わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

で、結局オタクは死んだの?死んでないの?

f:id:daizumi6315:20160912163216j:plain

結論から言っておくと「どう感じるかは人それぞれ」です。

 

「うわ、先に逃げやがって」とか「なんだよ煽っておいて」とか言われるかもしれないが、この議論は何十年も続いてる宗教論争であって「たまごとにわとり」の話同様にもう主張と反駁が自由に入り乱れる事は必至。つまり観点も価値観も異なる状況での「オタク」を巡る殴り合いは、お互いの貴重な人生の時間を無駄にするだけなので、先にクソリプは封じておくに限る。若い人は「は?」と思うかもだけど「オタク」と「おたく」の表記だけで、もう既に荒れるんだよこの話。怖いね。

 

じゃあなぜお前はこんな手垢がついた話をもう一度ほじくり返したのかと言えば、批評家としておなじみ、東浩紀氏の発言に関する下記まとめがある程度バズってたからである。

togetter.com

 

まぁ「東浩紀氏」「オタク」「時代が終わった」この3つが揃ったらやっぱし、色んな人が未だに反応するんだなと逆になんか安心した次第だ。そして先に書いた通り、この発言に関して「時代はおわってない!」「たしかに終わった!」とか言及している種々のツイートやコメントが散見された。

 

ただ、ここで面白いと感じたのは、それぞれの反応が比較的綺麗に分散していたという点である。同調から反発まで、つまりは「オタク」という存在に関して各々が抱えている定義、捉え方が一様じゃないということが改めて実感出来た。

 

そして、今回の記事ではこの東氏発言へのそれぞれのリアクションを類型化して、その類型によって人は「オタク像」をどう考えているのか。というのを逆に覗いてみたいと思ったのだ。

 

各人の発言の意図は推測ベースの為そこまでの深読みはできない。「当然じゃねえか」と感じる文脈もあるかもしれないが、とりあえず4つくらいに分けて考えてみよう。

 

反応①「確かにオタクの時代は終わった」(社会と自分対峙型)

東氏への同意である。社会感覚と自分の実感ベース、その双方から捉えれば東氏の「オタクの時代は終わった」という感慨も納得できるかもしれない。「シン・ゴジラ」「君の名は。」という2作が、社会全体として評価され、そのストーリーにはそれぞれ「社会からの承認」「パートナーとの成功」がきっちりと描かれる。それなのに紛いもなく「オタク作品」であった。

 

「オタク」という社会的階級、スクールカースト下層だった時代の救いを、オタクコンテンツに見出していた世代としては「あれ、こんだけオタク的文脈の作品なのに、オタクだけのモノじゃなくなった」というような所有感が消えた感覚も想像できる。東氏の「自分の人生に重ねて」という発言にもある通り、オタ的作品として高評価を与えてしまうクオリティだからこそ、それらが「僕らの方」だけを向いていない事にある種、喪失感というか時代の終焉を見たのではないだろうか。

 

反応②「勝手にオタクの時代を終わらせるな」(反発アイデンティティ型)

分かりやすい反発の例だ。これは自意識としての「オタク像」をしっかりと自分の中に抱えた人に強いだろう。あくまでも今、自分がオタクとしての意識をもっているわけで、今という時代に対して勝手に「終わり」と感じるとは何事だ、という至極全うな反発である。当然、東氏がその自意識を持っていないという話ではない。

 

上記のような「オタク作品がオタクの側を向かなくなった」的ノスタルジックな感慨に対して、あくまでも「オタクという自分のアイデンティティをどう考えるか」という問題意識のほうが強く働く。過去のロック音楽のように「一般常識」に対するアンチテーゼとして「オタク」という生き方を抱えている人も多い。他とは違った面白い事をすることこそ、一種のオタクらしさであると捉えている人は「時代は終わっていない」という意識を持っているように感じられる。

 

反応③「既に終わっていた・時代はいつか終わるものだろう」(時代推移輪廻型)

オタク・イズ・デッド」から早10年。それだけで十分に恐ろしいが、岡田斗司夫氏が「オタクの死亡」を宣言して当時も議論になっていたこの話。当然だが、比較的上の世代に感じる人が多いのではないだろうか。単純に「蒸し返すなよ」という反発感もあるだろうが、長い目で見ればオタク文化の流行変遷も数多くあった。

 

どの時代にもルーツとして「冒険」「美少女」「ロボ」といった分かりやすいアイコンは根底に残ってるかもしれないが、流行ジャンルの変遷の都度「その時代のオタクは死んでいたのだ」という感覚も伺えそうだ。特に、SF一辺倒な時代からロリコン美少女全盛の時代へ推移した際には、ひとつの時代の「死」を見ても不思議ではない。ただこの意見には理屈上「オタクに世代としての死は付き物」という感覚も付随することが可能だ。なので「時代の終焉は次の時代の始まり」という、輪廻的発想でオタクを捉える人もいるのかもしれない。

 

反応④「周囲の環境と関係なく愛好するのがオタクでは」(孤高カルマ型)

そもそもオタクの定義への疑問である。パッと見、②に比較的近いように感じるが、このケースでは②において反発対象となった「一般的な社会」は全く関係がなくなる。東氏が抱えていたような「社会における下層としてのオタク」という感覚はまったく必要でなく「人がなんと言おうが関係なく好きなモノを愛好する」人こそがオタクだという意見になる。

 

職人肌タイプとでも言おうか。元来から存在する「オタク」というイメージその通りの存在ではある。「好きなモノは好きだからしょうがない」というタイトルにもある通り、オタクとはカルマを背負った存在とも言える。外部環境に惑わされることなく、自分の「好き」を貫き通す。過去世に何をしたんだという話だが「オタク」とはそもそもが一人で完結するものであるという姿勢だ。これには反駁のしようもない。

 

 

 

独りよがりに考えたため、偏ってる感は否めない。ただ、こうして考えてみるとやはり各人がそれぞれの立場から主張を展開してしまう、ということが面白い。冒頭に書いた「オタク死んだ論=水掛け論」という話は多くの人が既に分かっていることである。それなのに、色んな「一言」が出てきてしまうこと自体に注目すべきだろう。

  

また先日、とある友人と話しをした際、彼が言っていたことがある。

 

「今の時代、オタクを定義するならば何を好きになるかではなく、どう好きであるか。という姿勢だと思う。」これは上記4つの立場を総括したような意見に思えた。

 

個人的な意見になってしまうのだが、東氏が感じた「時代の終わり」それは感慨として確かにそこに存在したものと思う。そして、内容として正しいものとも感じる。

 

ただ、言うならばそれはきっと「これまでのオタク作品の楽しみ方の終わり」であり、同時にきっと先の友人が言った「楽しむ姿勢」がより一層求められる時代が来ているのではないかと。そして、バカみたいに「オタクは死んだのか」という宗教的自我論争に一言我慢できず、何か投じちゃってる時点で、きっとオタクは死んでない。そんなことを思った月曜でした。