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わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

豊洲市場問題の「安心と安全の違い」から考える僕らが望んでいるモノ

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©小学館 日本橋ヨヲコ少女ファイト①』

 

豊洲市場問題である。都議会の百条委員会において、先月19日いよいよ元都知事の石原氏まで召喚しての質疑が行われた。今日に至るまで、こうした経緯を経ながら小池知事から現築地市場を改修するという案まで再燃していたり、なかなかに紛糾している。その際の石原氏の発言から、今回の問題について感じたことを書いてみる。

www.nikkei.com

 

・「「安全」であるから「安心」する」「「安全」とするから「安心」する」の違い

僕がこの時の石原氏の発言を眺めていて、一番印象に残ったのは小池現知事を批判したこの一文である。

 

「安心と安全を混同し、専門家の意見を信用せず余計な税金を使っている」

 

特に引っかかるのは冒頭の「安心と安全の混同」という一言である。TV、ネット各所でもここについての議論は行われているわけだが個人的にも非常に面白いと感じたのでついつい考え事をしてしまった。多分だけど、石原氏が現役の政治家であったらこの発言は絶対にしないだろうなと思う。石原氏もわざわざ自分から「安心」と「安全」の定義を分離するということは、政治家として面倒な仕事を増やすだけだということを理解しているはずである。

 

何が言いたいかっていうと、普通人は「安全」だから「安心」するものだろう。事実としての「安全」という状況があり、住む上での「安心」が訪れる。しかし、その理屈を抱いていると基本的に「安全はイコール安心」となってくるし、むしろその逆も成り立ちやすい。「今、安心だから安全なのだ」と。

 

僕も今回、百条委でこのように言われるまで、分かっているつもりで頭から外れていたわけだが「安心」の前提たる「安全」である状況は、所詮人間が決めることである。科学的な「安全」という事実だけが厳然とそこにあるのではなく、その事実や数値を認知し「安全」と認定する専門家の存在がそこには不可欠となる。そして、その専門家の発言を都民や国民が信じるか否かは、もはや政治家のプレゼンテーションの力量にかかっているとも言える。石原氏の小池知事への批判というのは「安全という信仰対象を疑いすぎている」という話にも聞こえる。

 

今朝もNHKの『あさイチ』でこの豊洲市場の安全問題が取り上げられ、ベンゼンの健康基準数値について改めて専門家がしゃべっていたが、出演者はじめ視聴者もキョトンとする空気。何言ってるのか正直よくわからん。数値が低いに越したことはないんだろうけど、この数値よか低ければ発がん性もなくなる。知識がないものにとっては「なるほど、そうなのだろうな。」と思うほかない。

 

・日々、一秒一秒に何を「信じる」かという話

もうある程度手垢のついた話になってきていることは理解いただけたと思う。この話というのは、日常生活すべてに通じる話である。言ってしまえばデカルトが大昔に自分の存在すら疑い、人間の実在証明をしようとして、最後に残ったのが自我だけであるという「我思う故に我在り」のようである。

 

僕も最近三十路近くになってきたわけで、多少の運動でもなかなか体脂肪が落ちない。体回りも気になるため、日常的に特定健康保険食品である「特茶」を1日1本飲むようにしている。果たしてこれは効果があるんだろうか。続けて2週間ほどになるわけだが、うーん。多少の違いはある気がする・・・でもこれを飲むついでに日常的に運動をしようと心がけた成果なのでは・・・どちらにしろ、日々健康に気を遣うようになるんだったら飲むほうがいいよね。というように、もはやまるで「特茶」自体の効果とは離れたところで、継続している。

 

いろいろなデータが手に入るようになった現代だが、残念ながらそれが果たして自分の身体にどのような結果を及ぼしているか分かる術は持ち得ていない。余りあるビッグデータに対する処理が追い付いていないのである。そのデータを処理する専門家が必要だし、我々はどこかでその専門家の発言を信じる必要がある。そして専門家にとっても、経験していない未来のことはやはりわからない。その世界に精通していない一般庶民からすれば「おいおい、正しいこと言ってんのは誰なのさ」状態である。

 

じゃあ、こんな状況下我々は何を基準に判断を行っているのだろうか。端的に言えば、知識や経験がこれにあたるだろう。

 

具体的な例を出して見よう。美味しい飲食店を知るためには「まず情報がないところから足を運ぶ」あるいは「口コミ情報を集める」基本的にこの二種類しか方法はないだろう。前者は、リスクがより多く伴う。一度ではあるがまずい飯を食う羽目になるかもしれない。しかし後者でもリスクがないとは言えない。80%の人が「美味しい」といっても、自分は20%である可能性もある。本当に確実に成功する判断をしたいのであれば「過去経験した大勢の人が100%美味しいと言ったお店に行く」というパターンを選ぶしかないだろう。

 

ただ、そんな中今回の豊洲の問題で行われているのは「この店の料理の旨味成分の数値は規定値以上だから美味い」という専門家の分析を信じるか否か、という議論に近い。素人からすれば、うーん、わからん。なのだ。

 

豊洲論争はさながら宗教論争のよう

上記は飲食店の話だったが、基本的に豊洲市場の問題でも本質は変わらない。そして「過去経験した大勢の人が100%美味しいと言った店」なんて選択肢はまずないに等しい。安全と安心という問題には基本的にリスクと判断が結びついているという話も既に多くの場面でなされている討論だ。

 

その上で、僕らが望む解を答えるならば、コスパの良い判断だと言えるだろう。低リスクかつ高い安全性。そんな施策をしてほしい。しかし、上記の飲食店の話の通り結局のところ、これを明確に指し示す正解なんてないわけで。リスクを測る定規も、安全性を測る定規も。それを決めるのに喧々諤々の議論が必要となってしまう。そうであればあるほど、詭弁でもいいから明確な理屈が必要になる。要は納得感である。みんなが見て「あぁ、そうなんだね」と思うこと。これが結果安心となる。

 

石原氏の批判はこうして考えると、クリティカルにも見える。安全であること、安心をイコールで結びつけると答えのない迷宮に入り込む。どこかで線引きをしなければ、先へ進むこともままならない。その線引き作業こそが政治そのものだと言える。ただ、石原氏の意見にそのまま頷いていると、ふたを開けたらグダグダみたいな。今回のような問題となる可能性も否定できない。

 

嘘をつくならバレない嘘を、とはよく言ったもので。しかし今回、石原氏がこの発言をしたおかげで、最早論点は「専門家と呼ばれる人達は信用できるか」という身もふたもない話になってきている。市場がどう、とか経済効果がどう、とか付随する筈の様々な論点が外され、とことんその一点にのみ集中しているように感じる。

 

色んな事柄は付随する利益を伴って、総合的に判断されるのが常套である。しかし、時間が経過し、この安心安全という議論に集中したことで「信じるか否か」というさながら宗教裁判のような様相を呈している。僕らはこの行く末をよくよく観察した方が良いと思った。今後、技術発展が加速し世の中のスピードが速くなる中、法整備も含めてこのような「信じるか否か」というシンプルかつドロ沼な政治議論は増えるように感じる。原発の是非もこれに近いが、経済性が議論に登場する為、まだ利害の均衡という点にある程度の整合性が保たれると考えられる。

 

今回のような純粋な殴り合い議論は、ある意味一般的な市民が知識ベースではカバー出来ずに、感情論だけを戦わせてしまいがちなモデルケースとして重要な議題かもしれない。その結論をメディアの反応含めて見ていきたい。