わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

ネット上「叩き」の危うさの本質はどこに

風邪っぽい。頭痛がする。鼻水が黄色い。既に確定フラグな感じもするけど、せっかくバカみたいに暑い季節を乗り越えて、これからまた美味しいお酒飲むぜ!という時期になって、そんなことで足枷つけられたくない。自由気ままに生きていたい。ネットで周囲の目なんて気にせず発言したい。今日はそんなお話。

 

・なんで叩くの

インターネットと「叩き」、つまり何かを批判する言動というのは、古今東西切っても切れない縁にある。過去には掲示板、そして今ではSNSで。気軽に自分の意見を社会や世界に発信できる仕組みを使って、人は色んな感情を吐露するようになった。昨今ではその匿名性は薄くなってきたものの、やはり愚痴や不満、批判というのはその発言におけるメインテーマの一つである。

 

日々ツイッターのTLを見ていて。やはり毎日のようにいろいろな「叩き」が流れてくるわけで。やれ、国会議員の不可解発言だったり、はたまた自分のクソ上司の失態だとか、町で見かけたヤバイ倫理基準のおっさんとか。あるいはフェミニンな女性論客の暴走などなど。挙げればキリがないわけだけども、こうした種々の対象を「叩く」発言。そこにはどんな意思があるんだろうなとぼんやり考えてみた。

 

「叩く」、人を批判するという行為。ネット上でなくても人を非難するときには、そこには二次的に「自分が持っている正しさ」が内包されている。どうでもいい話題には、特段言うこともないだろう。「今朝の朝食はサンドウィッチでした!」という発言にブチ切れてる人がいたら、それは確実に何かヤッてるに違いない。つまりどうでもいい事に批判は起きない。

 

自分が持っている正しい価値観や正常な感性を脅かされた際、それを守る方法として「叩き」は発生する。例えば「黒人は差別すべきだ」この発言に多くの人が反応するのは、倫理的価値観として「人種によって人は差別されるべきではない」という通念があるのと同時に、日本人なら黄色人種として「自分たちも差別される恐れがある」という当事者意識が働く。自分を守る為、そして自分が生きている社会の通念を守る為、「ヤバイだろこの発想」という対象に批判をするというのが通常の仕組みだろう。

 

・ロマンはそこにあるのだろうか

しかし「叩き」の本質として、もうひとつの効能がある。非難することは前半で、自分の正しさを守るというのが基本的な動機にあると書いた。ただ、逆流的に「正しさ」や「意味」を自分の中に形成するために「叩く」という、手段と目的が反転したパターンも確実に存在する。要は「仮想敵国」「倒すべき政権」「唾棄すべき思想」を作ることで、自分の人生にロマンだとかストーリーを付与させる事が出来るという具合だ。

 

考えても見てほしい。過去に見た多くの小説や映画を振り返っても、その半数以上は「倒すべき敵」がいるか「乗り越えるべき障壁」がある。要は、人間を満足させるロマンを得るには、そうした物語的凹凸が必要になる。ふと自分の日常を振り返れば、仕事と生活、ちょっとした娯楽の繰り返し。あまりにも凪いでいて、それでいて大きな快楽もない。対して「敵」の存在というのはある種の蠱惑さをもって、我々を手招いている。

 

ここでは「敵」と書いてしまったので、大きな話になっているかもしれないが、何もそんなおおそれたものではない。陰険な上司、嫌な同僚、規則だらけの学校、頭の固い教員、ヤラセばかりのマスコミ、ハラスメントが横行する体育会部活などなど。日々、ムカつくレベルだったり、違和感を感じるレベルの事に対して、文字化をして発信してみると、SNSではなんと共感がついてくる。

 

この「共感」、往々にして人に「意味」を与えるもので、そんな正直チラウラレベルの「愚痴」にも、共同戦線が生まれ、「正しさ」が生じ、そして結局その人は怒りや不満にロマンを得る。そんな会社はつぶれるべき!上司は左遷されるべき!あんな番組は終わるべき!日常において沸々と溜まっていた感情に「物語」が与えられた結果、叩きが逆流的にその人の正しさを形成していく事になる。

 

嫌味たらしく書いてみたが、はっきり言えばこういうことってよくあるし、なんなら「怒り」から「共感」を生み、大事業を成し遂げた偉人だって沢山いる。各国の革命はこういう圧制に対する日常の怒りが盛り上がって爆発しているだろうし、こと周囲に目を移せば市民活動によって仲間や生きがいを得たおっさんが健康寿命伸ばして、働き続けられるというのも美談の一つだろう。

 

