わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

春はメンヘラようよう白くなりゆく頭が

ということで、ここのところめっきり暖かくなり。あれだけ寒い寒いと言っていたのがウソのように昨日は20度を超える気温となった。少しずつ身に纏う衣類も軽くなり、一般的には「いい季節になったね」とか「ようやく寒い冬を越せたね」なんて会話がなされるのだろうけど、いかんせんメンタル弱者な人間にとって、春という季節はあまり歓迎すべきものでなかったりもする。

 

「季節の変わり目には体調を崩しやすい」なんてことをよく聞くが、まったくその通りで。春は特に「ずっと変わり目」みたいな気候が続く。激しい気候の変動や気温の乱高下に気圧の変化。そして社会的にも立場や環境に大きな変化が加われば、なかなか穏やかなそのイメージ以上に攻撃的な性質を持つ季節なのである。今回はそんな「案外メンタルをやられやすい季節」である春に対抗するため、僕自身がこれまでメンタル保全のため、日々実践していたりすることを忘備録ついでに、根暗全開、書いてみようと思った。

 

・春はゴールとスタートが同居する落とし穴

春が嫌いになったのは高校入学の頃だ。学業にも精を出し志望校に入学、なんなら甲子園出場経験のある強豪野球部のセレクションにも合格し、意気揚々と高校入学を迎えた。たぶん、真っ当な意味での人生の頂点がそこにあったような気がする。

 

まぁ、こんな書き出しってことで大方想像がつくと思うが、案の定野球部でのレベル差だったり、あとは友人関係だったり周囲の環境だったり。そんなことが積み重なって、春早々から教室に向かえずしばらく保健室登校となる。結局硬式野球部は退部し、療養みたいな学校生活をしばらく送った。よくある話だが、それまで中学時代における努力のゴールは「高校入学」に設定されており、実際新生活のスタートを切った時にはエネルギーが枯渇してしまったという具合である。

 

その後も、それを契機に何だか人が無性に怖くなったり、今で思えばパニック障害やら不安神経症やらを抱え電車にすら乗れない時期もあった。そして、やはりその「躓き」の根本の季節は春である。毎年、この暖かくなる時期というのは嫌なもので。この独特な季節の空気や臭い、雰囲気に大きく気分が左右され悩んでいたわけだ。

 

その頃から既にメンタルクリニックへは通うようになる。よく行く人なら分かるかもしれないが、身構えるのは最初だけで行き慣れてしまえばなんという所ではない。何か所か通ったが、案外さっぱりと「最近どうよ」みたいな話から始まり、10分程度で結局「お薬また出しときますね」という感じでお開きになる。確かに飲んでいる薬の副作用などを確認するなど、医者に罹る重要な意義もあるのだが、そこで当人の「メンヘラ気質」が治るかと言えば「否」だと僕は思う。

 

当然、それは心療内科メンタルクリニックの価値を貶めるものではない。鬱や統合失調症といった「治癒」が必要なケースは確実に生活面からの医師によるアドバイスは不可欠だし、医師が行う処方箋も対処としては大きな部分を占める。また、カウンセリングを中心にした診療所も存在するので、精神疾患の場合「精神科」と一言にいっても、それぞれの状況や場面に適した医療機関を使い分けるのが正解だろう。

 

しかしながら、最終的に治癒を行い「生活」に戻った際。やはり「落ちやすい」思考の癖は残るケースが多い。そんな時、自助努力というか「自分の性格や精神状況に、どのような傾向性があるのか」を自ら把握すべきではないか、というのが僕の結論だ。「酷くなる前に無理をしないこと」「この脱力感は自分のせいでなく季節によるもの」「この傾向は確実に落ちる前兆」といった判断や予防をまず自分が行えるようになるだけで、かなり気持ちは楽になる気がする。

 

・「書く」ことでようやく分かってきた自分の傾向性

今、僕はこのように、誰に読まれる訳でもなく延々とブログに文章を書いたりしている。周囲からは「文字を書くのが好きなんだね」なんて言われることがある。それについて特段否定する気持ちはないものの、振り返ればただただその時の感情を「書かざるを得なかった」というのが本音だ。その時の落ち込んだ気分、もうこれ以上ないほどの絶望感。それらを誰に言えるわけでもなく、吐き出す場所もなかったので、ただただ書き続けた。これ以上ないほど根暗である。

 

今でも、そのいろんな意味で「真っ黒」なノートは手元に数冊残っている。たまに見返すとなんとも言えない気持ちになる。過去の自分の痛すぎる文章を見て「こいつ今にも死にそうだな」と笑いながら思うし、そしてそれを他人事のように読んでいるのは、今生きている自分自身だ。そして、冒頭にも書いた通り今でも日々の生活の中でメンタルは落ちる。そして、またそれを書き留める。

