わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

「大人」の定義って何なのだろう。

気づけば僕も20代最後の年となり。視力弱化、白髪の増加、代謝や体力の低下など、老化の発端を次々に見せつけられる年代。そうなれば、やはり同世代と飲んでもこんな話がいつでも持ち上がる。

 

「いやぁ、30歳だって。子供のころはこんな30歳になるなんて想像していなかったよね。」

「子どもやら結婚とか言っているけれど、まだ10代の気持ちを持ったままな気がする。」

 

こんな会話をしていてふと思うことがある。「大人」って何だろう、ということだ。サッポロビールのCMで妻夫木聡がそんな話題を人生の先輩に聞く、という企画も見かける。そんなこともあって、日ごろからなんとなしに「大人」という言葉を頭の中でなぞったりもしていた。実際問題、何をもって僕らは「大人になった」と言うことが出来るのだろうか。GWを終えて、空模様もまるで僕ら労働者の心を映しているような雨の日に少しアンニュイな考え事をしてしまった。

 

・大人という「幻想」

子供のころ、僕らは「大人」とある意味で相対していた。なんだか生き物として別の存在と感じていた気がする。何せ、うんことか言わない、ちゃんとしている、自分より体力がある、仕事をしている、お酒を飲む、お金を持っている、そして自分にとって重要な事を決める権限を持っている。これらの印象というのは親を筆頭にして、子供である時分には誰もがぼんやりと抱いていたモノではないだろうか。

 

しかしながら、いざ自分がその「大人」の年齢になるにつれて、実際の脳内が見えてくる。すると、考えている事は自分の苦しい生活についてだったり、しょうもない色恋沙汰だったり、とことん追い求めたい社会に何の役にもたたない趣味についてだったり。毎年誕生日を重ねるたび、当時、別の生き物と信じていた「大人」像に届いている気すらしない。やはり、どこかしら過去抱いた「大人」という存在と今の自分に対するギャップを抱き、悩んだりするわけである。

 

ここで先に結論を言ってしまうのだが、そのように「こんな大人になると思っていなかった」と感じた時点で、その人は「大人」だと僕は思った。詰まるところ、子供の頃に抱いてた「大人という幻想」を自分で打ち破ってしまった瞬間こそ、その人が大人になる瞬間なのではないかということだ。

 

なんでそんな事を考えたのかと言えば、先日古い友人と飲んでいた際、それぞれの両親の話になった。お互いどうしようもない父親同士を持ち、金に対する分別もなく、幼少から今に至るまで苦労をしたよね、なんて暗い話で盛り上がったのだが。そんな折「いくら自分の親父だったとしても、所詮はただのおっさんの1人で、クズの可能性もあるんだよな」と改めて納得し。それと同時に「大人はちゃんとしている」「大人は自分を守ってくれる」という、そんな幻想が壊れたんだなと、ふと思ったのだ。

 

まだ僕が学生の頃だったろうか。家族の問題や本人の弱さから、僕の親父がボロボロだった時期があり、僕は「親はやはりちゃんとしているもの」ということが幻想だと理解した。ただ、その時点ではその幻想が捨てられずに蔑んだ。「親として、いやその前に人としてクソじゃねえか」と。

 

それから10年余りが経ち。自分も含めて同じ「ダメな大人」になった。地元でたまにグズグズになるまで一緒に飲んだりしながら。今では良い関係が築けていると思う。親でも大人でも、所詮は女と男なのである。事情や情事、色んな事があったり、なかったりしながら生きている。

 

・幻想を捨てられない「子供っぽさ」

また少し話を変えて「大人」という角度から今度は逆に「子供っぽさ」という話をしてみたい。前段で、大人になるとは様々な「大人はかくあるべき」という幻想を、自分の年齢や感情をもって捨て去ることと書いた。それは言い換えれば同時に、人を、そして歳をとりゆく自分を許すことである。

 

ふと過去在籍していた学校などを思い浮かべてほしい。イジメが今でも社会問題になる通り、子供という存在は時として大人と比較しても残酷な存在になる場合がある。仲間外れや容赦のない暴力。そうした事例は全国津々浦々にて散見される。なぜ、大人と違ってこのような露骨な事態が起こりやすいのかと言えば、そこには「幻想」の問題が大きく横たわっているように思う。

 

「幻想」とは「かくあるべき」という思いである。それはつまりその「幻想」に適合しない人を許さない、除外してもいい、という思考に繋がってしまったりする。例えば「お父さんがこういうヤツは無視していいと言っていた」イジメの理由としてドラマなんかでも見そうな案件だが、子は親に対して大抵「無謬性という幻想」を抱いている。

 

