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『少女終末旅行』考察その②~『暇と退屈の倫理学』と併せて読む

 

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またもやである。

 

先日、比較的長々と『少女終末旅行』という作品について書いた。非常に良作であったし、その物語性は現代日本における「生き方」に対して鋭い示唆を与えているのでは。というようなニュアンスで文章を書いたばかりである。その際の記事は下記URLの通りだ。

www.wagahaji.com

 

そして今回。ふと書店で手にとった『暇と退屈の倫理学』という本を読んで再度、この作品について滔々と語りたくなってしまった。この本もやはり非常に面白かった。哲学者・國分功一郎氏が、自らの葛藤を通して現代人が抱く「退屈」という気分を見据え、人間らしく生きるとはどういうことなのかを、過去の偉大な先人たちの思想をチョイスしつつ、実践的に考えていくという内容である。

 

「人はなぜ「退屈」してしまうのだろう」という疑問から人間という存在を読み解くと『少女終末旅行』がより深い視座から楽しめる気がしてきたので、需要とかあまり気にせず書き出すことにする。『少女終末旅行』のあらすじ紹介は前回の記事で簡単にまとめた為、そちらを確認して欲しい。

 

・人生の意味を考えると「退屈」にぶつかる

簡単に『暇と退屈の倫理学』の触りから紹介しようと思う。本書は冒頭から「人間のみじめさ」について考え出す。そのみじめさとは一体何か。往々にして人は「人の生きる意味などなく、ただ退屈をしのぐこと」という事実から目を背けているだけなのではないか、という事だ。

 

本書でも引かれるパスカルが挙げた例示では「うさぎ狩りに出かけた人に、うさぎを献上すればきっと嫌な顔をすることだろう」つまり、狩猟が趣味の人にとって、目的はその獲物でなく「狩猟」という行為にある。ギャンブルが趣味の人も同様に、毎月少額の金額を贈与したところで、結局その人の求めるところではなかったりする。

 

また歴史家であり哲学者のバートランド・ラッセルが言うところによれば「20世紀初頭のヨーロッパの若者は完成された社会に生まれ不幸だ。それに対してアジアやロシアといった国に生まれた若者は、これから創造すべき世界がある分だけ幸福である。」という。

 

要は「自分には好きなことがある」「自分にはすべきことがある」こうした熱中すること、趣味や使命感を抱えた人は、本質的な「退屈」から遠ざかりたいだけであり、それによって「生きる意味がある」と自らを騙しているという。また、それだけ「退屈」は人間にとって酷く苦痛なもので、それを緩和するために、人は「何か興奮できること」を探してしまう。

 

それでは「退屈」を逃れるため、熱意を持てる「生きる意義」が見つかれば人間のこの深い悩みは解決かというと、そうでもなさそうである。昨今、宗教原理主義者が自らの命すら投げうって、その使命に殉じるという場面も、ある種こうした「退屈」の末の使命的心理状況の一端とも言える。様々な「退屈」という虚無と向かい合う事、考える事。これは現代人にとっての至上命題の一つであろうという問題提起から本書は進んでいく。

 

・「遊動生活」という視点から読む『少女終末旅行

そろそろ僕がなぜ、この本と『少女終末旅行』をバンドルさせたのかについて書いていく。上記の通り、人間は大きな思想上「退屈」という不安定さを得るに至る。しかし、人はいつから退屈を抱くようになったのか。『暇と退屈の倫理学』の2章ではいくつかの文献から人間の歴史の中で経験した二つの生活スタイル「遊動生活」と「定住生活」という視点を用意し「退屈」の起源を探る。

 

簡単に説明すれば、前者の「遊動生活」とは狩猟などによる原始的な生活で、同じところに留まることはせず、一族単位で少しずつ狩り場を変え、寒暖を凌ぎながら生活をしていく生き方。それに対して「定住生活」とは、ある程度決まった場所に生活の拠点を定め、食料の確保についても農耕といった「生産」を開始した状態である。

 

僕らはどうしても、人間の進化の過程というのは、常に改善しているものだと想像する。この遊動から定住へ、という流れも「農耕というノウハウを学んだ結果、狩猟よりも安定性の高い食料生産へ進歩を果たし、定住を選択した」という理解が多いことだろう。しかし、本当にそうなのだろうか。農耕も、時間はかかり天候リスクもあった手法である。それを「選択せざるを得なかった」としたら。その根拠等は本書を是非読んでいただきたいのだが、種々の説から「遊動生活に向いていた人間にとって、定住生活は強いられた」のではという提示が行われる。

