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『失敗の本質~日本軍の組織論的研究~』を読んで感じる宗教的思考の重要性

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夏コミ原稿中に読んでた本についての感想その2である。自分でも思った以上に頭の中に、いろんなことがたまっていたらしく、珍しく続けての日記を書いている。それにしても売れているらしい、この『失敗の本質』(中公文庫)。各書店大きいところはどこでも平積みだし、今回都議会選でも話題をかっさらった都知事の小池百合子氏が推してるという文句でも注目を集めている。

 

この本は日本軍がなぜ戦争に負けたのか。その理由を「なぜ戦争に至ってしまったのか」という歴史的経緯的理由を排して、あくまでも「戦略的・組織運営的」に分析したものだ。もとは80年代に発刊されたので、今考えると30年近く前の本である。それがいまだにビジネス書として共感を呼び、注目を集め続けるということは、まぁそれだけこの30年間を通して、いや、本書が扱っているのは戦時中の日本軍の挙動なのだから、少なくとも100年近く。本書が指摘する「日本の組織における失敗の本質」は未だに拭えていないというのが実情なのだろう。

 

・今の社会でも通じる「あるあるネタ」が詰まってる

上に書いた通りなのだが、この本が今になってもに売れているということは、日本軍が抱えていた問題が、現代社会における日常でも「あるある」と感じてしまうということを意味している。これまで僕自身、戦時下の歴史モノ書物は過度に専門的だったり情報に偏りがあったりと、ちょっと避けてきた節がある。しかし本書ではなるべくそうした恣意的な部分はなくすよう努められているし、フラットにその戦略のみを考える姿勢が初心者にも読みやすい。

 

そして、現在の版の表紙に掲げられている「破たんする組織の特徴」という文章で、本書の大枠は理解できてしまうのだが「トップからの指示があいまい」「大きな声は論理に勝る」「データ解析がご都合主義」「新しいかよりも、前例があるかが重要」といった例示が掲げられている。お勤め先によっては、ついつい頭を縦に振ってしまう企業人も多いのではないかと思われる。これら負の要素が、ノモンハン・ミッドウェー・ガダルカナルインパール・レイテ・沖縄という6つの作戦を通し、どのように垣間見えるかがこの本では示されている。

 

この本の最も秀逸なところは、これら日本軍の組織的弱点は、戦後社会の企業風土においても影を落としているのではないかという着眼点から研究がスタートしているところにある。そもそも日本軍という組織自体、明治大正期には勤め先としてもお堅い処というイメージがあり、組織統制もしっかりと機能していたという。つまり比較的平時や計画が通しやすかった頃には官僚的組織としてきっちり機能をしたということだ。しかしながら終戦期のような環境や状況が変化し当初の想定から外れた時、上記のような組織の機能は瓦解していった。

 

この戦時における環境や状況の大きな変化を現在の経済世界に当てはめるならそれは情報化社会の波であり、グローバル社会の到来と言える。またその日本組織瓦解の現代版モデルケースとしては東芝や松下といった大手電機メーカーが当てはまるのかもしれない。それについては『失敗の本質』をモチーフに書かれた大西康之氏の『東芝解体 電機メーカーが消える日』(講談社現代新書)が詳しいのでオススメしたい。いずれにせよ、未だに日本軍の組織風土がどこかで引き継がれており、本当に今の時代に適した組織作りは、この国において道半ばであることを痛感させられた。

 

帰納的考え方の根底にあるものとは

本書の中でも批判される日本軍の考え方の一つに帰納的発想がある。帰納法とは、その場その場の現実を踏まえて判断や目標を決定するというもので、オペレーションにおける柔軟性という面では分があるものの、戦略としては場当たり的になりやすく、かつ全体としての組織統制には向いていない発想である。つまるところ、戦争における明確な大目標(グランド・デザイン)が欠如していたという批判がなされているのである。

 

