わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

「クソリプ」に見る人間の可能性について

晩春も過ぎ、初夏の気候が続く今日この頃。そういや片頭痛に襲われる日も増え、そうなると梅雨が近づいてきた証拠である。そんな湿っぽい季節を前にまたもや根暗な考え事を懇々と書き溜めていく。

 

 

・「クソリプ」(を眺めるの)が好きだ。

クソリプ」とは詰まるところ「クソなリプライ」の略称であり、もともとはツイッターにおける会話返信機能「リプライ」において、わざわざ言うまでもないようなクソな返しを指してそう呼ぶようになった。簡単に言えば、発言主である相手に要らん事言ってしまうという現象だ。いわばコミュニケーションデブリとでも呼べるこの「不要な返信」は当然ながら今に始まった話ではなく、通常会話はもちろん、ネットでも昔から見受けられた現象だ。

 

しかし「クソリプ」と名が付けられたようにツイッターにおいて顕著にこの存在が取り上げられたのは、ここまでオープンなソーシャルメディアがかつてなかったからであろう。ツイッター上では誰でも、誰かの発言を覗くことが出来、そして言及も可能。ましてやその言及は、対面では会ったこともない発言主の端末にしっかりと通知され「ウザい」と感じさせることが出来る。すごい時代だ。受けたことのある人ならわかるだろうが、あの「誰なんだよお前」「そんなマジレス知らんわ」「返されたけど何のネタか分からん」という何とも言い難いモヤモヤとした憤りは解消も難しい。

 

そんな僕は、大量に拡散されたツイートに付いてくる有象無象のクソリプを眺めるのが趣味の一つになっている。自分でも性格がかなり歪んでいる気がする。でも「なんで人はクソリプをしてしまうのだろう」という問いが毎回興味深く、楽しいのである。(されるのは嫌だけど。)

 

とは言いつつ、様々に理由はあるだろう。「自分の知識を相手に示したい」「憧れの人に絡みたい」「嫌がらせしたい」「賛同の意を表したい」そういうカテゴライズを、日々「クソリプ」を眺めながらしているのだが、最近見た中で新鮮な一節があった。

 

「FF外から失礼します」というのはツイッターユーザーであれば馴染み深い言葉である。つまり「フォロー」「フォロワー」という相互に発言が見られる関係でないけれども、一言言わせて欲しい、というクソリプにおける決まり文句みたいなものである。今回見つけたのはその亜種で「TLから失礼します」というものだ。違和感が半端じゃない。恐らく、彼(あるいは彼女)が言いたかったのは「自分が見ているタイムライン上から失礼します」という事なのだろう。ただ、本人が見ているタイムラインなどリプライを受けた側からすれば知ったこっちゃないし、何の関係もない。とことん自分本位な立場から物申すその姿勢に、初夏らしい一種の爽快感すら覚えた。

 

そのように「相手のことを考えず自分の言いたいことを言っちゃう」この姿勢こそがクソリプの淵源であることは重々理解いただけたことと思う。ここで「どうだろうか」とか続けると内容の薄いまとめ記事みたいである。というかこんな文章読まずとも分かってるわボケという声も聞こえてくるので、そろそろ本題。この記事のタイトル「クソリプの可能性」という話に徐々に焦点を合わせていきたい。

 

・コミュニケーションにおける延命措置がクソリプを招く

僕が「クソリプ」を眺める事が好きな理由の一つにその「会話の想像できなさ」がある。言ってしまえばコミュニケーションは基本的にロジックによって成り立つ。例えば質問に対して人は簡単に答えられる。「そこに大きな木はありますか」という問いがなされれば「はい」か「いいえ」で答えればいい。次の質問や返答がなされない限り、本来会話はそこで一旦終了する。「クソリプ」における投げかけでは、そのロジックが引き延ばされねじ曲がっているのだ。

 

例として「そこに大きな木があります」という一見して完了されている文章があるとする。これに「クソリプ」を付けてみよう。カテゴリの一つ<知識誇示型>「大きな木がある」という点から「大きな木といえば日立のCMでも有名なモンキーポッドの」という自分からの提示を行いたくなるタイプ。<意識共有型>では「私も大きな木のそばにいます」と投げかけたくなるタイプ。<疑問提示型>は質問として会話を提供しているようで「あなたが大きいと思っているだけで他の場所と比較すると小さいのでは」という、相手の認識の土壌の引っぺがしにかかるタイプである。

