わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

「道徳」の罠

年度末も年度末。本当に毎年1~3月というのは雲散霧消するかの如く、気づいたら終わっている。東京などでは、桜前線もそんな季節にせかされたように咲き、そして今週末には散ってしまうらしい。花見なんて全然行ってないや。ただでさえ儚い時期に笑い話の一つでも書ければいいのだけども、またもや暗めな考え事を始める。

 

・AIと人と自殺について考えること

NHKの報道番組は基本的に芸能ニュースがない分、民放と比較するとかなりの時間を社会問題に割く。朝のニュースは何年も『おはよう日本』を見ているわけだが、だいたい疲れが溜まりメンタルや体調を崩しやすい春先と、学生の自殺が一番多い夏休み明けは「自殺予防」がそのテーマに上がることが多い。

 

今年も例年に漏れることなく、昨日LINEなどSNSを活用した悩み相談窓口の特集を組んでいた。やはりその念頭には昨年起きた座間市SNSを使った連続殺人がある。自殺願望を持った女性を次々を誘い出し、幇助のような形式を取りながらも殺害を続けた手口はもとより。そもそも、そうした自殺願望がネット空間に溢れているという事実が明るみになった。ましてや自殺者数推移だけ見れば2011年以降減少の一途を辿っていただけに、潜在的な自殺願望者の存在は、現実において可視化しにくい事がより一層判明した事件と言える。

 

死にたいと考えている人が結構いるという事態。「自殺」までいかなくとも、厭世観というか、特段希望もなく、生きる気力も沸かないという人は案外多いのではないかと思う。そして、個人的な意見を言えば、そうした厭世観というのは今後増えていくのではないかと感じる。その遠因はと言えば、AIである。これだけ言うと「また何でもテクノロジーのせいにする老害が」という非難も聴こえそうだが、あくまで「遠因」である。順を追って説明したい。

 

まず、昨今論じられる通りAI活用による「職業の危機」が存在する。様ざまな自動化技術により、近い将来、現在人の職業として存在する仕事の一部は消えるだろうという予測である。中国では無人コンビニなど話題になったが、小売り業や飲食店店員、あるいは行政機関、金融機関の窓口業務。また車の自動運転化が進めば、運送業や旅客といった運転手など。挙げていればキリがないほど、数々の業種において「そもそもそれ人いらなくない?」という時代に、10年もあれば変化するように思える。

 

人の「職業」というものは、ある種この資本主義社会において人の価値に置き換えられたりする。結婚を考える時、年収が一つのバロメータになることもあれば、仕事がそのまま自尊心に繋がっている人も数多くいる事が想像できる。そうした「人の仕事を奪う」AIの登場によって、自分自身の価値を抱く機会を奪われることも、確かに厭世観ひいては自殺願望者が増加する要因のひとつと考えられる。

 

しかし最初に「遠因」と書いた通り直接要因ではない。AIによる職業損失の危機、それ以上に厄介なのは、やはりそれを人の価値に押し当てて煽る人間の存在だ。書店の新書コーナーに行けば、ここ数年で「この仕事はなくなる」というセンセーショナルなタイトルの本を何冊も見つける事が出来る。そして、今後AIがより生活に組み込まれることで、ネット世論なども「この仕事に就いている人は社会的に無価値なのでは」「この仕事を今さら選ぶとかww」という認識が蔓延することが想像できる。ディストピア思想のようだが、過渡期には起こりかねない事態である。

 

例えば、戦後間も無く。価値観が180度変換する中で、戦中自ら兵士を志願した人に対して「あいつらはバカだ」「軍部勢力に負けた」と揶揄するインテリ的風潮があったという。数年遡れば、それが国民として真っ当とされ、称賛された行為が地に堕とされる。これは極端な例だが、こうした社会的な追放感というのは人を孤立させるのに十分だったりする。

 

また、時代における大きな価値観の変化というのは、こうした手のひら返しを生みやすい。何故かと言えば、過渡期において、誰もが自分を守るのに必死なのである。時代が新しい価値観に振り回される中、なんとかそこにマッチしているという自我を持ちたがる。そして、相対的に自己のポジションを見たいが為に他を下げるのだ。

 

特に自分も含めてネット世論など、どこかで「社会一般よりも賢い」という自己満足の世界に満ちている。皆がなんとなく「偏差値55~60」を気取る状態だ。こんな長々と文章を書き荒らしている自分自身だってそうした欲求から逃れられてはいない。「皆さんより賢くないです」なんて本気で思いながら、こんな長文バカみたいに書かないだろう。やはり、どこかで次の価値観に見合っている自分を、取り繕おうとしている浅はかさを、内心にも感じる。

 

そうした自分自身の感情を見ても。いざ、社会が本格的にAIを組み込んだ際に、職業に対する世間の貴賎の判断がより厳しくなり、また自身をAIという時代の波から守る為に他の何かを蔑む。そんな風潮があり得なくはないな、と思ったのである。

 

・「道徳」の強化はディストピアへの処方箋になるか

また、この春から小学校で「道徳」の授業が評価対象になる。今の時代、スマホの普及によりいじめも複雑化し、人口減少への対策として国外からの流入者も増える、AI活用も本格化。このような価値観の変動期を迎えるのを見越して、道徳という内面の授業を強化し、他人との差異を認める教育を施そうという意思が感じられる。

