わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

今朝、夢で見た話。

季節も変わり目。しばらく、色んなエネルギーが枯渇していて何もしたくなくなっていた。それでも、今日キングスーパーライブに行ったこと、FGOをようやくクリアしたこと、結構書きたいことが徐々にたまってきた気がする。

 

ただ、ちょっと今回は今朝見た夢があまりに鮮明だったので。その話をしようと思う。そもそも夢の出来事をはっきり覚えているということはあまり多くあるものではない。折角なので夢で見たことと、それについて考えたことを書き散らしていく。あまり内容がある話ではないので暇つぶし程度に。

 

 

ふと気づくと、昔からのTという友人が僕のアパートの部屋。その玄関前に立っている。彼とは小学校時代からの付き合いで、今は何年も会っていない。そうだ、忘れていた。久々に会う約束をしていたんだった。そんなアポイントの記憶がどこからともなく湧いてくる。

 

彼とは、小学生から中学時代まで学業を共にしたが、常に成績トップという秀才。全国模試でもランクインするほどである。有名大学に入りさぞ立派な就職先でも見つけるのだろうと思っていたら、バンド活動に専念した。中学時代、ギターを彼に教えたのは僕だ。何時間もストーンズビートルズ、クイーンやニルヴァーナ、尽きることのない音楽談義をした時間が蘇る。そうした意味では、ぼんやりとした罪悪感を彼に対しては抱いていた。たまに僕も彼のバンドのライブには顔を出してはいたが、現実はそう甘くなく。最近ではどうやら、そちらの活動も一息つけて、また一種違った職に就いて奮闘しているという知らせをどこかで聞いた。

 

久々にTと話ができる。今これを書き記しながら考えれば、旧友との語らい。本来であればリラックスした時間を過ごす事に期待を抱くべきなのだけど、彼を迎える僕の心は何かに緊張していた。どうも何かを覚悟していたような感じがする。

 

そして、ようやく彼は口を開く。すると謝りながら「アポイントの時間を少しずらしてほしい」と言う。わざわざ家まで来て律儀なものだが、夢なのだから仕方ない。自分も予定を確認するとその日(夢の中での感覚)は特段することもなく「また改めてくればいい」と僕は伝える。ただ、そういいつつ、多分「改めて」の機会はやってこないと思った。何故かは分からないけれど、彼とはそこでお別れになるということを知っていた。

 

すると藪から棒にTは「これからの時代、ソールドが大事だ」なんてことを言う。はて、ソールドとは何のことか。[Sold] 売れた、という単語が真っ先に浮かぶも、ここではなんら意味合いが合わない。表情が読み取れない彼の顔を眺めつつ、何のことか考えあぐねていたが、少しして僕はふと自然に「あぁ、Souledね」と「魂魄」の名詞[soul]の動詞形だと納得をした。冷静になれば[soul]という単語に本来動詞形などある筈がない。そんな造語も知らない。それにも関わらずさもこれまで聴いたことがある風に浮かんだのは不思議なことだった。彼は満足そうな顔をして「そうだ」と言った。そして当たり前のように「また来る」と続けたものの、次はない。そのことを、お互いにやはり分かっている。

 

 

僕の夢の記憶はそこで途切れる。ふと目を開ける。いつも通りアパート一階の底冷え甚だしい我が部屋の天井。充満している冷たい空気に身震いをさせ、布団に再度潜り込む。あまりに鮮明な夢に、違和感を感じ目を瞑りながら友人Tの言葉から連想される単語を反芻する。ソールド。魂。感化。人。まどろみながらも、そもそも[soul]という単語に動詞形が本当にあるのか気になってきた。こういう時、やはりインターネットは便利なものでiPhoneを取り出し、ブラウザを立ち上げる。[soul]と打ち込み辞書ツールを覗く。

 

