わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

なんで空気なんか読まなきゃいけないの

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出展:Book on Book | AssistOn より アクリル製の本カバーですって。なんだかかわいいよね。

 

なんだかそんな気分なので結構、普通の話をしようと思う。

 

・空気を読むことで僕らは何を得てるのか

近年の日本人にとって「空気を読む」という言葉は完全に市民権を得たというか、もう定住したというか、いやむしろお隣さんとして毎朝でも挨拶するレベルというか。それほどに普通に耳にする言葉になってきたということだ。組織や社会の中である程度節度を保って行動していこうね、という文化は、こんな言葉が生まれる前から既に「和を以て貴しと為す」とか「出る杭打たれる」なんて言葉にも表れている通り、社会一般・集団生活を円滑に送る為の知恵として、この国ではなかなかに重要視されてきた価値観である。

 

それを現代風に言えば「空気を読む」ということなのだろう。言葉としてキャッチーだし広まったのも納得できる。ただ、どうも言葉の大綱は先ほどの「和を以て」と同じでも、そのニュアンスには変化が生じている感覚を抱く。どういうことかと言えば、数年前には「KY(空気読めない)」という言葉が流行語としてもてはやされたように、その「和」になじめない人を揶揄する、あるいは除外する感覚が「空気を読む」という言葉の前提にはある気がしてならない。

 

この社会になじめないおかしいヤツは排除されてしかるべき。ちょっとコミュニケーションに難がある人はちょっとね。などなど。宗教心以上に道徳心がしっかりと根付くこの国では、人に迷惑をかける事がとにもかくにも絶対的な悪として君臨しているように思える。確かに、誰もが不安を抱えることなく平穏な日々を送る為という意味では、有用な発想であることは否定できないし、頷ける。

 

・いや空気読んでるだけじゃ、失うものもあるよね

そんな反面。最近小生も日本語ラップを聴き始めたわけだが、最近『フリースタイルダンジョン』の効果もありスマッシュヒットとなったR-指定とDJ松永のユニット「Creepy nuts」の『たりないふたり』というEP盤がある。このアルバムのラストに入っている表題曲にはこんなパンチラインがある。

 

だってあいつら空気読みあいウェーイが飛び交いまともな脳みそない 」

 

空気を読むことで、その場の楽しさに迎合するだけのヤツらを斜に見るリリックだ。自分の意見も言えずに、烏合の衆と化すその風潮っていうのは、日本人なら誰もが自分や人に感じたりして、たまに嫌気が差すこともあるのではないかと思う。

 

余談だがこの前、本当に渋谷の居酒屋で飲んでる大学生たちが「山手線ゲーム」をしていた。もちろんというか想像の通り罰ゲームは一気飲み。そして飛び交うコールと「ウェーイ」の声。「あ、本当にこういう人たちいるんだ・・・」と八王子という都心より3度気温が低い山奥で大学時代をひっそり過ごした小生としては、ちょっとしたカルチャーショックを受けたりもしたわけだ。正直、例示としては極端ではあるが「ノリが悪いと場の空気が変な感じになる」というような飲み会的圧力を感じたことがある人の方が多いことだろう。

 

また、この「空気」の存在は国内だけに限った話でない。今回の米大統領選のトランプ氏の当選というのは、ひとつアメリカの中での「空気」に対する反感の結果ともいえる。あそこまで過激な発言を繰り返したトランプ氏が一定の支持を得るというのは、それ自体が「日頃思ってて言いたいけど、そんな事いっちゃダメだよね」「世界のリーダーたるアメリカとして節度を持って」とかそんな真面目ちゃんな空気に対するカウンターが、鬱屈としてた人たちに見事にハマったとも読める。どうしようもない閉塞感を抱くと人は「空気を読んでる場合じゃねえ」となる証左にも感じる。むしろ、暴言でもそれが打開策だ!みたいな捉え方の人が出てくるのも理解できる。

 

・誰のために「空気を読む」のか

それでは、社会にとって和を乱すKY勢が悪いのか、それとも空気を読むだけで考えも無いヤツらが悪いのか。そんな板挟みもいよいよ来るところまで来ているのが、日本始め現代社会のヤバいところのように感じている。そろそろ僕らは本来の「空気を読む」という事の本質を考えないと、それこそ中途半端な社会の空気を作ってしまう気がする・・・

 

ふと、ぼんやり遠大な考え事をしている折に日常の仕事において今回の記事を書くきっかけとなる出来事があった。業務中、突然会社でも上の上の上くらいの上長から呼び出された。普段そんなこともないのに、なんのこっちゃ。んー、怒られることしたっけなと面談ブースに顔を出してみるとこんなことを言われる。

 

「いやぁ、なんかお前のところの部署、空気悪い気がしてさ。大丈夫かなと思って。」

 

何の気ない一言でハッとする。あぁ、本当の空気を読むということはこういう事なんだなと改めて実感した。僕らは普通「空気を読む」という言葉を使う際、どちらかといえば自分を守っていることが多いのだ。気づいても素知らぬふりをする、何かを思っても言わない、とかく差し障りを作らない。まさに「出る杭打たれる」のを恐れるからこそ「空気を読む」ケースはおおいにある。

 

でも、そこに流れているダメな空気をしっかりと読んで、誰かの為に声をかける。アクションを起こす。これが本当の空気を読む目的なんだと、その時実感した。僕自身、その一言にかなり助けられたし、場の雰囲気に流れている文脈をちゃんと読める人がいるということに強い安心感を覚えた。エゴからでなく、誰かを気遣う為に空気を読む、それが一番今求められる「空気の読み方」なのではないかと強く思ったのである。

 

例えばちょっと大きな話にするが、児童虐待の現場だってそうだろう。大抵児童相談所が入ったところで親は否定する。しかし家庭に流れている明らかに悪い空気は存在している。学校のいじめだって同様だし、仕事内組織の不和でも結局根は同じだ。家族が、社会があるところ雰囲気があり、それを司る立場であれば即座にそれを読まなければならない。そして、保身でなしに。そこにいる人を救うために一言を発する。

 

今回、上司は何気ない一言を言ったつもりかもしれない。ただ、その空気が読めて、誰かに対して一言かけられるということは、そこに全くこれまでと違う空気を作り出す一助となる。少なくとも僕はそう感じた。

 

 

戦後以降、成長を止めた日本。そんな中で保身の為だけに、または事なかれを持続する為に、享楽的な今を失わない為に、そんな読み合いを続けているうちに、思わぬカウンターに足をすくわれるだろう。そろそろ、個人主義的に自分の場所を守るだけの空気の読みあいではなく、他者の為に空気を読む、そして行動するということを考える必要があるのかもしれない。