 

 

当たり前だが毎年、春は訪れる。そして先述の通り毎年の如く程度の差こそあれ「病む」のだ。そして、その時の内省を書き留めているうち、徐々にそれが「定例」であることに気づいてくる。結構「落ちる」時期は毎年近いもので、更に言ってしまえば、書き出す言葉も悩みも往々にして同じ。「三つ子の魂百まで」とはよくいったもので、人間の思考なんて、突如大きな価値変革がない限り、歳をとっても同じところを堂々巡りしているだけだったりする。

 

僕自身、たまにそんな経験から友人のメンタルの相談などを受けたりする機会があると、その「負の感情」を書き留めることをまず勧める。誰が読むわけでもない文章を、ただただひたすら書き続ける。スッキリするまで、自分が何を考えているのか分かるようになるまで書く。

 

そういった「落ちているとき」自分が何を考えているのかを書くメリットは、自分の考えを文字で読めるようになる、ということだ。「書いてから読む」行為は脳内で「考える」行為と同じように思えるが、文字を読むこと自体、情報を「他者」として見る行為になる。そうすると思ったより自分の状態を客観視出来る。客観視できると「対策」が見えてくる。そして、その「対策」を抑えることこそ、自分自身を知ること、そしてその自らのメンタルのコントロールの手綱を握る事に他ならないと思う。

 

ここで書いていることはあくまでも僕個人の主観的な経験則に基づいた話であり、一様にメンタル保全にこの方法が向いているかどうかは保証しかねる。しかしながら、これまでの経験則ではかなり有用だと思っている。だって、本当に「人生どうでもいい」と思ってる時って冷静になれないし、誰の言葉を聞いたところで耳朶に入ってこなかったりする。ただ、自分が過去に全く同じ感情を抱いていたと知ると、結構冷静さが戻ってくるものだ。「あぁ、またやってんだ、俺」みたいな。

 

・現代人は複雑なマルチタスクの渦中にある

最後に締めとして個人的な話に戻っていく。もしかしたら、自分だけが感じていることではないのかもしれない。

 

「忙しいと病まない」というのは一般的にもよく聞く話だ。当然、熱中すべき事柄があり、余計な考え事が差し挟まれない状況というのは、人間にとって恐らく幸せな状況なのだろう。その反面。暇は人の精神を蝕みやすい。何かすべきことがない。熱中が出来ない。仕事はあれども価値を見出せない。何かに傾倒する意味が分からない。そうした「そもそも」を考える余裕のある状態は、精神的に隙を生む。そうした隙間こそが、往々にして自己否定の温床となる。

 

じゃあ「そんな隙間を作らず忙しい毎日を送れ」というのが解だろうか。確かに何かに熱中をすることは日々を充実させるのには正しい方策だ。しかしながら、そんな事は自分含めて分かっている。「その熱中すること自体」が大きな課題なのである。

 

その自分の人生を考え出す隙間の存在「暇」。それは人がここまで文明を進歩させた結果得られた、ある意味での「贅沢品」である。但し、その贅沢には条件が伴っている。それこそが「何をするか自ら選択する」という義務である。先ほど挙げた例を使って分かりやすく言えば「何に熱中するのか」という事である。それほど集中できる事柄がなかったとしても、現代人は、自らに価値を見出す為それなりに人生を費やす対象を見つけなければならない。

 

そして、その人生を費やす対象として趣味や仕事、結婚など様々な人生の選択肢を持っている時点で、非常に複雑な「マルチタスク」を抱えている状況と酷似している。何から手を付けていいのか。いや、そもそも何がしたいのか。日々の生活に追われ、実際の「暇」がないように思えても「個人の自由」が保証されている社会というのは、その時点で、心の隙間ができやすい状況であると自覚したほうがいいのかもしれない。

 

結局結論はまた戻っていくのだけれども。そうした人生全般の悩みに対しても、僕自身は書くことを処方箋にしている。今自分の状況を捉えるため。今の自分を客観視するため。すぐ自己否定する自分の本心を知るため。どん詰まりの絶望を感じた人生の打開策を探るため。そして、またそれを読み返す。それを繰り返すうち、自分自身が前に苦闘をした場所よりも。少しずつでもどこかに進んでいることが分かるということは、結果かなり自分を助けることに繋がっている。

 

 

春は根暗がより跋扈する季節である。徒然書いたつもりがやはり根性丸出しの内省日記となってしまった。こんな事書きながら、やはりまた悩みは絶えず、煩悩に左右され。日々精進を欠かさずと思ったところでネット上のエロ画像を漁っては布団にもぐり、仕事を疎む疎む。

 

ということで皆様方におかれましては、こんな場末の文章を反面教師にしつつ、より健やかな春を迎えられますよう。