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わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

「嫌なヤツ」から逃げないこと

日曜も惰性のうちに過ぎ、一年のうちの22/365が終わろうとしている。こう書くと結構もう残りも少ない気がしてくるから不思議である。「365」がFGOのボス鯖のHPと仮定するなら「22」ダメージはそれなりに削っている感もある。

 

そんな中、ようやく今年1年の目標でも立ててみるかと脳内議会がこの週末を使って討論。その結論が出てきたので、内省がてらブログネタにでもしてみる。案の定、こっぱずかしい感じになってるので、サブカルはてぶユーザーを粘着してひたすら叩きたいだけの人は、ここはもう既にサンドバッグみたいなものだからスルーしてね。自分で殴りがいのある対象を探してね。

 

いや本来であれば本日、最高な演出と作画とキャストの演技で実質最終回を迎えた『魔法使いプリキュア』の1年振り返り記事や、ここで封切になったM・スコセッシ監督の『沈黙~サイレンス~』なんか観に行って感想なんか駄弁りたいのだけど、なんだかそのエネルギーもなく。タバコを吸いに入った地元の喫茶店でひたすら粘って、可愛いウエイトレスさんを眺めながら惚けつつ脳内会議を行ってきた。まぁ悪くない時間だった。

 

・「嫌な人とも付き合いなさい」

本題に入っていく。社会人生活5年ともなると、自社の会社説明会なんかにも人事から呼びだされ。先輩社員からのお言葉、みたいなコーナーで喋らされたりもする。こんなところで社会に対する憂さを堂々宣っているような人間に、社会人としての心得みたいなコメントを期待するほうが間違いである。ツイッターを見てみろ。と。社会人と思わしきアカウントは皆、日曜夜には嘆き、月曜日には血涙をながし、仕事に愚痴をただただ吐きながら日々を送っているだろうと。学生が社会人の心得を学ぶなら、それを見れば十分だと思う。

 

まぁ、そんな駄社会人たちの話は置いておいて。よく席上「社会人と学生の違いを教えてください」なんていうテンプレ質問に対して、企業人事もテンプレでこんな事を返す。「学生時代は好きな人とだけ付き合っていれば良かったかもしれないですが、社会人ではコミュニケーションも仕事となります。なので、苦手な人、嫌な人とも関係を構築せねばなりません。」

 

「学生時代でもバイトとか同期とかで嫌な人間関係あるだろうになぁ。」とか脳内で、どうでもいい反駁をしながら流し聞いているわけだけど、確かに正論ではある。嫌だったり苦手な人と付き合うというのはストレスが溜まる。しかし、それをしっかりと仕事と受け止めるのは必要な耐性だろうし、実際に身を振り返ってみてもそのような機会は多分に存在する。ビジネスパーソンたるもの、得意先や関係各社の方々とは平素よりお世話になって申し上げる所存だし、今後ともなにとぞ宜しくな関係性を作らなければ、仕事は成り立たないものなのである。

 

・本当に嫌なヤツは自分の中に沸いてくる

そして、ここまで前置きしたものの、今回の本筋はまた変わっていく。今回自分が思い描いた「嫌なヤツ」というのは他者との人間関係というより、自我の認識という話に近い。むしろ自分自身の中に存在する「嫌なヤツ」これと向き合う事が大切なのではと思うようになってきたという話だ。

 

どういうことかと言えば、例えばネット上やSNSなんかでも承認欲求や利益欲しさ丸出しにして、人への訴求を全開にしながら自分を売り込んでいる人を見るとする。それを見た僕は「必死だねぇ」などと思いながら冷ややかな目線をくべたりしている。やり方次第ではあるのだが、露骨なフォロー数稼ぎやリアクションを欲しがっている姿というのは、見ていてもあまり快いものではない。「面白い人、才能のある人には自然とフォロワーは生じるし、いちいち画策するのはダサい」と心のどこかで思っている。

 

しかしながら、今このように文章を書いていることや、コミケの度に同人誌を出したりと、そうした行為をとっていること自体、僕の冷ややかな目線の先にあったものと何が違うのだろうと気づいてきた。「俺が思ってた嫌なヤツ、むしろ俺やん」みたいな。むしろ他人からそう思われても全くおかしくない事を繰り返していたわけである。いやまあ、なんとなく分かっていたけど、新年だしそんなサブイことしてる嫌な自分に理性で正面からドーンと向かい合ってみた。

 

すると過去、音楽であれ絵であれスポーツであれ。その嫌な自分を避ける為「これ以上やっても太刀打ち出来ない」とか「冷めてきた」とか諸々理由をつけながら無自覚的に自分の行為の方にブレーキをかけることが多かった気がする。要は「センスもないのに努力してバカじゃないの」そのバカになりたくなかったので、徐々にブレーキをかける。ただ、それだけの話だった。

 

・理性からバカな自分を眺め続ける努力

これが、よくある話であることも分かっている。人生的に見れば賢い選択だとも思う。ただ、知識と実感には雲泥の差がある。ようやく無意識に行ってきたブレーキにこの歳になってちゃんと目を向けられるようになってきた。何かを気持ちの中から捨てる瞬間は、自分を、自分の批難から守っているわけで。

 

disってる他人の人間性を、自分も持っていると理解は出来るが、自覚をするのは思った以上に難易度が高い。「勘違いして才能がなくても続けるバカ」「大人にもなって青臭いこと言い続けるキモオタ」いずれも、なるべくならばそんな人間にはならないほうが、人生としては順調にいくだろう。自分の中でも、そうした人へdis心は持ち合わせているし、自虐もネタなら簡単に言える。

 

しかも、案外それを捨てる事も出来なくはない。過去の通り、要は辞めればいいのである。バカと思われるのが嫌なら発信もしなければいいし、ネットなんかにそもそも書き込むなという話である。バカと思われる事を積極的にアウトプットしているこの人格を、あるべき人生航路にいる自分は「嫌だ」と思う。つまりは理性とも言える。その理性は意外と賢くて、悩んでるふりをして結構、色んな事にかこつけてバカを排除するのだ。

 

正直、昨年。同人誌発刊も実際疲れたしやめようと思っていた。それも正解であろう。でも、ちょっとよくよく考えたらまた理性が暗躍している気がしたので理性の機能を止めてみた。まぁ、いつ辞めるも自由だしもう少し続けてみようと。嫌な自分を理性で捉えなおす。「はいはい、自己顕示欲乙」と理性フィルターで投げ出さずに、恥を忍んでまたブログや企画を書き出す。

 

まんまリスクだし、まんまバカなんだけど、そうしないと何も続かない。やめたところで、どうせまたネットを眺めては才能ある人に嫉妬してるのだろう。まぁ何か作る人をネットで遠巻きに見てるくらいが賢い、とも思うんだけども。あえて締め切りなんか設定して、文章泣きながら書いて、必死で入稿して。そんな苦労をわざわざしている嫌な自分と付き合わないと、その先の何かには達しないよなぁと思った。

 

実際考えれば仕事も一緒なのだ。「嫌な人とも付き合え」というのは案外そんなもので。経済は社会と同様、人との間に生まれるものだから、そこを逃げていると延々金は巡らない。ムカついても、苛ついても、やはりビジネスなのだ。本当に合わない人は居るもんだけど。

 

こんな独りよがりな内省を年始のうちにカマスのもどうかと思う。きっとCreepy Nutsの『悩む相談室』を聴きながら書いたからこんな事になってしまったのだ。先ほどツイッターでおススメされて聞いてみたけどやっぱ面白い。僕からもお借りして、おススメです。

 

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