親が言っているのだから、間違っているはずがない。そして、クラスメートにもその「かくあるべき」基準を当てはめる。除外すべき対象が生じてしまうという具合だ。そして、個人が言っているだけならいいが、そうした「幻想」は往々にして共鳴する。皆がその「かくあるべき」という空間になれば、確実にそこは「幻想」が支配する空間となる。イジメはその空気感によって醸成されていく。

 

イジメる側を守るわけでないが、この雰囲気というのは子供社会において非常に起こりやすいと感じる。あくまでも大人と子供という単純な対立軸である為、安易な対比なのは理解いただきたいが、子供のように経験則が薄く、想像力も不足している状況において、そうした「幻想」は幅を利かせやすい。自分が独善的に持っている価値判断基準が全面に出てしまうという意味だ。

 

そして、ここからが本題である。小題にも掲げた「子供っぽさ」である。実際の年齢にかかわらず、こうした「幻想」を捨てられず「かくあるべき」という思いに支配されやすい人格を、ここでは「子供っぽい」と呼ぶ。そしてこの類の人は案外多い。当然、人が寄り集まって社会生活をする中で道徳規範は重要である。人として基本的な振る舞いを指して「かくあるべき」ルールを定めたいというのは自然な感情である。

 

しかし、ふと社会に出たりネットなどで。その「かくあるべき」が暴走し、人に対してただひたすら強く当たり散らす人を見かけたりする。例えばスーパーのレジで。僕の地元の治安の問題もあるけど、結構な頻度でいい年齢のおっさんがレジ打ちしている人に「遅い!」「そんなことも出来ないのか」と怒鳴っているのを見かける。方やネットでも、芸能人のスキャンダル、政治家の発言に対して、ひたすら烈火の如く罵倒する人がいる。

 

確かに批判というのはすべきタイミングがある。しかしながら、往々にしてその目的が自分自身の「幻想」を守りたいだけなのでは?と疑問に思う口ぶりも非常に多い。

 

・大人として「子供らしくある」こと

そうした「幻想」つまり自分の世界を守ろうとだけする人はやはり「子供っぽい」。イジメで見受けられたような、狭い価値判断基準で人を推し量り罵倒する姿。しかしながら、そうした「幻想」というものは人生経験によって大抵解消されるものである。

 

例えば、野球をしたことがないファンが、守備でエラーをした選手を罵倒する。しかしながら、野球経験があれば「ファンブルしたのか」「人工芝の境目だったのでは」とその事由に想像がつく。また、選手と友人であれば「緊張していたのかな」「そんな失敗に負けるな」と違った感情が沸く。経験則と想像力とは、このように人の感情を左右する。

 

大人になるということは、人が生きていて一つ一つ何かを経験をしていく中で「人生って安易に判断出来ないものばかりなんだな」と理解することだと思う。仕事を探す、結婚をする、子供を育てる、お金を借りる、家を買う、手術をする・・・生きているとなんだか一朝一夕では決断のつかないことばかりが襲ってくる。大人ってツラい。え、生きててもそんな感情しか沸かないのなら、大人になりたくない。まぁ思うよね、普通。小生も日々そう思いながら仕事に出かけたりしている。

 

しかし、そんな感情に対して一周回って「子供らしさ」を持つことが必要だと僕は思う。先に挙げた「子供っぽさ」とは違う概念であると定義したい。

 

まず「ぽさ」は無意識的、つまりは単純に「かくあるべき」と喚いているだけである。短絡的というかそこには経験則や寄り添う想像力がない。それに対して「らしさ」とは、情事も事情も経験したしょうもない大人であると自覚しながらも「かくあるべき」をもう一度掲げるスタンスである。自分の人生に対して、子供のような指針を立てる。臭い言葉で言えば夢を持つみたいな。言いたくなかったけど。

 

「大人として子供らしく」そうしたダブルスタンダードが、この時代あって然るべきではと感じる。

 

昨年末、冬コミで作った弊サークルの同人誌において、中野の「大怪獣サロン」というお店を特集した。「<おとな>が正しく<こども>な居場所」とはその特集におけるキーワードであった。特撮や怪獣というテーマを掲げながらも、色々な趣味、時代、価値観、国籍を吸収して成り立つその空間は、まさに清濁併せのむ強さを持った大人として、バカが出来る子供らしさを掲げたスポットであると思う。昨今ジョークも分からないようなネット民や、自分の意志だけで騒ぐ老体を前にして。大人であることの意味を再度考えてしまった次第である。

 

平日から長々と文章を書いてしまったが、寒い初夏の根暗な独り言ということで大目に見てほしい。早く僕もちゃんとした大人になりたいものである。