結局、この戦争は何をしたら勝ちなの?この戦いではどの点をクリアすればよいの?日本軍では陸海空軍それぞれの仮想敵国や理想とされる戦い方が異なり、空気を読みあった結果、中途半端な作戦目標が策定されたりした、という具合だ。確かに現場からしてみたら、自主性を尊重と言われたところで、何をすべきか各々が考えるのだから日本軍全般としての統率なんか取れるわけがない。今で言えば先輩から「自分で考えろ」と言われやってみたはいいものの、結果が伴わず怒られたりするアレに近い。つまりは、その場その場での各組織の利害、個人の感情が過度に強調され、結局根本的な「これをしたら我が国は勝ち!」という具体的な事案も明確になされないまま「大東亜共栄圏」というユートピア思想のみを掲げて戦ったというのが大きな敗因の一つであったのだろう。

 

では何故、そのような場当たり的帰納主義がはびこったのかと考えると、どうもこの国民性というか宗教性の薄さなような気がしてくる。そう言うと「当時は国家神道が」とかそういう反駁が聞こえてきそうだが、ここで言う宗教性というのは「信仰深い」ということでなく「自分の生の意味を問い直す」という営みが習慣として薄いのではないかという事を言いたい。

 

何が言いたいのかと言えば「自分はどのように生きていくのか」という自問をするカルチャーがないということだ。戦略も一種の哲学と相似している。「何をしたら勝ちなのか」を決めることは「自分の人生における幸福概念とは何か」を決めることと近しい。その営みは宗教的であると僕はそのように思う。そして、そうした「人生の目的を考える」宗教的な発想はその場その場での立ち回りを考える帰納的発想の逆を行く思考ではないだろうか。元来、この国の宗教観はやはり土着の発想として神仏習合という概念が存在するように、宗教そのものにも場当たり的措置が根付いている。人生にも、仕事にも。そうしたグランドデザインを作り出すこと自体、この国ではそもそも文化として薄いという自覚は、単なる組織論ハウツーとしてでなく、より根本的な部分で考えたほうがいい思想だと感じた。

 

・組織論として「個々が何をすべきかを考える」こと

ありきたりな結論ではあるものの、この表題のような事が頭を過ってしまう。個々で何をすべきか考えるって、それではさっき問題視した現場裁量と一緒では?という疑問はあるかもしれない。それでもやはり、まずは一人ひとりが「何をしたいのか」「何をすべきなのか」を考える事は重要なことである。そこをスタート地点とし、それらを共有あるいは練り合わせをして、大きな組織としての具体的な行先を決めるという事は、組織運用の中で基本的かつ最も重要なことであろう。

 

またそれを実行する上で、最近面白いニュースを見た。話は飛ぶが岐阜県の各務野高校という学校の野球部がNHKで特集されていた。近年実力をつけており、今年は甲子園出場も狙えるほどのチーム力だと言う。そのチームの特徴は「年功序列をなくした」ことだ。監督が現役時代「先輩に気を使い、何も言えなかった。そんな環境で練習してもあまり野球が上手くなったとは思えなかったので、真逆のことをやろうと思った」とコメントしている。試合のサインも下級生が出す。それを選手も首を振ったりしながら戦略を決める。その関係性に遠慮はない。各人が何をすべきなのかを表出させ、ぶつけ合い、試合に勝つという明確な目標に繋げている。特に印象的だったのは、練習中、不用意なプレーがあった場合に二年生や一年生が声をかけてプレーを止める。自分の意見を述べてまた、練習が再開する。

 

縦社会や官僚的組織において、最もありがちなデメリットは発言力のない人間が存在してしまうということだ。確かにどのような社会においても、本人の性格も含めて、そうした発言力の大きさに差異は生まれてくるだろう。しかし、その壁を限りなく低く、あるいは発散させやすい形にすることで「誰でも何かが言える」という風通しを作ることができる。そしてそれは「自分がその組織で何がしたいのか」という組織内での個々のグランドデザインを構築するきっかけになる。

 

どうしても、我々日本人というものは。友人家族でさえも普段の会話において当り障りのない会話が多かったりする。コミュニケーションを円滑に回すという意味では仕方のないことかもしれない。ただ、そこで。「人生における自分の在り方」だとか「生死について考えること」そういう宗教に近い営みを自分の中に持つという事が、または上の各務野高校のようなフラットな関係性を作り、そうした考えを表出させられるような関係性を誰かと持つということが、各個人の演繹的思考の一助となり、この国における組織の弱点のひとつを乗り越えるヒントになるんじゃないかなと、そんな事を考えてしまった。

 

長々と思った身勝手なことを書いてしまったが、まぁ、深夜の独り言ということで許してほしい。