 

そして『少女終末旅行』を思い出してほしい。本作において主人公のチトとユーリが営んでいるのは「遊動生活」である。日々食料を、寝泊まりする場所を探し、敵の存在を警戒しながらも、死んだ都市を闊歩する。『暇と退屈の倫理学』の中で「遊動生活」によって、人は大脳をより発達させたとある。つまり人は「遊動生活」下での、猛獣が潜んでいるかもしれない状況でよ周囲への注意力や、天候に対する敏感な察知力によって、人の脳は他の動物より発達を遂げたと考えられている。

 

逆に言えば「定住生活」に入った人間にとって、必然的に日々の生活で大脳の機能を活かしきれず、思考の余裕、つまりは「退屈」が生じる。また定住生活をする上でコミュニティが生じ、そして退屈の中で生きる意味の模索、つまり宗教が生まれ、土器にあしらわれたような装飾、要は芸術が生じる。まさに今の我々の文明と呼ばれる姿の起源と言える。

 

何が言いたいのかと言えば『少女終末旅行』における、チトとユーリの終わりなき旅。僕は前回の記事で「絶望的ではあるが、1日1日を自らが創造する生き方」と書いた。詰まるところ、それは「定住生活」という文明すら通過し「遊動生活」に帰った人間の姿ではないだろうかということだ。

 

「定住生活」に浸りきった我々はどうしても物語の最後には「安定した生活」か「やり遂げた死」を求めがちである。この『少女終末旅行』は完結しており、最終話には様々な感想が見られた。僕も含めある意味で「切ないエンディング」ともとらえられてしまう意見もちらほら見られた。

 

しかしながら、それは現在我々が「定住生活」によって得た「希望」の形であり『暇と~』の中で批判される「定住主義」に染まった考えと言わざるを得ない。漫画やアニメを通して感じられる、チトとユーリの「退屈」があまり感じられない不思議な世界観は、日々「遊動」しながら新鮮なモノを探し、見るからこそ生じている感情なのだと素直に、この物語を受け入れる事が出来た。

 

前回書いた通り「末永く幸せに暮らしました」でなく「遊動しながら最期を迎える」というストーリーは、これからの物語性に対して大きな提示を行っているように感じる。

 

・僕らが「終末」から乗り越えるべき退屈の連鎖

もう少し踏み込んでいく。『少女終末旅行』において、僕らが考えるべきテーマというのは、チトとユーリの二人の生き方だけではない。その背景たる失われた文明についてだ。

 

以上見てきた通り、チトとユーリの旅はさながら「ポスト定住主義」の世界であると言える。定住生活の「限界」が何かしらかの姿で出現した世界。つくみず氏はチトとユーリの旅から逆説的に「消えた文明」も描いている。戦争によって打ち捨てられた多重に折り重なった都市。僕らはこれをどう読み解くべきなのだろうか。これを「退屈」の思想に絡めながら、考えてみたい。

 

『暇と退屈の倫理学』では終盤、ハイデッガーの「退屈の三分類」を主幹に置き、それぞれ「退屈」の定義を丁寧に紐解いていく。(簡単な説明のため、僕のミスリードの可能性もある)

 

第一形式の退屈は「強いられる」退屈、例えば日常的な強いられた労働。そうした「思考」によらない時間的支配を抱えている状態である。第二形式の退屈は、そうした仕事に対する気晴らしの中「娯楽はあるが感じてしまう」退屈という状態。例えば、日頃の飲み会で感じる虚脱感だったり、どこか興奮要素にかけ退屈を感じるような感慨と言える。

 

そして第三形式の退屈は「根本的な退屈」冒頭に掲げたような人間が本来的に持っている、本質的な虚無にあたる。ハイデッガーによれば「動物は生きる為のルーティンを日々継続しているだけで、退屈は感じないはずだ。」とした。そして第三形質の本質的な退屈とは裏を返せば「人間ならではの自由」であり、そこから脱出するためには「決断することだ」と書いている。

 

