わがはじ!

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Twitter10年を考える①~正しさの限界と未完成な自分~

今年でTwitterを使い始めて10年になってしまう。便所の落書きも、10年続けば立派な病気である。そんなわけで、その10年を振り返りつつ、ちょっといくつかの論点から数回に分けて連続的に思いついたことを書いていくつもりだ。ネットやらそこらへんと自我の話だったりいつも通り、基本根暗ベースなのであまり面白い話ではない気がするけど、自分が今書けるネット総論として、残してみたい。

 

・ネットとデモクラシーという関係性から

大学時代、政策やら政治をかじっていた僕が卒論に選んだテーマは「eデモクラシー」というものだった。2008~10年当時、オバマ氏がFBを使って不利と言われた米大統領選に勝利したり、アラブ諸国ではSNSを使った民主化運動が過熱、日本でも民主党がいよいよ政権を奪取。長きにわたった自民政権が終わりを迎えるなど変化の時期にあって「ネットって民意反映にとって面白いツールなのでは」と選んだテーマだったように思う。

 

電子投票の議論も相まって、当時はそこそこ熱のある話題だった。それから約10年。広くスマホが普及し、SNSのアカウントは一部のネットユーザーから老若男女一般層にまで拡大。その結果、マスコミを中心とした情報流通の仕組みが変わり、アメリカ大統領さえも日々Twitterを駆使、それによって世界情勢が大きく振り回されるようになった。

 

こう見ると、ネットによる民主政治は加速しているように見える。ただ、どちらかと言えば、チャーチルが言った「民主制は最悪な政治形態」という言葉がより鮮明になっただけかもしれない。日々流れてくるクソリプの応酬を見れば、民主政治の主体たる市民さま方の発言にゲンナリする毎日だし、そうした衆愚に加担したくない頭良き方々の主張合戦も、結果自分の肯定のために吐かれている言葉がほとんどのように見受けられる。

 

と、斜に構えているそう言ってる自分も、結局はTwitterで10年を過ごし、ここで好き勝手物を言いながら、自分の足場を確かめるだけという作業を延々行ってきたにすぎない。そんな時間を過ごしているうちに、ネット社会において「正しさ」という概念自体が、ある種限界を迎えているように思えてきた。

 

・この時代が提示できる正しさの姿

数年前に「正義」について語り、ベストセラーになった本があったけれども、結局それを読んだところで、モヤっとした気持ちは消えずにいる。むしろSEKAI NO OWARIだって歌っている通り、人にはそれぞれ正義があるんだから、定義するのもおこがましいというのが最近の定説くさい。

 

そもそも普く人に与えられた「正しさ」は本当にあるのだろうか。一見、確実そうな定義として「正しいこと」=「嘘でないこと」という定義を考えたい。最近のはやりで言えば「デマ」でなければ「正しい」ということだ。こう見てみると、白か黒かという認知はしやすそうである。ただ、これも正直「であること」と「とすること」の境は、案外類推に任せることが多かったりする。

 

例えばツイッターにおいて。ある情報がデマでないかどうかの判断をいかに行うだろうか。その発言についてくるリアクションを確認し、別の識者がデマと断定していたり、あるいは発言者の普段の言動が怪しさなどで判別をつけたりする。つまるところ、その話題に対して自分が明白な答えを持ち合わせていなければ、白か黒かの判断も、結局自分のバイアスによって変化してしまうわけだ。

 

昨今。いわゆる道徳的、歴史的にみて「正しい」とされる観念はSNSの個別意見によって分解され、むしろ個人個人が何を「正しいとするのか」という判断に委ねられる存在にまで降りてきたといえるのかもしれない。

 

例えば校則。いわゆる「ルールがあるから守られるべき」正しさの典型だろう。ただ、最近では、髪の色議論なども記憶に新しく、時代にそぐわない校則に関する対応などもネット議論の対象になっている。現代において「正しさ」というものは天賦的に与えられるものでなく、僕らが作り出すもの。むしろ共有されて生じる合意のようなフラットな「正しさ」のイメージは、このネット社会における議論の本質を感じさせるものだと思う。

 

