わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

漫画村騒動から思う「印税を払う」オタクの習慣の重要性

すっかり春。いろんな世代の人が、新たな生活を始める季節である。それぞれの身分が変わり、弊社でも新卒社員が配属についたり。働きだすってどういう感情だったっけか。そんなこともすでに7年も前の話になり、自分の年齢を振り返ればアラサーっていうかもうサーだよね。サー。偉くなったもんだ。まぁ、そんな身の上話はどうでもよくって。

 

・「権利」と「無料」の抗争

漫画村騒動は今やネットにおけるメイントピックスの一つになっている。漫画を無料で読めてしまうネット上の仕組みづくりに対して、漫画家や出版社はもちろんネット論者の声も高まっている。それに対して、当の本人というか漫画村の運営者側から「紙媒体でのコンテンツ販売自体がもう成り立たない」という具合の反論がなされ、まぁ、なんていうか権利者側じゃないので、さすがにその反論はどうなのよ。という具合に盛り上がりを見せている。

www.huffingtonpost.jp

 

漫画村」という単語だけ見ればここ数年の問題では、と感じるかもしれないが、こうしたコンテンツの無料配布や、権利者の収益を無視したビジネスモデルの問題は、ご存知の通り今に始まった話ではない。数年前に目を移せば、ネットの間で問題になった「自炊」と呼ばれたスキャニングを使ってPDFデータだけ吸い取ってしまおうという行為。ちょっと畑はズレるがマジコンといったイメージファイル互換機、あるいはその温床となったカボス・ウィニートレントなどファイル共有ソフトを使った違法DLもろもろ。目線をもっと前に戻せば、レンタルビジネスだってその走りだし、その源流を見れば貸本なんていう戦後のビジネスモデルにすら行き着く。そもそも中古売買すら、言ってしまえば製作者本人の意図しないところで作品やコンテンツが売買されるという意味では、権利侵害に当たると言えるだろう。

 

何が言いたいのかといえば、まず「現代の若者に著作権モラルがなく、今の時代だからこうした問題が生まれている」こうした自分から問題を突き放すような論調・認識は、まず間違いだという話だ。

 

極論を先に出してしまえば、戦後闇市がなければ焼野原に残された市民は飢え死んでいた。という話である。法規上、いくら正規の権利を守ろうとしたところで、混乱期や貧困、そうした社会情勢においては大抵、権利の保護というのはなかなか守られにくい。

 

今回の漫画村騒動の中で興味深かったのは「権利の保護」という真っ当な主張に対して、さまざまな反論があったことだ。例えば「貧しい人間は漫画を読むなということか」「地方に住む漫画など買えない人間がコンテンツを得るにはどうしたらいいのか」こうした自己都合的発言は案の定、炎上しながらネットの海を漂うことになるんだけど、その切々たる「意見」には、まだこの国において無視された世紀末な空気が残されていると理解するには十分な発言である。

 

そして加えて。案の定というか。学生の間では、こうした無料サイトのユーザーというのは多いようで、ニュースといったメディアのインタビューに応える学生の姿を見ることができる。自分がいち貧乏学生だった頃を振り返れば、確かに漫画や文庫本を買うのはたいてい中古だった。なるべく一冊の単価を抑えようとし、自分の財布を守るのに必死だった。この発想から言えば、無料で漫画を楽しめる仕組みづくりが進んでいる、というのは純粋に当人にとって考えれば歓迎以外の対応はないだろう。

 

しかも、昨今。ネットの拡充によって出版社発行物の紙媒体での販売落ち込みは顕著であり、そこにamazonなど電子書籍の巨頭が入り込むことによって、これまでのビジネスモデルが通用しなくなっているというのは確かな事態である。実際に漫画村の管理者が言う「努力が足りない」という批判は、既存権益にすがる出版ビジネスモデルに対する言及という意味では、無視できるものではない。

 

・「何に金を払っているのか」を改めて考えること

とは言っても、上に貼ったリンクの通りで「積極的にその権利の壁を崩しにかかるお前がそれを言うな」というのも真っ当な批判である。ただ、こうした「何かを安く得よう」とする心理は経済学的に言っても、神の見えざる手によって引っ張られているというか。奥さんならチラシを並べながらどの店が安いか1円単位で吟味するというか。自分の財布から少しでも金を出したくない。その極地にある「無料」という誘惑に、なかなか人は勝てそうにない。

 

正直、この時代様々な法規制によって、違法DLを抑えるというのはいたちごっこであり、法規としては必要だが実運用としてはあまり得策ではないだろう。漫画と言えば「紙媒体」という認識を21世紀の今、なんとか保っているものの、メディアの変遷が激しい音楽業界に至っては、そのビジネスモデルも完全にデータ購入および定額配信という流れが激しくなってきている。ひと昔前に音楽での権利保護と言えば「コピーコントロールCD」などがあった。確かに権利者の保護に向いていたにも関わらず、むしろ利用者の不便が大きく非難が相次いだ。

