わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

「イジリ」という麻痺

理由もないのにふと疲れ果てる。直接的な原因もなくメンタルが突如落ちる。最近どうもそんな傾向が強く、その原因をぼんやりと考えてた。そのひとつにどうも「イジられ麻痺」というモノがあるんじゃないかと引っかかった。なんだか、流すのも勿体無いので寝る前に簡単に書き残しておきたい。

 

もう「イジリ」という単語はすっかりお茶の間にも、世の中にも定着した言葉に思える。その意味を端的に言うなら「誰かを茶化して笑う」という行為だ。

 

その嘲笑的な性質上、よく「イジメ」と「イジリ」の境目なんて議論も持ち上がるわけだけど、その違いは「イジられている」側の意識と言えるだろう。つまり単に「笑われている」というより「笑いをとっている」という意識が芽生えたとき、周りからの罵倒は「イジリ」に昇華される。芸人が「気持ち悪い」などと罵倒され、それがエンタメになるという構図もまさにそれだ。芸人としては、自分の気持ち悪さをひとつの売りに仕事をしているわけで「イジられている=笑いを取っている」という構図が生まれ、それは商売にまでなっている。

 

また芸人に限らずとも、学校や会社、過去から様々な社会においてこの構図は存在する。「イジる」ことはコミュニケーションツールとして多大な効力を持っており、また「イジられる」側もその恩恵に授かる事が多い。集団生活の中で、いわゆる「キャラが立っている」ポジションを得ることが出来るわけだ。それはある種の居場所となり、人からの罵倒も当然ながら、冗談として受け入れることで交流が円滑に進んだりする。身に覚えがある人も多いことだろう。

 

ここで、そろそろ本題もとい自分自身の話に入っていく。僕自身も小学生の頃からイジられる側だった。最初それは、明らかにイジメだったけれども、ある時を境にもう自分を守るだけの単純な反駁を諦めた。それを上手い具合に言い返せば笑いになると気付いたのである。相手から言われても怒ることをやめ、言われるだけ言われても、あくまでプロレスとして上手い返しを考える。

 

当時の僕としては、イジメられっ子からイジられキャラへの大躍進だったと言える。何を言われてもムカっとくることもまずなくなったし、そもそも人からの罵倒など相手にとったら冗談の一種なのだ。真面目に取り合う必要もない。逆にせっかくイジってくれているのだから、笑いにまで昇華させなければ。そんな考えのまま今に至り、それから10数年たった今日も「死ね」「キモい」だったりを言われ、それなりに流しながら、また冗談を返しながら日々生活をしているわけだ。

 

しかしながら、どうも頭ではそれら罵倒語が冗談であり、単なるイジるための言葉だと分かっていても、心には淡々と累積しているらしいということに最近気がつく。自分自身、表情は笑っていても、なんだかモヤっとした気持ちだけが残っている。過去から言われ慣れてきた習慣でも、簡単に言葉が抜けなくなってくるのである。流そうとしても、言われた事が脳内で反芻されたりする。イジられているだけなのに。

 

そうしてしばらくすると、突如理由もなく恐怖心や虚無感に襲われる。当然、心療内科通いの身としては他の理由もあるのあだろうけど、その理由を考えた際に、冗談の罵倒語が抜けずに刺さり続け、臨界点を迎えるとポンっと破裂するようなイメージが浮かんだのであった。

 

あぁ、自分の中でイジられ、笑いを取っていると思っていたけれども、それら言葉が流しきれていなかったのだなと。ふと気付かされたのであった。

 

なんていうか「イジる」という言葉は便利である。人間の個性をキャラ付け出来、また罵倒語というモノを言う側も言われる側にもライトな存在に変換できる魔法の言葉のようだ。「キモい」と言う側は日常の会話レベルで、罵倒している事を意識することもない。その上、言われる側もまた、挨拶程度の気にするでもない程度に考えている。またSNSを始めインターネットが発達し、世界中でこれまで以上に複雑なコミュニティ形成がなされている。その中で、イジられるのは確かにおいしい。安定した居場所を構築できる数少ない手段であるからだ。

 

ただ、頭ではいわれた罵倒語を「イジられただけ」とそのように処理しても、内心でも綺麗に処理できているかは恐らく別問題である。ケース提示が自分の場合のみである為、それを断定することはここではしない。しかし、その発想を見直す必要はあると思った。自分のメンタルを管理する意味でも「イジられ麻痺」はその原因を見失わさせる。傷ついた自身の精神性を、自ら否定してしまう。それはひとつの強さと言えるかもしれないが、本当に「死ね」と言われた事を納得できているのか。自分として全うなコミュニケーションと捉える事が出来ているのか。

 

現代の情報過多社会の中では「スルー力」という言葉が幅を利かせる。相手に何を言われようと気にしない。反駁もしない。むしろネタとして考えて自分の笑いにまで昇華させる。大人としては正しく、またネットの世界でも正解とされている対応である。

 

しかしながら、そんな現代流の強さが、知らない間に自分の内心との乖離を起し、心身のバランスを崩させる原因にもなるのかもしれない。頭で考えている以上に、イジられている内心というものは、その言葉を、その文字列を、心象として残してしまっているように思った。暗い話ですみません。