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わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

桜が散る季節の考え事

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今年も早いもので桜が散る季節となってしまった。年が明けたと思ったらもう4月も中ごろ。今日は東京でも25度を超え、夏日とのこと。わかっていてもこの寒暖の差には身体もなかなかついていかず。疲れやすい日が続いている。

 

そんな後ろ向きな話はさておいて、今年は案外天候にも花にも恵まれ各所でも桜を見ることが出来た。その中でも驚いたのは写真も上げた目黒川。都内でも江東墨田などの下町に住んでいると、桜の名所といえばやはり千鳥ヶ淵や上野公園かと思っていたが、気づけば目黒川もその地位をしっかりと上げていたようで。10年前程の記憶では、目黒川はどちらかといえば「隠れた名所」ではなかっただろうか。ゆっくりと桜を見るには適したスポットという印象を持って、会社終わりに桜でも見ようと中目黒駅から電車を降りようものなら、人の群れのすごいこと。出店もにぎやかでもはや祭りの様相。酒を片手に数十分ほど花を楽しんだら早々に切り上げてしまった。都内住まいでも山の手の東で生活を終えていると、なかなか新宿より西側の感覚にも疎くなる。たまにはそちらに顔を出すのも悪くないと思えた。

 

今日ふと書き出したのは、その時の花見の様子ではなく。ちょうど今の時分の桜の木のことである。花が散り、葉がしっかりと見え出すようになっている。僕個人としては、この葉桜と言われるピンクと緑のコントラストが楽しめる、この季節の桜に何か魅力を感じてしまうのである。むしろ、満開の時の桃色がかった白が一面に広がる光景よりも、この中途半端な状態の桜のほうが良いと思えるほどだ。昔からうっすらとそんなことは思っていたのだけど、どうも歳を重ねるごとにその思いが強くなっているように思う。花を落とし、葉が育つ。その在り方を僕はどのように見ているのだろうかと、1週間前までは人でにぎわっていた地元の桜並木を通りながらそんな内省を抱いてしまったのである。

 

そんなことを考えていると、昔読んだ小林秀雄という思想家の話が頭をよぎる。確か『学生との対話』だったか『考えるヒント』だったか。とかくその内容はソメイヨシノをこき下ろす話だったように記憶している。本居宣長の「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」という句に触れ、この国の桜は古来からソメイヨシノではなく、山桜だったはずだと。本来桜は、花と葉が同時に見られるから美しいのであり、今の桜の代名詞となっているソメイヨシノには趣すら感じない。という内容だったはずだ。その後も諸々、戦中の意識や古来の日本文学における桜に触れながら、ソメイヨシノを論破していくのだけれども、確かにすべての桜が満開を同じくし、数週の命で散っていく。その姿に我々見ている側としてはロマンを感じるのだろうけども、その潔しとされる風潮にも短絡的な思考が見えなくもない。

 

言ってしまえば、ソメイヨシノは花の満開の為にそこにある。毎年それを楽しみにし、人が寄ってくる。都度その1週間ほどの時期の為に桜という木が存在しているかのように。なんというか、僕としてはこの時期は人間でいえば幼い若い時を重ねてしまう。自分の存在意義を全面に押し出し、それに対して周囲も期待をしてくれる。疑問も少なく、これからの将来は開かれたものと信じている。しかし人も徐々に気付き出す。自分の花もいつか散ること、その散った先には周囲と比較しても大差がないこと、むしろ劣っていたり、あるいはそれに妬みを抱くのかもしれない。皆んな将来の夢を聞かれ、例えばプロ野球選手や芸能人、CAや社長になれるというようなぼんやりとした夢が醒めていき、少しずつ自分が稀有な存在であるという思い込みを放棄せねばならない。そんな時期がくると嫌でも思い知る。

 

僕はこのように、人が成長し、徐々に思考が大人になり始める時期をこの桜の花が散る頃になぞらえてしまう。花が散ったあと、自分に残るのは葉と幹。もはや、草木に詳しくない人が見れば桜であるというアイデンティティすら失っている、ただの樹木と化す。春に見るからこそ桜と呼ばれるその木々は、花を失い本当の自分自身と向き合わなければなくなるわけだ。

 

僕は徐々に夏を前にして、葉と幹だけになっていく最後の花を見るのが好きなのだ。好きという言葉に語弊があるなら、つい応援してしまうのだ。自分も常に感じている、先々におけるこの身の振り方。歳をとり視野が広がったからこそ、自分の個性というものも相対的に均されていく。子供の頃の夢なんかどうに忘れ、社会人の1人として仕事に埋没していく日々。果たしてそんな思いすらあったのだろうかと、失っていく記憶の数々。

 

しかしながら、桜の花が散り、その葉と混ざる時を眺めると。僕自身もまた、いつかその咲いていた花のことを思い出し、ただの没個性の人間となったとしても耐え忍ぶ勇気をもらう事が出来る。その中でもまず生きるということを選択せよと言われるような気がする。山桜はそういう意味でも、夢のような花と醒めた葉を本来的に双方持ち続けるからこそ、小林秀雄も美しいと言うのかもしれない。

 

完全に僕自身のエゴだけでモノを言っているのは重々理解できるのだけど。どうもセンチな考え事が捗ってしまい、あまり意味もない言葉を吐き出した次第である。結局明るい話をするつもりがどこか毎度のごとく暗さが伴う結果となってしまった。桜の木は花が散っても桜の木である。その事を覚悟する季節こそが今であり、僕としてもそこからこれからの30代、40代という時分に対して向かい合っていかなくては、と教えられたような感情である。