 

元来一人のマンガ好きとしては悔しいものだが、漫画村の管理人が言った「努力不足」という言葉。おそらく今の時代、やはりそれを「キチガイの放言」と笑えないのだ。だとしたら、やはりどうやったら人は漫画に金を払うのか。結局、守るよりも攻めの理屈でビジネスモデルや発想を変えるしかない。ということで、儲かりそうなビジネスモデルについては意識の高いメディアにお願いするとしてここでは触れない。それよりも、ここでは個々人の発想の転換を呼び掛けたい。

 

今回、この問題を考える中で「対価感覚」という言葉が頭を過った。この「対価感覚」とは「自分が一体何に金を払っているのか」を考える感受性と言えるだろう。なんでもいいのだが、例えばコンビニで一本ペットボトルのお茶を買ったとしよう。この150円のうち、いくらがこの目の前のバイト店員に寄与することになるのだろうか。という発想だ。出来高でもない限りは、一定の単価であることはないのだけれども。自分の身銭を切ったお金の行き先を考えることは、こうした無料問題の一端を多少緩和するのではないかと思う。

 

「安くものを買いたい」というのは買い手の、そして、その時の瞬間的な都合である。社会に出て何かしらモノの売買に携わった人なら実感として理解できるであろうが「安く買う」という事は、一瞬出来ても「先数年の間、安定的に」行う事は難しい。相手もその商売で得た利益を使い、さらなる投資や商売を行う。ある程度の単価で金銭を払うというのは、将来的にも大きな変動に巻き込まれない為の「信用」というリスクヘッジに繋がる。一度限りの飛び込み営業や現金問屋でもない限りは「商品単価」をある程度の水準で保つことは、継続的な取引や経済の循環を意識すれば、単に高い買い物をさせられている、というわけでない事を実感できるはずだ。

 

・「印税を払う」というオタクの姿勢

少し話が飛んだが、要は我々消費者は。何かを買う際に払ったお金によって得られる対価が「現品」限りでないということをより想像すべきだと思う。当然のことながら、漫画村の件で数々の漫画家の声明が上がった。こんなことをされては暮らせない。漫画家という稼業すら続けられない。悲鳴に近い声だった。逆に言えば、漫画を買うという事は、こうした漫画を提供してくれるメーカーである漫画家、クリエーターを支える投げ銭になる。オタクなどがたまに言うセリフだが「印税を払う」という感覚だ。

 

ドルオタなどはその傾向がより顕著なのでたまに度が過ぎて問題になるわけだが、当該CDを確実に視聴必要以上の枚数を購入し、おそらくファン投票の投票権などの枚数を稼ぎ、そしてそれを「推し」に捧げる。なんていうか、ファンの語源が「ファナティック」であることを痛感する事例である。それでも、彼らは単純にCDを買っているのではない。「推す」という行為に対して金を払っている。

 

漫画好きな我々オタクが新刊が出るたび使う「印税を支払う」という言葉。当然ながら本当に直接税として取られているわけではない。しかし、それが著者の印税収入となることを理解し、そして意識している。この金が好きな漫画家の飯になり、そして、例えば映画代になる。その刺激はまた新作に繋がるかもしれない。そんな夢想をしながら、我々は何等かの形でやはりお金を落とすのだ。

 

今回、漫画村の閉鎖に伴い、大学生のコメントなどが多く取り上げられ「困る」という言葉も数多く見られた。確かに、学生というのは今の自分の生活でも手一杯だし、将来の道も模索中だしと、かなり自己に不安定な要素が多い。過去の自分も含め、人のことなんて考える余裕もなかった気がする。ただ、社会に出て。そうした相互扶助の要素が経済にはあること。そして、多少でも自分の出したお金というのが、巡りめぐって応援する人の元に届くという事。古臭い話ぽいのだけれども、ここまで様々なECや課金の仕組み、マネタライズのシステムが出来上がった今だからこそ、再度意識をした方がいいと感じた。

 

最後に。何に対してお金を払うのか、という事は、詰まるところ「何を大事にしているのか」を考えることである。「漫画が金を払うまでもない暇つぶし」なのも理解出来る。さも慈善家らしく「困っている漫画家に愛の手を」なんて見下したふざけた事を言うつもりは毛頭ない。ただ、自分が「これだ」と思えたものには、しっかりとお金を払う事。その習慣を身に着けていないと、いざ大切なものを目の前にしたときにお金を払えなくなる。逆にネットワークビジネスみたいに、大切なものもわからず金を払ってしまう。「対価感覚」大枠のビジネスモデルを考える前に、いち消費者としても時代の過渡期には必要な発想ではないかと思いました。

 

そんな日曜夕方のおっさんのぼやきでした。