わがはじ!

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企業の不祥事に抱く「安心感」

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日本企業の不祥事やらが相次いでいる。昨今賑わっているのは神戸製鋼のデータ改ざん問題。その少し前には日産の無資格検査問題、新国立競技場建設社員やNHK職員の過労死、時間を少し前に戻せばタカタのエアバッグリコール、東芝の会計不祥事、電通の社員過労死・・・

 

僕らはそれらを見たときに、どんな感情を抱くだろうか。モノづくり大国の洛陽、日本企業の失墜、栄華を誇った経済大国の成れの果て。各紙面には様々な見出しが躍る。またネット記事などには、そうした不祥事行為は職場の意思伝達不全が原因にあるのではと、管理職同士あるいは若手層とのコミュニケーションの問題をハウツー的に取り上げるメディアもある。

 

しかしながら、僕は、もしかすると同世代、更に同世代より少し上の人たちは。数々の企業不祥事事案から、不謹慎ながらどことなく「安心感」をそこに見出している気がする。そんな感情を、自分の中に見つけ出しこんな文章を書きだしてしまったというわけである。雨が降りやまない。そんなときに、薄暗い考え事を漏らしていく。

 

・「消費者を裏切る」前に、何を根拠に信頼をしていたのか

前々からも書いている事ではあるが、昭和から平成への移行期。その時代に生まれた世代は、青春期がまさに「失われた20年」にピッタリとマッチする世代だ。2000年代初期のITバブルや、まさに今「いざなぎ景気」を超えるという景気回復を実感として得ている層はごくわずかではないのだろうか。80~90年代にあったと言われるバブル経済という存在すら都市伝説のような気がして、そのうっすらとした残り香だけを感じながら幼少を過ごした世代である。

 

 

そのような目線から、昨今の企業における不祥事はどう見えるのか。正直に言ってしまえばごく「自然」なことのように思えてしまう。よくニュースなどで聞く、当該企業に対する「遺憾」というコメントだったり「消費者を裏切る行為」という批判は、確かにその通りなのかもしれない。だけれども、消費者だって労働者で、労働者もまた消費者なのだ。

 

まず「消費者を裏切る」という言葉が僕は嫌いだ。そこで働く人たちを突き放した言葉のように聞こえるからである。確かにその企業で不正が行われたかもしれない。ただ、企業という組織体が、社会から隔離された世界にあると信じ込んでいなければ「消費者を裏切る」という言葉は出てこない。「お客様は神様だ」という言葉も、顧客満足を優先するという意味合い以上に「労働や生産と消費は別世界のもの」という認識の植付けに感じる。そうはいっても所詮、企業体など、そこらの人の寄せ集めなのである。

 

 

確かに、消費者として購入する製品に不具合があるというのでは困る。でも、そのそもそも「裏切る」前にあった「製品への信頼」はどこから生じていたものだったのか、という話だ。消費者側の理屈を延々と推し進めていき、需要側が労働者としての自分の在り方を忘ていく。企業はもっと消費者に売る為に、より良い印象を与える為に。その半面、ここまでの品質を要望すれば生産側に無理がかかってくるのでは。この単価でこの製品が買えるということはどこかに負荷がかかっていないか。そんな疑問も湧いてくる筈だ。そこには徐々に、そして確実に、現実と欲望の軋轢が生じてくる。

 

こと好景気の時代においては、そうした疑問はそこまでフォーカスされない。「これから先は確実により良くなる」という希望はその時の不安や不満を感じさせない麻酔になる。この先の報いがあるからこそ、今の苦を乗り越えられる。しかし、好景気という存在自体が怪しい時代において、そういう行動原理は徐々に薄れていく。つまり、希望という麻酔が覚めてきた世代にとって「消費者の為に」という一心不乱さを伴う労働環境は歪なものにしか思えなかったりする。

 

・「不祥事」という本音

社会人ともなれば、基本的には建前同士で話し合い、仕事という共通の基盤の上でコミュニケーションをしながら経済活動を交わしていくものである。それは社内でも取引先であろうと、対消費者であろうと、そう差はない。そうした建前同士の連携から、企業の本音が漏れだす事態がいわゆる「不祥事」である。

 

実際は、こう言っていたけど出来ていませんでした。ここまでのクオリティを保つ為に社員に加重な労働を強いていました。それら暴かれた「本音」は「持続可能な経済成長」という中途半端なお題目しか聴かされていない世代にとって「まぁ、そうだよな」という納得に繋がってしまう。社会に出て働きだした身として、おそらく誰もがうっすらと感じているように、また目の前にしているように、至るところに「本音」と「建前」の軋轢は生じている。

 

川上から、川下から、それら要望は降り続き、また沸き続ける。特に昭和期から、その体面を保ってきた企業は大変である。当時の大らかな時代風土が社内に残っている反面、世の中は非常にデリケートなデータを扱うようになった。更に、周囲からの目線も当然「老舗」という厳しいレッテルが付く。時代が変わった中でも、成長期と同等に企業活動を続ける為には、確実に何か新しい事を組み込まなければならない局面が今という時代なのだ。

 

不祥事がこのように続くという事から、各種のメディアでも取り上げている通り企業単体の問題というより、社会風土の問題としても捉えることが出来る。そして、その社会全体に張り巡らされた建前で作られたガラスには、徐々にヒビが入り始めている。そしてこれから。いま以上に、各企業において様々な事が明るみになるのではないかと。いや、そもそも働いている人は、最早そのヒビの存在に気づいていることなのだろう。

 

・企業に人がいるという「安心感」を

僕はこの不祥事が続発する事態に対して「安心感」という印象を受けた。理由は上で述べてきたとおりである。「カスタマーファースト」という建前が色んな角度からたわみ始めていると、多くの人が気づいているか、そもそも実感しているのかもしれない。現に運送業のヤマトHDでは、残業未払い代を計上、後に値上げに踏み切ったという流れは不祥事ではなく前向きな事として捉えられている。企業は、そろそろ本音で商売すべき時代になってきているのだと感じる。

 

前に、amazonの当日配達サービスに対して「そこまでする必要はある?」と記事にしたことがあった。昨今の事情を鑑みれば「先進的」という言葉は「人間の欲求をどこまででもかなえてくれる」という意味合いではないと気づくはずだ。企業であるからには世間における心象は良くしたい。これまでは、サービスを提供することでそれを叶えた。しかし、今後その心象維持を実現するのは、今の企業における現状をつまびらかにする、その姿勢にあるのではないだろうか。

 

ある種、ツイッターのシャープ公式アカウントがここまでの支持を得ているというのはその在り方なのだろう。会社自体が苦境に喘いでいることは周知のとおりである。その中でも、身内ネタを織り交ぜながら企業に「人がいる」事をアピールすることは無駄ではないはずである。

 

あくまでも、労働者は消費者であり、消費者はまた労働者である。そして、労働者も消費者も人である。これまで企業に力のあった時代は、法人という牙城のような存在の中に、人がいることの想像力が失われていたといえる。むしろ経済成長著しい時期においては「労働」が価値に、成長に繋がるという確信があったから、それでも差し支えなかったはずだ。

 

しかし、昨今は結婚しても共働きが普通となり男も女も結局、企業の中にいる事となる。常に働く立場である人が増え続けるという事である。だからこそ、これまで以上に企業は人らしく。そして、一個人も企業に対する妄信や過信を改める時期に差し掛かっているのではないかと。消費者を綺麗なだけの建前で取り合う前に、お互いが本音で商売し合うべきなのではないかと。

 

そんな野暮なことを一人滔々と考えてしまった。