・本質を見失う「叩き」の本質

じゃあ、何が言いたいのかという結論に入っていく。怒りと違和感を元手に共感を集め、正しさや意味に昇華させるこの「叩き」の逆流プロセス。何がヤバイか。2点あって、ひとつは「理屈が要らない」こと。そしてもうひとつは「癖になる」ことだ。

 

例えば、書店で売っているラノベ表紙でも見て。理屈でもなんでもない「表紙が気持ち悪い」という感情から、それは「敵」認定される。画像をアップすれば、普段からなんとなく思っていた人や、画像を見ただけの人が「共感」をし、倒すべき敵と意味が生じる。一大ムーブメントになれば、そこには聖少女的ロマンが発生する。結局、その戦いが不発に終わっても、戦いの起こし方は覚えている。

 

このようにちょっとした怒りや違和感からでも、簡単に人生における醍醐味が得られてしまうという中毒性と怖さが「叩き」にはある。そして、それは人の思考力すら曖昧にしていく。

 

最近ネットで感じるところがあったので具体的に書いてみよう。以前、モチベーション・アップ㈱という会社が作ったポスターがネットで炎上した。具体的にはググってみてほしいのだけど、見た感じ昨今の「働き方改革」よろしくな風潮には合わない啓発ポスターである。

 

「今ある得意先は創業時にはなかったもの、すべてに感謝しよう」「頑張るのは当たり前!そこから結果をどう出すかだよ」とか、なんていうか「会社でそれ上司に言われたら絶対イラっとするよなぁ」という言葉のオンパレード。「そもそもの発想が気持ち悪い」とか「そういう旧態依然な発想が重宝されるから平成以後日本の生産性は下がったとか」散々な炎上をしていた。

 

確かに僕自身が見ていても「うへぇ」って思うし、このワークライフバランスの重要性が叫ばれて10年以上経つ時代にそれはねえんでないの?とどれも感じさせるハイクオリティ。またイラストやデザインも相まって不快感を覚える人が続出したという事案である。

 

それと対照的に、こんな記事が話題になった。ゲーム業界、デザイナーとして働く女性の自問自答を描いた漫画が共感を呼んでいるということだ。

nlab.itmedia.co.jp

読んでみると分かるんだけど、短いだけに至ってシンプル。仕事の意味を見いだせずにダウナーになる女性主人公。それとは反面、結果を出せるのになぜそこに邁進しないの?と純粋に聞く同僚。そして、頑張った結果得られた「周囲の評価」からまた自分の仕事の意味を再発見していく・・・という感じ。うん、いい話だし仕事頑張ろうって思える。

 

ただこれ、モチベーション・アップさんとこのポスターの趣旨をストーリー化させて、読んだ人が共感しやすいように、ゲーム業界・デザイナー・女性・漫画という要素にはめ込んだ形にも思えてしまった。僕だけの穿った見方だという可能性も多分にあるんだけど、逆にだ。

 

問題になったモチベーション・アップ㈱が漫画事業に手を出して、ポスター的思想をもとに、いい感じのサクセスストーリービジネス漫画を出版したら。多分、共感は得られるんじゃないかと思う。モチベアップ云々の発想がかみ砕かれて、きっちりとデザインされ、キャッチコピーがハマったら。

 

頷く人は絶対に増えるだろう。要は見え方、見せ方次第だけで「叩き」のベクトルは一気に変わる。「共感」は罠に近い。ネットで簡単に集まったそれに「叩き」の本質である守るべき「自分の正しさ」はない。その軸がないまま「共感」を求めて何かを「叩きだす」と確実にその先に待っているものは、理不尽な差別的観点だ。

 

最後に話は飛ぶが大戦時、ナチスドイツが民意を集める上で政党として優れていた点はファッションやデザインだったと言われる。なんかの番組でオリラジの中田さんなんかもプレゼンしてた気がするけど、当時の若者に共感を与える見栄え、そしてそこから得られる先進的なイメージ。

 

こうした点から言っても、人は所詮本質における観念の正邪よりも、印象から与えられる感受性によって動いてしまう。そして、印象が言葉となり共感があつまると、それは次第に大きな意義に振り替えられていく。その結果は言うまでもない話である。

 

 

 

今、ネット上を流れていく数々の「叩き」を見て。自分自身も簡単に流される危うさを感じるし、そしてまずは自分自身がどういう軸を持つか。その重要性を感じたという話でした。ツイート見て5秒で得られる自分の感情というものは、やはり疑ってかかった方がいいと僕は思います。秋なので気候の変化と体調には気を付けましょうね。