頷けそうなものだが、しかし、國分氏は反駁する。「第一形式において人間は日常の仕事の奴隷となっている。しかしながらその人間は、もしかしたらその仕事を決断によって選び取ったかもしれないのだ」と言う。つまるところ「決断」とは退屈の第一形式における「思考なき状態」への第一歩であり、実は第一形式と第三形式の退屈は同じ土俵の上に存在し、双方「退屈を乗り越える」という思考から逃避しているに過ぎないというのだ。

 

第三形式の退屈とは虚無主義に近い。人は本質的に退屈を抱える。そこから脱出する為には何か事を為さねばならない。そして決断を迫られる。そこには、ある種の危険思想の影が見え隠れするように僕は思う。ケッテンクラートを操り、気ままに遊動生活を送る二人。その裏で遠い過去に破綻した定住生活者の抱えていた「退屈」は、今の僕らのリアルにまで踏み込んでくるように感じる。

 

いささか誇大妄想の感も否めないのだが『少女終末旅行』自体、思考実験に近い。作中で「古代文明」と呼ばれるのは、間違いなく我々が送っている「定住生活」である。そしてその「古代文明」こそ現代であり、國分氏が本書で指摘する「退屈」と「虚無」の巣窟である。上記に掲げた「虚無的退屈を壊すための思考停止」という第一形式と第三形式の退屈のらせん構造的リンケージが、あの折り重なった都市という「使えなくなったら次を創造する」といういわゆる終末思想の末路のように映ってしまう。

 

現代私たちの感じている、ぼんやりとした不安。それこそ、日常に横たわる第一形式の退屈であり、そしてそれが先鋭化された極致である第三形式の退屈。また、それを打ち砕こうとする決断を抱いた人々。それは呼び方を変えれば「国粋主義者」や「自国優先主義者」あるいは「原点主義者」というドラスティックな「決断」に溢れた人たちの存在なのかもしれない。

 

國分氏は最後に、人間らしく生きるためと銘打って、退屈を乗り越える希望として、上記の第二形式の退屈についてまた書き出す。なぜハイデッガーは「パーティ」という気晴らしに退屈を感じてしまったのか。いや、確かに我々も飲み会などで、ふと感じる虚脱感は理解出来る。しかしながら、我々はそうした目の前の細かな事に対して、いかに楽しみを見出すか。それが案外重要なのではないか。と説く。

 

例えば、料理一つや酒の味にしても。それが逸品であろうと舌が肥えてなければまるで楽しむことが出来ない。芸術にしてもそうだし、会話一つにしても同様だ。第二形式、気晴らしの中でも我々は確かに退屈を感じる事がある。ただ、それは「楽しむこと」を学ぶ事によって乗り越えられ、そして人生を豊かにする方策ではないかと、国分氏は書いているように思える。

 

少女終末旅行』においても。アニメ版に「音楽」という秀逸なエピソードがある。『雨だれの歌』という名曲を残した神回だ。そこでは、雨だれが生み出すちょっとしたリズム。ちょっとしたノイズ。それらが共鳴しだすと、なんだか楽しい。それは過去の文明人が楽しんだ「音楽」という文化になることをチトとユーリは学んでいく。

 

そこに新たな喜びを、彼女たちは見出していく。正直何もない世界を歩むということは「強いられた」退屈かもしれない。しかしながら、ちょっとした気晴らしを少しずつ重ねながら、彼女たちは明確に小さな「楽しむこと」を積み重ねる。そして最終話のシーンにおいて「生きてて楽しかった」と生を謳歌しきったユーリの言葉には、やはり胸を詰まらせてしまった。

 

僕らは娯楽が氾濫しすぎた世界に生きている。國分氏が記す通り、何もかも消費可能であり、そして結局満たされることはない。

 

彼女たちの「遊動生活」というあり方は、モノは少ないけれども、人間にとって適合性の高い生活基盤の上で「退屈」を、日々の発見によって乗り越える、一つ一つの過程そのもののように見えた。今回の『暇と退屈の倫理学』を読みながら、再度『少女終末旅行』を読んでみて発見できた読み方である。ということで、誰が読むのかわからんけれども。長々とそんな感慨でした。いや、ほんとに長くなってしまった。

 

毎度言うけど、どちらも本当に面白いのでお勧めです。