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わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

人に読まれる文章ってなんなのさ。

「そんなそもそも論というか、承認欲求丸出しな文章を投げるんじゃありません!」と品格あるネット論者から怒られそうなものだが、ふと疑問に思ったので愚痴交じりに淡々と書きだす。

 

コミティアへサークル参加したけど全然人が来なかった

今日は創作オンリー同人即売会コミティア118にサークルとして参加した。コミティアへのサークル参加は初めて。前回夏に一般参加してみたら「意外と評論ジャンルも盛況だなぁ」と感じたので、文章評論ジャンルの弊サークルも軽い気持ちで登録してみた。

 

いざ、がんばるぞいと張り切ってみたところ、いやぁ、さっぱり売れない。びっくりするくらい売れなかった。過去2番目の売れなさ。東方のギャグマンガを初めてコピ本で作った以来の暇さ。売り子の友人が買ってきた百合漫画を殆ど読んでしまった。レズ作品はやはり良いものだと再度実感するに至った。

 

その為、早々に切り上げてまだ閉会もしていない15時から門前仲町で友人と飲みだす。アルコール数杯で消える今日の売り上げ。そんな中、流石に反省しだす僕。まず新刊もない、また「コミティアってコミケと客層違うだろうから出してみるか」という参加の軽率さ、そして宣伝もツイッターで数回投げた程度。うん、まぁそりゃ来ないよなぁ、人。

 

「そんな、販売販売ってお前儲ける為に同人活動してるのかよ!」という面倒なツッコミもあるだろうが、売れたほうが嬉しいに決まっている。誰からもノーリアクションで「僕の表現が出来てるからいいんだ!」なんて言えるほどマゾヒズムに傾倒してないし、独善的にもなり得ない。表現は基本的に他者へ介入する行為だ。なので特に儲けたいとは思わないが、売りたいとは思う。むしろ、人に届くものをやはり作りたい。それはベースの感情として、プロアマ問わずモノづくり全般に携わる人にとって自然なことではないだろうか。

 

今回コミティアで滑ったのは仕方ない。イベントで同人誌が売れなかったというのは上記の反省含め種々要因があるので、また次に考えればよい。むしろ、コミティアに参加しなかったらありえなかった出会いもあり、その点では後悔していない。もっと自分も読まれるような文章を書かなくては。そんな気概を抱くに至った。

 

・じゃあ、何書けば売れるんだよ

ここまでで終われば、いい感じの意識的反省の表明、そして今後への目標つぶやきで終わるが、ここはそんな綺麗なブログではない。もっと汚い話をしよう。じゃあその「売れる同人誌」「読まれる文章」ってなんなんだ、という話だ。

 

もともとこのテーマには興味があって、色んな事をぼんやりと考えていた。人ってどんな文章を読みたがるのだろうか、と純粋に疑問に思っていたのである。きっとマーケティング会社の人なんかはプロ的回答を持っているのだろうけど、そんなことは気にしない個人ブログから、同人活動ツイッターを7年間もずるずると続けてきた、ずぶの素人の考えをただ漏らしていく。その条件は、紙かWebかでも変わってくる。

 

紙媒体の場合、読者が「読むべき文量」はWebのそれと比較すると遥かに多い。本を与えられて、一瞬で全ての文を読むことは難しい。では、内容でなく何が紙媒体の本を買うきっかけになるかといえば、その文章のテーマが自分の興味内にあるかどうかだ。文章内容以上に「企画」がてこになる。評論系の同人誌でいえば、テーマを絞り「この本はこのテーマについて書いています!」と一点集中させた方がより訴求力は先鋭化する。買い手としては「企画の新鮮さとブレなさ」で買ってみようという気持ちになる。その内容がいいかどうかは購入者の後の判断に委ねられる。まずは手に取らせる。言うまでもなく、そこが勝負となる。

 

こんな説明などせずとも、本屋などで決め打ちでなく本を買う感覚を考えれば容易に分かることだと思う。じゃあなぜお前それをしない。という問いかけは今、自分にしてる。してるのでちょっとそっとして欲しい。前向きに善処してみたい。NISAとかアドラー心理学とか勉強してみようと思う。

 

・「分かる!」と「分かってるよそんなん」の差異

むしろ文章の内容だけで精査されるのはWebの方だろう。記事次第だが、大概5分もあれば読める短文、そして即時的に分かるその評価。紙なら文章量の多さから「まぁ、こんなもんかな」と甘い評価になるところも、文章を読んだ瞬間の感情は激しい。炎上こわい。批判こわい。

 

そうなると、じゃあ炎上もせず批判もされず、読まれるにはどんな文章を書けばいいのん?という話になる。実感ベースだが、ツイッターやブログ等で「バズってる」話についてくるコメントやリプライは大抵「分かる!」だ。クソリプでもおなじみ「分かる!」だが、まずなぜ人はそんなに分かりたいのか。

 

「共感を呼んでいる」などとまとめサイトなどの字面でよく見るが、例えばコミュニケーションでも。共通の趣味の話題から他人と打ち解けるのはその表れなのかもしれない。自分と同じ意見を表してくれる、そして自分も同意すること、つまり共感をするというのは人としての基本的な欲求なのだろう。それを提供してくれる相手には好意を抱く。記事や発言が伸びるのも頷ける。

 

そうすると、次に思うのは「分かる」と「分かってる」の差異である。一見同じようなリアクションだが、前者は発見や感動、後者は既知と辟易という差が生まれる。お笑いで「あるあるネタ」がウケるかウケないかもこの差次第かと思われる。お笑いついでに「なぞかけ」を考えると分かりやすいかもしれない。一見、関係のない単語をならべ「その心は」と聞くと、共通するもじりを噺家が答える。この共通点の発見・提供は、人にとって先の同意欲求と同様、関係ないと思われた単語同士の失われたピースを埋めて共通理解を促す作業だ。つい同意したくなる。だから、その発見が緻密であればあるほど、人は上機嫌になり笑う。ブログ記事に共感が集まるのも、やってることは「なぞかけ」と等しい気がする。

 

・ここで気づいた「そんなん書けねえよ」という話

考えながら文章を書くのは良くないと徐々に気づき始める。「Webの文章でバズるには読者から新鮮な共感を得ればいいのだ!はい、どうぞ。」と書きだせる人間がいれば、即出版社や各メディアはオファーを出すべきだろう。

 

なぞかけの帝王、ねづっち擁するWコロンすら解散したというのにこんな一介のサラリーマンが何を言えるというのだろうか。正直、何が「共通項」としてネット層に受け入れられるのか分からないからこそ、好きな事を言えるというのはある。

 

今日、売り子を手伝ってくれた友人から「ベタな話なんだけど、売れるけど書きたくないテーマと、売れないけど書きたいテーマがあったらどっち選ぶ?」と聞かれ。いやぁ、普通にお金欲しいなぁと思って回答は前者にしたけど、確かに週刊誌とか既存メディアの紙媒体記事なら、先に挙げた通り売れる企画は選択できる。でも僕にはそんな権限も立場もない。僕が今書けるネットのいち記事の場合は、傾向はあれど何が「共感の網」にかかるかわからない。だから、毎度好き勝手いろいろ書いてるんだろうなぁ。知らないことはある意味で自由だ。とか変な感慨を得ながら、結局いつも通りの駄文を垂れ流しつつ、今日儲け損ねた分を月曜からの仕事で取り返したい。

 

同人活動も難しいよなぁ。はぁ。