結論から言えば動詞形はあった。[soul]は他動詞で「人に魂、心を賦与する」と言った意味合いである。ソールドはその[ed]だから「魂を与えられる」という事と捉えられる。さらに分詞の形容詞用法として「魂を持った~」という意味合いにも使える。ただ、冒頭に「あった」という書いているのは、現代は使われていない「廃れている」ことを指す[obsolete]という単語もセットでそこにあったからである。夢で見た過去にあった言葉。そのことに少しロマンを感じ始める。

 

どうやら[soul]の動詞形の出典は1913年版ウェブスター辞典から引っ張ってきているようだ。ウェブスター辞典と言えば、19世紀以降アメリカにおける英語の歴史が詰まっている英英辞典であり、今でも研究対象としても名高い辞典である。詳しい話は専門外なので置いておくことにするが、何はともあれ1913年の時点、そしてアメリカでは、何かしらの意味合いで「soul」が動詞形として使われていた事を意味する。それが文学なのか論評なのか、あるいは宗教的標語か。今では定かにはならないが、そうした言葉はあった。ということだけは確かだ。

 

夢の話から、飛びに飛んで今度は1913年のアメリカに思いを馳せる。調べればどうもFRB、アメリカの中央銀行の仕組みである連邦準備制度が出来上がった年だ。それ自体1907年の大規模恐慌の影響であり、金融システムが様々な利権の中調整を迎えていた時代である。そして翌年には第一次世界大戦が開戦する。直接アメリカにその影響が及ぶのはもう少し先の話ではあるが、金融システムの混乱、自国内での資本主義経済の行き詰まり、そして帝国主義的価値観が広まっている最中と考えると、なかなかに興味深い。

 

ひとつの言葉には、その時代の価値が詰まっていると思う。例えば一つの単語が生まれたのなら、それが世に求められていたのだろう。そして廃れたのなら、それは不要になったということで。その時代、確かに一度[souled]という単語が一部でも使われた時があった。それは「魂を持った」何かが求められたということではないだろうか。単なるシステムでは決してない、人としての在り方、矜持が求められたということではないだろうか。そんなのは、後の時代のましてや異邦人の勝手な妄想だとは分かっている。それでもその時代と言葉には密接な関係があると僕は思うし「魂」という意味が問い直させられるような、そんな時代だったのかなと。寝ぼけた頭で思ったりした。

 

気づけば、もう昼近く。まだまだ寝ぼけている頭に濃いめのコーヒーを入れ、少しずつ覚醒させる。なんでこんな遠大なことを考えてしまったのかと思い返す。果たして夢の中で友人のTが満足そうに僕に言った「これからソールドということが大事になる」とは、どういうことだったのだろうか。

 

個人としてあまり神秘的発想は信じない質なので、単語自体そもそも僕の無意識化にあったものだろうと考える。ただ、聞いた話では必要な記憶とそうでない記憶を整理する際、不要な記憶についての夢を見るという。その見た夢と一緒に要らないデータや考えを忘れる為である。PCで言えばデフラグみたいなものだろうか。しかしながら、今回のケースではその逆が起きたわけで。いわば記憶の逆流とでもいおうか。不要だと思っていたものが、印象的な友人の一言によって掘り起こされたのである。そんなことがあるのだろうか。

 

何か神秘的な意味をそこに求めれば、自分の身の回りのこと、社会のこと、世界情勢のこと、と様々な言いがかりをつけて語ることが出来る。しかし、それをする必要はないだろう。「この為に友人Tが教えてくれた」と喚くのはあまりにロマンティシズムに傾倒し過ぎて逆に野暮だし、暑苦しいことこの上ない。むしろ僕がその友人の立場だったら、ちょっと気持ち悪い。あくまでもただただ偶然に、掃除中棚から落ちてきた古い漫画のように、この言葉を取り扱おうと思った。

 

それでも、そうした偶然のちょっとした必要性に、いつか気づく機会があればいいななんて期待もしてしまうわけで。やらなきゃいけないことはたくさんあるのに、出てきた漫画を読見始めてしまい頭の片づけが一向に進まない。あいも変わらず言葉遊びが好きな自分に嫌気がさす、そんな日曜日の午前中でした。