶ。確かにその通りというか、まぁよくある疑問に対して、よくある回答だ。ただ、もっと端的に言えば、国民が「この国はこうするべきだ」と明確に考えている、ということだろう。だからこそ、その「こうすべき」を叶えようとする政治家は最早指導者であり、応援にも自然と熱が入る。そうでなくては、代議士の決定ごときにここまで騒ぎはしない。

 

そこで日本に目をやると、その熱量は殆どないと言って良い。社会に出ると教わるとおり、飲みの席において政治の話はタブーとされ、昨日のエントリで語ったが、様々な業界団体の利害が交錯する中では、個人の権利主張などあったものではない。また国会においても現在様々なスキャンダルから政権与党が叩かれており、政策議論以上にスキャンダル叩きの声が最も大きい。効率よく与党にダメージを与えるには、それしか方法がないということだろう。国民もそうした報道や中継を見て「政治」をディベートによる権力闘争としか捉えない。興味を失うのも当然のことだろう。

 

ただ、先にも言ったとおり、政治とは代議士同士の揶揄でなく、あくまで我々個人がこの国をどうしたいのか、この国における自身の幸福とは何かを考える過程そのものである。自分が幸福になるには、どういった政策が必要なのか。どのような法律が必要なのかを考えることである。どうもこの国には、それを面倒に思う節が強い。宗教観もその一端だが「自身の幸福」が非常に狭い範囲での利己的な生活を指し示す言葉にもなっている。そうであるからこそ「政治」=「公共の福祉」に興味が湧かないように感じる。

 

そこで今夜もようやくオタクという話が出てくる。先にも言ったとおり自分の好きなものを守る、同志の好きなものを守る。そうすると非常に上で言うところの「政治」に近い思想になる。自然と仲間がいるという発想を持つことで、思想にも公共性が生まれる。もともと個人で深く掘り下げるオタクだからこそ、その穴の中での出会いというのは大きな歓喜に繋がる。一人の「オタク文化を守るべきだ」という声が万人の声になる。これは近年、オタクの数が増加傾向にあることも後押しするだろうし、ひとつの政治的ムーブメントになる可能性もあり得る。

 

また、更に本来オタクの気質には「批判」と「遂行」というモノが備わっていると思う。ここで、2015年の夏に作成した同人誌「’00/25 Vol/4<オタクであること。>」のインタビュー記事の中で、おたっきぃ佐々木氏が言っていた話の要旨を一部抜粋したい。

 

「例えばアニメ版の「艦これ」一時、弓道の構えがなっていない、と製作側に細かい批判が殺到したっていう話。まぁネタとして批判するのはいいとしても、それが本気なら単純に製作側が萎縮するだけだよね。更に、批判したお前はそれを創る気概があるのかと聴くと、いや僕は作り手じゃないんで、みたいな逃げ方をする。それの何がオタクなんだと。」

 

この姿勢は、政治を語る上でも非常に重要な構えになると感じた。今現在、というよりこの国の性質として、何か問題が起こった際、周囲から揶揄し攻撃する事には非常に長けていると言える。マスコミの報道、野党の野次、そしてネット上におけるネトウヨサヨクの議論がまさにこれだ。延々と生産性のない揶揄を繰り返すだけなので、見ていて辟易するし、特段の意味をそこに見出せない。佐々木氏から出た本来的なオタクの姿、批評性と代替案の遂行。この二点こそ本質的な民主主義政治には最も重要な点であるし、元来オタクが本質的に備えている素養であると信じたい。であるからこそ、このようにオタクとデモクラシーの親和性を論じ、その将来に期待をぜひとも示したいと感じたのである。

 

そうはいっても、現在の日本及び国際情勢において難しい問題が山積していることはここで今更言うまでもない。それに対しての正解も、正直言えばないだろう。現在において正しそうに見える事すら、未来には失策と可能性も十分にある。これまでの歴史を見ていれば、そのような事は逆に自明の理である。ただ、先にも簡単に言ったが、政治とは全く人類が未経験である「この先」を考えるその過程である。その想像力と、妄想力、そしてそれを実行する力がオタクには備わっているかも、と感じこの文章をつらつらと並べてしまったまでだ。自分自身もここまで言ってしまった身である為、何かしら将来を思惟しつつ、考え事を続けようと思った。