・「自己肯定」から生じる歪み

そう考えると、今の時代。「正しさ」を生成するうえで、非常に重要な存在が浮かび上がってくる。それが「自己肯定感」だといえる。正しさを作るのが個々であるならば、逆説的に「自分は間違えていない」と考えなければ、そこに正義は生じない。あの対応は今の時代に反している。そんな批判は、自分が正しい陸地に立っているという自己肯定からスタートしている。

 

正しくあるためには、自分が間違ってはいけない。僕が勝手に一人で感じているだけかもしれないが、昨今のネット社会に感じる窮屈さ、なんとなく流れている強迫観念。そうしたものの根底には、この思想があるのではないかと思う。

 

今のネット社会における自己肯定の姿は、承認欲とも密接に結びついている。多く賛同があったから自分は正しい。社会を動かす影響力が数字として見える分だけ、自分は正しい。反対意見は、当然のことながらそれを受け入れれば、自己否定にも繋がってしまう。人としての価値を賭け、それら反駁に対して、同意見者の連帯をもって烈火のごとく反発をする。SNSで日々見受けられる日常的な攻防である。

 

見てわかる通り、ネット上における正しさにはキリがない。どうしたって、自分と意見が合わない人間は星の数ほどいて、逆に自分に賛同する人も数多くいる。それぞれがコミュニティを形成しながら、自己肯定を相互に承認し、自陣の掲げる「正しさ」を生成し続ける。はっきり言えば、この構図を見ていていい気分ではないし、結局のところこうした対立軸、あるいは自己肯定の沼とも言える状況に、僕は冒頭掲げた「正しさ」の限界を見てしまったという具合だ。

 

・未完を受け入れること

 「正しさ」という概念を見出すことに無理がある。それは確かにそうかもしれない。ただ、今回の最後は、ちょっと飛躍するが大乗仏教にまつわるこんな話を引っ張って終わりたい。

 

大乗仏教は成立した年代から考えても、釈尊の教えを直接的に伝えたものではない。それでは、仏教として後付けで作られた「偽の劣った教え」なのだろうか。そんな古典的な問いがある。

 

この問いに対しては多くの回答が用意されているが、その中でも大竹晋氏『大乗非仏説をこえて』(国書刊行会)という本において、数ある「大乗仏教は非仏説(釈尊の教えではない)」に対する反駁として、非常にクリティカルな回答が用意されていた。

 

簡単に記すため語弊覚悟で書くが、大乗経典をもとに、その僧が修行をし、徳を積んだところに得られる「大乗仏教は正しい」という確信、あるいは体験が多く残されているからこそ、大乗仏教は仏説である。という回答だ。これだけ読むと「はぁ?」という感もあるだろうし、強引さもわかる。なんなら先に挙げた昨今の「正しさは我々が作り出す」という現代の思想に近いような気さえする。

 

では何が違うというのか。その差こそ、修行によって仏説だと確信しながら、まだ決して完成には至らない、自らが未完だという自覚、境地にある思った。我々がネット上の議論で見かけるのは「正しい」か「正しくないか」という今存在する自分自身の肯定に纏わる衝突である。今自分の知識自体、そこで完成されている前提で殴り合っている。

 

対して、そうした修行僧らが得た境地はといえば、未完ながらも正しい道を歩む、という過程的な自己肯定感と言える。先の言い方になぞるならば「正しくあろうとするか」という、生き方の話である。その生き方自体が周囲の人に感化を与え「正しい在り方」を伝播させることで、結果大乗仏教の本質たる衆生の救済という大願へつながっていく。

 

徳を積む、という言い方は過度に仏教的かもしれないが、瞬間的に正しいか否かということでなしに、先々を見て「正しさに至ろうとしているか」という事を、各人が自らに問うべきなのだろう。今、ネットを見ていると、あまりに即時的な「正しさ」またはそれに基づく「自己肯定」に依存しすぎているような気がした。今、自分自身が正しくなかったとしても、そこに至ろうという未完成を受け入れる姿勢こそが、より健全な知恵と、より大きなものを包括する議論につながるんじゃないかなと。

 

ツイッター10年を振り返る第一夜、こんな説教、というか説法くさい話で終わろうと思う。また思いついたらぼちぼち書いてみたい。