 

先日、その道徳の教科書検定8点が合格したというニュースが入った。

教科書検定:中学道徳全8点が合格 題材にいじめ、SNS - 毎日新聞

実際、この施策というのは一定の効果があるように思う。子供は思った以上にストレートな残酷さを持っている。例えば、いじめであれば「自分は悪くない、あいつがおかしいから」という具合に、自分の悪意を本気で自らに認めない邪悪さがある。「無邪気」とは邪気を自覚していない事だ。これに対して、具体的なケースとして教科書にていじめを扱い「これは悪い行為だ」と客観視させ、自分の内心の邪悪さを向き合わせるというのはいじめ防止には役立つように思える。

 

そろそろ今回の本題に戻るが、ではこの「道徳」の強化が将来、自殺だとか厭世観に打ち勝つ処方箋になるかと言えば、僕の意見としては「否」である。はっきり言ってしまえば、この道徳という授業において培われるのは、あくまでも他者と円滑に生きるスキルに過ぎない。更に「人への思いやりを持つ」「いじめないように」というのはあくまでも強者の理論なのだ。道徳とは「金持ちは施すべき」そういった累進課税のような慣習法であり、ルールであり、社会法規を学ぶに過ぎないものだと理解すべきだろう。

 

何が言いたいのかと言えば、もしいじめられたら。他者から思いやりのない状態に置かれたら。なぜこのようなツライ状況で生きなきゃいけないのか。道徳に依存すると、これらの問いに答えられない。道徳が指し示すところは「弱者は施しを待て」「貧しくも慎ましく生きろ」であって、そもそもの生死を語っていない。これからの時代、そこの底辺からどう生きるのか、むしろ道徳の根底にある「哲学」がより必要な時代に差し掛かっているように思える。

 

 

少し話が飛ぶが、厚生労働省の2016年度『自殺対策白書』に興味深いデータがある。

f:id:daizumi6315:20180331105400j:plain

http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/16/dl/1-03.pdf

「第1-図10 先進7カ国の年齢階級別死亡者数及び死亡率(15~34歳、死因の上位3位)」

 

所謂若者の死亡率のうち、自殺の割合がどれだけ占めているのか、先進7か国で比較した表である。日本はやはり筆頭なのだが、そこに参考として添えられた韓国は日本以上に高いポイントを示している。日本と韓国、欧米に対して国民がメインだった宗教を持っていないということが目立つ。そして、その代わりに幅を利かせているのが儒教儒学であり道徳という概念である。

 

道徳には排除性の罠がある。実際に「迷惑」が起こった場合だ。韓国での政治家や資本家の弾劾や、国内でのキャリア公務員の自殺件数などを見ていると、責任によって命を投げ打つという事がある種自然に思えるほどである。当然に道徳は社会を整然と運営するにあたり、非常に有用な思想かつルールであることは確かだ。しかし、先にも書いた通り弱点も存在する。それだけでは、自分の命を守れないのである。

 

例えば「自殺を考えた人が線路に飛び込むことを「人に迷惑がかかるから」と改め、ひっそりと樹海を彷徨うことにした。」この文を見て「真っ当だ」と一瞬でも思えば、そもそものツッコミがスルーされている。つまり「人に迷惑をかけない>命」という価値観基準が普通になっているのだ。よくある自殺を止める表現に「~が悲しむから」などと諭すこと自体、ズレを感じる。生きるとは、本来ボトムアップな行為であり、自らがその価値を設定すべきものだとそのように思う。

 

これから先。前段で書いた通り、AIなど様々な価値観の波が押し寄せ、先を見通せる「世間の賢さ」は一気に下がる。トランプが大統領に就任した際、コメンテーターたちが「何はともあれこれからの一挙手一投足に注目です」と締めたように。先が分からない時代ではほとんどの人が「偏差値40」となる。要するに「自分が十分に見識があるのか不安な状態」と言える。ネット上のヘイトの数々を見ていれば、今の状態もそれに近いと感じる。ヘイトは、ネガキャンそのものが目的というよりむしろ、自らの優越を確かめる行為でもあるからだ。

 

これからの見通し不透明な情勢そのものと、それによってマウントを取りたがる世論が渦を舞き、それがいつでもネットで確認ができる。

 

今の時代に抱きやすい厭世観というのは、そうした空気感が底流にはあるのだろう。そして、これからその激流は恐らく早さを増していく。ただ、まず自分の足元を固める、というか。社会を優先とする道徳的発想から抜け出し、自らの命をどう使うのか、今何を自分が望んでいるのかという問いと真摯に向き合うことが必要な時代なのだと思う。何故なら、先に社会を気にすると、自ら人を頼れなくなる。一人になる、孤立する。迷惑さえかけなければ、この社会、案外死ねてしまうのだ。

 

それは、少し寂しいよな、そう思って休みの午前から延々と書き出した次第。これから、ヘイトとか社会とか自責なんかに負けない為にも。一回、ゆっくり自分の生死を眺める時間というのが、あってもいいかなと思った次第です。