 

他にも色々あるとは思うが、簡単に三類型からクソリプを見てみた。どれも完了している会話に「自我」を織り交ぜようとした結果、コミュニケーションの終点を無理やり引き延ばして、自分の方へ寄せようとしている。ただこれ、普段の会話ではよくある技法である。対面している人との会話が「大きな木があります」で終わってしまったら、関係もそこまでである。そこから想像力を働かせ、自分からの知識提供や疑問、共感を行うことでコミュニケーションを延命させるというのは逆にコミュ力のある発想といえる。

 

しかし、これをネット上ましてやツイッター上で行うと「誰だか知らない人が、終わらせた話を望んでもいないのに延命させにかかっている」という具合になる。対面と非対面において、また知人と非知人の間で同じことをしようとすると歪みが生じてしまうのである。本来完了された文章をいかにして引き延ばそうとするのか。またそれが会話のように自然にではなく、文面でくっきりと残ってしまう。ここにこそ「クソリプ」への新鮮な驚きがあるし、僕も知らない会話ロジックの発明があったりする。

 

・人間にしか出来ない「欲」が為すエラー

ここで徐々に考え始めたのが、最近普通の存在となってきたAI(人工知能)である。特にiOSに搭載されているSiriなどは顕著な例で、知りたいことを聞けばおおよそ答えてくれる。最近天気を知るには、自然にSiriを使うようになってきた。また更に質問の内容によっては気の利いた答えを話しだしたりと、なかなかにユーザーの心を捉える憎い演出が為されている。

 

こうしたAIが徐々に会話を独自のロジックで習得していき、人間との会話がスムーズに行えるようになったとしよう。果たして彼らAIと我々人間はどちらの方がよりコミュニケーションが上手いと考えるべきなのか。恐らく、流暢にそして無駄なくという意味ではAIに軍配が上がるだろう。現在は質問に対して明確な答えを用意するというレベルにとどまっているが、そのうち単語の意味から、空けるべき間合いや、方言すらマスターするのではないかと思う。例えば「法事」とか「死」という単語を認知し、その国々にマッチした形で喪に服すことだって学習できるかもしれない。

 

つまりはAIは空気すら読む存在にもなりかねないのである。知識においてはクラウドにつながっている彼らに勝てる余地はなく、更に「今は何を言うべきか」という「べき」「should」すら徐々に覚えていく事だろう。そうすれば、人間以上にスムーズな対話が可能になるのではないかというのは想像に難くない。人間は将来的にAIにチェスや囲碁だけでなくコミュニケーションすら勝てない存在となるのか。

 

ようやくここで「クソリプ」の話題に戻ってくる。先ほども見た通りクソリプの淵源には人間の「欲」がある。「言わないべき」という理性は働けど、「自分の知識を誇示したい、共感したい、相手を言い負かしたい」という欲も人間には存在する。そうした欲は、理性的な判断である「べき」を時に超えてしまう。ある意味で、AIからすれば「エラー」となる発言である。それでも人はその「エラー」を実行する力を持っている。「大きな木があります」という本来「はい、そうですか」としか返せないような会話にでも、無理に食って掛かる自我がある。遠くない将来を想像したときに、日々眺めている「クソリプ」というコミュニケーションデブリが、思わぬ形で人間固有の意思形成のあり方を感じさせてくれた、というのが今回の記事の本旨である。こうした欲によるヒューマンエラーこそが、人間に残された創造力の重要な部位になるのかなとか、ランニングしながら考えたり。

 

なんだか「失敗こそが魔法の継承の秘密」という『魔法陣グルグル』的な話になってきた感じもする。分からない人は面白いので是非読んでほしい。まぁ、そんな遠大な独り言を言ってみても日常においてクソリプ見てると「うわぁ、キッツいなぁ」としか思えないので、出来ればツイッターでは相手の気持ちを考えて、自分のオナニーを抑えてリプライを投げるようにしましょうね。