わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

理屈っぽい考え事が生み出すオタクのエコシステム

こんなところで延々文字を書いてみたり、あるいは同人誌なんかで好き勝手本にしてみたり。そういう事をしているとたまに、ちょっとしたdisなんかが飛んでくることもある。今日はそれに対するお返事というか、ふと沸いてきた反駁みたいなものを書き残したいと思う。

 

ツイッターなどで飛んでくる別にとりあげるほどでもなく、怒るほどでもない「ちょっとした批判」。その中でもやはり多いのは「理屈をこねくりまわすのが好きなんですね」とか「言い訳がましく聞こえる」とか。とかくまぁ、好きなものを長々と語ることに対して言われる揶揄の類である。確かに、ここでの僕の文章を読み返してみると4000~5000字なんてザラだし、読む側を考えれば「軽く読もうと思ったのに、なげーよ」っていう反感を抱かせるには十分なボリューム感だと思う。

 

やはり先日書いた記事にも「理屈ぽく言う事が正義だと思っている」とかそうした揶揄が飛んでいて。いつも通りに特段気にするまでもなかったのだけれども。ちょっとじわじわと「いやむしろ。オタクなら理屈をこねるべきでは?」そんな感情に繋がってしまい、こんな文章を書き始めた次第である。

 

・「理屈をこねる」ということの意味

まず、そもそも揶揄を飛ばしてくる彼ら。その心理を考えてみたい。詰まるところ「好きなものは「好き」でいいのに、なんでわざわざそこまで長ったらしく語るのか」という疑問なのだろう。むしろ、その長ったらしく語ること自体「自己主張が過ぎる」というアンチイメージに繋がり、こうした批判にまで及ぶことが考えられる。

 

確かに昨今、SNSなどを覗けば「尊い」とか「わかる」「しゅき」とか非常に短い単語やネットミームで、何かを称賛するという事が流行しているように見える。とかく好きだという事が伝わればそれで充分であり、むしろ長ったらしく何かについて語ることはその当人の勝手な「主張」のように捉えられてしまい、批判される傾向にあるのかもしれない。

 

しかしながら。僕はこの「理屈をわざわざこねること」は、先の「尊い」「わかる」とか。どっかの拾い物画像とセットで伝えることなんかより遥かに価値のある行為だと思っている。

 

我々オタクは今、有象無象のごとく生み出されたキャラクター群や作品の中から、自分が愛好するものを選んでいる。過去には「今取り上げるべきオタク作品といえばこれ!」とアニメ雑誌などでベクトルが纏まっていた時代があった。しかし今はあの時代とは異なり、数多くの作品が存在し、そして当然見る時間も限られる。その中から「自分が好きなものを選ぶ」という意思が、より必要とされるわけである。

 

そんな中「理屈をこねる」事は案外重要なことではないだろうか。自分が「何故」そのキャラを愛し、その作品を好むのか。自分は果たして何を求めているのかを知る、という自己理解につながる。では何故、そうした自己理解が重要なのだろうかを更に考えてみたい。

 

・作品への「返事」を書くこと

よく漫画の単行本などを買うと、読者アンケートハガキがついてくることがある。僕もほとんどスルーしてしまうのだが、本当に琴線に触れる作品や応援する作家さんの単行本に関しては書くようにしている。

 

そうして自分がいざペンを握って、その作品のことを考える時間というのは案外、悪くないと僕は感じる。いや、確かに直観として「とてもいい話だ・・・」とか「絵が素敵」と感じたのは確かなのだけど、手紙を書くのだからもう少し練った方がいいのでは、その作者に伝わる文章ってどういう言葉なんだろう、とか考えてしまう。

 

現在。ネットが普及し、動画配信サイトも拡充した世の中ではコンテンツに溢れているため、一つの作品を享受するハードルは下がり続けている。次から次に流行コンテンツを眺め、あるいは過去の名作を補完し、自分の知識にしていく。そこにいちいち理屈や作者へのメッセージなんか考えてられるか、というのも理解できなくはない。

 

しかしながら、アニメや漫画、それぞれストーリーを作った人は確実にいるのだ。自分でそうした創作なんかを齧っている人ならわかることであろうが、少しのリアクションでも、自分の思っている以上にテンションは上がったりする。自分が作っているものが受け入れられている。あるいはしっかりと見てくれている人がいる。

 

過去このブログのほかの記事でも似たようなことを書いたりしたのだが、もう一度認識すべきなのは、アニメを鑑賞したり作品を何か楽しむだけの僕らは、思った以上に創作者のモチベーションになりうる存在なのだということだ。

 

先の自己理解に話は繋がるのだけれども。そうした「何かより今後見たい作品を推す力がある消費者として」自分の意思を明確にすることは、アニメ・漫画・小説、そうした自分が楽しみたいものを考え、それを伝える。作品が生み出される大きなエコシステムを自らもその一部となることで構築してくことに他ならないと、僕は信じている。

 

昨今見かける「自分を見てほしい系オタク」というか。缶バッヂを大量に身にまとうのもいいんだけど、その作品の、そのキャラ、結局何がいいの?それを生み出したクリエイターも、周囲で見ている人も、その「缶バッヂを大量に身にまとう」行為から何らその作品に関われない。単純にちょっとイキッたオタクがそこにいたことしか認識できないのだ。自己理解というのは「自分を見てほしいだけなのか」あるいは「作品が本当に好きでそれをどこかに還元したいのか」その差を自覚するためにも、必要な過程ではないかと思う。 

 

・小難しいことをいう自分、ではなく「何が面白いのか」を追求する姿勢

冒頭のような批判を起こす人の念頭には「人の作品を使って自分の言いたいことを言っている」つまり他人のふんどしで相撲を取っていることに対する反感も幾分かあるのではないだろうか。今批判した「イキリオタク」のように、結局は自分を見てほしいんだろと。その指摘は鋭い。その通りだと思う。ゼロ年代サブカル議論、みたいな頃にも「それ、結局作品とか関係なく自分の意思だけ貫きたいんだろうな」という論調も確かに見られた。

 

それでもだ。あの当時の論者がどうだったかは別の議論に任せることとして。サブカルを語ることというのは、その「自分を演出したい」という以上に「本当に何が面白いのか」それを単純に考えたい、あるいはそれを共有して、更に面白いものが生み出せればいい、という意思の方が強いと思う。

 

この文章自体もすでに理屈ぽいが、やはり何事も「ちゃんと考える」という過程は、コンテンツが大量に生産され消費される世の中だからこそ、大事なことじゃないかと思う。そうすることで、自分の趣向は、更に自分の見たかった作品に繋がっていく。『アンパンマンマーチ』の歌詞ではないが「何をして喜ぶ、わからないまま終わる。そんなのは嫌だ」なのである。一体琴線がどこにあり、一生通して「あぁ、これめっちゃ名作」と言い切るためには、自分の中できっちりとした理屈は必要になる。

 

「わかる」と共感を伝えるのもいいのだが、共感をどう人に伝播させるか。そのエコシステムを稼働させるためにも、やはりもう僕はあくまでも理屈ぽくなってしまうし、そうあるのがオタクの本懐ではないかと思ってしまう。どうしたって長ったらしく語るのは、その作品を誰かに伝えたいし、そして作ってくれたことへの感謝を示したい。そうした、案外単純な動機に端を発しているということを、理解いただければ幸いである。

 

 

コミケの新刊も入稿がようやく済み。次回更新には、その宣伝というか告知なんかをできればいいと思っています。本当に暑い日が続いていますので、体調などお互い気を付けていきましょう。