わがはじ!

めんどいオタクのブログ。

大人になった平成に思うこと

昔、何かで読んだ覚えがある。「人は弱気になると、過去を振り返りたくなる」そんなこと言われたら、日々過去の自分のツイートを眺めてみて「案外俺、面白いこと言ってるじゃん」など自分に対するフォローを続けてしまうのも、やはり弱気な性が原因か。まぁ、多分それはまた違う病理な気もする。

 

テレビやらネットやら、既にいたるところでも「平成」「平成」と振り返られているのは、周知のとおり。ということで、せっかくなので当ブログでも「平成」が終わるなぁって話を一つしてみたかった。また今年2019年は平成が終わるだけでなく、先日活動休止を宣言した嵐の結成20周年、またこの僕がツイッターアカウントを作成して10周年など、ある種記念碑的なイベントが並ぶ1年と言える。

 

国民的アイドルと根暗性癖おじさんのツイッター歴など並べたところで、何があるわけでもないのだけれども、そういうものは心の持ちよう。平成が終わるということが重大事なのであって、アラシックの皆様方におかれましては、僕も案外嵐ファンなのでそこは一つ暖かく見守ってやってくださいという意も込めつつ、先に進めることにする。

 

ということで本筋。おそらくここでも過去に個人情報を何度か書いているが、僕は昭和63年生まれである。つまり年齢が平成と同い年になる世代なのだ。年号と自分の年齢が一緒というのは、案外便利なもので、自分の歳を忘れたりすると年号を思い出せばよい。逆もまた然り。どちらも忘れてたら、その時にはもっと大切なものを失ってるだろうから気にならない。

 

そんな同い年である「平成」という時代に対して、僕はこれまで何となく「同年代の友達」感を抱いていた。こんなことを言ってはアホと思われる、というかすでに思われているだろうからいいんだけど、自分の年齢とともに年号も推移し、時代の様相も変わりながら、自分の立場も幼児から学生、社会人へと変化する。ある意味、時代と共に同じスピード感で年齢を重ねる感覚に近い。時代と共にって、当たり前なんだけどね。

 

そしていよいよ人生の節目ともいえる30歳を迎えた時、その旧知の友人からふと別れを告げられたような。突如一緒に進んできた時代が終わる。それは何とも言えない感じであった。実態は、ただ年号が変わるだけであって、確かにその通りなのだけれども。そこに意味がないとも言い切れないではないか。そう、当方、人よりちょっとだけセンチメンタルなおっさんなのである。

 

昨年、平成も僕も30歳の節目を迎えた。なってみて思うけど、三十路ってのはなんだかんだ結構大人だ。今現在、こんな根暗一徹な僕も社会に出て働き始め、驚くことに少しずつ会社の中で「中堅社員」みたいな事になってきた。そうなると将来のためと、色んな人から「シサンウンヨウ」とかいう南蛮由来の啓蒙思想を聞かされたり、もやしが沢山乗ってるタイプのラーメンが急に食べられなくなったり、いざというときに息子が全然活躍しなくて本当に凹んだりと、公私共に忙しくなってくる。

 

そして思えば片方の平成さんも30歳を迎え「大人」になってきたように思える。社会を見れば、サラリーマンたちは24時間戦えないと宣言をし、タバコなんか御法度、健康によくないのでその存在意義すら否定され、経済成長も程よく、将来も持続可能なラインで大人しく、グローバルな利害を見ながら丁寧にやっていきましょうという具合で、まさに平成、「平に成る」という名の通り。

 

 正直そんな社会というか時代を僕はあまり好んではいなかった。生まれた頃から、バブル崩壊、失われたなんちゃら、「ゆとり」やら「悟り」やらと好き勝手呼ばれ、将来は時代としても社会としても、より大人しく一辺倒な時代になるのではという実感があった。そんな中で、僕も必死に尖ってみようということで、オールドでマッシブなロックを聴いてみたり、徹夜でエロゲ三昧の日々を通して俺はオタクだなどと、わめいてみたりと色々やってみたものの、最近、この平成っていう時代と一緒に、僕自身も角が丸くなってきたような気がするわけだ。

 

自分はさておき、時代が徐々に「大人」になってきているのは間違いないことだろう。えらい学者さんによれば滅亡まで2分らしいけど、ネットによってだれもが発言権と炎上による抑止力を持ち、ポリコレなんかも声高々に叫ばれてはいる中で、誰かと誰かの利害衡量が続く。大人ってのは、安定や公平を得るため、難しい判断にさらされるもんである。

 

思えば、学生時代だったろうか。バンド活動なんかをしながら「俺は70年代に生まれたかった」などと考えていたことを思い出す。あの時代のエネルギーを享受できれば、何か大きなことが出来たんじゃないかとかほざいていたような気がする。まぁ、時代の差は確かにあれど、そんな「たられば」や世迷い事を言ったところで仕方のない話なのは、全世界時代共通であり、今思えばこっぱずかしい。

 

しかもよくよく考えれば、僕らの青春はインターネット黎明期だった。何か面白い事をするエネルギーなんてものはそこら中に溢れていたのだろうし、多分きっと今もそうなのだろう。時代を停滞ととらえるのはあくまでも自分の主観だし、そしてそれを打破できるのも自分の主観でしかない。楽しいおもちゃは案外、時代時代に、そして思ったより身近に色々あるものだ。

 

今年で平成が終わる。同い年同士、社会人生活の中で徐々に角が取れてきた自分と「何かでっかいこと」ではなく「持続可能な成長」に舵を切り替えた平成という時代。おそらくその潮流というのは、今後も続くんだろうけれども。年号という時代の変わり目において、やはりまた新しい面白さを再度探さねばなるまいと。結局、これもまた主観であり、ひとり息巻いている次第である。

 

あまり意味がある内容の文章ではなかったが、平成という時代から次へステップする今の期間。短いながらも時代を冷静に見つつ、また身勝手に面白い事なんかないかなと彷徨っている冬の一人言でした。